ネットワーク
お読みいただきありがとうございます。
―一見バラバラな日常も、意外とどこかでつながっている。
そういう意味を持つ文脈を見たことがないだろうか。
努力も積もる。すなわちつながりのない努力も自分の知らないところでつながっていたということだ。だからある人は希望を持ち、今日を生きているのだと思う。
ただ、『一見バラバラ』というのは、自らバラバラにしているだけなのだろう。無理に他とつながろうとせずに毎日を過ごす。それだってもしかすると一種の希望なのかもしれない。しかし完全に切り離すことができずに、徐々につながりは固くなっていく...
それが繰り返されて大きなものになると、ある人はまた別の希望を持つということだ。それって本当に自ら望んでいたものなのだろうか?
また、そのつながりはいつも自然なものと考えられる。要するに人間が手作業でつなげているわけではなく、つながらない確率が低いということだ。自然にという言葉はいろいろな意味を持っていて、便利な用語だとも思うが。
しかし、もし手作業でつなげていたらどうだろう。
例えば、正方形の折り紙二枚があったとしよう。それぞれの一辺同士をあわせて、そのまま裏返す。そして境目をテープでくっつけて、また裏返す。するとわざとくっつけた痕跡は見えづらくなり、一瞬だが勝手にくっついていると思われるかもしれない。
そんな感じのことが日常という見えないものの間でも成立するかもしれない。自分たちが見ている日常はある一つの方向だけから見たもので、その裏側には誰かがいるかも知れない。
それは日常以外のものに対しても言える。友人関係、大きく見れば人間関係がその一例だ。互いに引き合って出来上がった信頼関係だと思っていても、意外と二人の間には二人を意図的に引き寄せた人物がいるかも知れない。だとすると、自分は他とつながる能力がないと思っている人でも、誰かを利用することで誰かとつながれるかもしれない。また、誰ともつながりたくない人でも、自然につながる可能性が低くなるかもしれない。
この現実世界。事象には原因がある。真実には裏付けがあるという考え方が一般的になっている。上記のことがこれの明確な例なのだと自分は考えている。
ただ自分と誰かを引き寄せるかはその間の人、第三者の自由だ。気まぐれで実行するかもしれない。それは自然なことということにならないのだろうか。
それを考え始めると出口がわからなくなる。結局のところ自分たち人間は今日を生きていくしかなくて、ごちゃごちゃ考えていても仕方がないのかもしれない。
・・・でも一つだけ言えるのは、『自由』と『勝手に』は違うと思う。第三者の思いはもしかしたら操れるかもしれないのだから。
「だとすると、自分は他とつながる能力がないと思っている人でも、誰かを利用することで誰かとつながれるかもしれない。」
先ほど話したこの部分がそれに当たる。誰かを利用することで誰かの自由を操れるかもしれない。
ただ一つだけ言っておく。それは真の『希望』だろうか...。
これは生物が存在したからこそ言える考え方だ。
しかし、生物が存在しなかったらこれ以外のことも考えられなかったのだ...。
そうすると、なぜだか自分たちが偉大に思えてくる。