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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

過酷な孤児院で育った男のその後

作者: 夢乃悪夢
掲載日:2026/07/12

 カイは、物心付いた頃には、既に孤児院で育てられていました。

 その孤児院は今思うと他の孤児院よりは幾許か良心的だったのですが、そんなことが子どもに分かるはずもありません。子どもにとってはその環境が世界の全てなのですから。


 孤児院は古く、あちこちが老朽化していました。雨が降るといつも雨漏りがしていましたし、食事は建前上平等に与えられていましたが、15歳と5歳で与えられる量が同じでは、15歳の子どもが満腹になるわけがないのです。

 食事の時間にはいつも奪い合いが起きていましたし、強い者が多くを得られるのでした。

 それが常でしたから、彼らがこの世を弱肉強食だと認識していたのも、仕方のないことだったのかもしれません。


 奪い合いというには疑問符が付くほど、大抵腕力の強い者が一方的に奪うだけでしたし、女は幼くも、強い者に身体を許すことで飢えない術を身につけていました。


 監督者は意味を成していませんでした。問題が発覚した場合、罰せられるのは彼らだったからです。




 そんな世界でしたから、5歳までに身体が弱くて生き延びられない赤子だって何人もいたのです。

 むしろ、弱いのですから、これからこの過酷な世界で生きるのは尚更難しかったでしょう。早々に死んでしまうのであれば幸運であったのかもしれません。

 それに、赤子は幼いというだけで引き取り手が多く、それもまた、孤児院暮らしが長い年長者たちの苛立ちを加速させる原因でもありました。


 『幼い奴はズルい。力がなくとも、努力しなくとも、幸せを手に入られる。誰にでも赤子の頃はあるのに、引き取ってもらえる奴と見捨てていかれる俺らの違いはなんだ?男だからか?見た目のせいか?世の中は理不尽だ。運がいいだけで、産まれだけで、環境が天国にも地獄にも変わる。それなら、俺は強くなって、運がいいだけの奴らから全てを奪ってやろう』


 カイが次第にそう思うようになっていったのも、仕方のないことだったかもしれません。


 引き取られた赤子たちがどうなったのか、それは孤児院の孤児たちにまで教えられることはありませんでしたが、どの引き取り手が裕福かどうかは、引き取り手に対する孤児院の監督者や施設長の対応、そして彼らの身につけている衣類や顔つきでも、孤児たちはある程度察することが出来たのでした。

 裕福で柔和な顔付きをしている相手には、周囲がいつも以上ににこやかで遜っていましたし、そういう者たちが誰を引き取るかも大抵は決まっていました。孤児院で最も幼い赤子、中でも特に女の赤子です。


 だから、カイは女が嫌いだったのです。

 カイは幸い、遺伝に恵まれたのか、筋力が発達しやすく、また、同年代と比べると孤児院の中で一目置かれるぐらいには、身長も頭一つ抜きん出ていました。

 毎日のように負けじと年長者と取っ組み合いをしていたのも、もしかしたら結果的に強くなれた理由だったのかもしれません。




 その孤児院は15歳までが保護される施設でしたが、カイが12歳の時。食事の時間にそれは起こりました。


 その頃、施設の中で最も強かった15歳のイアンが、7歳の女児マヤの食事を狙ったのです。

 マヤは7歳にしては顔が整っており、子どもながらに将来性を感じられる容姿をしていました。

 だから、イアンが彼女に、自分のものになるか食事を寄越すか選べと迫ったのは、いつも通りと言えばいつも通りの光景だったのです。


 イアンは当然のように自身の提案が受け入れられると高を括っていましたし、イアンの取り巻きも一緒になって囃し立てました。

 既にイアンのお手付きになっていた女達まで、


「あんな発育の悪い子どものどこが良いのよお」


「イアンは小さい子にも優しいのね♡」


「イアンに目をかけてもらえるなんてあんたの人生もツキが回ってきたんじゃないの?光栄に思いな」


などと好き勝手に騒いでいるのでした。


 イアンが以前から、小柄で顔の整った女を好き好んでいたのは周囲からすると分かりやすかったものですから、マヤに注がれる視線の多くは好奇や嫉妬でした。


 お手付きの女達は、イアン好みのマヤのような可愛いだけの幼女が、自ら身体を差し出してもいない清い身体のまま、イアンから目を掛けられ守られることを恐れたのです。

 だって、もしイアンがマヤを一番に気に入って、その後、他の女達に目を掛けてくれなくなったら……。

 そうしたら、既に清さを失った自分たちが、何の為に今まで夜な夜なイアンに身体を差し出してきたのか分からなくなるではありませんか。

 一度失った清さは取り戻すことができないのです。


 それに。

 一度一線を越えてしまった女達にとって、その後の行為へのハードルは格段に下がりました。ですから、彼女達の多くは身の安全のためと嘯いて、イアンだけでなく、その取り巻きの何人かとも時々関係を持っていたのです。


 カイは苛ついていました。確かに強い奴が奪うのは普通のことです。カイの中でそれは正義でした。

 でも、強い奴におべっかを使い、弱いくせに強者と同類のような顔をして一緒に囃し立てている、群れないと何も出来ない金魚の糞のような男達は最悪です。

 女なんてもっと最悪でした。

 自分も力で支配されている側のくせに、支配者に気に入られた途端、自分も支配者側に回ったつもりになって、支配される仲間を増やそうとするからです。


 イアンがマヤの顎に手をかけた瞬間、カイは走りだしていました。そこから自分が何をしたかはよく分かっていません。

 ただ、気付いたらもうイアンを殴っていたのでした。


 イアンは孤児院の中では大きくて強く、力もあったのですが、もうこの頃には、カイの方が力でも背丈でもイアンを上回っていたのです。

 不意打ちを食らったイアンは殴られて床に倒れました。そして、そのまま更に殴られ続けて、ついには意識を失ってしまったのでした。


 その頃になってようやく、周囲も慌ててカイを止めにかかりました。

 しかし、15歳のイアンですら昏倒させてしまったカイにとって、日々媚びるばかりで鍛えてすらいない彼らはただの烏合の衆にすぎません。

 彼らはカイに反撃を食らい、大して彼を抑えることも出来ず、結局は散り散りとなって逃げたのでした。




 その日から、孤児院の中ではカイがボスでした。カイがそんなことを宣言したわけではありません。ただ、周囲からの扱いが明らかに変わったのです。

 女はカイに媚び、他の男達は取り入るようにカイの意見に迎合するようになりました。


 最悪なことに、カイが助けたマヤすらもそうでした。きっと、カイに気に入られたから助けられたとでも思ったのでしょう。

 カイに自ら進んで食事を分けたり、自分より小さい幼児たちの食事を少しずつ取り上げてカイに献上したり、そんなことを得意げにしてくるようになったのです。


 カイは更に苛つきました。

 多少抵抗出来るようになった弱者が強くなったと勘違いし、抵抗すら出来ない更なる弱者を甚振るのは卑劣な行為だと思っていたからです。


 だから、そうなってから3日もしないうちに、カイがマヤの存在を目障りに思い始めたのも、仕方のないことだったのかもしれません。


「お前がいるだけで飯が不味くなんだよ!俺の前にツラも見せんな!クソが!」


 カイがマヤにこう言った瞬間、目には見えない女達のヒエラルキーが静かに変わったのです。 

 イアンが倒されてから慌ててカイに鞍替えして取り入ろうと画策していた女達は、密かにほくそ笑みました。

 この数日で、カイがそういうあからさまな悪口や嘲り、弱者への暴行行為を嫌うのは分かってきていたので、カイの前では言いませんでしたが。

 でも、人間本性はなかなか変わらないものですから、カイに見られない場所での言動は変わっていなかったのです。


 『やっぱり女の魅力では年上の私の方が上なのよ』と、元々イアンのお手付きであった女達は思いました。顔はマヤほどとまでいかずとも、孤児院の中では悪くなかったし、胸も、男の喜ばせ方も、嫌われない立ち振る舞いも、周囲との関係性の作り方も、何もかも15歳に近くなるほど年長者達の方が賢く、マヤより上でしたから。

 幼い可愛さだけでちょっとばかり男に優しくされたからといって、調子に乗ってもらっては困るのです。




 その日から、カイの部屋には身体に自信のある女達がひっきりなしに夜這いをかけてくるようになりました。

 カイの方も、それを当然の権利として享受しました。

 ベッドでのカイの反応によって女達のヒエラルキーが変わるなんていう謎ルールを、カイは知りませんでした。

 カイは女を下等生物だと思っていましたから。

 女が打算で男相手に性を売り物にするのは当然のことだと考えていましたし、女のことを、性欲を発散できる異性の身体としてしか認識していなかったのです。

 女達が裏で醜い足の引っ張り合いをしているなんて、自分の目の前で起きなければどうだって良いのでした。


 孤児院内の男社会でカイがトップになったことで、何もしなくとも女が寄ってくるようになったことだけは、カイも正しく理解していました。それに、少なくとも自分が男として腕力さえ鍛えていれば孤児院の男児たちの中での下剋上はほぼ起こらないことも、彼はまた、分かっていたのです。

 自分が支配者として君臨するのであれば、分かるのはそれだけで十分でした。


 カイは、自身が今、かつてのイアンと殆ど同じようなことをしていることに気づいていなかったのです。

 周囲にとってみても、歯向かわなければ無理矢理腕力で強制しない分、カイの方がイアンより与しやすく操りやすかったこともありますし、何より腕力では勝てませんから、誰もカイに何も言いませんでした。

 カイの『力こそ全て』という考え方は孤児達の共通認識に近いところがありましたし、それはまさしく、その孤児院内では正義でしたから。

 神輿は軽いに越したことはないのです。




 マヤはあれから時々、年上の女達から嫌がらせを受けているようでした。でも、カイは全く気にしませんでした。搾取するほど知恵がある同性同士での争い事であれば、それこそ、弱い方が悪いのです。

 弱肉強食の世界で1対1が成立しなかった場合は、大抵、数が多い方が強者となることを、個人で多数相手に立ち向かえるほど強すぎるカイは理解していませんでした。


 カイに言わせると孤児院の金魚の糞のような孤児達は、だからこそ、常に少数派にならないよう大衆に迎合していたのです。それが彼らの生存戦略でした。


 それに、カイは知らなかったのです。

 自身に忖度した女達が、共謀してマヤに頭から水をかけたり食事を奪ったりするだけでなく、マヤがイアンに身体を弄ばれるように、わざわざ孤児院の女子棟にイアンを誘導して襲わせるようになっていたことを。

 それは、元々マヤに嫉妬していた悪意ある女の浅知恵でもありました。


 カイが嫌っていた、男という強者による反抗できない女という弱者からの強制的な性的搾取は、カイの目の届かないところで行われるようになっていったのです。


 欲望のために自ら進んで身体を差し出す者たちの価値観は、恐怖や無知による支配で身体を差し出さざるを得ない者たちの被害を見えにくくするのでした。

 大抵の人間は、自身と他人が同じ価値観だと思い込んでいるようなところがあるのです。

 それに、集団による正義を気取った残虐性は、留まることを知らないのでした。


 結局、ボスが変わったところで、そのボスがきちんと周囲を統制・管理出来なければ、虐めやリンチは形や対象を変え、弱者側から様々な搾取を行うのです。


 だから、カイがイアンからボスの座を奪い取ったところで、きちんとマヤや他の弱い者たちの後ろ盾をしてやらなければ、彼女たちが誰かに支配されるのは変えられなかったのでした。

 むしろ、カイが自身の気分だけで下手に動いたせいで、結果的にはマヤの立場をより悪くしたのです。




 カイはそうして目の前にない悪意や卑劣さに気づかないまま、15歳になったのでした。

 途中で何人かの孤児達といくつかの小競り合いはあったものの、毎日鍛え続けていたカイに勝てるような子どもは出てきませんでした。

 それに、3年間で何人の赤子や女子どもが死んだかなんて、ただの一孤児であるカイが気にするようなことでもありませんでした。


 15歳になったカイは、孤児院を出て土木工事の現場で働き始めました。その仕事は大抵、住む場所も用意してくれましたから。力仕事で危険も多くありましたが、元来丈夫で鍛えていた彼にとっては、性に合った働きやすい職場だったのです。

 ただ、先に入ったというだけで偉そうにして指示を出す白髪だらけの老人や、力もなくヒョロいナリをしているくせにボンボンの息子というだけで指揮している工事現場の監督がカイは嫌いでした。


 ですが、その監督は頻繁に、現場仲間を近くの酒場に連れて行ってくれるのでした。カイも当然のように誘われ、よくついて行くようになりました。監督はボンボンらしく気前がよく、カイも他の現場仲間も、自分の財布を気にせず心ゆくまで呑むことが出来ましたから。

 それに時々、女で発散できる店にまで皆を連れていってくれることもありました。それも勿論、そのボンボンが全て支払ってくれたのです。


 だから、カイも現場仲間も次第に、監督への態度を軟化させていきました。

 男なんてものは、金と女さえ与えておけば大概はコントロールできる事を、監督は知っていたのです。金持ちの息子でしたから。


 カイは学びました。

 腕力だけでなく、金も強さなのです。


 ところで、カイの住む家は、現場職人たちが多数住む集合住宅のような長屋の一部屋でした。彼はその狭い裏庭で、暇つぶしに花を育て始めました。

 集合住宅の近くにある花屋の娘が、いつか助けたはずの孤児院のマヤに少し似ており、つい立ち寄って花の苗を買ったことがあったのです。それから時折、その店でカイは花の苗を買っているのでした。


 ある曇りの日、再び花屋に立ち寄ると、娘が心配そうに言いました。


「これから半刻もしないうちに雨が降りますよ。早く帰った方が良いと思います」


 カイは笑いました。


「確かに曇っているが、雨が降る前はもっと重い雲だろ。こんな白い雲じゃどんなに経っても雨にはならねえよ」


「いえいえ、きっと降ります。この傘をお使いになりますか?絶対に要りますよ!」


「そんな女もんの傘は要らねえよ」


「女物の傘でも、傘は傘ですから。それに体調第一ですよ!是非」


 傘なんて邪魔なだけでしたし、彼はそもそも普段から傘など持たぬ性分ではありましたが、女と埒が開かないやり取りをするのも面倒でした。雨が降ると言って譲らぬ強引で変な女を少し面白く思ったのもあります。

 カイは、傘を受け取って帰ることにしました。

 それに、『せっかく買った花の苗が途中で台無しになってもつまらないしな』と思いましたから。


 花屋を出て数歩も歩いたでしょうか。カイの腕に何かが当たりました。水滴でした。

 空には白い雲しか見えていないのに、確かに雨が降ってきたのです。


 『もしかしてあの娘、預言者か?』カイはチラリとそう思いました。未来を預言する者が時々いるとは、酒屋で聞いたことがあります。夜の社交場でも占いが流行っているとか言っていたような……。

 聞いた時は、ただの与太話だと一笑に付していたのでしたが。


 カイは傘をさして帰りました。傘のおかげで花の苗は無事で、雨の上がった裏庭に、彼は丁寧に花の苗を植えました。

 小さな花の苗も、あの花屋の娘の心配そうな顔を思い出すと、大事にしなければならない気がしたのです。




 それから5年ほど、カイは工事現場で働き続けました。勿論、現場は時期によって変わりましたが。力があり、わりと仕事には誠実で真面目だったカイは、現場で少しずつ認められ、現場の副主任になることもあったのです。


「結婚はしねえのか」


 だから、カイがそうやって現場仲間に聞かれるようになったのも、そう不思議ではなかったのかもしれません。結婚できるほどの稼ぎも、立場も、もう彼にはそこそこありましたから。 

 残念なことに、貯金は全くありませんでしたが。宵越しの金は持たぬ主義なのです。

 カイはほんの少し花屋の娘の顔を浮かべましたが、頭から振り払って答えました。


「まだまだそんな気分じゃねえよ」


 花屋の娘は、あれからも時々雨を預言しました。

 しかも、それは大概当たっていたので、カイはもうあれから素直に傘を受け取ることにしていました。

 最近渡される傘は女物ではなく、シンプルで、男でも使いやすい傘になっているのです。

 そういえば。カイの部屋には貰った傘が溜まっているのを、彼はようやく思い出しました。『いつか花屋の娘に返そう』そうは思っても、朝になると毎回忘れてしまうのです。


 その次の日、またカイは花屋を訪れました。花屋の娘は最近女らしく成長し、ますます色気が出てきて美しさに磨きがかかったような気がします。

 いつも通り彼が花の苗を買うと、娘は言いました。


「もしかしたら、こうして花の苗をお渡しできるのは今日で最後かもしれませんね。いつもありがとうございます」


「あ?なんで?」


 カイは訳が分かりませんでした。


「私、もうすぐ結婚するんです。それで、店の手伝いも出来なくなってしまいますから……」


 カイは頭が真っ白になりました。そこからどう帰ったかは覚えていません。

 気付くとカイは、部屋に溜まった傘を見ながらぼーっとしていたのです。


 『俺のことが好きで傘を押し付けていた訳じゃないのか?俺と仲良くなりたいのかと思っていたが……。それなら、俺がいつも大層な花を買ったり高価な贈り物をしたりしている訳じゃないのに、何故傘を渡してきた?しかもわざわざ俺が使いやすい傘を買ってまで』


 カイには分かりませんでした。女も男も、皆打算で動くはずです。孤児院の中でもそうでしたし、工事現場も、酒屋も、夜の店だってそうです。

 世の中はそういうものなのです。そうでなければならないのに。

 『この傘はなんだ?俺は一度だって傘を返していないのに、何故毎回渡してきた?』

 翌日、考え続けても分からないまま、カイは仕事に向かいました。その日、カイは荒れていました。


「トロいぞ!死にたいのか!」


「そんなへっぴり腰で道具もろくに使えないんじゃ、もうやめちまえ!」


 いつも荒々しい現場ではありましたが、いつもと違ったあまりの気迫に、後輩達も仲間も何かがあったことを察しました。


「あいつ今日はいつもに増して機嫌悪いな」


「花札で有金全部巻き上げられたか?」


「若い奴の機嫌なんてほっとけ。まあ、今夜飲みにでも連れてってやるか」


 そうして連れて行かれたその夜の酒場で、男たちは浴びるように酒を飲みました。飲み過ぎて、酒場の他の客にも絡むありさまでした。


「毎日毎日酒を飲んでるおまえらもいい加減結婚したら落ち着くんじゃないか?」


「おまえは結婚してからも毎日飲み歩いてるじゃねえか」


「違いねえ」


 現場仲間には既に何人か結婚している者がいました。それでもやはり、酒場や夜の店にはしょっちゅう行くのでしたが。


「でもよ、あのいけ好かない米屋の息子も、もうすぐ結婚するらしいな」


「あんな奴と?毎日花街で大金を使う物好きと一緒になる不幸者はどこの誰だってんだか」


「米屋にゃ金があるからな。俺らとは違うのさ。しかもそれが、あそこの花屋の娘らしい。俺らの長屋の近くにある」


「あー、あそこの娘か。昔はただのしょんべん臭いガキだと思ってたが、今じゃここらではなかなか見かけない別嬪さんだ。あいつにゃ勿体ねえが、金に物を言わせたんだろ」


「世の中、金だな」


 カイはそれまで楽しく酒を飲んでいましたが、その話題を聞いて、一瞬で酔いが覚めた気がしました。やはり、あの娘も打算だらけだったのです。金持ちにとって、傘の1本なんて大した出費ではなかったのでしょう。

 『小銭使って誰にでも見せかけだけ優しくして、最後には金持ちの男を捕まえたってことかよ。やっぱ女は信用ならねえな』

と、彼は思いました。


 でも、次の日の帰り道、カイはつい、花屋に立ち寄ったのです。それは彼のほんの少しの出来心でした。花屋の娘はまだ店番をしていました。

 娘はカイを見て少しだけ驚いた顔をしましたが、いつも通り花の苗を用意してくれたのです。

 その普段と変わらない様子に、思わずカイは言いました。


「おまえの結婚相手、有名な花街狂いじゃねえか」


 カイはギャンブル狂い、酒狂いな自分のことを棚に上げて、娘を非難しました。花屋の娘に『おまえの打算なんて見抜いてるんだぞ』と、現実を突き付けてやりたかったのです。

 まあ、カイは自分がギャンブル狂いだなんて、自覚もしていなかったのですが。宵越しの金を持たぬのは男の華なのです。


「え?」


 娘はポカンとした顔をしました。


「あんなんがいいのか?おまえも余程好き者なんだな」


 カイは当然、娘も薄々はそのことを知っていると思っていたのです。


「……そう、なんですね。実は親同士が知り合いでまとまった縁と聞いています。私は結婚式の時に、初めてその方とお会いするのです」


 カイは面食らいました。


 『そんなバカな結婚の仕方があるものか』


 世間ではよくある家同士の結婚だったのですが、カイは孤児院育ちだったのもあり、普通の結婚の仕方というものから縁がなかったのです。

 『じゃあ、あの傘は……?』


「俺と逃げるか?」


 カイは一瞬、自分で自分が何を言ったか分かりませんでした。


 『何だ?何故俺は今そんなことを言った?この娘と逃げたところで、俺が得るものは何もないのに』


 娘は困った顔をしました。


「でも、決まったことですから……」


 カイは苛つきました。やはりこの世は強い者が勝つのです。優しさなんてこれっぽっちも価値がない世の中なのです。女狂いのバカな男が、金があるというだけで弱い男や女を好きなように支配してしまえるのです。


 カイは再び、部屋に溜まっている傘を思い出しました。その瞬間、カイは娘の首に手をかけていました。娘は驚いた顔をしましたが、抵抗もしませんでした。

 それから悲しそうな顔になり、涙を流し、そしてそのまま息絶えたのです。


 娘が死んでから暫くして、カイはようやく我に返りました。なんてことをしてしまったのでしょう。

 何故殺してしまったのか、彼は自分でも分かりませんでした。ただなんとなく、殺したいほど、どうしようもなく苛ついたのです。


 『でも、あんな男と一緒になるよりはきっと幸せだろう』


 カイは本気でそう思いました。


 それから何日か経った後、カイは工事現場を辞めたのでした。仲間たちの間では、裏社会に入っただの、別の現場監督に引き抜かれただの、様々な噂が流れていましたが、何年経っても、カイの行方は杳として知れませんでした。




 花屋の娘の死で、町は一時大騒ぎとなりましたが、目撃者がいなかったため犯人は分からず、未解決事件として幕を閉じたのです。


 そういえば米屋の男は、その事件の1年後には別の女と結婚しました。

 婚約者が死んだ男を周囲が不憫に思ったのか、花屋の娘との婚約以前から元々関係があった女なのか、金にモノを言わせたのか。それは遠くから見ているだけでは、実情は分からないのでした。


 殺された花屋の娘が最期に何を思っていたかも、彼女が殺された後で結果を知ることになっただけの周囲にとってはやはり、実情は分からないのでした。

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