7月25日:城主
一晩たっても、僕の胸は高鳴ったままだった。
「狩りを、したんだ。」
そっと目を閉じた。
昨日、クロが教えてくれた『ネズミ狩り』。狩をしたことがない僕は、クロが話してくれた通りに空想して、心の中のネズミを捕まえた。その興奮が、まだ僕の中を全力疾走していた。
風の音、緑の香り、木々のざわめき、ネズミたちの小さな足音。
今までぼんやりと感じていたものが、とても鋭く、熱く、輝いている。
僕の中に眠る、野生の感覚が研ぎ澄まされる。
少しだけ、クロがうらやましくなった。
「おはよう、クロ。」
目を閉じたまま、クロに声を掛けた。
「昨日の狩りで、少し感覚が鋭くなったようだな。」
僕はそっと目を開けると、クロに視線を移して微笑んだ。
「うん。なんだかね、すがすがしいの。」
「そうか」
僕の言葉を聞いたクロは、かすかに爽やかな笑みを浮かべた。
「なあ、今日はお前の話を聞かせてもらえないか。」
「僕の?」
「そうだ。家の中で暮らす気持ちだ。」
クロからの思いがけない頼みに戸惑った。
狩りに比べたらつまらないかもしれないという思いがよぎったけれど、家にいる一番の楽しみをクロに伝えようと思った。
「八時くらいになると、僕の家族はみんな出かけてしまうんだ。」
僕はニヤリとした。
「それから家族が帰ってくるまでの間、この家は僕だけの城になるんだ。」
「城?」
「そうさ。ここは、僕の城。」
クロが興味を示した。僕は、得意げに胸をそらした。
「僕は、毎日玄関で家族を見送る。それが終わったら、城中を回って歩くんだ。これね、僕の日課。」
「回るって、『見回る』ってことを言ってるのか?」
クロの声が、楽しそうな色へとわずかに変化した。
「そうだよ。僕の城に異状がないか見て回るんだ。まずは一階から。」
「一階には、何があるんだ?」
クロは、輝く金色の目をそっと閉じた。おそらく昨日の僕がそうしたように、僕の言葉を心の鏡に映し出しているのだろう。
「一階にはね、お姉ちゃんが書斎みたいに使ってる部屋があるんだ。お姉ちゃんはね、大学に通いながら近所の中学生や高校生に勉強を教えているんだ。ちょっとしたアルバイトなんだって。その部屋には大きな机が一つとイスが四つ、それと本がたくさんあるんだ。書斎を背にして、正面が玄関、左側が階段、そして右側にあるのが車庫。ちょうど今、クロの正面にあたるところだよ。中はとても広くて、かっこいい車が二台あるんだ。車の他に雪かき用のスコップもあるんだよ。もっと探検したいんだけど、こっそり中に入ったらすごく怒られちゃったんだ。お母さん、怒ると怖いんだもの。それ以来、入ってないの。だから、車庫は見回りできない場所なんだ。階段を上ると二階。二階には部屋が三つあるんだよ。階段のすぐ左にあるのがお父さんとお母さんの部屋。ちょうど書斎の真上なんだ。その部屋には大きなベッドがあってね、お昼はそこでお昼寝をするの。僕のお気に入りの場所。」
僕は、いつも通りの見回りルートを、実際に歩いているのを思い浮かべながらクロに伝えた。
「お父さんとお母さんの部屋の隣はキッチン。ここはね、お父さんがマグロのお刺身を切るところ。いい子にしていると、ちょっと貰えるんだ。」
クロは、バッと開いた目をまん丸くした。
「マグロ? 一生に一度食べられるかどうかの高級品だぞ?」
クロの言葉に嬉しくなり、得意な顔でそうだよと答えた。
「キッチンの隣は、居間。晩ご飯を食べたりテレビを見たりする家族がくつろぐ場所。僕のベッドも居間にあるんだよ。夜はここで寝るんだ。居間の隣は、お姉ちゃんの部屋。お姉ちゃんのベッドは、ちょっと狭い。よくお姉ちゃんと場所取り合戦するの。二階には他に、家族が使うトイレやお風呂もあるんだよ。もちろん、僕のトイレもある。お姉ちゃんが毎日綺麗にしてくれるの。」
僕は、ちらりとお母さんの部屋を見て続けた。
「全部の部屋をゆっくり見回ったら、最後はこの居間に戻って、この場所に腰掛けるんだ。」
僕は、スッと背筋を伸ばした。そして、威厳たっぷりに続けた。
「私は、猫城の主、健太である!」
僕の声を聞いて、クロは、まるで人間のお辞儀のように恭しく姿勢を低くした。
「王様! 城からは何が見えるのですか?」
クロの楽しそうな顔を見て、おかしくてたまらなくなった。僕は必死で笑いをこらえて王の威厳をなんとか保ちながら答えた。
「人間たちの生の営み。たくさんの家、たくさんのビル。人間たちが時間に追われる様が見える。だが、人間たちは気付いていない。どれほどの年月が経とうとも、その美しさを変えぬ、大地と海があることを! 我々は人間たちに教えなければならない! 生き急がずとも、幸せは逃げぬということを!」
一呼吸して、僕はクロに目を向けた。クロは穏やかな顔を僕に向けていた。
「お前、結構いいこと言うんだな。」
「え? そ、そうかな。」
顔がほてり身体中が熱くなった。きっと今日は、暑い日なのだ。
そんな僕をよそに、それに……、とクロは続けた。
「家猫っていうのも、悪くないのかもな。」
僕はとても驚いた。人間嫌いのクロがまさかそんなことを言うなんて、これっぽっちも思っていなかった。
「ありがとな。話、聞かせてくれて。」
穏やかなクロの言葉に、僕はとても嬉しくなった。
「僕のほうこそ。昨日、楽しかったよ。ありがとう。」
「いいさ。俺は、野原や山の生活しか知らないんだ。お前と知り合えて、よかったよ。」
そう言うと、照れ隠しなのか、スッと立ち上がって何も言わず足早に帰ってしまった。
「僕もさ。クロと知り合えてよかった。」
僕は、クロに聞こえないくらいの声でお礼を言った。
*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*
「クロは、どうしようもない照れ屋だったんだよ。」
私は、鴉と鳶の顔を交互に見た。
「そんな会話をするような友だちなんて、いなかっただろうしね。」
「いいなあ。人間のペットになってみるのも、いいかもなあ。」
鳶が、えへへ、と笑った。
「あのな、人間のペットになんかなったら、大空飛べなくなるんだぞ。」
「それは、ちょっと困るなあ。」
鳶は困り顔で何かを考えていたようだけれど、すぐに笑顔になった。
「でも、食べ物に困らないよ。」
「おいおい、勘弁してくれよ。」
鴉は、気の抜けたような顔で翼をダラリとさせている。食いしん坊でのんびり屋の鳶は、あれも食べたいなあ、これも食べたいなあと空想しては、ひとり、にやにやしている。
そんなふたりを見て、私はとうとう我慢できずに大笑いした。
私は、こんな平和な時間が、大好きだ。