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いかれた桃源郷。  作者: 一暁午後。
3/6

ちっぽけなロマン。

 歩みを再開してすぐのこと。シュンのポケットから何かがこぼれ落ちるのを、ラディアは見た。


「しゅん、なにか落ちたぞ。」


 言いながらそれを拾い、差し出そうとしてやめる。


「ーーなんだこれは。」

「あわわっ。それ、じぶんの命より大事なやつっ」

「はぁ、そんなに大切なのか?」


 黒い枠にすべすべの画面がついた、謎の板スマートフォン。

 シュンにとって、こっちに来てからほとんどの役目を無くした相棒だ。異世界なので当然インターネットには繋がらず、衛星がないので地図も開けず、電波もないので家族との連絡も出来ない。

 しかしそんな相棒でも、唯一の役目がある。


「好きな人に会えるもんね。無いと生きてけないよ。」

「これは……絵か?」

「……絵だけど。」


 ラディアからスマホを受け取り、画面が割れていないかの確認も兼ねて起動する。電源ボタンを押すと、すぐにその人が浮かび上がってくる。

 金髪碧眼のツインテールの美少女が、いつもと変わらない笑顔でそこにいる。


「よくわからない技術だが……旧友か? 絵にしては独特だな。」

「友だちってわけじゃないけど……。」


 こちらから一方的に知っている人ーーそれ以前に、彼女は創作物の中の人物だ。すごく説明がしにくい。

 ラディアはラディアで、スマホ自体に興味が湧いてきたようだ。


「機器には詳しくないが、こういったのは初めてだ。ずっとここに生きていたが、まさかまだ知らない機器があったとは……絵を入れる装置か?」

「ぇいや……一応、これで誰かと文字でやり取りできて、電話もできて、地図も読めて、知らないことを検索して知れるけど……。」

「なんでそんなもの持ってるんだ。」


 他にも出来ることは少しあるが、今は彼女の笑顔しか見れないので『一応』と付け加えた。

 さっき言っていたように、こういうのは珍しいからかラディアの目が少し輝いている気がする。


「ちなみに名前はなんて言うんだ?」

「レミちゃんだよ。」

「いや、その人物の名前じゃなくて。」

「あ、ごめん。スマートフォンって言うの」

「すまーとほんか。」

「違うよ、『ほ』じゃなくて、『ふぉ』だよ。すまーとふぉん。」

「すまーとふぉん……なかなか言いにくいな。」

「略すとスマホだよ。」

「すまふぉ……?」

「こっちは『ほ』だよ。」

「は?」


 こうして、しばらくスマホの話をしながら歩いた。

 ーー緑の生い茂る機械と遺跡の街を、二人は並んで歩く。

 今は賑やかな人通り、壮大にそびえ立つ時計塔の近くにいた。間近というわけではなく建物を少し挟んでだが、見上げると首が疲れる。やはり小さな建物の街に、こうしてどかんと大きなものがあると、とてもよく目立つなと思う。

 この時計塔を一周して、ようやく半分だ。


「ふむーー通りの一部が封鎖されているな。塔の間近に行けなくなっている」

「ありゃ。ラディアさんの言ってたとこにいけないの?」

「いや、時計塔の周りだけだ。道はいくらでもあるから、少し遠回りすれば良い。」


 そういえば、塔の一部の壁が壊れていたのを思い出す。何があったのかは知らないが、瓦礫の山で危険な状態となっているのだろう。

 なにがあったかは知らないが、せっかくの祭りの日にこれは台無しだ。


 ーーそんなことを思いながら街並みを眺めて歩いていると、今度は時計塔とはまた違う塔を見つける。

 時計塔とはひと回り小さく、これまた植物まみれで歪な形の塔だ。元々あった形につけたして、つけたしてを繰り返して出来たような建造物で、まわりが背の低い建物ばかりなのもあってとても目立つ。


「ーーね、ラディアさん。あれ何?」


 塔を指でさして訊くシュンに、ラディアはその塔を一瞥した後、


「王宮だ。ここは元は王国だからな。」

「はえー、なるほど」


 納得の声を出しながら、再度「王宮」を見上げる。イメージとはほど遠い見た目だが、あの複雑な構造からはそんなような特別感が漂っている気がした。


「じゃあ王様とかいるの?」

「ああ。王族の血筋のが、現在はこの街の顔のような存在だ。国際交流の面で仕事をしており、今もそこに住んでいる。昔と変わらず王と呼ぶ人物もいる。」


 街の顔。国を動かす権力はなく、日本で例えると天皇に近いだろうか。


「にしてもおっきいなぁ……」

「大半が他国の代表の客室のようなものだ。あまり使われないので、一部の部屋は物置やら仕事部屋などに使われているらしい。」

「ーーそうなの。」


 適当すぎる一面が垣間見えたが、隣の彼にもそういった場所はあったし、そういう国民性なのだろうか。

 無駄とか適当とか、そういった面にばかり目がいくのは単に自分が神経質なだけかもしれない。


「あそこは騎士団が主な施設だ。公共な施設といえば、教会やとしょかーー教会くらいだ」

「図書館?」

「聞き返すな、なんでわかるんだ。」


 ちらりーーではなく、ほぼ全体像が見えてしまった言葉の意味が知りたくて、つい聞き返してしまった。


「なんかあったの?」

「……あそこにはあまりいい思い出がない。知識を得るにはいいかもしれないが、そこの司書が狂人だ。言葉通り、目をつけられるとろくな目に遭わない」

「そっか……なんか、やばそうだね……」

「やばい。」


 眉根を寄せて渋い表情をしながら説明してくれる。

 他人のあまり良くない印象の話は、どんな反応をすれば良いのかわからない。これまで交流関係は狭かったもので、人との会話が苦手だったのを今更思い出した。

 一体なにをされたのか気になるところだが、深掘りはやめよう。


「そういえば、騎士団があるって言ってたけど、これも王国のなごり?」

「多分そうだな。今じゃ政治は全くしないから、王宮の仕事は国交についてのものと治安維持しかない。今日は特に人が多いから忙しいだろうな。」


 昔のものを大切にする心なのか、それとも新しくするのが面倒臭いからそのままなのか。適当さが見えるあたり、後者の仮説の方が正しいかもしれない。


「昨今の団は人手不足とも聞くし、さっきの時計塔の件でも動員されているはずだから、見回りの人数は少ないだろうな。」

「騎士団の人って、どれくらいいるの?」


 独り言のように呟く少年に、シュンはさりげなく訊く。


「七、八人ほどだったか」

「少なっ! 過労死しちゃう。」

「王宮に勤めるのがまず難しいからな。騎士団に入るには信頼できる人物が大前提だ。流れ着いた孤児を王宮内で育て、団に入りたいと考えて勉強と鍛錬をした者が入れる。」

「は、ハードルが高すぎる……」


 想像以上に少なすぎる騎士団員。王様よりも、なるのが難しそうな職業だった。

 戦闘の能力や一定以上の学力は必要だと思うが、生まれからの道のりでこうも変わるとは思わなかった。


「はーどる、が何かはわからないが、しゅんも孤児なので勉強すれば……いや、怪しすぎるのを忘れていた。それに貧弱そうだし。」

「ひとこと余計すぎない?」

「事実を言ったまでだ」


 シュンは小柄で脂肪も筋肉もあまりない。背も低くてほっそりした見た目だから、確かに戦闘には全く向かなそうだ。

 ただ、この異世界はでかい怪物や、人に危害を及ぼすモンスターなどの気配があまりしないとも思う。まだそういった災難にあっていないだけかもしれないがーーとにかく、戦闘面のスキルはあまり必要なくても良いのかもしれない。

 しかし、こういった異世界ならではの戦闘面のスキルはもう一つある。


「じゃああれは? 魔法? 魔術とか、の才能。」

「ない。」

「早っ、悩んでさえくれない。」


 魔法使いの才能はもっと、これこれこうこうと、ややこしい検査方法があるものではないのか。一瞬にして一蹴され、シュンは凹む。


「つまりじぶん、なんの魔法も使えないの? ラディアさんみたいな、非現実的パワーを一切合切使うことができないの?」

「こちらのは確かに非現実的だが、概念だから魔法ではない。しゅんは……身体の改造をしない限りは使えんな。」

「逆に改造すればいけるんだ。なんか希望見えてきたかも!」

「楽観的すぎるだろ」


 どうしても魔法を使いたい様子のシュンに、ラディアは思わず突っ込んだ。


「今はどうか知らないが、そういった人体改造は研究があまり進んでいないと聞く。どこの国も、魔力を持てるようにする改造は認可していないともな。たとえ非合法の組織で手術をしてみれば、望んだ力を手に入れること以上に身体への負担の方が大きいだろう。」

「……じゃやっぱ無理なんだ?」

「まぁ、一部の道具で擬似的に使えはするから、完璧に無理とは否定できないな。」

「なーんだ出来るじゃん、よかったよかった〜」


 落ち込んだり喜んだり、この世界にとっては極ありふれたものに対して忙しそうだーーラディアは首を傾げながら訊く。


「そんなに魔法が使いたいのか?」

「え? うん。昔から手からビーム撃つのが夢だった。」

「はぁ……」


 手からビームは半分冗談だが、ゲームや本の世界に入ってきたようなものだ。ありえないと思っていたものが実際にできるのだ。才能は無くとも、出来るのならしてみたい。

 わくわくを抑えきれないシュンを横目にラディアは「変なやつだ」と呟いて、二人は次の話題へと移った。


     *


 なだらかな坂道、人の通りもさっきまでとは断然少ない歩きやすい道を下っていく。閑静というわけでもないが、これまたひっそりとした立方体の住宅街だ。たまに、子どもの楽しそうな声が聞こえる。

 街の景観を見るのが楽しかったからか、歩いても歩いても目的地に着かないという実感がいま湧いてくる。そういえば大雑把すぎる遠回りをしている最中だ。

 そんなことを考えながら歩いていると、会話に疲れて黙っていた少年が口を開く。


「そうだ、そろそろ目的地だ。ここを下ればすぐそこにある」

「! ほんと?」

「ああ」


 ラディアのその返事に、シュンはやったぁと手をあげて喜んだ。

 ようやく異世界の生活で地に足がつくといったところか。ほとんど歩いてしかいないが、過酷な道のりだったと思う。


「幸い、今は夫婦が祭りに出掛けているので息子のフォーアが迎えてくれるらしい。早めに休めるぞ。」

「? そうなの? じぶん、その夫婦のひとたちのことはよくわからないけど。」


 孤児院の中の関係はまだよくわかっていないが、孤児とは別に自分達の子どももいるらしい。

 首を小さく傾げるシュンに、ラディアは「そういえば、なにも伝えていなかったな」と、はっとした様子で前置きして


「父がレビリ、母はミーア、息子のフォーアの三人家族で孤児院をしている。その夫婦が中々難点でな、ものすごく喧嘩する」

「喧嘩するんだ。」

「が、ものすごく仲が良い。」

「仲良いんだ⁉︎」


 単純にいえば、喧嘩するほど仲が良いということなんだろうか。


「それはもう些細なことで喧嘩する。子どもの字の教え方、ものを置く場所、掃除の仕方など、どちらかの何かが気に入らなかったら速攻で口を出し、喧嘩に発展する。」

「なにそれ大変そう」


 毎日賑そう、というより騒がしそうだ。落ち着いて生活できるだろうか。


「しかし、その数十分後には互いに自身を見直して無事に仲直りしている。それどころか、いつの間にか二人だけの空間のようなのが出来ていたりする。二人揃って老いを忘れていちゃついているときがある。二人とも、もうそろそろ五十と聞いた。」

「なにそれ怖い」


 思っていた以上に難点な夫婦だった。幸せそうではあるが、二、三十年ほどこうしてきたのだろうと想像すると、少し幸福が重すぎる。シュンの知っている夫婦の愛の熱が年々冷めていく理由が、なんだかわかった気がした。


「そんな訳だから、あの二人に色々教えられるとなるとかなり面倒になる。息子のフォーアは至って普通の青年だから、生活する中で困ったことがあれば彼に頼むといい。」

「なるほど……。」


 いつまでも恋人気分の夫婦とその真面目な息子で形成される家族構成は、主に息子の方に忙しさがのしかかっていそうだ。

 頬を掻きながら、シュンは口を開く。


「その人たちの家で、じぶんとかはなにをするの?」

「あまりよくは知らないが、家事や周辺の仕事場の手伝いをさせると、昔言っていたような気がする。」

「職場体験みたいなのもするんだ。」


 つい去年ほどにやった記憶があり、少しだけ懐かしい感覚になる。

 孤児院とは言うが、寮に住むのに近い感じになるのだろうか。まず、慣れるのに時間がかかりそうだ。


「ほら、もうすぐそこだ。」


 これからの生活に想像を膨らませるシュンに、ラディアが指をさして言った。

 少年の指先を目線で辿ると、少し遠くに周辺のものより一際面積の広い建造物がある。ところどころ増築されたような部分があり、王宮に似て歪な外見だ。植物はもうどこにでもいるらしい、壁にかかった蔦のカーテンが、ぽつぽつと白い花を咲かせていた。壁や、建物の前の石畳には、ここの住人が落書きした痕が少しだけ見える。


「……?」


 ーーあと少しだ。

 ようやくこの世界での人生の再スタートが切れるといったところか。

 目的地が見え、もう少しで到着というところで、ラディアの足が急に歩くのをやめた。


「? どうしたの? ラディアさん」


 彼の方を見ると、今まで歩いてきた道の先を見つめて固まっている。頬に汗を浮かべて、何故だかその紫の瞳が少し赤みがかっているようにみえた。


「薬品のにおいーー、どこかで……」


 独り言を呟くラディアに、シュンはその内容を自身の鼻で確認するが、においなんてしない。


「……、らでぃあさん……?」


 しかし、名前を呼んでも反応しない。まるで何かに取り憑かれたような、凄まじい集中力を放っている。

 ぽかんと口を開けて、ぼんやり虚空を見つめて、一体どういう状況なのかわからない。

 シュンはそう、心配そうに彼が戻ってくるのを待っているとーー、


「………………ーーーーっ、」


 少年の瞳がわっと赤く染まる。


「しゅんっ、息を吸うな‼︎」


 耳を劈く勢いで叫びながらシュンの手を強く引き、もう一つの手でその口と鼻を覆う。

 そこから一秒も経たなかった。


「ーー‼︎」


 坂道の上部から暴風。同時に白い濃霧も舞い込む。飛ばされそうになるシュンの体をラディアは引き寄せ、頭を胸に押しつける。そうしてしばらく経ち、風がぴたりと止んだ。


「…………ーーら」

「喋るな。しばらく呼吸もするな、口も開くなよ」

「ーー。」


 ラディアの胸に顔を埋めていたシュンがどういう状況か聞こうとするも、会話を封印される。

 自身の鼻をつまんで口も固く閉じた状態で、ようやく周囲を見渡した。


「霧状の強力な無毒性の睡眠剤だ。少し吸っただけで瞼を持ち上げるのが辛くなる、急いでここを出るぞ。」

「…………」


 周囲は濃厚な白い霧に覆われて、ちょうどラディアの姿が見えるくらいになってしまっていた。呼吸も出来ず視界も狭まった状態は、なんとも違う世界に迷い込んでしまったみたいだ。

 それにしても、さっき自身の言った内容に反して呼吸も会話もできる少年に疑問を感じざるを得ないが、今はそれどころじゃない。


「こちら()を狙っている連中がいる。周囲の警戒を怠るな」


 いつの間にか真っ赤な瞳になって、シュンの手を強く握りながら、


「それと、こちらの手を絶対に放すな。何があってもだ。」


 低い声でそう言われ、シュンはこくりとうなずく。

 鼻をつまんで息を止めるのはそうそう続かない。頭の中が爆発しそうだ。苦しい。


 シュンはラディアの手を握りかえして、彼の向かう方へ足を連動させる。

 呼吸も出来ないのに加え、方向感覚も失われている。周囲は何も見えない。真っ白な世界の向こう側は、自分達以外に誰かいそうでいなさそうだ。


「どこかの壁に当たれば良いが……」


 霧の中に手を突っ込んで、自分達の居場所が分かるようなものを探す。通りの横幅はそんなに広くないはずだ。どこか一点を信じて、彷徨うように進む。

 歩を進めるラディアはどこかふらついているように見えた。

 シュンは息を止めるのに耐えきれなかった。鼻をつまむ手を少し緩めて、頭の中の空気を少しずつ逃しながらついていく。


 彷徨って、彷徨って、彷徨ってーーようやく指先が何かに触れる。


「! みつけーー」


 た、を発そうとして、足首に何かが走る。途端に痛みが襲いかかり、バランスを失ってその場に倒れる。


「っーー!」


 体制を整え足首に触れると、ぬるくて赤い液体の感覚があった。加えて転んだ際に足首を挫いたらしい。歩けそうもない。


「……しゅんっ」


 ようやく誰かと手を繋いでいたことを思い出した。

 名前を呼び、赤のついた手を壁の反対方向へ伸ばす。


「……? しゅん? しゅん!」


 いない。さっきまでそこにいたはずなのに。

 霧の中、精一杯手を伸ばすが、何にも触れられない。

 ラディアは頭が真っ白になって、懐の受話器に手を伸ばした。


     *


 ーー「風」が、トペリの街中を駆けていた。

 歪な建造物群を渡り、さまざまな路地を巡る。時には壁を走ることもあった。風が通り過ぎると、そこには一瞬だけ強風が残った。

 風がとある路地裏にたどり着いた。

 陽の光は建物で遮られ、誰もいないようなじめりとした空間を、風はゆっくりと進んでいく。

 風は裾の短い、へそのでた白が基調の衣服と、短いスカート。服に付いているフードを目深に被っており、ひとりのヒトを担いでいた。

 ヒトは癖のある黒い髪と黒い上着、紺のズボンを履いており、荒々しい呼吸を繰り返していた。

 しばらく進んでいくと、薄暗い空間に大小二人の人の姿が浮かんできた。


「ーーあら、おかえりなさい。随分掛かったのね。」


 大きいほうの人ーーやわらかい声の女が、風にそう呼びかける。


「……。」


 風は十秒ほど俯いて、肩に担いでいたヒトを地面にゆっくりと降ろした。

 ようやく地面に降りたヒトは、すぐさま込み上げる何かを察知して四つん這いの姿勢をとる。


「? どうしたの?」

「…………いや。」


 女は首を傾げて訊くが、風はぼそりと呟くような言葉で返す。

 二人と、そばで喘ぎながら自分の中身を滝のように垂れ流すヒトから、風は目を背けた。


「……まさか、今になって厭だなんて言うつもりなの?」


 その低い声の問いかけに、風はびくりと震えた。

 三人から目を背け続け、しばらく風は脳内で言葉を模索する。その間に、女は呆れた様子で二人に接近しーー


「この計画は時間が鍵だって、何度も話した気がするのだけどーー。」

「!」


 隣の、苦しみに喘ぎ続ける人物に手を伸ばしたところで、その手を払われる。

 風が女の行手を阻む。


「リブ。あたしこんなこと、もう……」

「どきなさい」

「もうしたくないの! こんなことしたって……っ」


 発せられる風のーー悲痛な少女の声に、リブと呼ばれた女は何の感情も見せない。


「こんなことって。またその話をするの?」

「……だって、何回言ってもリブはこっちのことなんてーー!」

「わかってないって、それはこっちの台詞なのだけど。」


 女は少女のフードを剥ぎ、胸ぐらを掴み、真っ黒な冷たい視線を少女に突き刺す。


「確かに私はその子をここに連れてくるよう言ったわ。薬をぶち込むことも命令したわね。」

「ーーーー」

「それを全部こなして、文句を言いにくるのが気に食わないの。この前とおんなじ。いまさら文句を言って、何になりたいの? 私は契約も、何もしていないのに。」


 冷え切った言葉、視線、声音。足もとに転がる人物の息遣いが、全てが、心を滅多刺しにする。


「過去は変えられないのよ。今から全て投げ出しても、罪は少しも滲まないって、何回言えば分かってくれる? 何回でも言ってあげるけど、」


 聞き覚えのある前置きに、少女は自身の胸ぐらを掴む同胞の手を見るーー


「ーーあなたのそれは、我儘っていうの。」

「…………っ!」


 少女はその手を力強く掴み、大きく口を開ける。

 すると、


「もうやめようよ、りぶ、れと…………」


 奥の、もうひとりの小さな子どもがか細い声で二人に言う。

 犯罪とは縁遠い、真っ暗な世界などまだ何も知らない幼い少女。胸元に大きなリボンのついたコートを着ており、まっすぐの長髪、大きなグルグルの角が頭についている。

 表情はない。


「けんかは、よくないよ……?」


 幼女の弱々しく、やさしい声に二人は静まり返る。おかげで落ちているヒトの荒々しい呼吸音しか響かない。

 二人はしばらく固まり、女がまずため息を吐く。いらないものを投げ捨てるように、女は少女を突き飛ばし、呻吟を漏らし続ける人物のもとへ腰を降ろす。


「ーーさ、次はこっちの番。レトアは周りを見張りなさい。兎が来たら、すぐに知らせること。」

「……でも、その子がーー」

「どうして同じことを繰り返すのかしら? ついこの間、人を殺したあなたにとってまだまだ軽い方じゃない。」


 ーーやっぱりこの女は頭がおかしい。

 少女はーーレトアはそう思った。どんな罪も、軽いのだからして良いという訳ではないと知っていた。

 けれど、突き飛ばされて尻もちをついた後は、少女の体は動かなかった。


「早く行って?」


 やわらかい、だけど冷たい。少女はそんな矛盾した声音の言いなりに、よろりと立ち上がって、何も見ずに去って行った。


「れと……」

「ようやく邪魔がいなくなったわ。シエプはまだ見ないで。」

「うん。」


 グルグル角のシエプは心配そうに少女の後ろ姿を見守るが、女の言葉で一瞬にして切り替える。

 体内のものを吐き出しきって、自身の吐瀉物の上でぐったりしている人物を女は見る。気づけば、嘔吐物の臭いが辺りに充満していた。腕を引っ張り身体を持ち上げる、特に何の抵抗も見せない。瞼の上と下がぱっちりくっついていて、完全に眠っている様子


「ーー」


 それを、奥の行き止まりの方へ投げつける。


 背中から壁に強くぶつかり、壁に寄りかかって座る体勢になる。本人は衝撃で目を覚まし咳き込み、涎が口の端から垂れて、何があったのかわからないというように前方を見上げた。


「起きたかしら?」

「……ぁ」


 首元に向けられているらしいそれを、まず理解できずにいた。

 それを持った腕を視線で辿り、自身を見る女の笑顔に気づく。


「大人しくしていれば、痛くも苦しくもしないわ。大人しくしてればね。」


 その言葉で、ようやくそれの正体を知った。一気に脳内が冷えていくのを感じ、本能が運動神経の指令をストップさせている。

 女を見る。この場所も、フードの中も暗くてよく見えないが、真っ黒な瞳をしているのがわかる。ぶ厚いローブを身にまとい、その下はーー何も着ていないようだった。緑色ぽい長い髪がフードの中からこぼれている。


「シエプ、灯りを持ってきてくれる?」

「……はい。」


 女の呼びかけに、近くで待っていた幼女がすぐさま懐中電灯らしき物を持ってくる。幼女はそれを吐瀉物まみれの人物に向け、発光させる。

 急な光に再度瞼を閉じようとするのを、女が「みせて」と、無理やりこじ開けてくる。


「うん。シエプ、もういいわ。本物だって分かったから。」


 まるで骨董品の鑑定をするかのように、女は赤の虹彩を見て嬉しそうに言った。

 幼女は言われた通り、すぐに懐中電灯の灯りを消して懐に仕舞う。


「じゃあ、次は簡単な質問をするわね」

「……?」


 何をされているか一向にわからない様子の人物に、女はその内容を投げかけた。


「きみの、ほんとうの名前をおしえて?」


 甘ったるいような、やさしいような、安心感を強引に醸し出しているような声音で。


「……じぶんのーー?」

「そう。きみの本名。」


 ーー本名。その言葉が何か心に引っかかる。


「話してくれたら、痛いことは何もしないわ。言えるでしょう?」


 自身の首に向けられているナイフを見る。

 言えばきっと、無傷で解放してくれるのだろうか?

 だったら迷う必要はない。


「じぶんの、なまえはーー、」


 ーー信頼の置けない相手に、絶対にそれを名乗るな。


「ーー!」


 ふっと降りてきたその言葉に、吐き出すつもりの言葉を呑み込んでしまう。


「ーーどうしたの?」

「…………」


 攫われたというべき状況で、彼女らのことも一切知らない中で、当然のように「信頼」の二文字はない。

 女の目を見る。真っ黒な目はどこか無機質で、映る自分の姿が邪魔で、何を考えているのか一切わからない。

 黙り込む人物に、女の口角が下がる。


「言えないの?」

「…………。」

「そう、なら仕方ないわね」


 諦めたかのような口ぶりで、ナイフを持った手をもっと首に近づける。


「あまり、こんなことはしたくなかったのだけどーー」


 震える獲物の頭を強く掴み、凶器の先端をじりじりと肌に食い込ませ。

 それで、すぱりと横へ線を入れる。

 「いっーー⁉︎」と悲鳴を上げ、じっくりと線に色がついていくのを、女は無表情で見つめる。


「いま思ったけど、首はあまり良くないわね。力を入れたら声が出なくなっちゃうかもしれないもの」


 嫌な汗が垂れる。線がいたいーー痛いというより、熱い。何かが溢れるのを感じる。


「じゃあ、次はどこにしようかしら。手でも足でも、首以外ならどこでもいいのだけどーー要望はあるかしら?」

「ーーーー」


 誰かを傷つけることに、何の抵抗もなく。むしろ、高揚した様子を感じた声音で訊いてくる。

 サイコパス、の言葉が脳裏に浮かぶ。


「……はぁ……、何もわかってない」

「ーーッ!」


 再度一閃。今度は頬に浅く一線。


「私、待つのはそんなに得意じゃないの。なにか答えて?」


 焦りと恐怖が混じりあって、訳がわからなくなる。息が荒くなって、熱くなってく頭を汗が冷やしていく。また向けられる凶器の、赤っぽい先端を見る。

 ーーはやく、その冷たい言葉に肯定されないといけない。


「それじゃあ、つぎはーー」

「まって……っ、なまえっ、しゅん、って、いいますーーだから……っ」


 嗚咽と共に、なんとか震えた声を絞り出してシュンは言った。

 赤い瞳の懇願に、リブはまた口角を吊り上げた。


「そう、シュンって言うのね」


 あたたかな声音で、よく頑張ったと言うように頭を撫でてくる。シュンは心の底から、安心というものを感じた。


「それじゃあ、シエプ」

「はい。」

「あとはお願いね。」

「うん。」


 隣で二人の様子を見ていた、ロボットのように無機質な返事を繰り返す幼女が、リブと立ち位置を入れ替える。


「うごかないで、じっとしてて。」


 羊のような大きなグルグルの角に反した、長くてまっすぐの綺麗な髪。プラスマークの瞳孔が、じっとこっちを見つめている。

 両のてのひらを、静かに向ける。


「めをみてて? それで、そらさないで。なにも、わるいことじゃないから。」


 ふわふわとした言いかたで、言い聞かせる。

 シュンはただぼんやりと、その不思議な瞳孔をみつめかえす。


「ーーゆめのせかいは、たましいのせかい。さいごになったら、だれもがひとしく、だれもがいきつく、えいえんのせかい。」


 その瞳が、あやしくひかりだす。

 その薄むらさきの瞳に、吸い込まれる。


「わたしたちのゆめのせかいは、ねがいのせかい。たのしいことも、かなしいことも、ぜんぶおいてあるせかい。すくいも、じごくも、びょうどうに。」


 視界がぐらつく。

 ぼんやりとした薄紫の光と、幼い声だけを感じる。


「りそうも、れっとうも、こうふくも、さびしさも、すべてがつどう。そのなかでも、いっぱいのしあわせをみられますように。」


 視界がほとんど判断できない黒に染まって、声しか届かない。


「おやすみなさい。」


 ーーその声も、もう聞こえなくなった。


     *


「……はい、はい。わかりました。それらしい人を見かけたら、声を掛けてみますね……。」


 ーー用事は、切らした調味料の調達と、通りの祭りを眺めてくることだけだったのだが。

 夕方の赤に染まる通りーー少女は片手にその品の入った籠を提げ、もう片手で通信機の操作をする。

 長い茶髪を頭の上半分だけでひとつに結び、ゆったりとした白いワンピースを身に纏った碧眼の少女は、疲れを顔に出しつつも、言われた通り周囲を見回しながら歩きだす。

 連絡の内容は、勇者らしき人物が何者かにさらわれたというものだ。犯人は大胆に霧状の睡眠薬を放出して、その中から勇者を拾ってどこかに連れ去ったというがーーなにぶん信憑性がないというか、作り話のように聞こえてしまう。

 正直、勇者という存在自体が子どもの楽しむ創作ーーおとぎ話ぐらいの認識だった。こう話を聞くだけでは、ただ頷くくらいしか出来ない。


 そんなことを考えていると、再度受話器がピポピポうるさく鳴いた。


「はっ、はいっ。今度はなんですかっ」


 少々苛立ちを感じながら、少女はそれに出る。今回で五回目だ。


『ど、どうしたの? リアーー』

「どうしたもこうしたも、今日はネフカさん、ムパさん、ニィさんメシュさんで今ニカさんです! おんなじ連絡を何度も寄越さないでください! ーーハッ」


 さわやかな青年の声に、何故だか心の熱が暴発してしまう。指折り数えて怒りをあらわにする少女に、『ご、ごめんなさい。こっちも忙しくて……』との返事。

 言い放った後に気づいて周囲を見回す。他の通行人にちらりと見られたりして、少女は慌てて口を手で覆う。


「いえ、こちらこそすみません。それで、また勇者さまの……」

『はい。街の映像を確認して、有力な痕跡を見つけたんです。それが、ちょうどリアリさんの通りの近くで……』

「私の?」


 少女は再度周囲を見渡して、通信機の続報を待つ。


『ええ。今から指示を出すので、その通りに動いてください。』

「あぁ、はい……」

『まず、その通りを真っ直ぐ行って、二手に分かれている道の右を行ってください。』


 言われた通りに、通信機を耳に当てながら少女は進んで行く。


『歩くのを保持してください。そこをまた右。で、そこは斜め左。奥の突き当たりを右。……そこの巣草花(スグサバナ)のとこを右。』

「…………あの。」

『どうしました?』


 進みながら、なんとなくな疑問が湧いてしまう。今はそれを訊くどころじゃないが。


「どうやって私のことを案内しているんですか? 私の今いるところを正確に把握して伝えていますけど」

『えっと、僕は映像記録の中のーーあ、そこ左です。とにかくそれらしき位置を覚えて、リアリさんを望遠鏡で見ながらーーああっ、そっち左です、そうそう。ーー指示を伝えているって感じです!」

「なんだかよくわかりませんが、わかりました……?」


 途中で指示を挟みながらの説明に困惑するも、無理やり自分を納得させる。『あはは……』とかわいた笑いをする青年に、今度また同じことを訊こうと思った。


『そこの階段をのぼって……そこを右です。』


『左を登って、そこの民家普通に通り抜けちゃってください。近道です。』


『そこの梯子をくだって、その道を真っ直ぐすすんでください。』



『ここを右に曲がれば目的地……勇者さまがいるかもしれません。』

「ここに……?」

『けれど慎重に。あまり声を出さないで。まだ犯人がいるかもしれません。』


 目的地に近づくにつれて、通信機の声が小さくなっていく気がする。

 指示を聞きながらその通りに歩いていたら、とある暗い、狭い道に来た。陽の光はほとんど届いていない。じめりとして誰かいそうな空間は静かで、なにか、吐瀉物のようなものの臭いが充満していた。


『どうですか? 大丈夫そうですか?』


 内緒話をするようなひそひそ声だが、ひっそりとしているので普通に辺りに音声が響いてしまっているように聞こえた。

 くらやみの奥を見る。

 ーー誰かいる。動かない、倒れた人影らしきものがひとつ、


『もし人手が必要だったら言ってくーー』

「大丈夫ですか⁉︎」

『えっちょリアリさん⁉︎』


 少女は思わず通信機と籠を放り、すぐさまそれに駆け寄る。

 黒くてぐったりした人影の前に腰を降ろし、身体を揺さぶってみる。


「生きてますか⁉︎ 息してますか⁉︎ あ、こんなときはーー」


 倒れている人物なんて初めて見た。

 初めての状況にとんでもなく焦りつつ、人影の胸や手首を触ってみる。


「…………たぶん、呼吸もしてるし、脈もあります。生きてます! たぶん!」


 適当な結論を出すも、遠くから『あのー……リアリさん?』と、放り投げた青年の声が聞こえる。


『ねぇリアリさん? そこにいる? だいじょうぶ?』

「大丈夫です。それより、倒れている人を見つけました。いま連れて帰りますね。」

『えっ?』


 再度通信機を耳に当て、返答してから困惑する青年の声を放置して、人影に向かう。


「大丈夫ですか? 起きれたらで良いので、起きてくれると嬉しいんですが……」


 少女には誰かを運べる筋力はない。立っているところを支えるくらいなら出来るのだが、起きてくれるだろうか。


「あの、起きてください。風邪ひきますよ」


 身体を揺さぶって呼びかけるが、反応は無い。それにしても、吐瀉物の臭いが酷い。


「起きてください! うわ、なんか湿ってます……」


 衣服の布の一部が何かで濡れている。暗くてよく見えないが、吐瀉物だろうか。とにかく衛生環境が悪すぎる。早く帰りたい。

 少女は人影の身体を強く揺さぶって、「起きてくださいー!」と叫ぶようにいくらか呼びかける。


「起きてー! おっきしてくださいー!」


 早く帰りたいのが本心だが、このまま置いていくのも出来ない。

 そうしてしばらくすると、人影の指先がぴくりと動いた。


「んーー…………?」

「!」


 ようやく気がついたようだ。

 何事もなくむくりと起き上がってーーという訳にもいかず、身体に何かの衝撃を感じたのか、また地面にべったりと倒れ込む。


「ぃっ……⁉︎ た、せなか……っ!」

「背中が痛いんですか?」

「⁉︎ だれっ」


 ようやく少女に気づいたのか、人影はびっくりして、反射的に起き上がってまた激痛を食らう。


「づぅ……っ!」

「痛いなら無理をしないで、ひとまず横になってください。背中、どこが痛いんですか?」


 そう訊くと、人影はしばらく痛がって、呼吸を荒くしながら


「せなか……、うごかすと、すごく、いたい……。」


 血のように真っ赤な目をこっちに向けて、苦しそうに言った。

 生きてはいるが、何が原因でこんなにも痛がるのか少女には全くわからなかった。まず周囲が暗くて怪我人の顔すら見えない。

 動かすと痛い、けれども動かないことには治療が出来ない。痛みを和らげられる、そしてここで出来ることはないかーー


「そうだ! 私、魔法が使えたんでした。痛みのあるところの近くに触らないといけないのですが、大丈夫ですか?」

「ーーまほう……? ちょっと、わからないけど……」


 あまり使う機会がないのか、完全に忘れていたというように少女は思い出して言う。

 うつ伏せでべったりと、地面大好き人になっている怪我人の背中。あやふやな返答だが、少女は衣服の中に手を侵入させて、異常のありそうな素肌に触れようとする。


「? なんでしょう、これ……」


 人の素肌らしからぬ、硬い何かに触れる。硬い部分に沿って皮膚が少々盛り上がっており、皮膚の質でないと確信できる。とにかく、このあたりが痛みの原因で間違いなさそうだ。


「とにかく、一旦ここに魔力を流し込んでみますね。」

「ながしこむの……?」

「痛くないので大丈夫ですよ。たぶん!」

「…………」


 なかなかに信用のできない言葉で、人影は不安になる。


 少女はその肌に触れたまま、指先に意識を集中させる。そうして十秒も経たないうちに、少女の蒼い瞳が光りだす。その様子を赤い眼が茫然とみている。


「ーー?」


 蒼い瞳が困惑する。なぜか上手く流し込めない。


「……おかしいです。いつもはこんなはずじゃないのに……」


 瞳の発光が止まり、魔力を流し込めない原因を考える。

 ーー久しぶりに行うが、工程は何も変わらないはずだ。例の硬い何かに邪魔されているのだろうか、けれども肌にしか触れていない。やっぱり久しぶりで調子が悪いのだろうか……?


「あの……、どうしたんですか……?」

「! ごめんなさい。魔法が使えないみたいで……」


 考え事の最中に話しかけられて、少女は驚きつつ、素直に返答する。


「魔法は体調の悪さとか、運動して疲れた時にも関係なく使えるはずなんですけどね。もちろん、たくさん使っていると疲れるんですけど……」

「ーーそうなんですか。……っ!」

「ちょっと! 何してるんですか⁉︎」


 俯く少女に他人事の返答をした後、人影は再度体を起こそうとする。

 顔を上げた瞬間から痛みが走る。それでもじりじりと起き上がる。少女は止めるが気にも留めない。何十秒もかけて、地面を這う姿勢から四つん這いになって、ようやく地面に正座をするような形で座ることができた。


「い、痛いんじゃ……」

「はぁ、はぁ……、すごく……っ、いたい、けど……」


 少女に上半身を少し預けてもらいながら、荒々しく呼吸を繰り返しながら言う。


「たぶん、……しぬれべるの、いたみじゃない、から……。」

「……それでも、無理しちゃだめですよ……。」


 ーーそもそもこれは、自分自身の力不足だというのに。

 それに、死なない痛みなら大丈夫というわけではない。どんな怪我も、我慢も放置もよろしくない。というか、そんなに痛いものなら命に関わっていると思うが。


 起き上がると、背中の違和感がさっきより浮き彫りに感じた。亀の甲羅のような重いものが、背中に食い込んでいる感覚。そこら周辺がずんずん痛いし、腹の力を抜けばすぐに後ろに倒れそうだった。


「…………立てますか?」

「ーーがんばれば……いけそう……。」


 それでも、魔法が使えないのなら頑張ってもらう他なかった。

 怪我人の肩を支え、出来るだけ息を合わせて、二人はゆっくり立ち上がる。立ち上がる際は、起き上がるときよりもスムーズに動けた。


「少し……あそこまで歩いてみましょうか。」


 そういえばと、さっき買い物籠と通信機を放り投げたのを思い出して、そこに指をさす。

 肩を支えられて軽く固定したまっすぐな背中は、さっきより痛がっていないようで、少女は安心した。歩くのもそんなに難しくない様子。


「中身は……漏れていませんね。あ、これ、繋ぎっぱなしでした」

「?」


 うっすら響くノイズのような音。通信機に少女は呼びかける。

 少女が話している通信機はまさにイメージ通りの無線機のような機械で、直方体のシルエットにいくつかのボタンが並び、小さなアンテナがついていた。上部の液晶がぼんやり光って、知らない文字を写している。


「ニカさん、ニカさん? まだいますか?」

『………………ぁあ! リアリさん! ようやく戻ってきてくれた!』


 遠くから近づいて来るような青年の音声に、少女と怪我人はびくっと驚く。


「倒れていた人が怪我をしているので、今から王宮に連れて帰ります。魔法での治療をしようと思ったのですが、なぜだか全く効果が無くて……」

『はぁ、体質の問題かな……その人は無事ですか? 歩けなさそうだったら姉を呼びますけど……』

「歩けるので大丈夫です! 遅くなりますけど。」

『分かりました、気をつけて帰ってきてくださいね。』


 無線、というよりも電話に近かった。怪我人はもっと、語尾に「どうぞ。」をつける会話を期待した。

 伝えることは伝え終えたし、そろそろ切るのかと思いきや、機械の先で『あっ、そういえば!』の声が響く。


『その人、勇者さまでしたか?』


「えっーー、あ、えっ?」

「……。」


 期待するような、わくわくするような声音で言われーー。

 しばらくの間、真っ赤な目と蒼い瞳が、ただぽかんと見つめ合っていた。


『あのー? なんか言ってくださいよー。聞こえてますかー? おーい』


     *


 太陽の姿が沈んで、藍色の空に星々が綺麗にうつる頃。


「きみがここに来るなんてとっても珍しいね。今日は運がいいのかな。」

「ーーこちらに対して、その気持ち悪い人間味は出さなくていい。聞きたいことが出来たから来た。」


 ーー王宮の最上階、トペリの街で唯一の図書館にて。

 広々とした空間の中、背の高い本棚で埋め尽くされた部屋の南側。そこには本棚も壁もなく、夜空を観察するのにちょうど良い場所があった。図書館の壁は石で造られており、そこは崩れてしまったあとのようだった。


 建物内に照明はついておらず、月明かりに照らされた二本のツノを生やしたシルエットが、足を引きずりながら杖をついてやってきた。

 白衣の男は笑顔を浮かべて、少年を出迎える。


「まぁ、とりあえずそこに座りなよ。なんだか辛いように見えるから。」

「言われなくてもそうする」


 建物の中と外の世界とを直接繋ぐこの空間は、ご丁寧にソファやら椅子やら机やら、茶会の出来そうな家具がそれぞれたくさん並んであった。

 その中でも、少年は円のスツールを選んで遠慮なく腰掛ける。


「ーー右足首と、左腕かな。怪我をしてるみたいだけど、」

「いい。ここに来る前に一度家に戻って処置をした。貴様に治療されるのは、包帯やら何やらになにか仕込まれてそうで厭だ。」

「いつの話かわからないけど、元気でいてくれるならそれでいいよ。」


 男は変わらない笑顔でそう言いながら、少年の近くのソファに腰掛けた。

 男は白衣の他に植物を纏っており、それは文字通り植物の蔦が男の身体の至るところに巻きついていたり、顔の右半分が大きな花で埋もれていたりなどしていた。もう片方の眼は瞼が縫われており、実際のところ何も見えないはずだった。


「それで、話ってなあに。」


 それでも、陽気にこちらを向いて話しかけるこの男に、少年はささやかな恐怖を感じていた。怪我の位置も、足首は包帯がされているから見えるものの、腕は完全に衣服の下のはずだ。

 一体どこの感覚で情報を得ているのだろうか。


「ーー勇者のことだ。どうして本人に、勇者であること、この場所に来ることを伝えなかった?」

「まるで、あの子に会ったみたいな口ぶりだね。」

「会った。攫われた後に、本人はどうなったかわからない。」


 世界の危機と言える状況に、男の表情は一切変わらない。


「それより、昔のぼくの実験は役に立ったかな。」


 それどころか、話を気味の悪いものにすり替えようとする男に、少年は苦虫を噛み潰したような表情をした。


「今はそれの話じゃない。この先の人生で発揮できるかどうかも分からないものの話をするつもりはない。」

「きみのは人生って言うのか怪しいところだと思うけど。ーーそれに、きみは毒も効かないんだから、充分発揮できるよ。」

「したくない。」


 怒りを抑えたような声音で言う。この男に感情任せで話しても無駄なのが分かっているからだった。


「ついでに言うと、あの子も無事だよ。ちゃーんと元気に息をしてる。」

「……それなら良いが。ーーいや、良くない。そもそも最初に伝えていれば、たとえ迷子になることはあっても兎に案内されて、昼になる前にここに辿り着けたはずだ。」


 あの赤い虹彩もあったことだし、と少年は付け加える。


「うん、確かにそうだね。」

「わざとそうしたと?」

「ぼくはただ都合の良いものを利用しただけだよ。」


 何度も見ても、男の口角の角度は変わらない。相槌を打つときも、少年にとって残酷な話をするときも、嘘を吐くときも、まるで他人事のようだ。


「それに、ぼくの計画はここからさ。」

「計画……?」


 訝しんで訊く少年に、男は人差し指を立てて、「簡単なこと、」と前置きする。


「いまからあの子の世界で言う『ラスボス』を、最初に倒すんだよ。」


     *


 歩いているうちに段々背中の重みと痛みにも慣れてきて、リアリからの支えもいらず、ついに王宮へ足を踏み入れる。


「ーーさっきは本当にごめんなさい、私の注意不足で……」


 少し前に見た、でこぼこ建築の一階は教会ーーという名の孤児院らしかった。

 その礼拝堂らしき空間を通っていた際に、どこかから続々と現れた子どもたちに囲まれてわちゃわちゃしていたのを、なんとか抜け出せた後である。


「いや、全然だいじょうぶです。まだちっちゃいですし。」

「でも勇者さまにものすごく失礼なことを言っていたので、あの子たちは後できちーんとお説教します。本当にごめんなさい。」

「……ーーーー」


 ついさっき、確かに衣服などから吐瀉物の臭いがするので「くさいひと」だの「へんなひと」だのただ単純に「くちゃい」だの言われたが、シュン自身はそこまで気にしていない。しかし、子育ての経験はないので、拳を握りしめて言う彼女の教育方針に何も言えない。よって口から出かかった言葉を飲み込んだ。


「それより、はやく医務室に向かわないとですね。王宮はなんかこう、変に出っぱってるとことか、急な段差とかがすごくあるので気をつけてください。」

「……ぁ、はい。」


 少し……いや、かなり住みにくそうだなと思った。シュンの想像する豪華な王宮とは全然違って、結構ボロそうなイメージが浮かんだ。

 早速ある段差に気をつけて、光の差す空間の方へ向かうと、意外にも広々とした空間に出た。まず、正方形の面積の中心に赤い円形の絨毯が敷かれており、右奥の方に階段がある。上を見上げると吹き抜けらしく、建物の中に橋がかかっていたり、なにかの部屋がはみ出てなのか一部がぼこぼこしていたり。壁を見ると外観と同じように植物が生えていたり、パイプも変わらず多くあった。ランプの灯りは橋から垂れ下がっていたり、壁や階段の手すりについていて、優しい色をしていた。天井は小さかった。王宮というより迷宮に近いかもしれない。

 リアリがその右奥の階段を登って行く。シュンも周囲を見ながらそれについて行く。


「この建物すごく大きくて……私もよく迷子になったので、困ったら言ってくださいね。」

「ーーはいっ、ありがとうございます。」


 こっちを見ながら微笑んで言うリアリに、シュンは興味深い内装に気を取られて返事をし忘れそうになった。

 しかし、上を見上げると橋のようなものがいくつかあるが、肝心のそこに行く階段のようなものがない。こういう構造の建物は螺旋階段のイメージがあったが。


「り、リアリさん。あの上のやつは……?」

「うえ……? ああ、あれも通り道なんです。たまにねふーーここの騎士団の方たちが、飛び降りたり登ったりして特訓しているんですよ。」

「特訓してるの⁉︎」


 やはり迷宮だし、身体能力も異世界ファンタジーだった。



 アレやコレや話しながら複雑な王宮内を歩いていたら、いつの間にか医務室についた。ごちゃごちゃとした廊下の片側に佇む、なんだかこの世界では珍しそうな引き戸をリアリは何回かノックする。


「ゼリュさーん。勇者さま連れてきましたよー。」


 声量を少々上げて言うリアリに、「入りなー」と適当な感じの低い女声の返事が聞こえた。

 少女が戸の凹んだ部分に指を挟み、横にスライドさせると、部屋の中の本棚や薬品の棚が並んであるのが見えた。

 だが、まず最初に目にーー鼻についたのは、煙草の臭いだ。


「なんだ。『勇者』と言うからもっと屈強な男とかだと思ったぞ。まだガキじゃないか。」

「ガキって……これから強くなるんです! まだまだちぃちゃいですけど」

「えっ」


 まだまだ伸び代があるということなのか、それとも年齢を低く見積もられているのか。シュンはまず後者を想像してしまった。

 入って部屋の奥と左側にはずらりと本棚や薬品棚が並んでおりーー、正直なところ本も薬品の瓶もごちゃまぜに収納されているので、「本棚」とまとめて言うのは誤りである。無造作に置かれたいくつかの長方形の机にも、書物やら医療道具やらが乱雑に積まれていた。右側の壁には珍しく窓があり、その前には白いシーツの寝台が置いてある。


「それにしても酷い姿だな、ハナシはあとで聞くとして……リアリは別に用事があるだろ?」

「はい、私はそっちに行きますね。ちょっと心配ですけど。」


 女医の態度はとにかく偉そうで、少々怖い。

 しかし、リアリも暇ではない。さっき話を聞いた限りだと、仕事はかなり忙しそうだった。この女医と二人きりになるのは不安だが、仕方ない。


「では勇者さま、出来るだけその人の言うことに従ってくださいね。一応、お医者さまはもう一人いるのでーー」

「いいや、ボクがやる。リアリは早く出てってくれ、しっし。」

「…………。」


 少女の言葉を遮って、女医は少々苛ついた様子で退室を促す。

 リアリにもその苛つきは伝染した感じはするが、言われた通りすぐさま部屋を出て、戸をぴしゃりと閉めて行ってしまった。

 その様子を見送っていたシュンの頭に、何かが投げつけられる。


「!」

「キミはまずそれで身体を清潔にするといい。血や嘔吐物が付着しても構わない。新しい着替えも用意しよう、恥ずかしかったらそこの仕切りの裏で着替えるといい。」


 あたたかい濡れタオル。それと、指示が一気に来て脳みそが一瞬だけごちゃごちゃになった。

 女医の後ろ姿を見る。やはり医者なので白衣の姿で、スカートとタイツらしきものの組み合わせを履いている。

 とりあえず、人に見られながらの着替えというのは落ち着かないので、部屋に入ってから左にあった仕切りの裏に行く。隣にはすぐに棚があるので、着替えている最中に腕をぶつけそうで怖い。

 まず、傷口に触れないように顔を拭き、その次に頭を拭き、一旦タオルを地面に置いて服を脱ぐ。背中の痛みと重みで脱ぎづらい。

 ちょうどそのタイミングで、


「ーー!」

「これに着替えるといい。キミ、意外と恥ずかしがり屋さんなんだな。」


 仕切りの前の床に、ぽすっとその着替えが投げられる。

 女医の台詞は無視しつつ、その衣服を拾い、着替えに集中する。

 少し時間がかかり、ようやく上半身を裸にすることができた。当然、背中は痛い。上半身を拭いて、替えの衣服に手を伸ばす。しかし、下半身の下着と半ズボン、靴下はあるものの、上半身に身につける衣服はひとつもない。


「……ぁ、あの、ーー」

「なんだ? 上裸に纏う服なら後ででいいだろう。背中の診察をするんだから。」

「あ、そっか……。」


 あまり人に肌を見せる機会がないので、今日あったことを忘れかけていた。

 先回りして答えを言ってくれる女医に、ここに来てから一番最初に出会った兎の少年を思い出す。ズボンを脱ぐ際、背中を丸めるので、ずきずきと走る痛みを我慢しつつ着替える。

 そういえばと、ズボンの中に残っていた謎の手紙と携帯も取り出す。やっぱり両方とも汚れてしまっている。


「そうだ。顔にも傷があったから準備しないとな……。」


 女医の独り言を聞きながら、ようやく足も拭き終わって替えのものに着替える。

 仕切りの端からそっと顔を出して、「着替え終わりました……」と言うと、


「んじゃ、まずは……ここに座ってくれ。嘔吐物がついてるのは放っておいてかまわない。」


 ごちゃごちゃとしたこの部屋では椅子の上も物置になっているため、女医は椅子の上のものを乱雑に落としてシュンに目を向ける。落とされたものは物は本や何かの書類だが、大丈夫だろうかと、シュンはそれに目を向けながら、女医の目の前にある硬い木の板のスツールに腰を下ろす。


「では、傷の消毒から……なんだ、ボクの顔になんかついてるか?」

「いや……、ちょっと、気になっちゃって……」


 さっきからずっと思っていたことだがーー女医の持っているそれから、シュンは目を逸らす。


「お医者サマが喫煙をするのはおかしいか?」

「えっと……」


 煙の出る、薄茶色の紙が巻かれた煙草らしきもの。

 患者の身体を気遣う医者が、喫煙をするのは確かに珍しい。医者になればその知識から煙草をするはずがないと思うのだが、知っている臭いは部屋中に広がっていた。

 それともこの世界では煙草に対する意識というかが、違うのだろうか。


「まぁ、そっちでは見たことがないのだろう。ボクはただ仕事の合間などに、休憩の効果を十倍にするくらいの気持ちでいるのだよ。」

「……いまガッツリ吸ってるんですが」

「それは休憩中にキミらが押しかけてきたものだから。それに、これはヤクの含有量が少ないので、値段も安くておトクだぞ?」


 ごちゃごちゃと何か準備をしながら、楽しそうに患者に喫煙を勧めているかもしれない女医に、シュンは心の中で「えぇ……」と声を漏らす。


「まぁ、冗談はさておき。受動喫煙は良くないからな、換気だけはしてやろう、よっと」


 そう言って寝台奥の窓のカーテンを開き、窓を開き、戻る前に一服。外はもう真っ暗だった。

 元の椅子に座り、隣の机に置いてある灰皿に吸いかけのそれを押しつけると、


「自己紹介を忘れていたな。ボクはゼリューだ。そしてここはボクの私室兼診察室兼寝室だ、ボクの家だと思え。ちな歳は二十五で、喫煙と飲酒が好きなヒトだ。」


 足を組んで、相変わらずの上から目線で言うゼリュー。

 四角い形の眼鏡の先は、夜空のような藍色の瞳をしていた。結んだ緑の長い髪を肩に乗せて流し、少しだけ白衣を着崩しているような格好をしている。そして好物が不健康すぎる。


「でもってここはトペリ有数の診察室だ。たまに下の教会からキミのような鼻汁垂れたガキも来たりする。おかげで毎日クソ忙しい。ついでに言うが、今この時間はボクは勉強をしているんだぞ。貴重な時間を割いているのだからありがたいと思え。」


 かなりのヘビースモーカーな気はするのだが、そのマシンガントークのブレスはどこで入れているのだろうか。

 声は大人の低い女声なのだが、話す言葉の節々からは少々子どもっぽさを感じる。


「さて、勇者の初対面で思ったが、やはり特殊な虹彩をしているのだな。」


 ようやく自己紹介が終わったのか、シュンの赤い目を見ながら、ゼリューはカルテらしきものを片手に持って話す。


「どうだ? 専門ではないが、やはり極端な不安症、自傷行為、希死念慮などはあるのか?」

「な⁉︎ ないですけど……、何でそんなことを……?」


 そういえば、不老不死の少年にも「病んでるのか?」と訊かれたような記憶がある。


「狂人の眼の色だと言われている。めちゃくちゃ疲れてる奴とか、ヤバい経験をしてなんか萎えた奴とか、そういった精神疾患を持っている奴とかがなるらしい。ボカァ専門じゃないから知らんけどー。」

「はぁ……精神疾患……」


 確かにさっき、トラウマになったような思いをしたが、シュンのこれは、全くの生まれつきである。

 今までは充血していると思われたり、周りと違っているので変に思われたりしたら嫌だなと思い前髪を伸ばしていたが、こっちではもっとやばいやつだと思われるらしい。

 しかし、勇者という特別な立場もあるわけでーーこれからどうなるか、わからないことばかりである。

 よそ見をしてそんなことを考えているとーー


「つーん。」

「!」


 傷口に何かが触れる。

 いつの間にか準備していたらしい、ピンセットに挟まれた白い綿を当てられる。


「傷口の消毒だ。滲みると思うが我慢しろよ。」


 にっこり笑顔でそう言うゼリューに、どこかあのサイコパスを思い出し、シュンは目を伏せる。なんとなくこの人は、あの女に似ている気がした。

 傷口がぴりぴり痛む。


「そうだ。この傷もだが、一体なにがあったんだ? 誰にやられた?」

「ーーえっと……」


 シュンはそう前置きして、今日あったことを話す。

 街中を歩いていると、いきなり暴風が吹いてきて睡眠剤を撒かれたこと。ある少女に二の腕のあたりを注射のようなもので刺されて、吐き気が止まらなくなったこと。その後はーーという具合に。


 話している最中も処置は続けられており、頬と首の傷を塞いだ後、紙に書くからと言われて話した内容をまた最初から話す羽目になったりした。

 念のため注射を打たれた箇所も処置をするから、と言われた際も、また一から話すこととなった。


「ーーっていう感じです。」

「初日から忙しそうだなキミは。」

「いそがしいとかの次元じゃないんですが……」


 今日だけで一年分くらいの疲れを蓄えた気がする。特に嘔吐を繰り返すときは、身体の中身を全て空っぽにする勢いだった。


「それでは背中の診察といこうか。どうだ? 横になるか?」

「……あの、ここってゼリューさんの……寝室……?」

「そうだが?」

「ベット一個しかないんスけど……」


 部屋はごちゃごちゃとしていて、その中にひとつだけある窓際の寝台(ベッド)をシュンは指を差して言う。


「なるほど、それは異世界語で『べっと』と言うんだな。一応書いておこう」

「診察台と自分の寝るとこ一緒にしちゃって良いんですか……?」

「ボクは基本机に伏して寝るぞ。」

「えぇ……。」


 女医の健康に逆らっているような生活習慣に、シュンは引いた。

 ついでに日本語の外来語が異世界語扱いされていることを今知った。


「マ、患者が寝るところだから清潔にはしているぞ。ってなわけで、はやくここにうつ伏せで寝ろ。」

「あぁ、はい……」


 立ち上がってカルテの紙を新しくしているゼリューを横目に、シュンは少しだけ心に詰まりながら、枕に顔を埋めるようにして寝台に横になる。


「わお〜、これは随分と改造されたなァ」

「改造……?」

「背中に埋められたんは魔力の蓄積鉱だ。一応臓器を傷つけないようにぶち込まれているがーー犯人は随分と丁寧だな」


 シュンの背中の、皮膚の疾患のようにところどころに生えている水色の鉱石。石の表面は意外に滑らかでつるつるとしている。

 埋め込まれた箇所は身体の正面で例えると下腹部の辺りで、背骨を避けて右側に二つ、左側に一つ、大体五センチから十センチメートルほどの大きさで円形。内臓を圧迫する形であるが、どう埋め込んだかは不明である。


「ひぐっ……!」

「おっ?」


 指でやんわり押してみても痛いらしく、シュンが小さく悲鳴を上げる。

 その様子に何か閃いたのか、ゼリューはカルテに手を伸ばす。


「ふむ、背には蓄積鉱が埋め込まれており、指で押してみると勇者が無様な啼き声を上げるので面白いっと。」

「真面目にやってくれる……?」

「ボクはいたって真面目だぞ? ところでもう一回やっても」

「やめてください。」


 こんなことに楽しさを見出されては困る。シュンは女医が言い切る前に冷たく拒否をする。


「マ、ジョーダンはさておき。勇者は意外と頑丈と聞いたので放置でも良いだろう。いずれは順応して、感覚がないだけの謎のばしょになるだけだ。鎮痛剤は出そう。」

「えっ、取り除いたりは……」

「ボクは出来ないしする気もない。命に別状はないし、手術した後に器具を体内に忘れたみたいな感じだろ。それに、どうせなら有効活用ができる。」

「それマズいんじゃ?」


 頭に疑問符が浮かびまくっているシュンに、ゼリューはカルテに図を描き始め、ちらちらとシュンに見せながら話す。


「キミに刺さってんのは魔力を溜めることの出来る石だ。こういった蓄積鉱は大気中の魔力を少しずつ吸いこんで溜める性質がある。これを、魔力を放出する機器に繋ぐと魔法を使うことができる。」

「えぇ〜、すごい」


 石らしきマルを描き、魔力を放出する機器とやらをおそらく四角で表現、それを線で繋ぐ。

 ついさっき彼女も改造と言っていたし、昼間ラディアから聞いたように、魔法が使えるようにされたのかもしれない。その分、とてつもなく恐ろしい思いをしたが。


「ただ、これは普通に蓄積鉱単体で使った方が楽だ。」

「えっ、」

「容量も単体の方が大きいはずなのに、」

「ぇ?」

「わざわざ薄く加工したのを人体に埋め込めるのは、犯人の意図が不明だな……」

「…………。」


 確かに、魔力はあっても自分で放出ができなければ機械に頼らなければいけない。

 ーー結局、擬似的にしか使えないし、価値も意味も無さすぎる。本当に何の意味があるのだろうか。


「こんなことをしても普通以上にすらなれないのに。ーーまぁ、いざとなったときに使えるかもしれない。これは吸熱反応系の鉱石だから、少しの間だけ冷凍庫を稼働させるくらいなら……」

「地味すぎない……?」


 どうせならもっとかっこいい使い道が欲しかった。膨らんでいたはずのロマンがどんどん縮小していく気がする。


「系統もそうだし、謎は深まるばかり……。ってか、今日めちゃくちゃ吐いたんだよな。具合はどうだ? 下痢とか、飯はーー今は食えないと思うが」

「下痢はしていなくて、食欲は……よくわからないです」

「え、下痢ってないの。薬剤で引き起こしたからか……?」


 そういえば、数時間前に腹が物理的に捩れるくらいに吐いてを繰り返していたのを思い出す。口から中身をほとんど出し切ったのだろうか、あれからは排泄もしていない。


「まぁ、念のため今日は点滴だ。ご飯も風呂も今日は無し。キミ、起き上がれるか?」


 いったん背中のものの話は終わって、起き上がるのにつらそうなシュンをゼリューが手伝い、座った状態にさせて


「それじゃ、今日はもう寝よう。疲れただろうしな。」


 のんびりとした言い回しをして、準備をし始めた。


     *


「ここが、今日のキミの寝床だ。」


 王宮内をまた少し歩き、とある個室にたどり着いた。

 ゼリューが壁にあるボタンを押すと明かりがつく。診察室とは全く違う、ひとつの寝台と医療機器のようなものだけの空間。右奥側に寝台があり左側に備品がずらりと並んでいる。奥の枠の中には夜の世界が広がっていた。


「なんか、特殊な治療とかのための部屋じゃないんですか?」

「そうだ。帯状疱疹の患者とか、ここで診察したりする。隔離の必要がある患者の第二の診察室兼、機器の保管室兼、今夜はキミの病室だ。」

「ちゃんと分けようよ……。」


 ゼリューは患者に指を差しながら得意げに言う。

 色んなものを一箇所にまとめるのが好きなのか、この建物の部屋数が少なくてこうなってしまっただけなのか不明だが、シュンは呆れたように返す。


「じゃ、少し待っていろ。すぐに終わる。」


 女医は左側の手前にある冷蔵庫らしきものの扉を開け、点滴のパックを取り出す。その間シュンは、とりあえず寝台に座っていることにする。点滴の台を一つ選んで運び出し、パックを吊り下げるようにした後、不透明のチューブを繋げる。

 見覚えのある形だが、パックもチューブも不透明だ。プラスチックだったような部分は、何の素材で代用しているのだろうか。

 点滴の台と、注射の際に使うような小さな台をシュンの前に並べ、


「さて、どっちの腕でするかな。ちなみに利き手はどっちだ?」

「左です。」

「めずらし。じゃあ右にしよう。腕を上にして。」


 小さな台を右手側に準備する。シュンは上衣の裾を捲り、それに乗せると、女医はチューブに繋がった針を腕に刺して、針とチューブをテープらしきもので留める。


「あ、枕の位置的に……まぁ、枕は好きに移動してくれ。一時間後くらいに外しに行く。辛くない体勢で、安静にしていろよ。」

「はい。……あの、」


 やることを終えて、欠伸をしながら扉の方へ向かっていく女医を、シュンは呼び止める。


「今日は、ありがとうございました。」


 笑みを浮かべて、礼を伝える。今日のことはすべて運命の悪戯のせいだが、それでも色々助けてくれたことには変わりなかった。

 女医は特になんの表情も変えないで、顔だけこちらを見ている状態で静止すると、


「ーー言い忘れていたけど、便所は隣にある。」

「ぇ、はい。わかりました」

「おやすみ。」

「お、おやすみなさい……」


 突拍子がなくてびっくりしてしまった。

 消灯をして、寝る前の挨拶をして、部屋をあとにするゼリューに呆然とした挨拶をしかえして、部屋に静寂が訪れる。

 同時に、ようやく今日が終わったことに気づく。

 ーー実に長すぎる一日だった。


「ーー」


 少しの間、座ったままぼうっとする。

 月明かりの差し込む窓の外を眺める。

 そうやって数十秒、シュンは今日の幕を閉じようと寝台に横になろうとすると、ようやく枕の位置を変えなければならないことに気づいた。

あとがき

 今回の話は約二万文字と、少々長くなってしまいました。けれども、どんな作品も人によっては長くも短くも感じるよね、ともおもいます。キャラクターも沢山いたし、投稿する日が近づいてきたら一気に書くのですごく大変だった。


 設定の確認をするために前話の小説を読むんですが、「あれ? これ伝わっているのかな。」という文章がいくつもあり、非常にうんこな気分になりました。それで書いている途中も何回か気分が落ち込んだりして、大変な思いしながらなんとか書いたんですけど、全く嬉しくないです。ただ書きたい場面がめちゃくちゃ遠くに、確かにあるので投稿しただけーーいわば、ぐちゃぐちゃの汚泥で土台をつくっているだけという。いずれ綺麗に書き直そうと思っても、気に入らないを繰り返すんだろうなぁ……。これを読んでいる、画面の前のひとの感想を聞いてみたいけど、この小説は上辺だけの会話と設定の垂れ流しみたいなものだと気づいてしまった。技量がない、でも書けて嬉しい。きっと作者は偉い。

 今回の作者の偉いポイントは、まず色々調べました。特に嘔吐と点滴。吐いた後にどうすれば良いかとかをめちゃくちゃ調べました。ふつう嘔吐をした後は下痢をするんですが、ファンタジー作品はフィクションを言い訳にすることが出来るぜ! 医学にはあまり興味ないのですが、やはり知識はなくてはならないものだと学びました。ちなみに、点滴のパックを吊るすスタンドはイルリガードル台と言うらしいです。


 余談ですが、キャラクターの持っているもの全てには、用途や意味を持たせたいなと考えています(あと浪漫)。たとえばラディアの杖ですね。かれは魔法使いでないし、そもそも持ってくの邪魔だし、そして契約の炎は自由に操れるので、ランプに入れる必要は無いーーという、ただの浪漫の塊みたいなもの。ある場面で没にした会話の台詞で、「念のために、三本目の足を用意している」みたいなのがあります。これは二話の冒頭にいれるべきだったなぁ、と今おもいます。ランプの容器は、誰かから貰ったんでしょうね。


 今回は、あとがきがうんこになったり、主人公が吐きまくったりで汚いなぁ。

 今きづいたんですが、三ヶ月周期で投稿しています。次回も三ヶ月後くらいです、たぶん。いそがしいので環境を整えながら書こうとおもいます。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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