思い出の説法
たまに思い出しては、気を付けないとなーと思わせてくれる方のお話。
奴隷が二十歳くらいの時、実家の菩提寺へ家族と赴き、当時の住職から説法を聞いたことがあります。
この当時、すでにプロテスタントであることをやめていた奴隷だったんですが、然りとて積極的に改宗するつもりもなく、この時はお付き合いでお寺へと参っていました。
この時の先々代のご住職様はもう鬼籍に入られてしまっているのですが、大変に立派な方でした。
一般的な家庭にお産まれになり、普通に就職された後に仏門に入ったそうで、仏門に入られてより、酒もタバコも肉食もお止めになり、妻帯されることもなく、当時は40代を越えておられたと思うのですが、清貧を絵にかいたように過ごされていましたね。
穏やかで人当たりがよく、とても見目の整った方で、小柄で威圧感はないのですが、アルカニックスマイルと呼べばよいのか、慈愛に溢れた表情を常にされておられて、自然と温かい気持ちを抱かせてくださる素晴らしい方でした。
亡くなってしまったと聞いたあとの話では、じつのところは宗派のもっと上の地位につけるだけの知識と尊敬を集めていたそうですが、ご本人が地域の住職として、檀家の皆さんと一緒に頑張りたいと、昇進を蹴っていたそうで、本当に頭が下がりましたね。
そんな住職様の説法で忘れられないお話があります。
-もし、船が難破して、乗っていた人が荒波に放り出されてしまったとしましょう。
皆さんは救助船に乗っていて、溺れている人たちを引き上げているとして。
「あっ、こいつは悪いやつだから、後にしよう」
と目の前の人を後回しにしたり。
「あっ、あっちに良い人がいる、先に助けよう」
と遠くにいる人をわざわざ先に助けようとしたりしない筈です。
目の前の人から手当たり次第、兎に角、全員を順番に助けていくでしょう。
人間だって、そうなのですから、御仏も当然に目の前の人から手当たり次第に助けてくれるのです。
善人も悪人も関係ありません。
ただ、どうしても功徳を積み、悟りを開くほどに御仏に近づくために、先に助けて貰えるだけなんです。
御仏は全ての人を救ってくださるように、皆さんも分け隔てなく、全ての人に心を砕きましょう。
ただ、人には限界がありますから、無理はしてはいけませんよ。―
こういった内容でした。
いやー、仏教の「信じてなくても救われる」を分かりやすく、納得いく説明で、ご住職自ら説法されるなんて、と驚きましたよ、当時。
仏教って、究極、一切の救済を唱える宗教なので、信じてなくてもいいんですよ。
最後には全て救われるって教えなので。
でもね、それを説法で話しちゃうのって、「何だ、信じてなくてもいいんだ」って、檀家さんたちとかに思われたら、色々と不味いですから、普通はしないんですよね。
それをお話になり、それでも信仰心の大切さと、それを踏まえて「自分の心や生活」と信仰との折り合いをつけて、無理はしてはいけませんよと諭して下さる。
それでいて、ご本人は近所の檀家さんの話では朝の4時には境内の掃除をされていて、お手伝いに来る近所の方々より、常に早起きで、掃除が終われば朝のお務め(読経を2時間)して、そのあと心身を清めて、昼に参拝に来られる信徒さんをお迎えになり、それが終わるとまた読経、境内の清掃、心身を清めて夕方から参拝に来られる信徒さんをお迎えになって、信徒さんがお帰りになるとお手伝いさんたちと清掃をして、読経してから就寝。
まるで修験者みたいなストイックな生活してるのに、「自分はとても恵まれて幸せなんですよ」と檀家さんたちとご飯を一緒に食べにいったときに仰有ってましたね。
宗教というものは、時に人を地獄へと落としますが、出逢い方、指導者、自分の在り方、そういった事が噛み合うと、素晴らしい人生の指針にもなりうるんですよね。
奴隷は小学生の時にキリストの山上の垂訓を聖書で読んで、自分の生き方の参考にしたことでプロテスタントになり、結果として信仰は捨てたものの、その考え方は残りました。
二十歳の頃にご住職様と出逢い、色々とご指導いただいたことも、とても良く覚えております。
信仰とは自分の在り方を託すことのできる「何か」を持つことなのかなと思っています。
最近では、我が家の猫たちが奴隷にとっての神様です。