第54話 唇
娼婦の館の裏には水路がある。飲み水に使うキレイな水ではなく、洗い物の後や湯浴みの後などの水を流す排水路だ。
館の裏側にある、湯を焚く場所や、台所を通り過ぎて、スペックが言う危険なアンデッドを探していく。
店の裏に続くドアを開けると、玄関のようなキレイな作りでなく石を敷いたり、土を押し固めた土間になっている。
左右に部屋があり、片方は沢山お湯を沸かして湯浴みをする別室に送っている。反対の部屋は食事を作る台所だが、沢山の従業員だけでなく客にも食事や飲み物を提供する事もあり、かなり広い作りをしており、数人の男性従業員が無言で火の番をしている。
「だんな、裏に出てみてくれ」
リッカは無言で頷くと、土間を奥に進んでいく。
薪が積み上げられている場所を抜け、裏の勝手口のドアを開けると、水の音が聞こえてきた。
「ここだね」
「さっきここに居たんだ、俺みたいなやつ」
ドアの奥には水路があった、綺麗な水ではなく少し濁った水が流れている。飲んだり料理に使うようなキレイな水ではなく、洗い物や湯浴みの排水を流している要するに排水路がここだ。
水路の左右に伸びる狭い道は洗濯物の干場も兼ねているのだろう、道の端から2階の窓あたりまで洗濯物がかけられてゆらゆらと揺れている。
建物の合間の水路なこともあり、月や星の光もあまり届かない。
「いなくなっちゃたか?」
「排水とかの近くだと負の想いが残りやすいからね、その辺にいるかも」
リッカは目を閉じて、周辺の魔素を探っていく。
いくつかの魔素溜まりや、負の想いが残っている場所は感じられるが、スペックのような幽霊は周辺に見当たらない。
「あれ? いないなぁ」
「だんな、あれは?」
スペックが水路の方に手を向けると、水の上に黒い魔素が泡のように浮かんでいる。
「何だあれ?」
リッカが不思議に思って黒い泡に視線を向ける。
その瞬間黒い魔素に唇が現れた、1つ、また1つと唇が増えて行く。人で言う、口の位置、目の位置、頬、額と次々と唇が増えて行く。
「な、やばい奴いただろ」
「間違いなくアンデッドだね、スペック周り見てて、人が来たら追い払ってよ」
「はいよ」
大量の唇に覆われた幽霊は立ち上がり、水路を歩いてリッカの元へと向かってくる。
唇は顔ばかりではなく、腕や足、胴体にも無数に浮かび上がっている。それぞれの唇は呟くかのように蠢いて、視方によってはナメクジの大群のようにも見える。
リッカはローブのポケットから清めの酒の瓶を取り出し、衝撃と炎の魔術媒体もすぐに抜き出せるようにする。
「なん……で……」
「ユ、サナ、イ、ユル、ナ、イ」
「ウゥゥ」
「こ、ロ、て、ヤる」
近づいてくるにつれて、唇1つ1つが別々の言葉を垂れ流す。
さっきまで娼婦の館で払ってきた負の感情の魔素を全て集めたような幽霊が、水路に降りるための階段を上がってくる。
リッカは片手を上げて、幽霊に向かって手のひらを向けて魔素を操作していく。想いが消えて行くように、世界に還るようにと願いを込めて魔素を動かすはずだった。
「おかしい、動かない」
「コロ、てやる」
「ユ、サナイ」
リッカが魔素を操るが、幽霊の体である魔素が消えて行く様子が無い。
階段をあがりきった幽霊はリッカの方を向く、それと同時に全身に無数にある唇の全てが大きく口をあけて、一斉にがなり立てる。
「なんで! なんで!?」
「コロシテヤルコロシテヤル」
「ユルサナイ! 許さない!」
意図的に魔素の波長をずらして、声の影響を避けようとするが、1つ1つの唇が放つ呪詛の言葉と負の感情のどれかはリッカに流れ込んでくる。
思わず耳を抑えたリッカは体が重くなり、足が動かなくなっていく。
「なんだ? あれ? 足が!」
一歩、また一歩と体を揺らしながら幽霊は歩いてくる。リッカに向かってその手を伸ばしながら、命の無い負の感情に支配された体に巻き込もうとしているようにしか見えない。
動こうにも、足が言う事を聞いてくれず動けない。リッカは動かない自分の足を見るとそこには地面から腕のような魔素が伸びて足に絡みついている。そこにもいくつもの唇が付いていて、呪詛の言葉を吐き続けている。
「イショ、イッショ!」
「も、あな、も、あなた、も」
「この!」
清めの酒を自分が濡れるのも構わずに腰から下にバシャリとかけてから、普段より強めに法術をかける。
「うぎゃぁあ!」
「イタ、イ、イタイ!」
苦しむような声を残しながら、黒い魔素は溶けるように消えて行く。
自分の足を止めている魔素を散らす事に集中していたリッカは、いつの間にか目の前に来ていた幽霊に気が付かない。多数の唇を持つ幽霊がリッカに向かってその手を伸ばしていた。
「だんな危ない!」
「え? うわぁ!」
上半身をねじって、突き出された手を交わすと転がるようにして幽霊から距離を取る。
幽霊は地面を滑るかのように、離れた分の距離を一気に詰めてくる。
「あ、なた! あな、たも!」
「ヨクも!」
「こっ、コッチ、きテ」
「だんな! そいつ地面の上だと早いぞ!」
内心、早く言ってほしかったと心の中で文句を言いながら、まだ瓶の中に残っていた清めの酒を転がりながら周囲にまき散らす。真っ黒だったリッカのローブもホコリや土が付いて、茶色と黒のまだら模様に変わっていく。
服にも顔にも汚れが付く事を気にせずリッカは瓶を投げ捨てて、火の魔術媒体を抜くと同時に炎を放つ。
「ごめんね!」
「ア、ア! アァッァアア!!
炎に触れた魔素は炎と変わり、苦しむ声と共に空中に散っていく。さらに魔素を操り、ぶちまけた清めの酒を媒体にして魔素を薄めて行く。
「うっぷ、でもまだまだ!」
「ア! アァ……」
「だんな、もうちょっとだ!」
昼間から修行で一度限界まで法術を使っている。魔素の使い過ぎの酔いが出始めているが、それどころではない。
無数にあった唇が見えなくなり、黒い人型のシルエットがどんどん薄くなり、声も聞こえなくなる。
リッカが火の媒体を止めると、周囲には水路を水が流れる音だけが響き、静かな夜が帰ってくる。
「はぁはぁ、うっぷ」
「だんな、大丈夫か? バケツいる?」
「うっぷ、いらない、泥落とすからバイオレットさんにお湯もらってきて」
「はいよ、ちょっと待っててな」
スペックが体を霧のようにして扉をすり抜けて、カルアとバイオレットの所へ向かう。リッカは溜息をつきながら、投げ捨てた清めの酒の瓶を拾い、魔法媒体をローブにしまう。
「ふう、ん?」
周辺の魔素が僅かに動いたような感覚があり、キョロキョロと周辺を見回す。
魔素を探ってもいいのだが、使い過ぎの今は少しでも魔素の操作は避けたい。目で見ながら違和感の正体を探っていく。
「うっ、ウソだと思いたい」
リッカが水路に視線を向けると、唇が無数に浮かび上がった黒い幽霊がこちらを向きながら水の上をゆっくりと歩いている所だった。
明日は金曜日、定期更新の日なのでよろしくお願いします。
更新時間遅くなるかもしれませんが、キチンと更新できるように頑張ります(^^ゞ




