第53話 こびりつき
娼婦の館に残っているのは、負の感情に支配された魔素ばかり。嘆き悲しむ感情を染み込ませた魔素があちこちにこびりつき、生霊となりかけていた。
リッカとカルアは娼婦の館の個室を回っていく。ある部屋には悲しみが、ある部屋には苦しみが、そしてある部屋には自身の境遇に対する嘆きが、様々な負の感情が塗りつけられたかのように残っている。
中には生霊のようになり墓守達にとっては身近なアンデッドに近くなった想いまである。
「なんで……なんでなの? なんで…」
「もう苦しまなくていいからね、世界に還ろう」
部屋にこびりつくように残っている負の感情に支配された生霊。
そこで、負の感情を体験し、人には見えぬ姿で負の感情をまき散らす事を続けている。リッカは部屋の魔素を払い、薄めて世界へと還していく。
例え魔素の支配力が高い幽霊がいたとしても再び集まる事の無い程に、一滴の黒い滴が海と混ざり、黒ではなく透き通った青へと姿を変えるように。こびりついた黒い想いを夜の空に還していく。
「な……ん……」
「さようなら、今度は幸せな感情を乗せてきてください」
リッカが祈るように組んでいた手をほどくと、部屋の魔素が一気に薄くなって空気がガラリと変わる。
汚泥のような空気が窓を開け放った時のように入れ替わるのを感じさせる。
「空気が変わったね、ここには誰か『居た』のかい?」
「いえ、ただの生霊です。だれもいませんでしたよ」
バイオレットとリッカのやり取りを固い表情で聞いていたカルアが部屋の中を見回して、端に積んである布を動かし始める。
「カルアさん、どうしました?」
「いえ、この辺から奇妙な感じが……あっ!」
カルアが布の中から持ち上げたのは一本の小さな刃物だった。使い込まれて、持ち手の近くにはサビが浮かんでいるのに、刃の部分だけは新品のように冷たい輝きを放っている。
「お嬢ちゃん、ちょっとそれ見せておくれ」
「えぇ、なかなか性格悪いですね」
「カルアさん……」
リッカは言葉を続けようとして止める。
そこにはこの部屋に残っていた黒い想いとは別の想いが乗せられている事に気が付いてしまったからだ。カルアは敏感に刃物に宿る想いを感じ取り、その意図まで汲み取っていた。
熟達しているはずのリッカよりも敏感に感じ取ったカルア、それは貴族という世界で生きてきた事やカルアが女性だったからこそ感じ取る事ができた想い。
「これ、この部屋の子の物じゃないね」
「嫉妬や妬みですわ、怖がらせてやりたいって意地の悪さがこびりついてますわよ」
「どこの部屋の物かわかるかい? 私も検討は付くけどさ」
「そこです」
スッとカルアが手を上げて、斜め向かいの部屋のドアに指を向ける。それをみたバイオレットは頷きながらも溜息をつく。
「やっぱりか、あの子性格悪いんだよ」
「あの部屋にこびりついている嫉妬の想いとつながっていますからね」
「私が見つけた事にして、キツく言い聞かせないとね、店も変えてもらうよ」
淡々と話を進めるバイオレットとカルアの姿にリッカは背筋が寒くなる感覚を感じていた。
「だんな、女って怖いな」
「うわぁ! スペック脅かさないでよ」
「屋根裏には何もいないぜ、ネズミがちょこっと通り道にしているくらいだよ」
天井の通気口から顔だけをのぞかせたスペックがいつもの調子で話しかけてきた。
「おや、相棒さんも出てきたのかい? ネズミが居たなら、これ撒いてきておくれ」
バイオレットがネズミ避けの薬瓶を取り出してリッカに手渡す。リッカから瓶を受け取ったスペックは通気口の中へ吸い込まれるように消えて行く。
わざわざリッカを通してスペックに瓶を渡したのは、バイオレットにはスペックが見えていないからだ。リッカとカルアはスペックが瓶を受け取って通気口へと運び込んだのが見えていたが、バイオレットからは勝手に瓶が浮かび上がって通気口に消えていったようにしか見えていない。
そんな不気味な光景を見ても平然としているのは、バイオレットの胆力というか、墓守との付き合いによる慣れなのかは分からない。
「いつも思いますけど、バイオレットさんケロッとしてますよね」
「夜の世界に生きてりゃ、幽霊より怖い人間がゴロゴロしてるからね」
「貴族の世界も似たような物ですわ、悪魔より恐ろしい人がウジャウジャいますわ、特に女は怖いですわよ」
「そうそう、女は怖いもんだ、それに比べりゃ男の幽霊なんて怯えるもんじゃないよ」
「スペック……女って怖いね」
カルアが先導する形で、館の中にこびりついている負の想いを乗せた魔素を次々と払っていく。
大体の部屋にある魔素を払った事で、最初に感じた室内とは違い、心地よさをも感じさせる程にその空気は大きな変化を与えていた。
館の中のほとんどを見回った後だが、最初に感じた幽霊の姿は見えないままでいた。その事がカルアには引っかかっていた。
「おかしいですわね、幽霊が居ません」
「居るぜ、全く鈍いな」
「スペックさんじゃありませんわよ」
「俺じゃないって。まだ裏見てないだろ? そこに居るぜ」
通気口の奥にネズミ避けの薬を撒きおわったスペックも戻ってきた。
スペックは幽霊が居ると言って、店の奥を指さす。その先にはいつでもお湯を使えるように火を焚いて大量の水を温めるための部屋があった。
当然沢山の水を使うため街中に張り巡らされている水路にも面しており、洗濯場や厨房にもなっている。
「だんな、久々にやばいの居たぜ」
「久々に言われたね。じゃ、カルアさん、バイオレットさん、裏には僕が行ってきますから待っててください」
「え? いや私もいきますわよ」
「ダメです。スペックがこう言う時は大体、本当に危ないですからね」
リッカは表情を硬くして、店の裏に続くドアを開け、明かりもついていない暗い通路に踏み込んでいった。
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