8月15日:助けられた野良
僕は、お母さんのベッドで丸くなってため息をついた。
ユズの恋人が戻ってきた。
ユズは今、幸せなんだ。
僕の頭の中を、その言葉だけがぐるぐる回っていた。もちろんユズが幸せなのが一番なのだけれど、僕がユズを幸せにしたかったという思いが奥深くから顔をのぞかせる。まるで、何人もの『僕』がいるようだった。
ユズが会いに来てくれてから、僕はどうかしてしまった。病気になったのだろうか。僕は、枕に顔をこすりつけた。
外は、ぼんやりと薄明かり。そろそろユズが来る時間だ。
体がだるく、起き上がるのがおっくうだ。一日くらい、会わなくても問題ないだろう。そう思う一方で、別の『僕』が何か言っている。
クロがいなくて寂しい僕のために来てくれているのに。それって誠実とは言えないよ。
もう一人の『僕』の主張はとても弱々しいものだったけれど、彼の言葉に従った。そうだ、誠実じゃない。
僕は、ゆらゆら立ち上がって、窓に向かった。
「遅いわよ。」
ユズはもう来ていた。
「こんなに美しいレディを待たせるなんて、男、失格よ?」
僕は、バツが悪くなって下を向いた。
「ごめん。ちょっと、朝寝坊しちゃって。」
いじけていただなんてさすがに言えず、僕は少しだけ嘘をついた。ところがユズは笑っていた。
「朝寝坊ですって? 猫なのに?」
やはり、ユズに会いに来て正解だった。
「朝寝坊、しない? 僕はたまにあるよ。お母さんに起こされたこともあるんだ。」
「猫はね、夜行性だから夜のほうが元気なのよ。それなのに夜から朝までぐっすりだなんて。」
ユズが笑った理由がようやく分かった。そうか、猫は夜のほうが元気なのか。
僕は、猫をもっと知りたくなった。
「家族はみんな夜に寝るから、夜は寝るものだと思ってたんだけど、違うんだね。」
「違うっていうのとは少し違うんだけど……。そういえば健太、確か猫嫌いよね。それならもちろん、他の猫と話したりしないわよね?」
ホームズさんは、とても物知りだと言っていた。僕は、そうだと短く答えてユズの言葉の続きを待った。
「彼が言ってたわ。他の猫とのふれあいが少ないと、人間と似たような生活スタイルになるそうよ。健太は猫嫌いで他の猫とのふれあいが少ないから、仕方ないのかもね。」
「そうなんだ。じゃあ、心配しなくていいんだね?」
穏やかな風が、網戸の隙間を通る。
僕の不思議な気持ちは、心地よい風が持って行ってくれた。僕たちは、このままでいいのかもしれない。そして僕は、ユズの幸せを願った。
「そうそう。」
ユズの声が、僕を現実に引き戻した。
「この前ね、大変なものを見ちゃったの。健太に教えてあげる。」
空気が張り詰めた。ユズは振り返って、人間の住む街の方に目をやった。クロとは違い冷静沈着ではないけれど、少しのことでは動じない強さを持っている。
「お散歩中、とある家の前を通ったときのできごとよ。」
ユズの真剣な声と顔に、僕はあえて口を挟まず話を聞いた。
「ちょうど今頃の時間だったかしら。そのお宅が騒がしかったから、ちょっと気になってこっそり入ったのよね。庭先に、その家に住むおばさまが、まっすぐ何かを見ていらっしゃったんだけど、なんだかとても慌てていらしたの。」
ユズの声が途切れた。何かを思い出したのか少し震えているように見えた。
「聞きなれない音がしたわ。そうね、金属のこすれるような音だったと思う。薄明かりだったから、ちょっと見えづらかったんだけど、目を凝らしてなんとか見てみたら、そこにいたのは猫だった。でもね、なんか様子が変なのよ……。」
そこまで話して、ユズの言葉は再度止まった。
「大丈夫?無理、しなくていいよ。」
ユズは、大きく身体を震わせた。
「大丈夫よ。どうしても、伝えたいの。きっと何かの役に立つわ。あなたの、これからの猫生に。」
真剣に僕を見る眼差しは、今までにない強さをひめていた。
「その猫の手の先に、何かついていたの。おばさま、携帯電話で誰かに連絡をしていたのよ。それで、猫の手についていたのがトラバサミだって判ったの。知ってる? 人間が、生き物を捕まえるために使う金属の罠よ。その猫、それに挟まれたみたい。見たところ野良猫ね。でもその子、おばさまと面識があったみたいで、『ゴンちゃん』って呼ばれていたわ。ゴンちゃんの手、何倍にも膨れ上がって、爪もあちこち向いて痛そうだった。でも、おばさまはトラバサミの外し方を知らなかったのね。おまけに、ゴンちゃんが暴れるもんだから、捕まえることもできなかったみたい。しばらくすると、騒ぎを聞きつけた近所の人たちが集まってきたわ。」
ユズは、そこで言葉を切って一息ついた。
「近所の人たちが、これはさすがにかわいそうだと思ったみたいで、手分けして『トラバサミの外し方』を知っている人を探したの。そしたらね、見つかったのよ。それを知ってる人が! 解除ボタンを押せば外れるって、誰かが言っていたわ。問題は、どうやってゴンちゃんに近づくかだったの。でも、ゴンちゃんに近づけるのはおばさまだけだから、周りの人たちはかたずを飲んで見守るしかなかった。おばさま、食べ物でゴンちゃんの気を引きながら、なんとか近づいて解除ボタンを押したのよ。カチッと音がして、ようやく外れたの。」
僕は思わず、自分の手を見た。この手がはれ上がり爪があちこち向いてしまう。考えただけで、僕の手が熱くなった。
「歓声があがって、おばさまはその場に泣き崩れたわ。よかったねって言いながら。もしかしたら、最初はヤジウマだったのかもしれないけれど、最後に上がった歓声は、ご近所さん、みんなの温かさを感じたわ。猫として、とても嬉しかった……。」
ユズは、話を終えると家に帰って行った。
この話は、クロにもしてあげよう。ユズはきっと、クロに話したかったのだと思うから。
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「トラバサミ……!」
鳶が、初めて険しい表情を見せた。
「それなら知ってる。山の仲間たちもかかっているのを見たもの。トゲトゲの口に挟まれていたよ。」
「オレは知らないな。見たこともない。」
鴉が首を傾げた。
「すごく痛そうなんだよ。」
鴉と鳶は、トラバサミについて、あれやこれや話している。やはり、自分たちの生活に直で関わることだからだろう。特に鳶が興奮気味に話している。
「まあまあ、ふたりとも。この話でユズが伝えたかったのは、トラバサミを見た経験があるかどうかではなく、痛々しい野良猫を助けたいと心から思う人間もいるんだということだ。ちなみにユズの話では、ゴンちゃんは助けてくれたおばさんに病院に連れて行ってもらい、しばらく面倒をみてもらった後、また野良に戻ったそうだよ。」
私は、街の方に目を向けた。
「私たちは、人間という生きものを、もっともっと知らなければならないのだろう。クロとの関わりで、動物たちを命あるものと思っていないと感じさせる人間たちがいることを知り、一方で、傷だらけの心で動物たちに愛情をそそぐ人間たちもいることを知った。そして中には、危険を顧みず、必死に助けようとする人間もいるという事実を、私たちは忘れてはいけないんだ。」
私は、二人に語った。




