7月31日:広い世界
クロが来る時間だ。きっと今日も、あの茂みをかき分けてここに来る。
この数日、色々ありすぎた。心と頭の整理をする時間が欲しい。でも、クロに会わなくては。
ずり落ちるようにベッドから降りると、居間の窓の下に座って、いつもの席を見上げた。
僕の、特等席。
この角度から窓を見上げると、空が綺麗に見える。まるで絵画のようだ。
今日は、晴れだ。
僕は思いきり伸びをして、窓に飛び乗った。
「おう。」
クロはもう来ていた。クロより遅いなんて初めてだ。
「おはよ。」
クロと向き合うと、ほっとする。さっきまでの不安や疲労感は、どこかへ消えてしまった。
「昨日は、悪かったな。」
「ううん、気にしないで。知ってよかったって思ってるよ。」
本心からの言葉だけれど、僕の中には別の感情もあった。
「でもね、知らないほうが良かったのかなって、ちょっとだけ思っちゃった。」
クロは、独特の刺すような眼差しを僕に向けた。
「知らないほうがいいことなんて、何一つないんだ。お前が、俺にそう教えてくれた。」
僕は目を丸くした。
「僕が?」
「ああ。お前と話して、それを感じたんだ。俺の世界をお前が知り、お前の世界を俺が知る。そこにはきっと闇もある。でも、俺らは全てを知るべきなんだ。お前の全てを理解できないとしても、知らない世界を知ろうとする心が大切なんだと思ったよ。」
クロの目は、まっすぐ僕を見ている。
「それを教えてくれたのが、お前なんだ。」
少し照れくさそうな顔が、なんとも似合わない。僕は、そんなクロが大好きなのだ。
「そうだよね。僕らは知るべきなんだよね」
僕は、クロと出会ってから、たくさんの現実を知った。
僕が猫であること。
狩りの方法。
保健所のこと。
ユズのこと。
クロの過去。
シェリーのこと。
レディのこと。
家族の大切さ。
そして何より、自分は幸せだってこと。
知りたくない話もたくさんあったけれど、その中から、僕は自分だけの答えを見つけた。やっぱり知って良かった。
「家族か……。」
クロの声は、日を増すごとに優しくなっていく。
「家の中は、やっぱり、狭いよな。」
思ってもみなかった質問に驚いたけれど、クロが感じたことを否定しないで、一つずつ丁寧に答えようと、僕は首を傾げて考えた。
「狭いかな? 外に出たことはあるけど、ここが狭いかどうか僕にはわからないな。少なくとも狭いと思ったことは一度もないよ。」
「そうか。」
クロは、小さくため息をついた。
「クロの世界がどのくらい広いのか分からないけれど、狭いか広いかじゃなくて、心から『ここにいたい』って思うかどうかが大事なんだと思うよ。」
クロは、何か迷っている。
僕は、それを感じ取っていた。
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私は、ふたりの友に苦笑いして言った。
「君たちの世界の広さは、いまだに、よく分からないんだ。」
「広いよ。」
鳶は、翼を大きく広げ、空を見上げて明るく言った。
「すっご――――く広い。」
鴉はあきれたように鳶を見たけれど、目を閉じ、一つ一つの言葉が宝物であるかのように続けた。
「確かにな。飛んでも飛んでも終わりはない。どこまでもどこまでも行ける。」
「そうなのか。」
私は、ふたりがうらやましくなった。それに比べたら、家の中は確かに狭い。
「でもね、健太さん。」
鴉の言葉を受けた鳶の声は、優しく鋭かった。
「守ってくれる誰かはいない。いつ、どこで、どうなるか。明日は生きているのかどうかも分からない。」
彼は、肉食動物の瞳で続けた。
「それが、ボクらの世界なんだ。」




