深淵からのノイズ
「はい、カイト。あーん」
王宮の一室。最高級の羽毛布団の上。
ステラが剥いた葡萄(に似た果実)を、俺の口元に差し出している。
「……ステラ。俺は手がないわけじゃないんだ。自分で食える」
「駄目よ。左手は重い義手だし、右手は私を抱きしめるために温存しておかなきゃ」
無茶苦茶な理屈だ。
だが、今の俺は「特級危険物」として軟禁状態にある。逆らえば、もっと恥ずかしいプレイ(例えば口移しとか)を強要されかねない。
「……あーん」
俺は諦めて口を開けた。
甘い果汁が広がるのと同時に、ステラが蕩けるような笑顔を見せる。
「いい子ね。……ねえ、もう政治の話も終わったし、ずっとこの部屋で二人きりで暮らさない? 外の世界なんて危ないだけよ」
彼女の指先が、俺の首元のチョーカーをなぞる。
本気だ。この竜姫、隙あらば俺を完全に「飼い殺し」にする気満々だ。
確かに、このままヒモ生活を送るのも悪くないかもしれない。衣食住は完璧、美少女の介護付き。
だが、俺の「オタクとしての勘」が告げていた。
この世界は、そんな生温い平和を許してくれるほど甘くない、と。
バンッ!!
その予感を肯定するように、扉が乱暴に開かれた。
「おいバカップル! いちゃついてる場合じゃねえぞ!」
飛び込んできたのは、またしても油まみれのルッカだった。
だが、以前のような怒りの表情ではない。
彼女の顔は、見たこともないほど蒼白で、唇が震えていた。
「ルッカ? ノックもしないで……」
ステラが不機嫌そうに睨むが、ルッカはそれを無視して、俺の胸倉を掴んだ。
「カイト! ちょっとツラ貸せ! ……『あり得ねえモン』が聞こえやがったんだよ!」
連れてこられたのは、王宮の地下深くにある「魔導管制室」だった。
壁一面に並んだ水晶のモニターが、都市のエネルギー数値を映し出している。
「これを見ろ。……いや、聞け」
ルッカが震える手で、一台の蓄音機のような装置を操作した。
それは、都市の動力源である『機神の心臓』の状態を監視するための集音魔道具だという。
「昨日の深夜だ。地下の深淵の底……俺たちが潜った場所よりもさらに深くから、奇妙な『ノイズ』が観測された」
ザザッ……ザザザッ……。
スピーカーから、不快な雑音が流れる。
魔素の干渉音だ。ただの環境ノイズにしか聞こえない。
「ただの雑音じゃないの?」
ステラが首を傾げる。
「いいや、違う。……ここだ」
ルッカが特定の周波数を調整する。
雑音の向こう側から、微かだが、明らかに「規則性のある音」が浮かび上がってきた。
『――・――・――』
『・・・――・――・・・』
「……ッ!?」
俺の心臓が、早鐘を打った。
嘘だろ。
なんで、この世界で、この音が聞こえる?
「これは自然発生した音じゃねえ。明らかに人工的な『信号』だ。だが、この世界にこんな通信コードを使う国なんて存在しねえ」
ルッカが俺を見る。
彼女の目は、未知への恐怖と、一縷の期待に揺れていた。
「カイト。お前なら……何か知ってるんじゃないかと思ってな」
俺は無言でスピーカーに耳を近づけた。
間違いない。
ト・ツー・ト……。
短点と長点。
これは、モールス信号だ。
「……カイト? 顔色が真っ青よ?」
ステラが心配そうに覗き込んでくる。
俺は乾いた唇を舐め、震える声でその「意味」を翻訳し始めた。
「……O……S……」
「オーエス?」
「こちら……探索船……プロメテウス……」
俺の言葉に、ルッカが息を呑む。
俺はさらに耳を澄ませた。
ノイズの向こうの主は、絶望的な状況で、誰に届くとも知れないメッセージを繰り返し発信し続けている。
「……座標……地下3000メートル……『神の脳』エリアにて……座礁……」
「生存者……3名……。酸素残量……ゼロ……」
そこで、信号は途切れた。
俺は顔を上げた。
背筋に冷たい汗が伝うのを感じる。
「『プロメテウス』……ギリシャ神話の神の名だ。この世界の言葉じゃない。俺のいた世界の言葉だ」
「な……ッ!?」
「地下3000メートルと言ったな。……そこに、俺と同じ『異世界人』がいる可能性がある」
ルッカがガタガタと震え出した。
「ば、馬鹿な……! 心臓(動力炉)よりさらに下だぞ!? そんな深さに到達できる技術なんて、現代にはねえ! それに『神の脳』だと!? 機神に脳ミソがあるなんて記録、どこにも……!」
「記録にないだけだ。あるいは……誰かが隠しているか」
俺は黒鉄の義腕を握りしめた。
俺はこの世界に「転移」してきた。
だが、もし俺以外にも転移者がいて、彼らが「科学技術」を持ったまま、この地下深くに閉じ込められているとしたら?
そして、もし彼らが、この世界の秘密――「機神」の正体に触れてしまったとしたら?
「助けに行かなきゃ」
俺は無意識に呟いていた。
「駄目よ」
ステラが、冷たい声で遮った。
「地下3000メートルなんて、自殺行為以前の問題よ。心臓付近ですら即死レベルの魔素濃度なのに、そこより下なんて……生物が生きていられる環境じゃない」
彼女は俺の腕を掴み、強い力で引き寄せた。
「忘れなさい、カイト。それは幻聴よ。あるいは、私たちを誘い込むための『魔物の罠』かもしれない」
「でも、同郷の人間なんだぞ!?」
「あなたが死ぬリスクがあるなら、見捨てるわ」
ステラの瞳は、冷酷なまでに澄んでいた。
彼女にとっての最優先事項は、俺の生存。それ以外(他の人間)は、塵以下の価値しかないのだ。
「カイト。あなたは私の部屋に戻って、大人しくしていなさい。……この件は、見なかったことにするわ」
彼女は、俺を部屋に閉じ込めるつもりだ。
安全という名の檻の中に。
だが、俺の耳にはまだ焼き付いていた。
あのノイズ交じりの、必死な救難信号(SOS)が。
そして『神の脳』という言葉が。
この世界は、ただのファンタジーじゃない。
何かもっと、根源的で、おぞましい何かが埋まっている。
俺は義手の中で拳を握りしめ、ステラの目を見つめ返した。
「……分かった。部屋に戻るよ」
嘘をついた。
俺の心臓は、恐怖ではなく、抑えきれない好奇心と使命感で沸騰していた。
この夜。
飼い犬は初めて、飼い主の目を盗んで「鎖」を噛みちぎる決意をした。




