4.
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目覚めた和人は、すぐ隣に千智の体がない事に気が付いて、慌てて土管の外へと這い出した。
「あら、起きたのね」
千智は土管に腰掛けて、足をぶらぶらさせていた。朝日が、頬に影を落とさせている。その影を見つめて、和人は一つ、溜め息を吐いた。
「居なくなったかと思った……」
「馬鹿ね。……ねぇ、和人。これからどうすれば良いかしら」
千智の目は、ぼんやり遠くを掴んでいた。和人は笑って、
「そんなの、俺よりそっちの方が、よく頭が回るだろ」
と、答えた。
「考えたのよ。もちろん、あの事務所にはもう戻れない。桜と涼太も……あの事務所がないのなら、もう会う事は叶わないでしょう? お金だって、多くはない。何が、できるのかしら」
いつもと声の色が違う。そう、和人は感じた。和人は土管の上に乗って、千智の隣へと腰掛けた。
「涼太とあなた、どちらを桜の出迎えに向かわせるか、私は悩まなかった。涼太も桜も、私と同じなの。普通の感覚を失っていくのが怖かったのよ。あなたは、私達よりずっと、普通の感覚を持ち続けていた」
「……普通の感覚って?」
「花を愛でる心。そう呼ぼうかしら。世界がこうなってしまう前の……歩けば、希望があった頃の感覚よ」
千智の足の動きが止まる。和人は、ただ一心に前を見つめ続ける千智の横顔に、雫が一つこぼれるのを見た。
「私は、発狂して怒りを覚えるべきだった。あの男が、女達を売っている事に……だけど私はそれを、冷ややかに見つめていた。昔の女性の感覚なら、怒りに打ち震えるんだろう、と冷静に判断して、冷静にあの男に対応してしまった。それは、私が世界の終焉に、影響されているからに他ならない」
雫は二つ,三つと数を増やして、千智の頬を伝った。拭いてやろう、と伸ばされかけた和人の指は、千智の手によって制止される。
「詰まるところ、私はあの男と、何ら変わりない。……なりたくなかった姿を、体現してしまったのよ」
千智の手はそのまま、和人の指を弱々しく掴んだ。
「光のない夜が怖かった。暗い昼が憂鬱だった。ねぇ、どうして……どうして、こんな時代に生まれてしまったのかしら。奈落の滝へ進む船に、どうして乗り合わせてしまったの? ……ねぇ、和人。これから、どうすれば良いかしら。私より、あなたの意見の方が、まともよ」
千智がついに、和人の目を見つめた。その目は、真っ赤に、痛々しいほどに腫れていた。
「俺は……千智に拾われた。そうでなかったら、とっくの昔に死んでいたんだ。世界は絶望に満ちていて、誰も目の光を失っていて……でもその中で、希望に光っている目が一つだけあった」
和人は、指を掴む千智の力を振りほどいて、千智を指した。千智は表情に少しの驚きを示して、
「馬鹿ね……」
と、目を閉じた。細い涙の筋が二本、千智の顔に走った。
「ナイフよ」
しばらくの間、そうしていた後、千智は目を開いて、腰のポケットからナイフを二本取り出し、一本を和人に手渡した。
「何だ、これ?」
「ただのナイフよ。……どう使うかはあなたの自由。でも、私はどこまでも、あなたに付いていくわ。そこにしか、希望はないから」
千智が笑う。何がおかしいのだろう。だが和人も、それにつられて、笑わずには居られなかった。




