初対面は一度きり。
ーー見知らぬ遠い天井。
形のない意識の中で、なんとなくここが夢なのだと覚える。
身体を起こして、周囲を見回す。
自身は柔らかいソファのような椅子のようなもので眠っていたらしい。辺りには様々な種類の椅子が散らばるように並んでいた。少し離れたところに天井まで届きそうな高い本棚があり、図書館のようなイメージを彷彿とさせる。知識の宝庫の反対側には崩れた壁があり、そこから世界を真っ直ぐに白く歪ませる陽の光が差していた。それに瞳を浴びせると、眩しいという感覚があった。目が覚めたような、意識があるという感覚を無意識に感じた。
この世界を夢かどうか疑いながら、外に人物を見つける。
白い後ろ姿だった。長い白い髪、白衣のような物を着ており、白い花の植物を纏っているーーは、広大そうな緑の庭のいくらか生えている木を避けた、太陽光を直に浴びる古いソファに座ってなにか書物を読んでいた。
植物を身に纏っているので、光合成もしているのだろうか。そんなことを思っていると、その男はこちらに気付いたそぶりなく、その縫われた視線を預けてきた。
「起きたの。気分はどうだい。」
ーー初めて見るその容姿と声の第一印象は、どうしてか既視感が浮かび。
何故かシュンは、手に危機感のようなものを持っていた。
この世界が腫瘍によって危機に瀕していること。
それを壊せるのが、異世界から来た人間であること。
その人物を勇者と呼んでいること。
この街はその勇者の召喚と育成を担っている、トペリという名の街であること。
小説やゲームのような、創作物のような諸々の説明を受けて、この建物を案内してくれるという白い男の背をシュンは辿っていく。
ーーシュンはただの、瞳が赤いだけの日本人だった。
それが唐突に異世界に飛ばされて、勇者だとか言われ、今からこの世界を救うために鍛えたり勉強をさせられたりするのらしい。正直、勇者側はとばっちりというか、なるつもりも戦うつもりもないのに勝手にされるととても困るというか。
この世界を救えるのは異世界から来た人間だけ、というのはなんとなく理解ったが、もっとこう勇者とこの世界を平等にするなにかが貰えたりしないのだろうか。
そんな質問は頭に浮かぶものの、シュンは他人に対して受け身かつ彼ーージアのことが何故だか恐くて仕方がなかった。
無機質な声や人形のような容姿が得体がしれなくて恐怖というわけでなく、本能のような何かが、あまりこいつと関わるなと言っている気がした。
「ーーさて、シュン」
シュンが一瞬だけ肩を震わせる。
さっきの図書館から出て長い螺旋階段を降る最中、ジアが白に近い肌をこちらに向けて言った。
「まずは騎士団から紹介しよう。王宮は複雑な造形をしているから、くれぐれもはぐれないようにしてね。」
「……は、はい」
半分の半分ほど怯えたような返事をして、再度歩き始める。
彼のことが恐いのは理解っているのだが、その恐怖を抱く原因がわからない。それがまたこわい。
その会話が終わったすぐに螺旋階段も終わり、長い円柱形の空間の終着点を開けると、これまた既視感が舞い込んできた。
窓が並んだ、開放感のある廊下には来たばかりの今日の光が差し込んでいる。見慣れた気のする廊下を少しだけ辿り、階段やら再度縦に長い空間の橋やらを渡り。しばらく目の前の長い白を引き摺る様子と、歪な建物のあれこれを見歩き、ある両開きの扉を開けて別の空間に出る。
右側には様々な武器が並び、左側には外に面した広い土の場所がある。訓練場、運動場というような雰囲気のする空間の武器側に、騎士らしい格好をした三人組がいた。
「! ういっすジアちゃんなんか用? その子誰?」
近づいてくる二人に気づき速攻で軽い挨拶と質問、質問を唱える短い赤髪の青年。
それに対してジアはシュンの腕を引き寄せて、
「この子はシュン。勇者だよ、覚えてね。」
「…………。」
シュンは動揺しながら無言で硬いお辞儀をする。
その様子に三人は一瞬だけ目配せし合った後、きょとんとした様子で再度白と黒の二人を見つめる。
「……なんか、弱そう」
「なッ。勇者さまに失礼よ、そういうのは本人のいないところで言うものでしょ」
赤髪の呟きに、銀に近い水色の髪を後ろで纏めた女性が説教をする。しかしその状況に矛盾した言葉に「それもよね……」と、茶髪の一部に緑を含んで、長い髪を後ろに結った青年が溢す。
「まだこの世界に来たばかりだから、色々教えてあげてね。」
「フーン。異世界のどこから来たの?」
「人の話聞こうよ。あときいてもわかんないでしょそれ」
赤髪はシュンが異世界から来たのを怪しんでいるというよりかは、単純に人の話を聞かずなんとなくの質問をぶつけているだけのようだった。茶髪が頭を掻きながらそれを打ち消す。
「じゃあ、シュンだっけ? オレはメシュナ、よろしく!」
時間差でようやくジアの言葉を飲み込めたのか、無邪気な笑顔で手を差し出して元気に言う赤髪。
未だにシュンは状況に脳が追いつけておらず、緊張した面持ちで「よ、よろしくおねがいします……」と手を差し出す。握る大きなグローブが力強い。
「ワタシはレイノ。よろしく」可憐な声と感情薄めの声の水色の髪。
「俺はムパ。まぁ、よろしくね」三人のまとめ役的な存在で忙しそうな茶髪。
ひとまず優しそうな人物たちでシュンは安心する。
「えと、……よろしくおねがいします」
「手ぇちっちゃいね〜」
「俺らあんま勇者さまのこと知らなくて、さっきはごめんね。二人とも変わってるけど、悪い奴じゃないからさ」
「ワタシ何かしたかしら」
「…………」
きょとんとするレイノに言葉という概念を忘れるムパ。メシュナは周囲に構わずシュンの手の観察をしている。
「ーーと、とりあえず、ここは騎士団のその、訓練場で、武術の鍛練をしたりとかしなかったりとか、するよ!」
慌ててこの場所の説明をするムパに、シュンは小さく相槌を打つ。
「んで…………あぁまず、騎士団っていうのは街の平和を守るのと、犬を保護したりっていう活動をしてるの。」
「……いぬ?」
「ほら、野生の犬はたまに変な病気とか持ってるし、知識がないと危ない」
「それはたしかに……」
ムパの話に若干の疑問符を浮かべながらメシュナがしゃがみ、グローブを脱いで手のひらを合わせようとしていたので、それに動きを合わせる。
「騎士団のやることといえばこれくらいだし……レイちゃん他になんかある?」
「特に無い。」
「じゃあいいね。一応メシュは?」
「シュンの手がすげーちっちゃいことがわかった」
「話聞けよ」
メシュナはシュンの小柄な手の二倍ほどのサイズがあり、身長も二メートルはありそうな巨漢だ。シュンは思わず「手袋えらぶの大変そう……」と呟いた。
「シバフコフ製だとこのくらいが普通だぜ。ちょと高いけど」
「そーいや、そろそろ団長たちの来る時間だな」
「団長さん?」
「うん、めちゃくちゃ強くて……そうだあの人、勇者のーー」
ムパが言いかけると、背後で扉が開く音が聞こえた。
振り向くとーー、本当に何かを思い出しそうになるくらい、強烈な既視感の姿がふたつあった。
*
ジアの案内は淡々と続く。
今度は扇型の、ガラス越しに街の景色がよく見える、機械だらけの空間にて
「……ぼくはニカ、銃騎士をしてる」
知っていたかもしれない人物だが、やはり知らない。
騎士団長と同じ銀髪、頭に装備したゴーグル、背中の銃。
腰の拳銃。赤と青のオッドアイは、シュンの中ではなんとなく違和感がした。
ふわふわとした青年の喋り方はなんとも静かで、けれど会話にシュンのような迷いなどは含まず、ただ単に何にも興味がないようだった。
「えっと、じぶんはしゅんです……ここでは、何を……?」
「街に事件や異変がないか、観察してる。もし大事になりそうなのを見つけたら、みんなに報告して対処してもらう」
「なるほど」
ニカは相槌を聞く前に、機械の方に戻ってしまう。
なんだか居た堪れなくなって、シュンはジアの方に目を向け、
「ーーどうしたの。」
「ぁ……いや、」
「誰だって初対面は緊張するよ。きみもカレも一緒さ。」
「…………」
無機質な声音のその言葉は、ただ単にそういう言葉にしか聞こえなかった。
ただなんとなくこの空間のことは気になったので、声帯に発声の信号を送る。
「……いまは、なにしてるの?」
「仕事。」
「そんな、“呼吸”みたいな……。えっと、さっきとおんなじことかもしれないけど、その機械でなにをしてるの?」
人と話すのに慣れていないのか面倒臭いのかわからないが、シュンはそんな返答に驚いて、指でさしながら訊き直す。
「ただ顕微鏡を覗くみたいに、街をみてるだけ。人の動きとか、仕事場の様子とか」
ニカは顕微鏡のような形の望遠鏡のような筒を覗くのをやめ、なんの感情もみえない無表情をシュンに向けて言った。
「それ、どのくらいまで見えるの?」
「……みてみる?」
「えっいいの?」
少し困ったような顔で椅子を立って離れるニカにシュンはおどおどしながら近づき、再度青年の顔を見て頷くのを確認した後、腰を折って顔を下向きの筒に近づけて覗く。ごちゃごちゃな街を隣でニカがツマミを回して、徐々に拡大して見せてくれる。
工場らしい場所で談笑しながら作業をする人らや、忙しく資材を運ぶ人、危なそうな場所だが棒切れのような物を持って元気に走り回る子どもも見えた。
本当に、街をプレパラートに閉じ込めて顕微鏡で見ている気分だった。見ているのは微生物でも細胞でもなく、人や社会なのも面白い。しかし、人の生活や日常を勝手に覗くのはあまりよろしくはないとも思うが。
「すごいねこれ……! 人の表情まで見えるよ」
関心と感心に満ちた視線を向けるシュンに、ニカは目を逸らして
「ーーそれを褒めるならぼくじゃなくて、つくった本人に言うべきだよ。すぐそこにいるから」
「……えっ」
心臓がきゅっとして、ここに連れてきた案内人に目を向けると、何故か付近の椅子に腰掛けて珈琲を嗜んでいた。
「たしかに、ここの機械はぼくがつくったけど、つくった人と操る人は別だよ。ニカには鋭い観察眼と、狙撃の才があるからね。それに対し、ぼくは目が見えない。この世界の生活も、補い合いで出来てるんだよ。」
「ーーーーところで、それはどこから……?」
望遠鏡から膨らむ社会の摂理の話より、シュンの関心は彼の手に持っているそれに曲げられる。
「そこにドリンクバーがあるから、点検ついでにね。」
「ドリンクバー???」
「ニカ、説明してあげて。」
「…………ぼくも、名前を聞くだけなら今初めてなんですが」
困惑気味のニカがドリンクバーと称される、声で王宮全体に連絡できそうな、そんな用途をしていそうな配管を端から順番に指さしながら、
「ここから水、紅茶、珈琲、牛乳が出る。上に容器があって、こっちに砂糖が置いてあるから……」
「…………」
「えっと……すきなの、えらんでいいよ……?」
熱心にドリンクバーを見つめる勇者に、ニカは言葉を迷わせて言う。
シュンはしばらく何かに集中しているように顎に手をあてた後、端っこの配管に指をさした。
「ーーじゃあ、身長に伸び悩んでるから牛乳にする。」
「…………牛乳で背って伸びるの……? あとそっち水……」
天井から吊り下がっているフックにかけられたコップに手を伸ばし、背伸びをし、それでもコップに手の届かない様子のシュンを、ニカは見かねてコップを取って手渡す。ニカに礼を言い、注ぎ方は日本の回転寿司チェーンにあるような熱湯を流す蛇口とほぼ同じ設計だとデジャブが言っていたので、シュンはその通りに牛乳を注ぐ。
「おおすごい、けどお湯が出たら完璧なのになぁ……」
「???」
シュンの独り言にニカは顔いっぱいの疑問符を浮かべる。
ジアとニカの二人は同じ母音と、ポーカーフェイスな共通点があるが、感情の有無が違うような気がした。
「ーーそれじゃあいただきます」
「酸っぱかったら言ってね。」
ジアが一応の注意喚起をするが、シュンはそれに反してなのか一気にそれを飲み干す。ニカが少しだけ心配そうに見ている。
「ん〜っ、おいし」
甲高いような、甘ったるいような満足げな声をシュンは鳴らし、ニカの方を見る。
「それなら、よかった」
「牛乳ひさしぶり、さいごの給食以来。ありがとうニカさん。」
「……牛乳、すきなの?」
青年は目を逸らしながら訊いた。
「え? うん、好きだよ。白米に合うよね」
「ーーーーそうなの……?」
「うん。」
聞いたことのない食物の組み合わせに今度は視線を虚空へ泳がせる。
ひとまずシュンが空のコップを迷子にしているのをニカはひょいと取って、ドリンクバーの水でてきとうにコップを流した後、上のフックに戻し、
「……あと、他にききたいことは……?」
「えっと、ありすぎて困るというか。ここ、雰囲気がきれいで物も色々あって面白いし、なんかこう、秘密基地みたいでわくわくする」
「そう。……」
目を輝かせるシュンに、ニカは返す言葉に困ってジアの方に視線を送る。
青年の視線に察したのか、
「ーーそろそろ次に行こうか、シュン。珈琲の味の確認も出来たし。」
椅子から立ち上がり、ついさっきのニカとほぼ同じ動作でコップを上に戻しながらジアは言う。
「…………、ジアさんはコーヒー好きなの?」
「あまり成分を調べていないからね。集中力が増すと言われているし、よく飲んでいるから好きだよ。」
「? 味じゃないんだ?」
形のなっていないおかしな回答に、シュンは頭の処理が追いつかず、とりあえずの返答をする。
「出るときはそっちから出ようか。少し高めの梯子だから、気をつけてね。」
「あぁ、はい」
この部屋に来る際、金属の板で造られた外側の通路から強引に足を運んできたので、帰り道はそこと違うことにシュンは深く安心した。ここは高いところにあるので、風におされて落ちる恐怖に怯えながら、ジアに手をひいてもらって来たのだった。
「……また、いつでもきていいから」
変わらない表情だが穏やかな優しい声で言われ、シュンは驚き半分喜び半分のよくわからない感情に笑顔になって、
「うん、また来るね。」
手を振って梯子の方へ向かう。
青年は手のひらをシュンに向けようとしてやめ、真後ろにある仕事に戻った。
「ーージアさん、どっちから先に降りる?」
「シュンからでいいよ。」
「じゃあ……、お言葉に甘えて」
筒状の空間を覗き、意外と長いなと思いながら背中を向けて空間に入っていく。
慣れない身体の動きと光の薄さで再度スリルを覚えるが、さっきまでのとは段違いに易しい。慎重に梯子を降り、数十秒経って床に辿り着くと、
「それじゃあ、次に行こうか。」
「ーー?」
当然のようにそこにいて背を向け歩き出す男に、シュンは脳を混乱させながらあとを追った。
*
食堂、風呂場、教会、自室など、生活の基盤となりそうな場所を見終わり。巡り合った人物たちに自己紹介をして、諸々の場所の利用方法を教わり、今日一日はジアに付き纏ってもらって生活を終えた。
「ーーあしたは何をするの?」
ジアに自室まで案内してもらって扉越しに訊く。
扉は何故かドアノブが外れていて正直落ち着かないのだが、それを直接訊くのが怖いので、シュンはてきとうな質問で自身の気を紛らわす。
「何をしてもいいし、何もしなくてもいいよ。」
「……あさっては?」
少しだけ目をぱちぱちさせながらシュンは言う。
「勇者だから、この世界の勉強と自己防衛のための体づくりかな。」
「あぁじゃあつまり、明日は休みみたいな感じなんだ」
まだこの世界に来たばかりだからなのか、一日だけ謎の余裕があるらしい。
しかしまだこの世界に来たばかりなので、何をすればいいのかわからない。
「散歩でもしようかな……」
「いいけど、王宮の外には出ないでね。」
「目の前に街があるのに⁉︎」
なんとなくニカの仕事場で見た街が気になっていたのだが、ピンポイントな禁止に思わず声を上げてしまう。
「一応きみは勇者だから、存在自体が特殊だ。この世界をなおす重要な役目と、異世界人というふたつの肩書きは莫大な価値を生む。だから、その価値を狙う変人や狂人が現れるんだ。」
「…………」
「街に行くと騎士団の目が届きにくくなる。そうなるときみの身も危ない。まだこの世界のことを何も知らないから尚更だね。」
「……あなたがそこまで言うんなら、そうなんだろうけど…………」
どこか納得の言っていない様子で、シュンはジアから目を逸らした。
ジアはいつも通りの表情で、
「とりあえず、きみは王宮の中で、誰にも迷惑をかけない範囲で過ごすといい。それじゃあまた明日。」
手のひらをちらりと見せてこの場を後にする。
無責任のような淡々さを含んだ言い方にシュンは呼び止めようと部屋から顔を出すが、やはり既にそこに姿はなく。
徐々に慣れたような違和感にため息を吐いて、今日はもう疲れたので眠ることにした。
翌朝、部屋の壁にかけられている時計は読めないのでおそらく早朝にシュンは目が覚める。
異世界に召喚され、唐突に見知らぬ部屋で生活をするというのは旅行の気分に似ていたが、ここはホテルでなく自身の部屋だと考えると意味がわからない。
外で小鳥のさえずりが聞こえてくる。カーテンを縮めて朝日を部屋中に広げるのと同時、窓をこつこつとつついてこちらを見ている小鳥に気づく。
「ーーーー?」
首を傾げる小鳥に、シュンも一緒になって首を傾げる。
しばらくの間、謎にこちらを見つめてくる小鳥を観察し返して、その後はとりあえず身支度をし部屋を出る。
誰の気配もない王宮で、ただ彷徨うのを楽しむ。
体感の日本時間だと午前五時くらいだろうか、早起きはなんだか気分が良かった。早い朝は日光が澄んでいるように見えて、なんだか神秘的だった。
数分ほど歩いたところで広い庭に出る。中庭、とジアは誤って言っていたが実際はベランダ型の庭だ。半円型の右側には人工の滝があり、反対側には犬舎がある。
ぽつりぽつりと石を生やしたかわいらしい道を歩いて、花壇を眺める。
花壇には小さな蕾をいくつかつけた植物が並んでいた。正直、植物には詳しくないので蕾かどうか全くわからないが、そんな形をしていた。
気になって、腰を下ろして異世界の植物を観察する。膨らんだ蕾のようなものを指先で触りながら、その後の予定も想像する。周囲の木の木漏れ日が表情を変え、そよ風に髪をいじられながらぼんやりとした時間を過ごしていると、
「ーーこれは珍しい。こんな早朝から咲いていない花を見にくるなんて」
背後から声がして、振り向くと傘をさした長身の男性がいた。
男性はシュンの横にゆったりと腰をおろすと、
「余程の暇人だと見受けられる。もし差し支えなければ僕の土弄りを手伝ってくれないか? 傘を差しながらの植物の世話は骨が折れるものでね。」
彼もまた蕾に触れながら、紫を微妙に含んだ深い青の瞳と柔和な笑みを向けて言う。優しさと暖かさのある声音だが、突拍子のない内容は手伝いの要求である。
当然シュンは首を傾げて、発する言葉に頭を悩ませた。
「…………かさを、閉じればいいのでは……?」
大きな傘で持ち手は剣の柄のようだった。ぱっと見たところかなりの重量がありそうだ。
「ンン、生憎そういうわけにはいかなくてだね。この傘は私の半身のような、お守りのような感じで……ここはまず、自己紹介からいこうか。はいじゃあ君から」
「えぇえ?」
話題を逸らし、言い出しっぺの割には手を叩いて名前をねだる。
男性は目を細めながらシュンを見つめ、傘の柄を持つ白い手袋をした手の、四つの指を波打つように遊ばせ、
「君から服装や両眼から異様な雰囲気がしたもので、端的に言うと怪しい。だから、ここにいる正当な理由を証明してもらいたい。」
「……えー」
シュンはポケットにある赤のリボンに触れる。昨日目覚めてジアに会った際、勇者の証と称して真っ先に渡してきたのがこれだ。
服装は白いブラウスと異世界に来る前から着ていた黒のパーカー、ハーフパンツーーリボンの概要は説明されていたが、今朝は面倒臭くて襟につけず懐に隠していた。
「トペリの王宮で雇用されるには賢者の信用が不可欠だ。まぁ、私は騎士でないのでその規則に沿って君を見る必要はないのだが、なんとなくね」
「……じゃあ、これ」
「なんだいそれは?」
「」
とりあえずリボンが言葉での説明を省いてくれると思い、ポケットから取り出して見せるが効果は無く、シュンは固まる。彼が騎士でないという理由は、脳裏によぎらなかった。
「あ、あーなるほど、きみ勇者だったのだね。理解した理解した。名前は?」
「……しゅん、です」
「シュン君ね。たしかに勇者っぽい」
時間差で気づいてくれた。正直自身が勇者などという都合の良い妄想のようなものを、まだ信じきることができないのだが。
「逆にあなた騎士じゃないって、それこそどゆことなんですか」
「別に、王宮は騎士でなくても勤めることができる。僕は獣医の仕事でしばらくここにいるつもりだよ、今やってるのは個人的趣味な庭師だけど。」
「…………」
生物が好きなのらしい。
男性は立ち膝の身体の向きを花壇に向けたまま、声と瞳をシュンに向けて、
「ーーさて、紹介が遅れたね。僕はニコルグだ。こう見えてある奇病に罹っていてね、日光に触れたくないんだ。あと流水もちょっぴり苦手。」
人差し指と親指で僅かな隙間をつくりながら言う。
ニコルグの弱点にどこか既視感というか、ばっちり記憶にある妖怪のような、怪物のような存在が思い浮かぶ。
「吸血鬼……?」
「え、異世界人なのに知ってるの? まだここに来て一日二日でないの?」
「昨日来たばかりですけど……」
「へぇえ?」
シュンの呟きがドンピシャだったのか、それが彼を困惑と同時に好奇心を引き立てる。
「吸血鬼というのは、この世界のとんでもない怪物のようなものでね。永遠の命と引き換えに弱点が多いが、それを補える絶大な力も持ち合わせている。」
「ニコルグさんは吸血鬼なの?」
「私は違うよ。吸血鬼は一般的な不老不死と違っていて、己が血液をヒトの体内にブチ挿れることに因って、同族を増やすことができる。一部の細菌が生物に入って、その生物が病気になるのと同じ原理でね」
饒舌なニコルグにシュンは首を傾げる。
「つまり言うと、私は吸血鬼の血に因って増えた其れの同族ってこと。吸血鬼病なんて巷では言われている。」
「……吸血鬼じゃないの?」
「うん。吸血鬼はこの感染症の発生源というだけ。そして私は其れに感染してしまったというだけ。」
「なるほど?」
納得がしにくいわけではないが、この世界の吸血鬼という概念にまだ慣れていない。
「そしてこの病に罹ると、さっきも言ったように日光や水を嫌うようになる。本能的な嫌悪がするんだ、死なない狂犬病に罹っている感じ。」
「その例えはイマイチよくわからないけど……日光に当たったら灰になったりするの?」
「はいって、どの?」
「えっとなんか、日光に当たると身体が塵になって死んだりするの?」
「なにその死に方⁉︎ 一応ぼくは元々ヒトだし、何故か陽の光が怖いだけだよ。いやでも、当たり続けたことはあまりないな……」
ニコルグは白い手袋を脱いで、大きな傘から手を伸ばして木漏れ日に触りながら言う。
吸血鬼というと、太陽光が生死に関わるという弱点のイメージがあったが、この世界のには多少の差異があるようだ。むしろ、吸血鬼の設定のほとんどは創作物であるので、異世界の吸血鬼と違いがあるのは当たり前のことである気もする。
ただここまで似た概念があると、かなり違和感を感じるが。
「ちなみに直接太陽を見るのが一番怖い。ちらりと見るだけでしばらく視界がこわれる。あ、でも本能的恐怖が目覚まし代わりに使えるのだよね、わたし毎朝それで起きてるもん。」
「えぇ……」
さらりと自殺行為に似た目覚ましを利用していることに困惑の声を出す。命の危機がありそうなら、音の方が断然いいと思うのだが。
ニコルグはそんな世間話的話をしながら、隣に持ってきていた園芸道具を漁り、
「ところで、シュン君はこの後何をするの?」
「ーーきょうは、自由にしていいって言われてて……」
「ンー、具体的に、何をするの?」
「…………」
にこにこ笑顔でシュンの隣に何か置き、意地悪な質問を繰り出す吸血鬼もどき。
「……えっと」
「向こうの滝まで行って、それに水を汲んできてほしいのだけど。」
「……、わかりました、あれ?」
置かれた物に指を差して言うニコルグに、シュンは不当な手の貸し出しに諦めがついたように返事して、ようやくそれを見る。
雑貨屋や園芸の店によく売っていそうな、見たことのあるジョウロだった。
「ぞうさんのじょうーー」
「キサだ。象の如雨露だよ。」
「ーー?」
ニコルグの言っていることがわからず、シュンは困惑する。
「ぞうさ」
「キサだよ」
「ぞう」
「キサ」
「ーーぞ」
「いいかいシュン君。これは象の如雨露だ。きさ、だ。言葉に含まれた意味を曲解して覚えるのは言葉への冒涜になりうるからね、きちんと覚えておきなさい。」
「」
彼の柔らかい雰囲気が一変して、攻撃的なような、やんわり刺々しさが現れる。何故か説教をされているような感覚になり、シュンは言葉を失った。
ニコルグの変わらない柔らかい表情になんだか背筋が寒くなって、地面に置いてあるジョウロを見つめる。
大きな垂れ耳のような輪郭があり、塗装された黒の目は少しだけ掠れている。絶妙な曲線を描いた長い注ぎ口の先端には蓮口が付いていた。
再度、ニコルグの方を見る。
「ちなみにこの象くんは第百六十七代目だよ。」
「…………きさ。」
こうして、早朝から象古名呼称主義を植え付けられ、水を汲みにいくシュンであった。
あとがき
小説の投稿間隔ではだいぶ近いお久しぶりです。
これってもしや『後書き』の下にあとがきって出てるのでは? あとがきって毎回二回言ってるのでは? とか思いました、まぁいいや。
今回は読みにくいと思いますが、会話文と会話文でない文の改行をやめました。やっぱりこれは電子書籍なのでやめない方が読みやすいと思うのですが、個人的には普通の小説のように書きたいと思い変更しました。
今回の話はかなり展開がとびとびというか、テキトーになってしまったというか……未だにどの展開を見せるべきか迷うところがあります。全部の展開を書こうものなら時間配分に悩殺されるし、そもそも思い通りに小説をコントロール出来ないし、書きたいものがとにかく多すぎる。
とりあえず、今回の話を軽くなぞると、今までの話がほぼ全て無かったことにされます。なので初対面に会った人ともう一度会ったりという展開が……少なかったなぁ。ネフカとニィティラが出てくるところは最初の頃とほぼ一緒なので書かなかったし。何故かほんとうの初対面の人と話すシーンの方が多かったですね。あまりよろしくない。
というか不完全なシーンがあまりにも多すぎる。例えば三話くらいのゼリューのくだり、点滴のつくりかたをろくに調べもせず書いているのでちょっとよろしくない。点滴のパックの保存方法とか、よくわかっていない。輸血パックのような扱いをしている。自由な異世界モノだけど、やっぱり現象にはリアリティが欲しい。そのための前提には知識がほしい。知識を得るには疑うことを必要とするので、とりあえず全てを疑いながら勉強することにします。
中途半端なところですが、しばらく投稿の予定はありません。ただこの作品は生きているので、気が向いたときに不老不死のような完璧を目指して改良するかもしれないので、気が向いたときに見にきてよです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。