第 話 現実を描く小説
遅い。
どう考えても遅い。
宇野ゆかりはしきりに腕時計を確認する。カチッカチッと神経質に針の音を鳴らすその腕時計は去年の誕生日に娘がプレゼントしてくれたもの、ピンクゴールドの小ぶりな、可愛い時計だった。
しかし宇野ゆかりは今すこしイライラしている。数秒ごとにイライラはつのり、指数関数の肩が1を超えようとしたちょうどそのとき、扉が開いた。
「あはあ、いや、いや、すまないねえ、会議が長引いちゃってさ、あはあ」
といかにも陽気に、部屋に飛び入ってくるなりハグを求めるような仕草をした男性を半ば無視して、ゆかりは「いえ、ご心配なく。でもすこし遅れていますから、すぐにインタビューを始めさせてください」
こうしてようやく、竹見博士へのインタビューが開始された。
まるで空気清浄機のスイッチをいましがたONしたかのように、スタッフ全員の間に安堵の空気が広がる。
「ところで、竹見博士は「この世界は小説である」という学説を発表したことにより、今最も注目を浴びている人物だと言われていますが」
「そうみたいだねえ、ううん」
インタビューを開始してから十数分が経とうという頃、ゆかりはようやく本題を切り出した。
軽い日常会話や時事ネタから初めて、相手がリラックスしたところで核心的な質問を投げかけるのが宇野ゆかりのいつものスタイルだ。
しかし実のところ、今回ばかりはその必要もなかったのかもしれない。竹見一樹博士は、この部屋に入った瞬間から、すでに十二分にリラックスしている様子だった。
「読者に伝わるように、簡単に博士の学説を解説して頂けますか」
「う~ん、いやあ、そう言われても難しいんだよ? 数学的なエッセンスはどうしても抽象的かつ専門的になってしまいがちだからねえ。でもま、そういうの抜きにして、誤解を恐れずに感覚的に解説するならね。この世界は絶えず具体化されているからこそ小説の中の世界だということができる」
「具体化されているから、ですか」
「うん、ううん、そうだね。例えば――ほら、今僕が指差したこのテーブルを見たね」
ええ、とゆかりは頷く。
「このテーブルは何色かなあ?」
「何色というか……透明、ですね、すこしブルーがかった透明です」
「だねえ」博士は満足げに、グラステーブルを指差していた右下手を再び左下手の方に引き寄せ、やわらかに組む。「このように、意識とは常になにかに対する意識なんだ。テーブルを意識せずにテーブルの色を当てることはできないし、またテーブルでも椅子でも牛でもユニコーンでもない、現実架空を含めた何物も示さない意識というのは存在しない。そしてえ、このやり方があ……はあっきっせい! ……失礼、最近どうも風邪気味でね。……えーーーーーーーーーーとなんだっけ?」
「意識が常になにかに対する意識と……」
「あ、そう、それね。それで、その意識の在り方が、実に小説と似通っている。むしろ小説そのものなわけね」
「と、いいますと」
「例えば僕には今、腕が4本あるよね」
博士は右上手と左上手、右下手と左下手をそれぞれパーの形に開き、わかりやすくアピールする。しかしそうされるまでも無かった。ゆかりはひとまず頷く。そんな当たり前のことを言われなくても、人間とは皆腕が4本あるものだ。
「それでもし僕の腕が2本しか無かったとしたら、気付くよね?」
「それは、もちろん」見ればわかる。
「でも小説の中では、特別そうと言われない限り気付かないんだ」
ゆかりは想像してみる。物語の主人公の腕が2本で、そのことが一切描写されないとしたら……たとえ他にヒントがあったとしても、自分は気付かないかもしれない、と思う。
「つまり、小説の文章も意識と同様に、「なにかに対する文章」でしかないし、文章に表れない情報は読者側が勝手に補完するしかないわけだね……でもだよ」
博士は右下手の人差し指を立て、さも面白そうに目をかっと見開き、にやりと口元を歪ませて、その後を続ける。
「もし私達がたった一冊の本しか読めず、しかも本以外のどのような現実にも触れることができないとしたら、どうなるかな? つまり、人間の腕が4本ある現実にいっさい触れられず、人間の腕に関して何ら記述の無い小説にしか触れられないとしたら?」
そうなると……ゆかりは考える。主人公の腕が2本であることには当然気付かないし、かといって腕が4本という常識的な補完に頼る現実も無い。「腕が何本か、考えられない……」
「そのとおり、そのとおりい。つまりね、私達は、自分の意識と小説の文章を最初から切り離して考えるからそれらが違うように見えるけどね、それらは実は在り方としては同様だという話だよ。意識も文章も、どちらも「何かに対する」意識や文章でしかないし、我々は意識や文章に表れないどのような情報も考えることができない。そんでから、我々はとりもなおさず、意識あっての存在だよね。意識なくして我々なし。そして小説もそうだよね。文章なくして小説なし。つまり」文章は常に「何かに対する」文章なわけだから、同時に「何かに対する」具体化の動きなわけだけど、意識もまた「何かに対する」具体化なわけだね。そんな文章や意識に寄りかかっている我々の生き方は、つまり、絶えず何かを具体化することを通しての生、ということになる。つまり我々は、小説が記述されるのと同じ形でしか生きられないし、その生に小説と違う部分なんて何一つない。
そして世界はまず我々あって認識され構築されるわけだから――世界もまた我々の意識なんだよ――世界は小説ということです。わかった? 読者さん達。
既に宇野ゆかりは竹見一樹博士の右上手に取り込まれ、左上手に取り込まれた娘と仲良く話している。娘は26歳のOL。最近海外の映画俳優にハマっていて、TATSUYAに通う毎日だという話をしている。すると竹見博士の左下手にTATSUYA第396488店が開店し、娘を喜ばせる。竹見博士はにこやかに笑う。
竹見博士が読者に語りかけたことにより、世界の構造が変わる。とりもなおさずこの小説が意味を持つのはこの小説の理屈が通る世界に限定されるわけで、したらさ、この小説(僕)に語りかけられた読者の世界もまた小説ということに、なりはしなくてもその可能性を匂わされるわけっしょ? んだらば、逆に今度はこの小説は現実に語りかける小説でなくてー、小説に語りかける小説になるわけだから、そんなことに意味は無くて、今度は我々の(つまり僕らの)(つまり僕)世界が小説である必然性を無くし、小説に語りかけられる現実の方こそ我々の世界と言うことになりゃあ旋回? でもそしたら語りかけられることによって我々の世界(僕)は君たちの世界(というより君)によって「そっちこそ小説ではないか」という意識(文章)に晒され、こちらが小説化してしまう。そしたら今度は立場が入れ替わって、こっちがそっちに「そっちこそ小説ではねか」とヤベラクタ訛りの疑問を呈し、そちらを小説化し、こちらが現実となり、ずばんばこちらが小説化され、そちらが現実で意識、文章、意識、ぶん、いし、V
という循環。
つまり小説はつまり人間は現実を小説化することで他者を人間化することで現実化し、小説化された元・現実は現実化された元・小説を再・小説化することで再・現実化するというこの循環。
これこそ小説と現実のありかたであるわけでおま.