第十四話 ウィナード 6/7 前夜
「何が起こっている」
レイザーには理解ができない。一連の騒動が、まるで台本通りに黙々と進行していったように錯覚していた。
群衆はイツキとルミナの姿に湧き立った。
それはまるで、赤髪を誑かしたブレインの後光のように。
ウィシュアが灰庭健人と浦野菫の姿に、美しい普遍の愛を見たように。
彼らの心に救世の輝きを焼き付けた。
純白の巨人となったイツキは、まごうことなく神聖アルカド皇国の守護者となれるだろう。
「ルクス・ウルクェダ……。一体、何をしたんだ。何をしたいんだ」
レイザーには、理解ができない。この感情も、自分という存在も、ルクスの台本通りに動く駒なのかもしれない。そんな錯覚に陥っていた。
「帰りましょう、イツキ」
ルミナが彼に頬を寄せ、イツキは彼女を自らの腹に迎え入れた。巨大な純白の足元に、抜け殻の漆黒は見つからなかった。
◆
実行犯ダニー・ケロッグは、純白至上主義を目の敵にする一団「虹教」の信徒だった。何処もかしこも、即日からそう報じていた。
「馬鹿な」
ジョージは彼の正体を知っている。正真正銘、全力の純白至上主義者だ。あれを演技とは言わせない。
「虹教を潰したいのか? いや、シロに嫌疑を掛けさせたかった?」
純白至上主義者のダニーなら、喜んでルクスの手駒となるだろう。
神都の守りは、尚一層厳重にされた。純白とシロの交流と競争の場であり、逆らえない現実を教える学舎であった国立学園の門は、その全てを鎖で閉ざした。
「ダニー。馬鹿だよ、お前」
両手を挙げられるほど好きではなかったが、死んで欲しいと思うほど嫌いでもなかった。アリスはただ一人、同僚の死を悼んで泣いた。
◆
「逮捕? おじいちゃん、たいほ!」
マナはトカゲの長くて太くてゴリゴリした獲物が気に入ったのか、頻繁に抱きついている。彼女の精神は無邪気だが、その体は既に「女性」を意識させるものだ。オーランドは少し、ちょっと、いや……かなりトカゲが羨ましかった。
「フッ……逮捕じゃない。大砲だぞ、マナ」
ダテンゲートのそれは、更に大きく猛々しく聳え立つ逸物へと改造された。お察しの通り、ヂィヤとダテンゲートの尻尾の話だよ。
「世界を塗り替える風……エア・フラッシュだ」
「エアブラシね」
ユイにもなんとなく爺やさん語の翻訳が分かってきた。さすが犬語マスター。
ウィナードの貸し与えたドックで修理と補給を行う。アンティークの解析はさせてもらえないが、彼らの開発した機体の解析と設備は好きに使っていいとのこと。
「勝者を自称するあたり、流石に太っ腹ですね」
「私のお腹がポンポコと言ったか、グリエッタ?」ピッピッピッ!
エア・フラッシュは、ウィナードの技術をユイなりに精査して組み込んだ、言うなれば「ユイお手製のアンティーク風ウェポン」だ。
「試作段階だから乱用はほどほどにね」
「フッ……恩に着る」
「フッ! オンニ、斬る!」
ヂィちゃんの尻尾に斬撃モーションを仕掛けるマナ。彼女の脳内設定「尻尾怪獣オンニ」は地に「ぐでーん」と墜ちて「やったか⁉︎」と思わせてから、うねうね動いて少女をくすぐった。屈託のないマナの笑顔で、ユイまでにやける。
「でゅふふ……おっと、失礼。ヂィヤさんの戦闘ログ、願力の数値がおかしくなってるんだよ。つぎはぎの不具合からくるバグかと思ったんだけど、もしかして願力のレベルまだ伸びてる?」
「フッ……人生とは、絶えず変化するということだ」
「うん、なるほど。成長してる、と」
魔族は「覚醒」しない。ヂィヤの「成長」は微々たるものだが、それも積もれば馬鹿には出来ない。
「取り敢えず、今後も伸び代があるって事を想定して、願力制御にゆとりを持たせといたよ」
「フッ……恩に着る」
「フッ! オンニ、斬る!」
(どういうこと? 遡れるログから今までに二十三回戦で9レベルも上がってる……? 今のレベルは23……マナより高くなってる。おじいちゃん、なんだよね?)
魔族は覚醒しない。年老いた体では願力の成長も見込めない。だから、メアリやリラは訓練によってガンドールでの戦い方を日々研磨している。
「そう、いい筋だ」
「なんとなくですが。形に出来て良かったです」
メアリはリラから願ドローンの教えを受けていた。リラは怪我で一時離脱。メアリ専用のドローンが完成するまでは、リラのそれを借りる事になった。
「願力で粒子を制御できる腕前なら、いずれは願ドローンの制御も粒子でやってもらおうか」
「善処します」
リラは半ば冗談のつもりだったが、真面目なメアリならいつかやってのけるかもしれない、末恐ろしさがあった。
「おやおや。こりゃ私が復帰した時には、ドローンにあんたの願力が染み付いちまってるかもね」
若者の飲み込みの速さに、自身の老いを感じる。日に日に願力の定着にも時間がかかるようになった。しかし隠居にはまだ早い。筋肉が唸りを上げて肉体の回復に努める。
「さて、老体仲間。艦長にも頑張ってもらうよ」
「なに。ガンドールの操縦には一日の長がある」
クラウザも予備の惨雪で戦闘に参加し、カノープスの艦長代理にリラが収まる。
「武装はやっぱり実弾かい」
「カノープスにはその為の設備を積んでいます。役に立ててみせよう」
蟲の外骨格を一度粒子状に分解して不純物を取り除き、そこから願導合金を精製する。不純物を結合して、弾丸の薬莢を形成する。無駄がないエコシステム。勿論電気エネルギーは消費するし設備も摩耗するから、気軽に錬金術をする訳ではない。
クラウザの願力はアッシュ以上オーランド以下。だから結局、アッシュが嫉妬のモンスターの囮をやるのが一番良い。作戦に変わりはなかった。
「前線指揮は艦長にお任せ出来ますね」
アッシュのセカンドにも新装備が取り付けられた。ユイを仲間の機体の調整に専念させて、アッシュとオーランドでやりくりした。時間も人手も技術も無いから、蟲の外骨格をほぼそのまま流用している。
「ゲテモノ……」
グリエッタはアッシュのセンスを残念そうに見つめた。
「うはっ! おい見ろ、グリエッタ! 凄いぞ、この機体!」
「拝見しました。私は、既に願力の定着を終わらせています」
「なにぃ⁉︎」
「貴女のような不摂生な小太りとは出来が違うのです」
「なにぃ⁉︎」
ディオネとグリエッタにもそれぞれ新機体が配備された。ウィナードから提供された彼らの量産機〈トロイアホース〉。
ハイド少年たちのブラックベルベットを参考にしたと思われる大柄のそれは、同様にラスティネイルとも似通った武装を持つ。
「なかなか良いでは無いか、お馬さん。まさに王者の愛馬よ」
傲慢や暴食の力は使えないが、アンティークの使うような強力な憤怒の雷光は使用可能。装甲の厚さを頼りに敵陣に突撃し、その中央でディスる光を放つ。
「鉄砲玉ですか?」
「ウィナードの坊主曰く、マップ兵器というのだそうだぞ」
嫌ですよ接近戦なんて、お一人でどうぞ。グリエッタは後方から結晶と光を操って援護に専念すると決めた。
「ん? 待て、お前の機体の方が痩せてないか?」
「当然でしょう? ガンドールはパイロットとの一体感が重要になるのですから、私が貴女と同じ機体を操る訳にはまいりません」
グリエッタの機体は、カシスの機体である〈キールカーディナル〉を解析して開発された、細身の女性的なシルエットが特徴の量産機。
武装はトロイアホースと同じと捉えてくれて良いが、ガンドールであれば体型の違いによる意味は大きい。
「ブライアローズ、眠れる森の美女。ネーミングまで素敵。高貴なる私にぴったりです」
「釈然としない!」
取り敢えず、お煎餅は仕舞おうか。
「色々ありがとうね、カシス」
「いえ。ダスク様の御指示ですから」
ユイはカシスの視線の先が気になった。
「……ケントと何かあった?」
「彼の眼、何処かでお会いした気がするのです」
「それって、セラ……」
「……せら?」
カシスには聞き覚えはない。アッシュの中の古代の知識の全てを、ユイだって把握できてる訳じゃない。
「彼は私とハイドを見つめて、クロウとかカシスとか言ってました」
「えっとね、古代人の中にクロウって男の子がいたらしいんだよ。今のケントの見た目は、その子とか、その子の友人由来だとかなんとか⁇」
自分で言っといて、ユイも何がなんやら。
「? 古代人ですか?」
ハイネだけじゃなく、ハイドにもそんな記憶は無い。
「お前の機体、どうなってんだ?」
「凄いでしょ!」
そのハイドはホワイトノエルの存在に心を掴まれていた。
煌びやかな装飾、滑らかで女性的で生物的な肢体、傷さえマナの願力で修復するという願導装甲。エックス字状の翼は、見る者全てに妖精の翅を連想させた。
ディオネ専用の調整が為されていただけの、ただのゼーバの量産型ノエル。それをディオネとは直接の関係が無かったであろうマナが乗り、変質させた異形の存在。
「格好いいでしょ!」
「ウィナードの知識でも解析は出来ないのか」
「アンティークに近いんじゃないか」
アッシュの疑問にハイドも疑問で返す。
「それは流石に感じる。傲慢の力さえ使うからね」
「そうかよ。俺が言うまでもなかったってか? お見それしました、仮面のヒーロー殿」
あれ以来、アッシュに対しては、すぐこれだ。矢張り、ハイドにはハイネへの恋愛感情が存在している。それは「クロウ」のものなのか、彼の成長の証なのかは、まるで判断がつかない。
思春期らしき少年の含みある言い方には、大事になる前に先んじて原因を潰しておく。中間管理職というより、学校の先輩か、教師の気分のアッシュだ。
「いや、ウィナードのお墨付きなら間違い無い。それに気が付くことが出来る君だから、僕は相談したんだ」
「お、おう?」
アッシュの言い方は回りくどいが、自分が褒められている事に気付いたハイドは、少し照れ出した。
「それに、君からカシスを取ったりはしないよ。僕にそんな甲斐性はないし、なにより彼女の心は僕に向いたものじゃ無い」
「……お前にカシスの心が分かんのかよ」
藪蛇だったか。
「あのね、ケントはユイと仲良しなんだよ」
「……だからハイネに手は出さないってことか?」
マナの無邪気さに救われる。アッシュがお礼を言っても少女は理解が出来ていなかったが、いつか分かってくれたらそれでいい。自分のペースで歩いてくれたらそれで良い。
「あとね、女たらしなんだよ!」
「やっぱり、そういうことか!」
人類が分かり合える日はくるのか。
「……そんなことより」
「そんなことより⁉︎」
「アンティーク……君たちの機体に、何か、意志のようなものは感じられるか?」
「意志、ですか」
少女ハイネは仮面の男を眺めながら話に入ってきた。目を見つめ、下から覗き込み、舐め回すようにアッシュを観察する。手を握り、髪を撫で、顔の輪郭をなぞって確かめる。
「お、おい、ハイネ! そんな仮面の男」
彼女の吐息が彼のマフラーと首筋を慰める。懐かしさに焦がれたのか、男の指が少し強張る。アッシュの中にあるクロウの心が揺れ動いているのだろうか。彼自身にも制御は出来ない。
「は、ははは。なかよしだなぁ、ふたりは」
当然、ハイドとユイは気が気じゃ無い。ハイネはアッシュの顔に手を触れたまま言葉を紡いだ。
「確かに感じます。貴方がアンティークと呼ぶあの子たちには、一機につき複数の『意思』が宿っているのだと思います」
「複数?」
「ああ。奴らに認められて、俺たちはパイロットになれるんだ。何言ってんのかまでは分かんねぇけど」
「凄い! 意思を持った機体と、選ばれた戦士! まさに神秘のスーパーロボット! でゅふふ! 合体! 合体は⁉︎ グレート」
気持ち悪いのは放っておいて。
「ノイズは大丈夫なのか?」
「んなもん無ぇよ」
「ええ。見守られている。そう感じます」
ラスティネイルとは違い、声は聞こえないらしい。あれは、健人とセラを取り込もうとした。それをしないで見守っていてくれているというのは、ラスティネイルに翻弄されてきたアッシュには羨ましい。
アンティークに宿っているものの正体、最早推測は出来る。それは古代人の正体についても同様である。
このウィナードたちもそうだ。ハイネハイドの姿を見れば、古代人と無関係とは考え難い。尤も、彼らがクローンの類で無いという前提だ。
バンデージの王は規格外だった。彼はラスティネイルに魂を封じられたにも関わらず、再びの受肉に漕ぎ着けた。それが敗北の一因になったのは皮肉な話だ。
アンティーク、古代人、ウィナード、そしてモンスター。
端を発するのは、アルファング。オリジナルのブレイン。アッシュとユイとセカンドが、クロウとカシスの願いが宿ったラスティネイルの右腕の力を借りる事で、確かに倒した。
しかし、彼らの正体を推察すれば、倒した事は一時の結果に過ぎない。
――融合分裂。アッシュだからこそ、それが分かっている。
◆
作戦前夜。ウィナードの街の食堂で賄いを頂ける事になる。ヒトの作る料理はどこでもそう変わらない。焼いて、煮て、茹でて蒸して、等々。ゲテモノだろうと喰えそうなものには大抵チャレンジする先任者がいてくれて、現代人たちはその知識のお溢れに与れる。
「フッ……ナニコレめちゃくちゃ美味い‼︎‼︎‼︎」
トカゲは料理漫画的イメージ映像を背景に召喚。得体の知れないステーキを皿に残ったソースごとペロっと平らげて、揚々とおかわりをねだった。
「育ちが悪いな」
ハイド少年はお野菜のスープをメインに、なんか女子力の高そうな料理をお上品に食している。
「繊細なんです、彼」
「でしょうね」
「えー意外」
対するオーランドはエネルギーになれば何でも良いと言った感じで、とにかく速攻でがっついた。軍人だから豪快な料理や現地調達のゲテモノも喰ってきたが、携行食みたいな時間がかからなくて栄養価の高いものが一番好きだった。
「もう少し味わって食いなさいよ」
早食いの大食いを自覚するアッシュだが、それ以上の戦友に対しては流石にお節介が発動する。大丈夫? お水飲む? 受け取ったオーランドは一気に飲み干した。
「時間が勿体ない」
「食事会に参加はするんだ」
「付き合いは大切だ。作戦の練度に関わる」
「出会った頃は僕を敵視してた奴が」
「うるせえ、しね、ばか、しね」
「心配するな。こんな事ばかりしてるんだから、どうせお前より先に死ぬさ」
「……バカ。しぬな、ばか」
戦友から頂けた不器用な心配を、アッシュは有り難く全身で浴びた。
「ねぇねぇユイ。これどうやって食べるの?」
マナの目の前に、見たこともない奇怪な面妖な物体が鎮座する。貝? 卵? 果物? おねーさんのユイはあたふたしだした。
「わかった! ……こう!」
カシスの食し方を眺めながら、マナは一人でチャレンジしてみるようだ。
「大きくなったねぇ……」
お母ちゃんのユイは愛娘の成長の感慨に耽っている。そんな姫様ユイの涙と鼻水を従者ギゼラがうっとりとしながら拭っていた。
「なんですか、お食事が一人で出来たくらいで」
お姉様のユイをマナに取られたグリエッタは、ぶぅ垂れながらおナイフとおフォークでゆっくりとお召し上がる。ディオネの放つ食事の飛沫がお洋服に引っ付いた。
「小太りー!」
「なにをー!」
「良いなぁ、こういうの」
シリウスでの日常を思い出す。ユイとアッシュが幻視したイツキや菫の姿は、きっと笑顔だったろう。
「やっぱり、カノープスにもおっきい食堂欲しかったよ、艦長」
「そうだな」
クラウザと和食の組み合わせは妙に馴染む。
「ユイはお料理できるのですか?」
「あっ! メアリ、その言い方酷い!」
「姫さ……ユイさんは万能です。むしろ全能なのですよ、メアリさん」
「は、はあ」
ギゼラの急な態度の変化に困惑する真面目なメアリの顔が居た堪れない。ユイは後で説明の為、メアリに突撃パジャマパーティーをするはめになったとさ。
「あ、あの、艦長。改めまして、私をカノープスにおいてくださり、ありがとうございました」
「いえ、グリエッタ様。預かる以上、御身の事は必ず祖国へお返し致します」
グリエッタの顔は妙に紅潮していた。クラウザに怒鳴られてから、彼の言動を見る度に、なんだかドキドキする。
ディオネ、アッシュ、クラウザと、今まで彼女の近くにいなかったワイルド(というか、扱いが雑)さに、ちょっとときめいているのは否めない。
思春期真っ只中。お姫様はあろうことか、乱暴な野郎共の魔の手にかかり恋に恋しているのである。
「見ろ、グリエッタ! 我が名はエイリアス・クロウカシスー!」
果物の固い皮をくり抜いた、お手製のディオネ仮面が現れた。前回のアッシュの物真似をご覧あれ。
「おバカ! ふ、フフ……!」
「すごい! かっこいい! ディオネ、わたしもやるー!」
マナである。十四歳くらいの少女たちがきゃっきゃうふふ。
「馬鹿もん! 食べ物で遊ぶな‼︎」
クラウザ先生の雷が落ちたのでそろそろお開きだな。
「ホントに賑やかだね。それによく食う」
「フッ……リラのそれ何?」
「プロテイン」バナナ味。
「流石だな。期待を裏切らないゴリ……」
◆
「相変わらず真面目だな、オーリー」
格納庫、アッシュはセカンドの中で眠ろうとやってきたが、オーランドは乗機の惨雪のチェックに余念が無い。
「……こんな姿してたんだな」
彼の声に気が付いたオーランドは作業の手を止めて、腰を伸ばしながら惨雪を見上げた。
「自分の機体、格好良いだろ? まあ、僕のセカンドほどじゃないけどな!」
この阿呆は何を張り合っているのやら。
「……見た目なんて気にする余裕は無かった。アダトじゃ、十歳で徴兵を受ける」
アダトの街は、アルカドの中にあって唯一ゼーバへ寝返った街だ。そういう文化だから少し毛色が異なっていて、住民は徴兵制度で縛られて、齢十を越えれば兵士にされる。モンスターのコロニーに隣接した土地柄も手伝って、戦う以外の選択肢は無い。
「見た目とかには、興味もなかった。戦場には敵と、自分と同じ境遇の肉団子がいるだけ。それを判別できれば十分だった。今までは、それだけだったんだ」
重力が軽くなる。ふわふわと、体から心が解き放たれる感覚。
「ごめん。お前の事を、何も知らなかった」
「言わなかったからな。隠蔽体質の街だ。情報統制もあった」
彼の過去を知らずに過ごしてきた。アッシュは、ユイの時と同じ過ちを繰り返したのか。しかし、互いの過去の全てを知らずとも、二人の間には友情が芽生えた筈だ。それは、アッシュ個人の自惚れでは無い。
オーランド・オーウェンスを信頼している。オーランドもアッシュを好いてくれている。話したく無いこともあるだろう。話してくれたのなら、あの時のユイのように寄り添ってあげれば良い。
彼の信頼に応えたい、応えなくては。
「クランベル大佐みたいに立派な方なら、士官学校にも行って、人並みの家庭もつくれるんだよ。俺には、やっぱり無理だよな」
「そうだな。オーリーなら、もうちょっとウェットに富んだ良いお父ちゃんになれるかもな」
「……そうかな」
「これからの自分次第さ。良くも悪くも、世界は変わった。人だって、どう転ぶか分からない。俺もこんな体になったけど、幸せになっても良い筈だ」
アッシュは、自分の言葉に気付かされた。
「……僕は、幸せになりたいのか?」
「知らねえよ。なんだよ、俺の話はどうした」
なんだか馬鹿らしくなってしまって、オーランドは苦笑した。
「……悪い。ありがとう、アッシュ。お前の事も知らず、女を侍らすいけすかねえ奴だと決めつけて、突っかかってしまった。お前にも過去がある。俺には理解出来ないような、仮面を付けなきゃならない事情もあるんだろ。それなのに、お前は俺に話しかけて、こんなに面倒くさい俺なのに、今もこうやってコミュニケーションをとろうと模索してくれる。嬉しいよ」
「どうしたんだよ、急に」
「……さあ。なんだか浮ついてるな、作戦前だし……あと、重力のせいかな。おかしくなってるんだ。多分、こんな時にしか、言えないよ」
はにかんだ笑顔がそこにあった。オーランド・オーウェンスという一人の人間の、着飾ることのない優しい素顔。薄っぺらい虚飾に塗れた仮面の男とは正反対の、生の人間の姿。
重力は魂を引き寄せる。重力異常により、肉体を縛り付ける鎖からの解放は、心さえ解き放つ。
先日のユイの長文独白や、アッシュとユイとセカンドの二人旅での急接近に理由をつけるなら、それが原因なのか。何にでも理由をつけようとするのは、アッシュの悪い癖だろう。
「……重力か」
暗い世界、ゲートの向こう。高重力の漆黒の塊、ブラックホール。
重力が人を縛るというのなら、あれは、なにを縛り付けているというのか。
◆
夜がふける。蟲は昼夜問わず縄張り争いを続けている。休息をとってくれるのなら、睡眠時に奇襲することも考えられたのだが。なら、ヒトは人らしく、大人しくおやすみなさい。
作戦前夜、月下に黄昏る老人。ダスク・ウィナードは、灰色の空に隠れた月を後にした。




