8月14日:大切な思い出
僕は目を覚ますと、急いでトイレを済ませ、念入りに毛づくろいをした。
ユズには嫌われたくない。だらしないなんて思われてしまったら、もうここには来てくれないかもしれない。
必死に、でも浮かれて毛づくろいをしている自分にふと気づき、僕は不安になった。
クロと会うときは、自分を良く見せたいなんて一度も思わなかったのに、僕はいったいどうしたというのだろう。窓の下に行き空を見上げれば、いつもの空より輝かしく鮮やかに見え、窓枠に座って外を見れば、朝靄が天使の羽根のように見えた。
ユズがまだ来ていないのを確認して、僕は安心した。ユズの前では紳士でいたい。カッコ悪い姿を見せるわけにはいかない。
爆発寸前の心を抑えながら、できるだけ冷静にユズを待っていると、草が揺れ、ユズが顔を出した。
「ユズ、おはよう。」
カッコいい大人の男を演出して、僕は落ち着いた声でユズに挨拶をした。
「あら、健太。おはよう。」
ユズの挨拶に涙が出そうになるのを、僕は必死に堪えた。腰を下ろし、尻尾を揺らりと動かし、僕を見て微笑み、小首を傾げる。彼女の何気ない一つ一つの動作すべてが、僕の心を躍らせた。
しかし、僕はどうしても気になる『あのこと』を聞かずにはいられなかった。
「ねえ、ユズ。聞いてもいいかな。」
「いいわよ。何かしら。」
「あれから、赤ちゃんはどうなったの?」
ユズは、厳しい顔へと変化していった。
「ごめん。やっぱり聞くべきじゃなかったね……。」
傷つけてしまったかもしれない。
「いいのよ。気にかけてくれていたのね、ありがとう。嬉しいわ。」
優しい言葉に驚き、僕は顔を上げてまっすぐユズの瞳を見たけれど、水面のように輝く瞳をずっと見つめていられなくて、僕はすぐ、そっと目をそらした。
「……いなかったわ。」
僕は、再度驚いて顔を上げた。
「正確じゃないわね。あっちこっち動いてはみたけれど、思ったように探せなかったのよ。人間と話ができたらいいんだけど、そんなのできないしね。」
ユズはうつむいて首を軽く横に振ると、また顔を上げて僕を見た。
「ダメかもしれないと思ってあの場所に行ったけど、やっぱりショックだったわ。食事も喉を通らなかった。」
ユズは、満水の湖のような瞳で、僕を見ている。大事な話をしているというのに、目が合うたびに、僕の心は引っ掻き回された。
「さすがのお母様も、日に日にやつれていく私を見て、慌てて病院に連れて行ったわ。先生がね、検査の結果、どこにも異常が認められなかったから心因性かもしれない。何か心当たりはありませんかってお母様に質問なさったの。お母様ね、青ざめた顔で、生まれたての赤ちゃんを保健所に連れて行きましたって先生に言ったのよ。そしたら先生、すごく怒ってらっしゃったわ。ちょっと笑っちゃった。」
ユズは、少しすっきりしたように笑った。
「お母様、反省したみたいで、私のために見つけてくれたのよ。」
嬉しそうに話しているユズを見て、僕はどうしても素直に喜べなかった。その続きを聞くのがとても怖い。
「私の、彼。お隣に住んでた、ホームズっていう名前の三毛猫の彼。今は、赤ちゃんができるまで、一緒に住んでいるわ。もちろん、先の赤ちゃんを護れなかったのはとても後悔しているし、忘れられるものじゃないわ。あの子たちが幸せであって欲しいって、毎日、お星様にお願いしているのよ。今の私には、それしかできないもの。」
僕は、言葉が出なかった。彼女の自責の念に対する思いだけではなかった。ユズと一緒にいたいと思った瞬間に、すべてが壊れた。
「ユズ……、」
僕は、むりやり声を喉から引っ張り出した。
「今は、幸せなんだ。」
ユズは、僕の質問にうっすらと笑みを浮かべた。
「ええ、幸せよ。彼のおかげで前向きになれたわ!」
その後、彼女とどんな話をしたのか、僕は覚えていない。ただ、一日中落ち込んでいたのはしっかり覚えている。
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「つまり、恋をした直後に失恋したということか?」
鴉は、目を丸くした。
「ああ。告白どころか、恋をしたという自覚さえなかった。苦い思い出さ。」
「ボクは、去勢しているのに恋をしたことそのものが、すごく大切なんだと思います。」
鳶の優しい笑顔は、オアシスだ。
「私もそう思うよ。最初で最後の恋だった。」
私は、ふたりの顔をしっかり見て断言した。
「だから、ほろ苦いけれど大切な思い出なのだ。」




