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2.


 朝目覚めて、顔を洗い、コーヒーを一杯ずつ飲む。千智は角砂糖を二つ、和人は一つ。それが、この事務所における習慣だった。

「涼太が居ないと、コーヒーシュガー論争ができないから、手持ち無沙汰ね……。和人、何か芸でもなさい」

「無茶苦茶言うな」

 インスタントコーヒーとは言え、今買おうと思えば、一ヶ月働き詰めに働いて、かつ生活を切り詰めに詰めてやっと二杯しか手に入らないほどに高騰している。これも、千智の先見の明か、安価な頃に買い占めたおかげで、事務所には一生飲んでも飲みきれないだけの量があった。

「あら、元お笑い芸人の意地を見せてくれるかと思ったのだけど」

「元々は自転車屋だよ!」

「そうだったかしら」

 白い、典型的なコーヒーカップに口を付け、コーヒーの水面を声と息で揺らしながら、千智は言った。

「まあ、どちらでも良いのだけど」

 再び、口に苦味を含む。温かさに、千智はほうっ、と息を吐いた。

「いや、全然良くないんだけど……」

 和人がそう言って、続いてカップに口を付けようとした時、来客を告げるトントントン、というノックの音が響いた。

「……三回ノックね。身内ではないようだわ」

 千智が、カップを静かに社長机へ下ろしながら、言う。決め事として、千智と関係を持っている人には、訪問時のノックを二度にするよう伝えていた。そこには、少しでも危機回避を、との思いがあった。

「どうする? 居留守を使うか?」

「販売業で居留守は愚の策ね。涼太……は居ないのだから、あなたが出てきなさい」

 千智の目線は、一度虚空を掴んでから、和人に移された。

「ああ、分かった」

 和人は、部屋の中央の低い四角机にカップを置いて、ソファから立ち上がった。警戒は怠らないように、という千智の言葉を耳でだけ受け取りながら、とぼとぼと歩きながら扉を外へと出る。あまり気乗りはしなかった。この事務所に来るのは、大方が和人達の尻尾を掴もうとする不正流通の取り締まり警官か、そうでなければ物騒な得物を手にした酔っ払いである。どちらにしても、歓迎するような相手ではない。

 パタン、と扉を閉じて、階段を下り、和人は一つ深呼吸をしてから、出入り口たるガラス戸を開いた。

「……おはようございます」

 外に居たのは、和人よりも二回りほど小柄な女性だった。自分と同年代ぐらいだ、と和人は思った。

「あ、えと……おはようございます」

「あの……カイロを探しているんです。もしお持ちだったら、譲って下さい」

 女性は手を胸の前で組んで、声を震わせて、和人に懇願した。見上げられて、和人は、確認してみます、と言って、一度ガラス戸を閉じた。念入りに、鍵も掛けておく。和人は女性の、雰囲気に合わない濃い香水の香りに鼻をくすぐられながら、階段を上へと戻った。扉を開けて部屋に入ると、千智が小さい銃を持って、社長机の向こうから和人の方に構えていた。

「……ふぅ。それで、お客は誰だったの?」

 和人の顔を見て安心したのか、一つ息を吐いて、千智は銃を下ろした。

「女の人だよ。カイロが欲しいんだってさ。あるか?」

「カイロ?」

 銃が、机に置かれる。千智は社長椅子に腰掛けて、指を口元にやって、少しの間黙り込んだ。やがて、和人の不審げに見る目に気付くと、ようやく口を開いた。

「馬鹿の和人にも分かるように言っておくと、カイロは高級品よ。それも、長い間ね」

「馬鹿で悪かったな。それで、あげるのか?」

「私も持っていないわ。でも問題は、そこじゃないの。……彼女が高級品のカイロを探しているとして、見知らぬ人にそれを譲ってくれと言うかしら。きな臭いわよ、それ」

 和人は頭を捻った。それも、そうかも知れない。だが、疑い過ぎのような気もする。

「『無理心中をはかった女性がカイロを探していると偽って部屋に侵入。中で隠し持っていた爆発物に点火して三人が死亡。』無理のない展開よ」

 和人は恐る恐るながら、そうだな、と頷いて、また、扉を外に出た。階段を再び下る。スモークの入ったガラス戸の向こうには、当然ながら、まだ女性の影があった。

「ごめんなさい。見つからなかった」

「そうですか……」

 鍵を掛けたまま、戸を一枚隔てて和人が報告すると、女性は至極残念そうな声を発した。だが、立ち去る様子はない。続いて声を出すようでもない。自分の言葉を待っている、と和人は直感した。彼女がどんな言葉を待っているのかさえ、和人には分かった。

「では」

 だが、にべもない声色で、和人は彼女を突き放した。顔を見なくても、女性が驚きを感じているのが分かる。和人がそれから何も言わないでガラス戸の前に立っていると、女性の影は少しの間の後、左手へと去っていった。

 冷たい、どんよりとした気分が、直後に和人を襲った。女性が何の目的でここに来たのか、それは分からない。だが、もし善意を期待してきたとすれば、優しさのない自分の言動に絶望を覚えたことだろう、と。善意が、悪意に怯えて隠れてしまう。それはまさに、閉じゆく世界全体に起こっている事だった。




  大量の石をどこで手にいれるのか、それが和人には疑問だった。改めて、押す四輪車に載った大量の石を見る。それは、和人の想像していたものよりはいくらか小さく、また軽く、思い切り投げつけても殺傷には至らないように思われた。だが、相手を怯ませるにはある程度の効力があるように、和人は感じた。

「よく、こんなもの思い付くよなぁ……」

 夕暮れの街並みを見やりながら、和人は口に驚きを漏らした。何か、不揃いなリズムを奏でながら、がたがたの道に揺れて石が鳴る。黒と白の石達は、まるでそれぞれに手足が付いているかのように、自在に跳ね回っていた。

 昨日までガラス戸を開けてくれていた手が、今日はない。与えられた、ひどく変わった形の鍵をガラス戸に挿し入れつつ、和人は四輪車に載った石を、再び絶望の眼差しで見つめた。これだけの石を階段の上まで運ぶには、骨が折れそうだ、と感じたからである。ガラス戸を自力で開け、四輪車を乗り入れる。そうしたら、まず第一に戸締りをして、それから石を階段の近くまで四輪車で運んで下ろし、四輪車をいつも置いている場所へと持って行く。もうそれだけで、和人の息は半分上がっていた。

「……おーい!」

 和人は諦めて、千智の助けを求める事にした。だが、二度、三度と呼んでも、返事がない。何かあったのだろうか、と和人が不安になるのに、そう時間は掛からなかった。石をそっちのけにして、階段を駆け上がる。木製の階段が、軋んで大きな音を立てた。

「うるさいわよ。……ちゃんと居るから、ゆっくり入ってきなさい」

 階段を上り終えて、いざ事務室に入らんと構えた所で、中からそんな千智の声が聞こえた。和人は、弾んだ息を少し整えてから、扉を開いた。

「明日の朝は?」

「え、と……今日より暗い」

「そう。緊急事態じゃないのね」

 千智は、警戒した雰囲気で和人を見つめていたが、合言葉の照合を済ませると、ほうっ、と息を吐いた。

「突然下から呼ばれても、出て行く訳にはいかないのよ。あなたが、あなたを人質にとった誰かに指示されている、という可能性が少なからずあるわ」

「もしそうだとしても、助けに下りて来いよ!」

「嫌よ。それに、涼太の居ない今、私一人ではどうしようもないわ。……それで、用事は?」

 真っ当な理由だ、と和人は感じた。警戒が第一である。必要もなく千智の気を立たせた自分に、和人は少なからず後悔の念を抱いた。

「石を運ぶのを手伝ってくれ」

「ああ、そんなこと。じゃあ桜……は居ないのだから、仕方ないわね」

 そう言って、千智は立ち上がった。和人は、千智が来るまで部屋の扉を開けて、彼女を待った。

「……あなたが先に下りてちょうだい」

「どうしてだ?」

「有事には盾になれる親切設計を心掛けなさいと、習ったでしょう?」

 和人は溜め息を吐いて、歩み寄って来た千智に扉を預け、自分は階段を下り始めた。

 石の詰まった袋が、十二個ある。どれもぎっしりと詰まっていて、千智はおろか和人でさえ持ち上げるのに四苦八苦する重さだった為に、二人は空袋をそれぞれ持って、そこに無理ない程度に石を移しては、上へと運ぶ事にした。

「……少し休憩したいわね」

 だが、それでも、半分も運ばない内に、二人の疲労は頂点に達してしまった。

「だな。中々の重労働だぞ、これ……」

「上に戻って、コーヒーでも飲みましょう」

 ぜい、ぜい、と、二人の切れ切れな息の声が、階段を覆う。上に戻るのさえ億劫に思えたが、和人は小さく頷いた。千智が、行くわよ、と言って、腰を下ろしていた木の階段から立ち上がった。だが、その動きもどこか緩慢である。二人は汗を掻き、今にも倒れそうにふらつきながら、階段を上り詰めて部屋へと戻った。千智が何もせず椅子へと戻っていったので、和人はコーヒーの準備をする為に、コンセントを刺してポットに水を注ぎ、ポットの安物の筐体にただ一つだけ存在するボタンを押した。その頃には、息の苦しさも少しマシになっていた。

「……にしても、碁石とはなぁ。なんか、凄く高いイメージだったんだけど」

「今の時代、嗜好品は売れないのよ。売れなければ値が落ちる。経済の基本ね」

 部屋の隅へ、剥き出しで無造作に散らばっている黒白の石達を、二人は見つめた。

「……それに、重たい物は売れないわ」

「そうだな……」

 まだ、あれが、半分以上も残っている。そう思うと、和人の心はわずかに黒んだ。別に、全部上げなくても良いんじゃないか、と思えた。どうせ……と、そこまで考えた所で、和人は、千智の顔を見た。

「……でも、まだやる気みたいだな」

 千智の顔は、いやに生き生きとしていた。和人は半ば、期待を裏切られたような気分で、そう言った。

「当たり前よ。百年後の死に絶望して今日を不甲斐なく生きるなんて、どうかしているわ」

 和人には、そう言って腕を組む千智の顔が、ひどく眩しく見えた。そこへ、ポットが、沸騰を告げる無機質なアラーム音を発した。和人は二つのコーヒーカップそれぞれに、インスタントコーヒーの粉を落として、ポットのお湯を注いだ。喉をくすぐる音と共に、茶色の泡を帽子に被ったコーヒーが、二つ出来上がる。受け皿を敷いて、角砂糖を二つと一つ置くと、コーヒーはまさに、完璧に仕上がった。早く、落ち着いてこれを飲みたい。和人は二つのコーヒーを持って、ポットの前を離れた。

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