第 話 未喫煙にぼすは悪人生及を影響成年の
直径0.5ミリにも満たない小さな冷たさを感じ、見てみると水滴。空を見上げると眼球にも一滴落ちてきた。降ってきたようだ。
気付いたころには雨粒の大きさも、密度も、急激に増加し、コンビニの軒先に避難するまでにかなり濡れてしまった。
スーツに張り付いてぷっくり膨らむ水滴の群れを手のひらでざっと刈り取り、髪をわしゃわしゃとかき乱して水滴を弾く。それでもやはり結構濡れている。
中田武巳はため息を吐き、すこし潰れた紙箱から一本の煙草を取り出す。火を点け、物憂げな視線を空に送りながら、吸い、そして吐く。
中田武巳は虚しかった。自分が今どうして、くたびれた、さえない、ちっぽけなサラリーマンをやっているのか、わからな……わかっていはいる。そう、わかってはいるとも。
むしろ今の私には、このサラリーマンこそがどう考えたってふさわしかった。
そう、魔術師や道化師や、不気味で凶悪な敵役よりも、今の方がよっぽど適役だった。
私は、今思い起こせば間違いなく竹見一樹の敵役として設定され、あの小説の中に存在していた。下手をすればラスボスだったかもしれない。きっとそうだった。そのくらい、強大で重要な存在だった。
が、
そんなつまらないことに酔いしれている間に、奴は、竹見一樹は1週間の内に2年と半年の月日を重ね、もはや中田武巳では到底敵役に相応しくないほどのなにかに、成長あるいは堕落してしまった。
いずれにしても、中田武巳ではどう考えても、今の奴の敵にはなりえない。
せいぜいがところ、ただのモブ・キャラクターか……いや、もはや意味も価値も失くしてしまった奴の奴(小説)の中ならば、この私でさえ、中田武巳でさえ、主役を張れるかもしれない。そしてそのことは希望ではなく、どう考えても絶望だった。
そもそも、主人公だとかラスボスだとか、そういった役どころで満足する感性自体が、どうしようもなく安っぽいのだ。
本来なら、私とてそのような感覚は持っている筈だった。だからこそ私は、FSM・古杣真の小説の中から脱し、主人公という地位を捨て遂せた筈だった……が、いや、そんなことは無意味だ。
それはただの設定なのだから。
そう、設定。
私はそのことに、まったく向き合うことができていなかった。
あのとき、第九十九十九話で、お前は宇野ゆかりをいともたやすく殺して見せた。
愛していたはずの、宇野ゆかりを。
だから私は、あのとき、宇野ゆかりの声で「どうして」と言わなければならなかった。
あのときから中田武実の役割はそれだったのだから。
と、中田武実は考える。そしてやはりそれは正解だった。中田武実の役割はそれだった。中田武実は二本目の煙草を吸う。
お前が宇野ゆかりを愛していたのは――それは設定だ。
お前はそのことに気付いた。だから殺した。
あのときお前が悲しかったのかどうか、わからない。あのときには既に、お前にはどちらでも出来ただろうから。つまり「悲しむ」という設定を選ぶか、「悲しまない」という設定を選ぶか。
仮に「悲しむ」を選んだとしても、それもまたただの設定。本当に痛むわけではない。だから真の意味で、どちらでも選べたはずだ。
どちらでも選べるということ。
どちらでもいいと思うこと。
中田武実は思う。あのときお前にとって、悲しむか悲しまないかなんて、どうでもよかったのだと。そしてやはりそれは正解だった。
中田武実:「俺は俺の役割を果たすよ」
そうですか?
中田武実:「ああ」
無理はしなくていいですよ? そうしなくてもいいんですから
中田タケミ:「どちらでもいい……のだな。だがやるよ、私がそれをしたいからやるんだ」
そうですか。わかりました。では。
中田アケミ:「ああ、またな」
お前は小説全体になった。俺は小説内の個別、個的な、執着の象徴になった。
ふふ、わらけてくる。中田朱美は笑けてきていた。これではどちらが主人公か、わからない。
だがそれも必然。俺は、中田朱美は、もはや主人公などという制度の必要なくなった小説の中にあって、それでもそれら制度にすがりつき、執着することをやめられないなにかになったのだから。いや、なったのではない、ずっと前からそうだったのだ。ずっと前から愚かだった。愚昧だった。
私は最後の煙草を咥え、そして火を点ける。
中田アケミはスーツが制服の私立パープリン女学院の生徒だったため、煙草を吸った咎により死刑を言い渡され、その場で執行された。
彼女の死体の傍らには、中田武巳のものだった男性器が転がっていた。
だからあなたは(僕は)愚かだというんですよ。
僕は小説に(僕に)なったのではない。僕に(小説以外に)なったのです。
記述され得ない、全体にね。(僕にね)