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思い出の日記  作者: 福子
17/32

8月4日:保健所の男性


「ねえ、クロ。」


 僕は、窓の向こうにいるクロに、前から疑問に思っていたことを聞いてみた。


「クロが知ってる世界って、どのくらい広いの?」


 思ってもみなかった僕の質問に、クロはかなり驚いたようだった。


「いきなりどうしたんだ?」


「前から、気になってたんだ。」


 気になっていたのは嘘じゃないけれど、これは、何とかレディの話題に触れないための質問だ。


 保健所にレディがいないなんて、クロには言えない。だから僕は、保健所に行ってきたことをクロに話していない。でも、レディの話題が出てしまったら、僕はきっと話してしまう。かといって、沈黙はたえられない。そんな複雑な気持ちから出たものだった。


 カンのいいクロだから、僕が何かを隠していると気づいているのかもしれない。それでもクロは何も言わず、僕の質問の答えを真剣に考えているようだった。


「そうだな。俺の世界がどれだけ広いのかなんて分からないけれど、俺よりもずっと広い世界で暮らしているヤツらなら知っている。」


「それは……?」


 僕は、湧き上がった好奇心をおさえられなかった。

 クロより広い世界に暮らしているのは、いったい誰だろう。


「鳥だ。」


 クロは、抜けるような青空をまぶしそうに見上げている。


「空には、境界線がない。鳥の世界にも縄張りはあるんだろうが、空そのものには何もない。あの青空を、命が尽きるまで、どこまでも飛んでいけるんだ。」


 クロの瞳は、潤んでいた。


「渡り鳥がうらやましい。俺もいつか、俺の知らない世界に飛んで行きたい。」


 クロは、僕に視線を戻して続けた。


「だから、お前のこともうらやましい。」


「いったい、僕の何を?」


 僕は、目を丸くした。


「お前は、俺の知らない世界にいる。俺は、お前の世界も知りたい。」


 クロの目は、今までの刺すような金色ではなく、優しくてどこか頼りない、守らなければ消えてしまいそうな、小さなロウソクの炎のような色だ。


「僕も、」


 その目に、僕は、どう応えたらいいのか分からない。それでも、思っていることを素直に言葉にした。


「クロがうらやましい。僕の知らない世界をたくさん知っている。僕は、クロからたくさん教わった。いろいろ知ることができた。」


 クロは、その行動が当り前であるかのように、僕から目をそらした。

 照れているんだ。

 僕は、なんとなくそれを察した。



 クロが帰ってから、僕はまた、お姉ちゃんの部屋から保健所を眺めた。


 いったい、レディはどこへ行ったのだろう。

 誰も見ていない知らないということは、レトリーバーたちがいたところには行かなかったことになる。

 それじゃあ、いったい、どこに……。


「健太!」


 お姉ちゃんは、いつも突然僕をぎゅっと抱きしめる。かなり苦しいのだけれど、苦しいんだとそれとなく伝えても、お姉ちゃんはまったく気にしない。


 苦しいことは伝わらなくても、あの場所に行きたい思いはきっと伝わる。僕はそう信じて、目の前にそびえる建物を見て、ニャーニャー鳴き続けた。


 しかし、昨日のようにはいかず、僕は抱きしめられ損であきらめのため息をついた。


「ね。今日も、行ってみない?」


 僕は、驚いて顔を上げた。お姉ちゃんの目は、まっすぐ保健所を見ている。


「私ね、あの犬にもう一度会いたいの。」


 あの犬。昨日のレトリーバーのことだ。


 僕は、素直に誘いに応じた。迷わず、お姉ちゃんの肩に乗る。それが、僕の言葉なのだ。



「なんだか、忍び込んでるみたいだね。」


 保健所の入り口で、お姉ちゃんがいたずらっぽく言った。その声は、少年のようだった。

 早朝の保健所は、人が少ない。だから、なんだか忍び込んでいるような気分になる。


 もっと堂々とすればいいのに……。


 そう思ってため息をついたとき、僕らの背後から人の気配を感じた。


「おはようございます。」


 お姉ちゃんがワッと声を上げて振り向くと、優しそうな男性が一人、そこに立っていた。

 

「すみません! すみません! すぐ帰ります!」


 お姉ちゃんは、何度も頭を下げ、急いで帰ろうと回れ右をした。

 なるほど。この男性は、この建物に勤める人間のようだ。


「いいんですよ。大丈夫です。」


 お姉ちゃんは、おそるおそる振り向いて、僕らを呼び止めた男性を上目遣いで見た。

 男の人は、楽しそうに笑っている。


「猫ちゃんとお散歩ですか?」


 その人は、そう言いながら、笑顔で僕の顔をのぞき込んだ。

 お姉ちゃんは、はい……と答えながら、男性を見つめた。


「……動物、お好きなんですね。」


 お姉ちゃんの声には、驚きと戸惑いが入り混じった響きがあった。

 男性は、無言で僕の身体に手を伸ばし、くしゃくしゃに撫で回しながら、笑顔でお姉ちゃんに答えた。


「私、獣医なんです。」


 お姉ちゃんの、息を飲む音が聞こえた。


「そう、なんですか。」


 『獣医』と名乗ったその人は、僕をひたすら撫で回し続けている。

 お腹、背中、顔、頭、首、足……。


 ブラッシングと毛づくろいで、せっかくカッコよく整えたのに、めちゃくちゃになってしまった。

 だけど、この人の手はとても暖かくて優しくって、僕は幸せな気持ちになった。

 僕にはわかる。こんなに優しい手をしている人が、動物嫌いのはずがない。


 この人なら、クロにも同じようにしてくれるのかな。石投げたり、蹴飛ばしたり、叩いたりしないかな……。


 しかし同時に、ここは生き物の死に逝く場所でもあることを思い出した。僕は、人間がわからなくなった。



*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*



「保健所。確かキーワードだって言ったな。」


 鴉は、上目づかいに私を見た。


「そう。一つ目のキーワードだ。」


「そもそも、『ジューイ』って何?」


 鳶が首をちょこちょこ傾けた。


「獣医とは、人間以外の生きものの体調を整えてくれたり、ケガを治してくれたりする人間たちだ。傷ついた野生動物を手当てする獣医たちもいる。君たちも出会うかもしれないね。」


 鳶は、うーんと考えて、そっと言った。


「それって、つまり、ボクたち動物のことを大好きな人ってこと?」


 私は、そうだよと短く答えて、目を閉じた。そしてあの獣医を思った。


「あの先生に出会って、私は重要なことを学んだ。」


 目を開けると、鳶が潤んだ瞳で私を見ていた。


「教えてください。ボク、保健所のことをもっと知りたいです。」


 私は、にっこり笑って続きを語った。



※ 野生動物のすべてが保護対象になるわけではないようです。

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