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思い出の日記  作者: 福子
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8月13日:初恋


 いつも通り、ベッドの中で目を覚ました。睡眠不足で重い身体をむりやり持ち上げてベッドを降りると、背伸びをした。


 睡眠時間は足りないけれど、それでも昨夜は熟睡できたと思う。眠れたのはキングのおかげだ。彼の言葉で僕は迷いを断ち切った。


 思いがけないキングとの再会は、僕の心を大きく揺さぶった。自分とじっくり向き合うゆとりを僕にくれた。


 きっと、クロを想うお前の気持ちはどれほどの強さがあるのかと、神様に試されているのだ。

 だから僕は、クロをじっくり待つと決めた。キングの言う通り、信じて待つのも必要なのだ。


 クロは、必ず僕の前に姿を現わす。


 それを信じているから、僕は、神様の試練を受ける覚悟を決めたのだ。

 神様には負けたくない。これだけは、負けられない。


 キングはもうこの世にいない。どんなに会いたくても、ここには来ない。ぬくもりも優しさも、二度と感じることはできない。それが『死』なのだ。


 それでも僕は、いつかキングと再会できると信じている。いつか僕とクロとキングで野原を思い切り走れる日が来る。それがいつなのか、どうしてそんなことができるのか、全くわからない。でも、僕の中のもうひとりの僕が、そういう日が来ることをハッキリ分かっている。


 この世を去ったキングと違って、クロは生きてる。ぬくもりだって感じる。キングとの再会を信じて、クロとの再会を信じないなんて、そんなのおかしいじゃないか。


 僕は深呼吸をして、心を安らかにした。

 おそらく今日もクロは来ない。それでも僕は、いつもと同じように窓に座って彼を待った。


 すがすがしい朝の光。

 昨日までは、クロの場所で遊ぶスズメたちに苛立っていたけれど、今日は違う。そういえば、クロと出会う前はスズメたちを眺めるのが僕の日課だった。

 帰ってくるまで、また眺めていよう。


「クロ?」


 彼がいつも顔を出す茂みの草が動いた。僕は、高鳴る胸を抑えて目を凝らし、茂みを見つめた。


「やっと会えたわ。」


 澄んだ声と共に姿を現わしたのは、クロではなくユズだった。ブルーグレーの美しい毛並み、しなやかな尾は優雅にゆらめいて、まるで別の生き物であるかのようだ。

 ユズは、爽やかでいて凛とした、大人の女性の瞳を僕に向けた。


「お久しぶりね、坊や。元気にしてた?」


 寂しかった僕の心に、大きな花が咲いた。


「元気だよ。それにしても、いったいどうしたの?」


 ユズは、誰かを探すように辺りを見回した。


「坊やたちの顔が見たくなって来たんだけど、クロちゃん、いないのね。」


「ああ……。」


 ユズに会えて浮かれていた僕は、現実を思い出して視線を落とした。


「クロ、おとといから来てないんだ。それまでは、毎日ここに来ていたんだけどね。」


「そうなの……。」


 ユズは、真剣な顔で少し下を向くと、パッと顔を上げて僕を見た。


「あの子と会ったのはたったの一度だけど、それでも、あの子の誠実で優しい性格は、良く伝わって来たわ。そんなあの子が、あなたに何も言わずに何日もここに来ないなんて……。何かあったのかしら。」


 真剣にクロのことを心配するユズを見て、僕は嬉しくなった。クロは、自分が思うほど、孤独じゃない。


「大丈夫。クロなら必ずここに来るよ。僕、信じてるんだ。」


 寂しさも不安も心の中にたくさん渦巻いているけれど、胸を張ってまっすぐ伝えた。

 そんな僕を見て、ユズはぱちぱちと瞬きをした。そして、ゆったりと微笑んだ。


「もう、坊やとは呼べないわね。大人になったわ。」


 ユズに認められ、僕は少しだけ彼女に近づけたような気がして胸が弾んだ。


「でも残念ね。久しぶりに会いたいと思ったんだけどな。」


「ごめんね、せっかく来てくれたのに。」


「いいのよ。あなたが謝ることじゃないわ。それに、あなたのほうがずっと寂しいでしょう?」


 キングが父の強さを持っているなら、ユズは母の優しさを持っている。キングとは違った意味で、僕の心はほぐれていった。


 ユズは、猫嫌いの僕が初めて触れた猫。保健所に連れて行かれた赤ちゃんを探しにここまで来たのが彼女との出会いだった。今でも、昨日のできごとのように思い出す。


 しかし、懐かしさとは別の気持ちが自分の中にある。

 ユズがそばにいるだけで心が祭のように騒ぐ。嬉しくて楽しくて、ずっとこのままでいたいと強く思った。


「仕方ないわね。」


 ユズの明るい声が聞こえ、僕はようやく、自分の世界から戻った。


「クロちゃんが帰ってくるまで、私が話し相手になってあげるわ。」


 そして、スッと立ち上がり続けた。


「でもね、今日はもう、帰らなくちゃいけないの。」


 僕は、遊びの途中でねこじゃらしを取り上げられたような寂しさに襲われた。


「そんなに悲しそうな顔をしないで。大丈夫よ。また明日ここに来るから、必ず待っていてね。約束よ。」


 小さな約束と大きな期待を残しユズは帰って行った。

 その後も、僕は彼女のことばかり考えていた。

 ユズと一緒にいたいと強く想うこの気持ちは、生まれて初めてのものだった。

 そして、明日を恋しく思う気持ちも初めて経験するものだった。



*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*



「初恋だったよ。」


 初恋。

 この歳になっても、幼い頃のように恥ずかしく、心を乱す言葉だ。


「去勢してしまった私には、恋の季節というものがない。それでも私は、ユズに恋をしていたんだ。」


 鴉も鳶も、顔がにやけ、興奮した様子だった。


「その後、ユズさんとの恋はどうなったんですか?」

「それは、オレも気になるな。」

「まあまあ、そう急ぐな。」


 私は、今までで一番の食いつきを見せる彼らに困惑しながら、残りわずかとなった物語の続きを語った。



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