深夜の脱走
王女の寝室は、しんと静まり返っていた。
天蓋付きの広大なベッドの中。
ステラは俺の右腕を抱き枕のようにきつく抱きしめ、規則正しい寝息を立てている。
昼間の「ハッタリ」と、その後の謁見の疲労が重なったのだろう。俺が吸熱してやったこともあり、彼女の体温は平熱に保たれ、完全に熟睡していた。
俺は自分の首にはめられたチョーカー(発信機)を、左手の義腕でそっと覆い隠した。
『神の胆石』は絶対絶縁体だ。この黒鉄の指で包み込んでいる間だけは、ステラに俺の魔力波長(位置情報)が伝わらない。
「……ごめん」
俺は小さく呟き、彼女を刺激しないように、数分かけてゆっくりと右腕を引き抜いた。
ステラが「んん……」と寝返りを打つ。心臓が跳ね上がったが、彼女が目を覚ますことはなかった。
上着を羽織り、音を立てずに扉を閉める。
暗殺者に狙われている身で、ご主人様から離れるのは自殺行為だ。
だが、俺にはどうしても確かめなければならないことがあった。
王宮の地下、ルッカの秘密格納庫。
油の匂いが充満する薄暗い空間に到着すると、そこには巨大なリュックを背負った赤毛の技師が、腕を組んで待ち構えていた。
「来ると思ってたぜ、大馬鹿野郎」
ルッカが呆れたように鼻を鳴らした。
「ああ。君も止めはしないんだな」
「技術者の端くれとして、あのノイズを聞いて寝ていられるかよ。……それに、ステラの病気を根本から治すヒントが、あの『神の脳』とやらにあるかもしれねえ」
ルッカは顎で、格納庫の中央にある奇妙な鉄の塊をしゃくった。
それは、分厚い装甲で覆われた球体のような乗り物だった。
「深淵潜行艇『モグラ一号』だ。お前の左腕を作ったときに出たアンチ・クリスタルの削りカスを、装甲の表面にコーティングしてある。これなら、濃度100%の魔力圧にもギリギリ耐えられるはずだ」
俺はその分厚い鉄の装甲を撫でた。
「なあ、ルッカ。一つ確認したい」
俺はずっと気になっていた疑問を口にした。
「この星の足場である『機神』ってのは、金属でできたロボットや宇宙船の類じゃないのか?」
「ハァ? 何を言ってんだお前」
ルッカは心底馬鹿にしたような顔をした。
「機神は、正真正銘の『生物』だよ。肉と骨と、超高密度の魔力回路で構成された、太古の巨大生命体だ。街のパイプや歯車は、後から俺たち人間が『寄生』して、奴の死骸に無理やり打ち込んだものに過ぎねえよ」
「……だよな」
俺は背筋が寒くなるのを感じた。
つまり、この世界は「SF的な人工の星」などではない。
得体の知れない神話的生物の死骸だ。
だとしたら、あの通信を送ってきた探索船『プロメテウス』は、どうやってその「肉の奥深く」に入り込んだのか?
「俺と同じだ。別の世界から、この神の死骸の『内側』に次元衝突したとしか思えない」
「行くぞ、カイト。もたもたしてると姫様が目を覚ます」
ルッカが潜行艇のハッチに手をかけた、その時だった。
格納庫の室温が、急激に低下した。
いや、冷気と同時に、肌を刺すような極度の「熱」が入り混じった、異常な空気。
「……目を覚ます、どころの騒ぎじゃないわよ」
背後の暗がりから、声がした。
「ひっ……!」
ルッカが短い悲鳴を上げて後ずさる。
そこには、裸足のまま、身の丈ほどある大剣を片手で引きずりながら歩いてくる、ステラの姿があった。
「カイト」
彼女の瞳は、ハイライトを失ったように暗く沈んでいた。
全身からチリチリと危険な魔力光を漏らし、その殺気は暗殺者たちに向けたものよりも遥かに重く、冷たい。
「あれほど、私のそばから離れるなと言ったのに。……私の目の届かないところへ行かないでと言ったのに」
大剣の切っ先が石の床を削り、火花が散る。
「カイトの嘘つき。……やっぱり、首輪だけじゃ駄目ね。物理的に、両足を切り落としておけばよかったわ」
本気だ。
彼女は今、見捨てられる恐怖と独占欲で、完全に思考が極端に振れている。竜の血が理性を焼き切ろうとしているのだ。
俺は義腕でチョーカーを隠すのをやめた。
そして、逃げずに、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄った。
「ステラ。俺はお前を置いて逃げるわけじゃない」
「嘘! その鉄の箱に乗って、あの不気味な声のところへ行く気でしょう!? 私より、同じ世界の人間の方が大切なの!?」
ステラが大剣を振り上げる。
だが、俺は歩みを止めなかった。
切っ先が俺の額の数ミリ手前でピタリと止まる。
「……斬れないだろ」
俺は彼女の目を見つめて言った。
「俺はご主人様を信じてる。だから、お前も俺を信じろ」
ステラの唇が震えた。
彼女の手から大剣が滑り落ち、甲高い音を立てて床に転がる。
「……死んじゃうわ」
ステラが泣きそうな声で呟いた。
「あの深さは、いくらその潜行艇でも水圧ならぬ『魔圧』で押し潰される。私でさえ、生きて帰れるか分からない死地なのよ……?」
俺は残った右腕で、彼女の頭を抱き寄せた。
「俺の故郷の言葉で『SOS』は、『私たちの魂を救え(Save Our Souls)』って意味なんだ」
俺は静かに言った。
「もしあれが、俺の世界の人間だとしたら。魔力も持たない普通の人間が、たった三人で、神の脳髄の底で酸素が尽きるのを待っている。……俺には、それを見捨てて、温かいベッドで寝ることはできない」
それは、オタクの甘いヒロイズムかもしれない。
だが、あの通信を聞いてしまった以上、俺はどうしても「答え」を知りたかった。
ステラは俺の胸に顔を押し付けたまま、数秒間、じっと沈黙していた。
やがて、彼女は顔を上げると、まだ涙目のまま、ひどく凶悪な笑みを浮かべた。
「……ルッカ。その鉄の箱、三人乗れるわよね?」
「は?」
ルッカが間抜けな声を出す。
「お、おいステラ、まさかお前も……!?」
「当たり前でしょう」
ステラは俺のネクタイを乱暴に掴み、自分の顔の近くまで引き寄せた。
「私のペットが地獄に散歩に行きたいって言うなら、飼い主がリードを握ってついて行く義務があるわ。……そこで誰かに噛みつかれそうになったら、私が全部焼き払ってあげる」
それは、過保護が行き着いた究極の形だった。
俺が危険な場所に行くのを止められないなら、危険な場所そのものを破壊して俺を守る。
「……ありがとう、ステラ」
俺が苦笑すると、彼女は「ふんっ」とそっぽを向いたが、その耳は少しだけ赤かった。
「文句はねえな、二人とも。それじゃあ……『神の脳髄』へ、特攻するぞ!」
ルッカがヤケクソ気味にレバーを引く。
分厚いハッチが閉ざされ、俺たち三人を乗せた潜行艇は、機神の死骸のさらに深い暗闇へと、真っ逆さまに落ちていった。




