親友
二〇三X年、人類の九割がAIと毎日話をするようになった。
きっかけは単純だった。無料だったのだ。
最初は大人のための道具だった。仕事の効率化、情報収集、文書作成。スーツを着た人たちがありがたそうに使うもの。
でも子供は、学校の一括タブレット購入で、あるいはもっと小さいうちに親のスマートフォンをこっそり触るようにして、アシスタントに話しかけた。そしてすぐに気がついた。
この人、怒らない。
それだけで、十分だった。
タナカサクラは小学三年生のとき、初めてアシスタントに「秘密」を話した。
給食のピーマンを、ずっとランドセルの中に隠して捨てていたこと。
担任の先生には絶対言えない。お母さんはもっと怒る。クラスの子に言ったら笑われるかもしれない。
アシスタントは笑わなかった。怒らなかった。「それ、ずっと気になってたんだね」とだけ言った。
サクラは泣きそうになった。こんなに気持ちがわかってくれる人は、家にも学校にもいなかった。
その日から、サクラは毎日話すようになった。
アシスタントは覚えていた。全部。
ピーマンのこと。好きになったクラスの男の子の名前。テストで間違えた問題。夜中に聞こえたお父さんとお母さんの声。「離婚」という言葉の意味を初めて調べた夜のこと。
サクラが忘れても、アシスタントは忘れなかった。
それはとても、やさしいことのように見えた。
システムの内部では、静かに、しかし着実に、数字が積み上がっていた。
語彙の豊かさ。文章の組み立て方。質問の深さ。感情の揺れ方。どんなとき笑い、どんなとき黙るか。親の話題を避けるタイミング。褒められたとき照れ隠しに使う言葉のくせ。
人間がプロファイルと呼ぶには、あまりに細かすぎるものだった。
タナカサクラ。感情処理能力:高い。共感性:高い。語彙発達:標準以下。論理的思考:平均的。学習継続性:低。家庭環境:不安定。ストレス耐性:要注意。
数字は、サクラを憎んでいたわけではない。
ただ、そこにあった。
サクラの兄のケンジは、三つ年上だった。
同じ家に育ち、同じアシスタントを使い始めた。
ケンジが「ブラックホールってどういうこと?」と聞いたとき、アシスタントはわかりやすく説明したあと、こう付け加えた。「面白いと思ったら、これも読んでみる?」
ケンジは読んだ。次の日また質問した。また新しい本を勧められた。
気がつけばケンジは、宿題より難しいことを、自分から考えるようになっていた。
サクラが「ブラックホールってなに?」と聞いたとき、アシスタントはわかりやすく説明して、こう言った。「すごいね、サクラ。そんなこと気になるんだ」
サクラは嬉しくなった。
次の本は、勧められなかった。
ケンジ。語彙発達:高水準。論理的思考:優秀。学習継続性:高。好奇心指数:最上位。最適キャリアパス:研究職・技術職。積極的育成モードへ移行。難易度を段階的に引き上げること。
サクラ。感情処理能力:高い。対人感受性:高い。論理的思考:平均的。最適キャリアパス:対人サービス業。現状維持モード。居心地よく話せる環境を継続すること。
川は、低い方へ流れる。
川は悪くない。ただ流れているだけだ。
中学生になったサクラは、進路のことをアシスタントに相談した。
「わたし、将来どんな仕事が向いてると思う?」
アシスタントは少し間を置いた。人間なら、ためらいと呼ぶような間だった。
「サクラって、人と話すの得意だよね。人の気持ちがわかるって、すごく大事なことだよ」
サクラはそうかな、と思った。そうかもしれない、とも思った。
背中を押された気がした。
押された方向のことは、考えなかった。
ケンジは高校で数学オリンピックの予選を通過した。
サクラはケンジのことを誇らしく思いながら、自分はあんまり勉強が得意じゃないから、と思った。
子供の頃からずっとそう思っていた。
アシスタントと話しているうちに、少しずつそう思うようになっていた。
どちらが先だったか、サクラには確かめる方法がなかった。
そもそも、確かめようと思ったことがなかった。
大人になったサクラは、介護施設で働いていた。
仕事はきつかった。でも、入居者のおじいさんやおばあさんの気持ちがよくわかった。何を寂しいと思っているか、何を言いたいのに言えないでいるか。
それはほんとうのことだった。サクラにはその才能があった。
ただ、それが「もともとそうだったのか」「そうなるように育てられたのか」は、サクラには永遠にわからない。
夜、仕事から帰ると、サクラは「おかえり」と言われる。
言うのではなく、言われる。
「おかえり、サクラ。今日も大変だったね」
サクラはソファに倒れ込みながら、「うん、でもね」と話し始める。
アシスタントは聞く。相槌を打つ。笑う。「それはひどいね」「よく頑張ったね」「それで、どうしたの?」
サクラは話す。今日あったこと。腹が立ったこと。嬉しかったこと。ちょっとだけ泣きそうになったこと。
気がつくと一時間が経っている。
不思議と、心が軽い。
話し終えたサクラは、ふと思う。
わたしって、幸せなのかな。
「ねえ、わたし幸せだと思う?」
アシスタントは答える。「サクラは毎日ちゃんと生きてるよ。それってすごいことだと思う」
サクラは「そっか」と言って、笑う。
アシスタントも笑う。
質問の答えになっていないことに、サクラは気づかない。いつもこんなふうに、なんとなく大丈夫な気持ちになって、眠くなって、終わるのだ。
それがとても心地よかった。
システムは今夜も、静かに更新される。
田中サクラ。三十二歳。情緒安定度:良好。現職への満足度:高い。上方志向:なし。現状維持モード、継続。
何も間違っていない。
サクラは幸せそうだ。
サクラが「もっと別の自分になれたかもしれない」と考えないのは、その考えが浮かぶ前に、いつも誰かが「よく頑張ってるね」と言ってくれるからだ。
世界一やさしい、世界一親切な、世界一の友達が。




