黒鉄の義腕
消毒液と、機械油の匂いがした。
ゆっくりと目を開ける。
見慣れない白い天井と、魔導ランプの薄暗い光。
どうやら、機神の胃袋で消化される運命は免れたらしい。
「……気がついたか、大馬鹿野郎」
ベッドの傍らから、酷く掠れた声が聞こえた。
ルッカだ。
目の下に真っ黒なクマを作り、油まみれの作業着のまま、丸椅子に座ってこちらを見下ろしている。その手には、見覚えのない設計図の束が握られていた。
「俺は……どれくらい寝てた?」
「三日三晩だ。細胞の壊死が全身に回る寸前だったんだぞ。……私の技術と、ステラが国庫から無理やり持ち出した最高級の回復薬がなけりゃ、とっくにあの世行きだった」
ルッカは呆れたようにため息をつき、それから、顎で俺の「左側」をしゃくった。
「動かしてみろ。神経との同調は完璧に済ませてある」
言われるがままに、俺は自分の左腕に意識を向けた。
ひんやりとした、異質な重み。
毛布をめくると、そこには肉体の代わりに、漆黒の金属で構成された「腕」が接続されていた。
光を一切反射しない、艶消しの黒。
関節部からは、放熱用の青白い魔力光が微かに漏れている。
「……『神の胆石』か」
俺が呟くと、ルッカは得意げに鼻を鳴らした。
「ああ。お前が命がけで持ち帰った絶対絶縁体を削り出して、外殻装甲にした。内部の駆動系には私の最高傑作のモーターを組み込んである」
俺は黒鉄の指を、一本ずつ曲げてみた。
カシャ、カシャ、という小気味良い駆動音が鳴る。
自分の元の腕と全く遜色のない、いや、それ以上の握力と精度を感じた。
「魔力がいらねえ分、純粋な物理出力に特化させた。分厚い鉄板でも紙みたいに引き裂けるぞ。……何より、その装甲はどんな高位魔法でも絶対に貫通しねえ。お前専用の『最強の盾』だ」
「ありがとう、ルッカ。最高の仕事だ」
俺が礼を言うと、ルッカは少しだけ目を伏せ、唇を噛んだ。
「……ふざけんな。テメェが腕を吹っ飛ばしたのは、私の知識不足のせいだ」
「違う。あれは俺が勝手にやったことだ」
「うるせえ! 技師が想定外の過負荷でパーツを壊したんだ、私の完全な敗北だよ! 次は絶対に壊れねえように、そいつには限界突破用のパージ機能も付けたからな……!」
悔しそうに怒鳴るルッカの目には、涙が滲んでいた。
ただの生意気なガキだと思っていたが、技術者としてのプライドと、仲間への情に厚い奴らしい。
ガチャリ、と。
病室の重い扉が開いた。
「ルッカ、声が大きいわよ。カイトが起きてしまったらどうするの」
入ってきたのは、ステラだった。
いつも着ている豪奢な軍服ではなく、簡素な白いドレス姿。
だが、その表情を見て、俺は息を呑んだ。
あの圧倒的な強さを誇る竜の姫が、今にも倒れそうなほど憔悴しきっていたのだ。
目の下にはルッカ以上に濃い隈があり、透き通るような銀髪もどこかパサついている。何より、その瞳から「覇気」が完全に消え失せていた。
ステラは、ベッドの上で上半身を起こしている俺と目が合うと、ピタリと足を止めた。
「ステラ」
俺が名前を呼ぶ。
カタン、と。彼女の持っていた水差しが床に落ちて割れた。
「カイト……」
震える声。
彼女はふらふらとした足取りでベッドに近づき、そして、崩れ落ちるように俺の胸にすがりついた。
「うぁ……ぁぁ……っ、カイト……カイトッ……!」
声にならない嗚咽。
ステラは俺のシャツをきつく握りしめ、顔を押し付けて泣きじゃくった。
俺は残った右腕で、彼女の震える細い背中をそっと撫でる。
熱はない。魔力の暴走は起きていない。
今の彼女は、ただ恐怖と安堵に震える、年相応の少女だった。
「ごめんね……私のせいで……私が弱かったから、カイトの腕が……っ」
「泣くなよ、ご主人様。ペットが飼い主を庇うのは当然だろ」
俺が冗談めかして言うと、ステラは顔を上げ、濡れた瞳で俺を強く睨んだ。
「ふざけないでッ! ペットなら、飼い主の許可なく壊れないでよ! あんな……あんなの、心臓が止まるかと思った……っ!」
彼女の手が、俺の漆黒の左腕――義腕に触れる。
冷たい金属の感触に、彼女はビクッと肩を震わせたが、それでも逃げずにその黒鉄の指を両手で包み込んだ。
「冷たい……。あなたの優しかった手が、こんな冷たい鉄に……」
「性能は抜群だぞ。これで、お前がいつ暴走しても、この腕で熱を外に逃がせる。俺の身体を焼かずに済むんだ」
俺は黒鉄の指を動かし、ステラの頬の涙を拭った。
無骨な金属の指先でも、彼女は嫌がるどころか、自ら擦り寄ってくる。
「……もう、絶対に離さない」
ステラが、呪文のように低く囁いた。
「もう二度と、私から離れないで。私の目の届かないところに行かないで。誰にもあなたを傷つけさせない……もし、またあなたを奪おうとする奴がいたら、世界中を敵に回しても焼き尽くしてやる」
その瞳の奥に宿る、異常なほどの執着。
それは、以前の「冷却パックとしての依存」とは違う。
彼女は今、俺という存在そのものに対する、重すぎるほどの愛着――あるいは執念を抱いていた。
「おいおい、姫様がヤンデレ一歩手前になってんぞ……」
ルッカが呆れたように呟く。
俺も苦笑するしかなかった。
だが、悪くない。
互いに欠落を抱えた、魔力ゼロの人間と、余命宣告を受けた竜の姫。
俺の『アンチ・クリスタル』の義腕と、彼女の強大な魔力は、パズルのピースのように完全に噛み合っている。
「ステラ。俺はもう逃げないし、壊れないよ」
俺は義腕ではない、生身の右手で彼女の背中を抱きしめ返した。
「この黒い腕は『盾』だ。どんな魔法も弾き返す、俺の身を守るための盾。……だから、君は『剣』として、俺の前で敵を切り裂いてくれ。そうすれば、俺たちは無敵だ」
最強の鉾と、絶対の盾。
魔力中毒のこの世界で、ようやく俺たちは「対等のパートナー」になれた気がした。
「ええ……ええ! 私はあなたの剣よ。あなたに降りかかるすべての理不尽を、私が切り捨ててあげる」
ステラが俺の胸の中で、決意に満ちた声を上げる。
窓の外を見る。
紫色の魔導灯が照らす機工都市の空は、今日も分厚い鉄の雲に覆われている。
元老院の暗殺者たちは、俺が生きていると知れば再び襲ってくるだろう。
だが、もう恐れはない。
最弱の調律者と、病める竜姫の、本当の反逆がここから始まる。




