7月20日:出会い
僕は、家族で一番の早起きだ。
僕が起きるのは日の出よりも前だけど、透明でひんやりとした朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
僕は、二階にある居間の窓枠に座って外を眺めるのが好きだ。
朝靄の中に浮かぶ街並みはとても幻想的で、何度見ても胸が踊る。だから今日も、いつものように外を眺めている。
この時間になると、スズメたちが遊びにやってくる。決まって五羽で、まるでかくれんぼでもしているかのように草むらで遊んでいる。
朝靄の中の可愛らしいスズメたちを眺めるこのひとときが、僕の一番のお気に入りの時間。
――ちゅん、ちゅんっ!
急にスズメたちが騒がしくなった。逃げるようにバタバタと、あちこちに散っていく。
――何かの気配がする。
僕は、茂みをじっと見つめた。
「誰?」
一匹の黒い猫が、茂みからゆらりと姿を現すと、歩みを止め、まっすぐ僕を見た。
そいつの目は金色だった。
「こいつのせいで、スズメが逃げたんだな。僕の『お楽しみの時間』を奪うなんて許せない! だいたい、僕は猫が大嫌いなんだ!」
その黒猫はおもむろに立ち上がり僕のいる窓の真下まで歩いて来ると、その場に座り込んでお腹の毛づくろいを始めた。
もう、さっさと帰ってくれないかな!
いらだちが頂点に達し、僕はそいつをにらみつけたときだった。
けづくろいを終えた黒猫が、ふと顔を上げて僕に金色の目を向けた。
「……お前、幸せか?」
今、何て言った?
僕があっけにとられていると、その黒猫は立ち上がり、もう一度、今度はつぶやくように言った。
「お前……、幸せか?」
「……幸せ?」
僕は、そいつの言葉を繰り返してみた。
その言葉は、何とも不思議な響きだった。
顔を上げると、その不思議な言葉を残した黒猫はいなくなっていた。
その日は、いつもの昼寝もそこそこに、あの黒猫の言葉を考えていた。
幸せ……。
幸せとは何だろう?
僕は、幸せなのだろうか……?
多分僕は幸せなのだ。
お父さんやお母さんは、毎日仕事をしてくたくたになって帰ってくる。
お姉ちゃんは、夜遅くまで『勉強』しなければならない。お姉ちゃんの机に上がったとき、一度だけ『さんこうしょ』という分厚い本を見たけれど、僕にはさっぱり理解できなかった。
僕は、仕事も勉強もしなくていい。ご飯は好きなときに食べられるし、トイレはいつもきれいだ。お昼は、風通しのいい部屋のベッドでゴロゴロできるし、飽きたら窓の外の景色を見て楽しむこともできる。
『つらい』って思うのは、お父さんが僕に、脱いだ靴下を押し付けてくるくらいだもの。
あれはかなり苦しいけれど、せいぜいそのくらい。
だから僕は、多分そう、幸せだ。
でも何だろう? なんかもやもやする……。
お姉ちゃんは、家族で一番遅くに帰ってくる。勉強をしなければならないお姉ちゃんは、長い時間のんびりすることはできない。でも、家族で食卓を囲む、ほんのちょっとの時間が大好きだ。
僕は、お父さんから大好物の刺身を少し分けてもらった。
「あ、そうそう。今日、クロを見たよ。」
「え? 本当に? 久しぶりだね。」
お姉ちゃんとお母さんの会話に出てきた『クロ』が気になった。
たぶん、誰かの名前だ。
でも、クロって誰だろう。
もしかしてと思った僕は『クロ』の正体が知りたくて、二人の会話の続きをじっと聞いた。
「クロってね、目が金色に光るんだよ。知ってた?」
「もちろんよ。まるい尻尾のおとなしい猫なんだけど、警戒心が強いのよね。」
やっぱりあの黒猫だ!
ピンときた。お姉ちゃんもお母さんも、あの黒猫のことを知っていた。しかも、名前はクロ。
いても立ってもいられなくなった。
「私、これ欲しいんだよね。『ニュートンのゆりかご』っていうんだ。どこで売ってるのかな。」
五個の銀色の球が横一列に並び、その両方のはしっこがカチカチと左右に動いている不思議なものがテレビの画面に映っている。僕はそれを指差してキャッキャッと笑っているお姉ちゃんをチラッと見て立ち上がり、自分のベッドに向かった。
いつもより少し早いけれど、今日はもう寝ることにした。もちろん、家族が『クロ』と呼んだ、あの黒猫に会うために。
「あれ? もう寝るの?」
お姉ちゃんが僕に声をかけた。
「うん、そう。おやすみ。」
僕は、振り向いてそう言った。
とにかく早く寝て、あの黒猫に会わなくちゃ。
僕は、急いでベッドにもぐり込み、早く寝ようと目を閉じたのだけれど、ベッドに入ってもしばらく眠れなかった。
「幸せ……。幸せって、何だろう?」
その言葉が、僕の頭をぐるぐる回っていた。
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「君はどう思う?」
私は、興味深そうに話を聞いている若い友に意見を求めた。
「どうって、何が?」
「何がって、幸せとは何か、だ。」
どうも幸せという言葉はむずがゆい。それは、何年たっても変わらない。
「幸せねぇ。」
友はそう言うと、ちょっとだけ笑った。
「それより、続きを聞かせてくれよ。」
私もつられて少し笑うと、話を続けた。