折り紙のドラゴン
1
ぼくの家は古くて、屋根裏部屋には何百年前のものなのかはっきりしない、なんにつかうのかもわからないガラクタがたくさんホコリをかぶっている。
ときどき屋根裏部屋にあがって、変なものを眺めながら、あれこれ空想してみるんだ。なんでも、うちの一族は、代々魔術師をやっていたんだとか。名字の「クウェンチ」も、ご先祖が火事を魔法で消しとめたことに由来しているんだって。お呪いを仕事にしていたのはお祖母ちゃんが最後だけど、当の本人はいまも元気で、薬草園をやっている。
古い一族の中には、魔女裁判でテムズ川に流された人もいるらしい。そんな迫害から逃れるためにいったんロンドンからはなれ、だから一六六六年の火災は大惨事になったのだ、と一族史に書いてある。なんか負け惜しみくさいけど、でもうちにロンドン大火以前の記録が残っているのはたしかだ。家の築年より古くて、なによりロンドンに居つづけていたら焼けてしまっていたはずのものが。ロンドンに残っていたら大火が防げたのかはべつとして、一時期よそに引っ越していて、大火のあとに戻ってきたというのはほんとうなのだろう。
今日、学校から帰ってきたら、国際郵便の封筒に入ったお祖母ちゃんあての手紙が届いていた。お祖母ちゃんもいまでは電子メールしか使わないし、お客さんの中には外国の人もいるようだけど、こちらからハーブを発送することはあっても、向こうから物理的に郵便がきたのを見たのははじめてだった。
送り主の住所は、日本のキョート。名前は……キクエ=シチジョウ、さん……かな。ちょうど午後のティータイムで、お祖母ちゃんは家に戻っていた。
「お祖母ちゃん、手紙だよ」
「ありがとう、ティム。……あら、キクエから」
大きな封筒を受け取って裏表をたしかめ、お祖母ちゃんはうれしさと意外さが半分半分の顔になった。たぶんキクエさんはお友達なのだろう。手紙がくるのはめずらしいのか、あるいははじめてなのかな。
お祖母ちゃんはペーパーナイフで封筒をあけて、かるく息を吹き込み切り口をふくらませる。中から出てきたものが、ぼくの目にとまった。
「お祖母ちゃん、この紙はなに?」
便せんにしてはみょうな、真四角のいろ紙だった。なにも書かれていない。
ちゃんと用件の書かれた便せんも入っていて、お祖母ちゃんはそれを広げて読みかかっていたけど、ぼくの質問に答えてくれた。
「折り紙だね」
「オリガミ……?」
知らない言葉に首をかしげたぼくの顔を見て、お祖母ちゃんはオリガミを一枚つまみあげた。色だけじゃなくて、大きさもいくつかあるみたいだ。一番大きなのはレターサイズぎりぎり、二十五センチくらい。小さいのは一〇センチ四方。お祖母ちゃんが手にしたのは中くらいだった。スコーンの皿をちょっと押しやって、テーブルの上にオリガミを広げる。
「まあ、やってみようか」
といって、お祖母ちゃんはオリガミを折りはじめた。ふたつ折りのふたつ折りで、四分の一の大きさに。すぐにまた広げて、今度は対角線がつくように三角にして、さらにそれももう半分に。二度目の折り目を支点に、三角をつぶして四角にした。
四分の一の大きさになるのは同じなのに、わざわざなにをしているんだろうと思っていたら、また折り目をつけては戻すのをくり返していたのもつかの間、紙が細長いひし形になっていて、あとはもうよくわからない。
「……それがオリガミなの?」
「折り紙っていうのは、四角い紙を折っていろいろなものをつくれるのさ。花とか、動物とか、風船とか。私はこれしかつくりかたを知らないけどね」
「日本で覚えたの? キクエさんに教えてもらって」
「そう。日本へ行ったのなんて、あんたのお祖父ちゃんと結婚するまえだけどね。意外と忘れないもんだ」
「そんなに……」
五十年くらいむかしなんじゃ……と、ぼくの目はとおくなる。お祖母ちゃんはひっひと笑った。お祖母ちゃんはときどきホンモノの魔女らしく見える。まあ、ある意味ではほんとうに最後の現役魔女なんだろうけど。
「じつはティムはキクエとあったことがあるんだよ。覚えてないだろうけどね」
「え、そうなの?」
「キクエがこっちにきたのはあんたが生まれたばかりのころだったかな。セリアのお腹にあんたがいたとき、安産祈願のお守りを送ってくれたりもしたのさ」
「へえ」
そうこういっているあいだに、お祖母ちゃんの手もとの紙は、細い二本のとげと広い二枚の葉っぱのようなものが上へ突き出た形になっていた。細いほうは、一本途中で折りまげられている。お祖母ちゃんが葉っぱみたいな部分を左右から引っ張ると、平たかった真ん中がふくらんだ。
「ほら、できた」
最初は芝生の一部でもあらわしているのかと思っていたけど、広げられてみてようやく正体がわかった。途中で折りまげられた細い部分は、首とくちばしを意味していたんだ。
「鳥だね」
「ツルなんだってさ。一番ポピュラーな折り紙で、日本人ならたいていはつくれるらしい」
「これがツル……?」
たしかに鳥には見えるけど、ツルとはいいがたい、そんなものだった。でも、一枚の四角い紙だけで、はさみも使わなかったのはちょっとすごいかな。ぼくはこれまで、紙細工にはのりやはさみが欠かせないと思っていた。
いきなり、ピピッ、と、電子音が響いた。お祖母ちゃんはポケットからケータイを取り出す。
「あらら、休憩時間おしまいだわ。今日にかぎって、マギィさんがティータイムあけにくるとかいってたっけ」
「あ、ごめん。折り紙の説明なんて頼んだせいで」
「それはいいの、気にしない」
お祖母ちゃんは残っていた紅茶を飲みほすと、キクエさんの手紙をレターケースに入れて薬草園へ戻っていった。ぼくもポットから自分のお茶をそそぐ。テーブルのすみにちょこんとのった、折り紙のツルを眺めながらのティータイム。
「折り紙、か――」
オリガミで検索してみると、いろいろな動物や花を折る方法がたくさんヒットした。動画としてアップされているのはとくにわかりやすい。やってみようかと思ったけど、真四角の紙っていうのは意外とない。お祖母ちゃんに頼めばキクエさんの折り紙をもらえたかもしれないけど、練習用にはるばる日本から送ってきてくれたきれいな紙を使うのももったいないから、とりあえずてきとうな紙を真四角にカットして、それで簡単なものから試してみることにした。紙ヒコーキに、カメに、口をぱくぱくさせるカエルの頭の指人形――
いくつかつくってみてわかったのは、ツルの折りかたはとにかく基本だということだった。ほとんどの折り紙が、この「ふくろ折り」のくり返しと応用でできている。とくに、手足や翼のある生き物をつくるのには重要だってことが。
ぼくはだんだん折り紙が楽しくなってきた。一枚の紙が、犬になり、馬になる。足が八本もあるクモですら、はさみを使うことなくつくれるんだ。複雑になればそれだけ折るのはむずかしくなり、もとの紙の四分の一、八分の一の大きさになってしまう。薄くて、なおかつ丈夫な紙でないと、途中で重なりすぎで折れなくなったり、やぶれてしまったりする。キクエさんが送ってくれた本場の折り紙は、まさに理想的な材料だってことがわかった。
馬の折りかたにひと工夫を加えてペガサスにしてみたところで、ぼくはひとつ思いついた。ドラゴンを折り紙でつくってみよう。もちろん、折り紙でドラゴンをつくる方法は、検索すればいくらでも出てくる。ごく簡単なものから、六〇センチ四方の紙がてのひらに乗る大きさのドラゴンになってしまう、ツノから目から手足や翼の鉤爪まで折り込まれた、信じられないくらい複雑なものまで。
だけどだれかの考えたものではない、ぼくだけのドラゴンをつくってみたくなった。まあ、そんななまいきなことをいっても、どんな折り紙でも基本はいっしょで、完全に新しい発想の入り込む余地はいまさらないんだけど。なにせ紙を折るだけなんだから、これまでにだれもやったことのないパターンの残ってるはずはない、あたりまえのこと。でもそれこそがすごいことなんだ。
べつにはさみやのりを使う紙細工は大したことないって意味じゃなくて、限られたやりかたでいろいろなものをつくっていく、それがおもしろい。たぶん、ピアノをひくのと似ていると思う。出る音の数は決まっている、でもその組みあわせは無限。
それから、家にいるあいだはほとんどずっと、ぼくはドラゴンの姿を求めて折り紙を折りつづけた。折り目をつけすぎて、何枚も何枚も紙がやぶれた。学校でも考えつづけたけど、さすがに教室では紙を折ったりしなかった。クラスメイトになにをしてるのかって聞かれたら、紙ヒコーキやシュリケンの折りかたでも教えてみれば流行ると思うけど、そんなことしたら担任のミス・サージェント(ほんとに戦争映画に出てくる軍曹みたいで、だからこっそりそう呼ばれてる)に放課後二時間もお説教されてしまう。まだ時間を無駄にするわけにはいかない。
……ふとカレンダーを見たら、折り紙に取り組むようになって一週間がすぎていた。なっとくのできるドラゴンはなかなかできなかった。頭とツノの折りかた、翼の折りかた、鉤爪の折りかた、それぞれはなんとなくメドがたったんだけど、一枚の紙に全部を折り込むのがうまくいかない。
パーツごとにバラバラにつくってくっつけるっていうのはちょっと邪道だ。もちろん、テープやのりをつかわず、しっかり組みあわせることのできる部品をそれぞれ折り紙でつくるっていうのはそれはそれで高度だ。折り紙愛好家のサイトには、合体ロボの折り紙なんてのもあった。でもぼくがいまつくりたいのは、メカやロボのドラゴンってわけじゃない。なにか方法を考えなくちゃ。
ヒントになるようなものはないかなと思って、しばらくぶりに屋根裏にあがってみた。あらためてながめてみると、意外なことにドラゴンとかそれに類するものはない。グリフィンの羽根(大きな猛禽かコンドルのだろう)だとか、ユニコーンのツノ(もちろんこれはイッカクのものだ)ならあるのに。ワイバーンの像くらいあってもいいじゃないか。
だけど考えてみればそうだった。ドラゴンにまつわるアイテムなんてカッコいいものがあったら、とっくにぼくのお気に入りになっている。ここは「へんてこりんなものがある部屋」でしかない。
あきらめて戻ろうとしたら……うわっ、錬金術用品の棚においてあったレトルトの首に袖をひっかけてしまった。ぼくが手を伸ばすより先にレトルトは床へ落っこちて――ふう、覚悟したけど、高い音をたてて砕けたりはしなかった。ガラス製のはずなのにけっこうがんじょうなんだな。でも首が折れてしまった。まあ、空っぽだったから、たぶんだいじょうぶ。あやしい色をした水薬のビンでなくてよかった。
こっそりと折れた部分が見えにくくなるように棚へレトルトをおきなおして、ぼくは屋根裏からおりる。
その日の晩――ぼくはベッドの上ではね起きていた。いきなり、アイデアがまとまって、完成したイメージが頭の中いっぱいに広がった。まさにひらめきだ。時計を見たら真夜中の二時。でも朝まで寝なおしたら、きっと忘れてしまうだろう。
部屋から廊下へ出てみたけど、やっぱり家中静まり返っている。リビングへおりて窓際のお祖母ちゃん専用のスペースへいってみたら、まだキクエさんの手紙はレターケースに入っていた。黄色いラックから緑のラックに移されている。たぶん目はとおしたってことだろう。封筒をのぞいてみると折り紙はそのままだった。お祖母ちゃんは早起きだけど、さすがにあと二時間か三時間はかかるはず。こんな用事で起こすのは気が引ける。
かといって待っていて忘れない自信もなかったから、とりあえず一枚折り紙を借りることにした。重ね折りに耐えられる、薄くて丈夫なこの紙が必要だ。一番大きなサイズの折り紙を一枚引っ張り出してみると、灰色がかった青いのが出てきた。
折りかたは頭の中に最後まで収まっていたけど、それでもかなり時間がかかった。角をしっかりあわせて、ほんのわずかなズレもないようにしないといけない。ツルくらいならおおざっぱに折ってもかたちになるけど、それでも翼や首、しっぽ(それとも足?)が不ぞろいになってしまう。複雑なものは折れば折るほどすこしのズレが大きくなっていって、できあがりまでたどりつけなくなる。
ていねいに、きっちりと折り目をつけて――それにしてもこの紙は折りやすいな、さすが本場の品だ、なんて思いながらドラゴンをつくっていたら、窓の外が白みはじめていた。二時間くらいかかってしまったみたいだ。でも……できた。
同じサイズの紙で折ったツルの四分の一くらい、つまりはずいぶんちいさいけれど、頭としっぽと四本の足にちゃんと翼もある、立派なドラゴンが折れた。これが一枚の四角い紙から、はさみものりも使わないでつくられているなんて、われながらちょっと信じられない。頭のツノは前方に突き出した一本にしてみた。寝る前に屋根裏で「ユニコーンのツノ」を見たから、その影響かな。
……集中力がとけたら一気に眠たくなってきてしまった。今日は学校があるんだよな。ちょっとだけでも寝ておこう。
2
「起きて……起きろ、学校に遅れる」
だれだろう……? 耳もとで聞き覚えのない声がする。そして、がさごそという音。
――そうだ、二度寝したんだった!
ぼくはあわてて飛び起きた。目覚まし時計はセットした時間から十分くらいすぎていたけど、鳴っていない。無意識のうちにとめてしまったのか。いったいだれが起こしてくれたの……?
「あぶないな。いきなり吹き飛ばさないでくれ」
声のしたほうへ振り向いてみると、カサ、カサ、と紙の翼をはばたかせて宙に浮いているドラゴンがいた。寝るまえにぼくがつくった、折り紙の。
「……え?」
「しぃーっ」
あんまり驚いたものだから大声を出すという発想もなかったけど、ドラゴンはしっぽをぼくの口のまえに立ててさわぐなとジェスチャーした。それとも、起きたつもりでまだ夢の中なんだろうか。
「なんで動いてるの? なんでしゃべってるの?」
「きみが心を込めてつくってくれたからさ、ティム」
なるほど。……って、そんな説明でなっとくできるわけがない。たしかに心を込めたとは思うけど、それなら、いままでぼくが学校の課題やら、工作遊びでつくったものは半分くらい動き出しているはずだ。今回は気持ちが入ったほうだろうけど、これまでで一番ってほどでもなかった。
ぼくが疑わしげな顔をしているのを見て、ドラゴンは声のトーンを落とし、しかめつらしい調子で話しはじめた。
「ティム、そなたは先祖代々の力を受け継いでいる。そして、そなたが使ったこの紙は、式符と呼ばれる特別なものと同じ素材でできているのだ。そのおかげで、わたしはこうして生命を得ることができた……かりそめのものだがね」
「シキフダ……?」
「ジャパニーズ・シャーマン、あるいはソーサラー、向こうの言葉ではオンミョウジというのだが、彼らが術を用いる際に、アシスタントとして式神という使い魔をつくりだす。式符はその材料なのだ」
と、いうことはキクエさんもお祖母ちゃんの同業者なのだろうか。ありそうではあるけど。
「それなら、お祖母ちゃんが折ったツルはなんで動かなかったの?」
「いくら偉大な魔女でも、じっくり心を込めながら作業をしなければ、そうそう魔力付与はできないさ。五分やそこらでなんでもかんでも動くようになってしまったら、それはそれで困るだろう?」
……まあ、そうかもしれない。
「ティミー、いつまで寝てるの? 学校に遅れるわよ」
リビングのほうから母さんの声が聞こえてきた。そうだった、寝坊してるんだ。
「はーい、いまいくよ」
急いで登校の準備をするぼくに向け、シキガミドラゴンはこういった。
「話のつづきはまたあとでな。わたしはお礼がしたいのだ、この身を授けてくれたきみに。式神の仮の生命というのはそんなに長くは保たない。だから、できれば人には黙っておいてほしい。とくにご家族には。きみが力を発揮したとなれば、一族の中でちょっとした騒ぎになるだろうからね」
「はいはい、いってきます」
どのみちいまは遅刻寸前だ。母さんとゆっくり話しているひまはないし、父さんやお祖母ちゃんはもう仕事をしているだろう。クラスメイトやミス・サージェントにいったって、だれも信じるわけないし、ドラゴンの口どめに意味はない。
といっても、ぼくはほんとうに特別な力なんて持っているんだろうか。そういえば、お祖母ちゃんが魔法を使っているところも見たことはなかった。お祖母ちゃんの薬草園のハーブや、それをつかっているアロマオイルは評判がいいけど、しいて魔女らしいところといえばそのくらいだ。使い魔を呼びだしたり空を飛んだりできるのかな?
学校ではあまり集中できなかった。寝不足のわりには、頭がぼーっとするってことはなかったといっても、やっぱりシキガミドラゴンが気になってしょうがない。家に帰ったら動かなくなっていたりして。
休み時間に、アーサーとコーディルが放課後にサッカーをしようって誘いにきてくれたのには、早く帰らなきゃいけないからとことわった。このところつきあいが悪いって思われてるかもしれないな。ここ一週間は休みの日も家に閉じこもっていたし。
掃除当番は、今度三日ぶん引き受けると約束して、クラウスと交代してもらった。来週代わるからと頼んでみたら、「三倍にして返すならやってもいい」って応じられて、厳しい取り引きになったけど。
そもそもイギリスの学校には、ふつうは掃除当番の制度なんてないらしい。公共心を養うのによいとかいうことで、うちの学校にはなぜかあって、ぼくはずっとここに通っていて、よそのことは知らないからとくに疑問に思ったこともないんだけど。
授業が終わるなり、真っすぐ下校する。
家に帰りついて、自分の部屋のドアを開けると――あれ、いない。静かになった、ただの折り紙のドラゴンがすみっこに落ちているってわけでもなかった。机の上には、ちゃんとしまっておいたはずのぼくのノートが出ている。開いてみるとなぐり書きがしてあった。『屋根裏』だって。
昨日につづいてはしごをつたって屋根裏部屋へあがる。すぐにしかめつらしい声が出迎えた。……でも、どこにいるんだろう。
「戻ったか、ティム。さっそく悪いが、ちょっと手伝ってくれないか。この身体では重たいものを動かせない」
声のするあたりをさがしてみると、シキガミドラゴンは棚のまえで書類の下じきになっていた。パルプ紙じゃなく、年代物の羊皮紙なので、どっしり重い。
「……なにやってるの」
「おお、すまん、助かった。なにって、きみにお礼をするといったじゃないか。その準備だよ」
羊皮紙の束を持ちあげると、シキガミドラゴンが這い出してきた。そういえば、そんなこといってたっけ。
「べつにお礼なんかいらないって。折り紙のドラゴンが動いてしゃべるってだけで、充分おもしろいし。つくったかいがあったな、って思えるよ」
「……ふむ、無欲な少年だな。では、正直に話そう。わたし自身のためでもあるのだ。今朝、式神の生命はあまり長く保たないといったことを覚えていないか?」
「そのままだと死んじゃうの……?」
「死ぬというか、もとに戻るだけさ。そもそも真物の生命ではないからね。だが偉大な魔術師の末裔であるきみなら、かりそめだったものを永続させる力を持っているはずだ」
「そういうことなら、お祖母ちゃんにたのんだほうがいいんじゃないかな」
われながらいい思いつきだと思ったのに、シキガミドラゴンは悲しそうに――そう、動くといっても紙のドラゴンの顔に表情はないのに、そう見えた――うつむいた。
「きみが式符を使ったことが知れたら、わたしはすぐに紙に戻されてしまうよ」
「どうして」
「禁忌だからさ。昔から、使い魔が一度きりで消えたくはないと駄々をこねることはよくあった。だが無から生命をつくり出すのは摂理に反するというんだ。ゆえに使い魔は役目を終えたら、塵に、灰に還らねばならない。きみのお祖母さまはもちろん、術師はもうやっていないとはいえ、ご両親や一族の人たちもみんな掟のことは知っている。……そう、わたしのいっていることは、アダムやイヴをたぶらかす蛇のごときけしからん言動なのだろう。だが、かりそめであっても、ひとたび目覚めた命は生きたいと思う、それもまた事実だ。この世に泡沫のように生じたわたし自身、なぜ素直にもとの紙に戻ろうと思えないのかわからない。理屈ではないんだな」
シキガミドラゴンのいっていることは、むずかしくてよく理解できなかった。でも、消えたくない、死にたくないと思っているってことはつたわってくる。
「わかった。正直いって自信はないけど、ぼくにできることがあるならやってみるよ」
「ありがとう、ティム」
「ねえ、名前はあるの?」
もし名前がないならカッコいい呼び名を考えようと思ったけど、シキガミドラゴンはすぐに答えた。
「わが名はウルグラード。ウルとでも呼んでくれ」
「ウル、ぼくらはいまから友達だ、いいよね?」
「友、か……少しこそばゆいがよい響きの言葉だな。よし、ではティム、わたしを大きくて頑丈な身体に移すために力を貸してくれ。きみを背に乗せて大空を飛ぼう、友よ」
こうして、ウルを式神から真物のドラゴンに変えるための秘密の作戦がはじまった。
さっそく、ウルの指示で屋根裏部屋のあちこちから、古い本や巻物を掘り出す。呪文が載ってるらしいんだけど、ギリシャ語やラテン語、あるいは昔の魔術師が使っていた暗号で書かれている。
「とりあえず用がありそうな呪文はそろったかな。まとめてこの棚にでも入れておいてくれ」
「……ぜんぜん読めないよ」
「必要なときがきたら読みかたは教えられる。正しい言霊を紡げば、あとはきみの血に流れる偉大な力が疑似奇跡を導くだろう」
「読めるのに魔法は使えないの?」
「使い魔も式神も、あくまでアシスタントだからな。真物のドラゴンになったらわたしも使えるようになるかもわからんが」
「ふうん。つぎはなにがいるの?」
「いくつか必要なものがある。口頭だと忘れてしまうかもしれんから、メモに書くぞ。ここの骨董品より、現代の紙とペンのほうが使いやすい、きみの部屋へ戻ろう。――それと、これは使うかもしれないから、持っていってくれ」
「わかった」
ウルがしっぽで指した羊皮紙の紙切れ一枚を抜いて、はしごのそばの棚に呪文書をしまい、屋根裏からおりた。
廊下にだれもいないことを確認して、ウルへ手招きする。カサカサと、身体のわりに大きな音をたててウルが飛んできた。……ぼくが手で持って運んだほうがいいかもしれない。
ぼくの部屋の机の上で、ウルは器用にペンを使ってノートにリストを書いていく。ハーブの名前が並んでいった。ヘンルーダ、ベルガモットミント、ヒソップ、ルッコラ、ローズマリーなどなど……くると思っていたマンドレイクはなし。でも猛毒のベラドンナとアコナイトがある。
「ひとまずはここまでだな。きみのお祖母さまの薬草園でそろうはずだ」
「うん、あるにはあるけど……」
薬草園のハーブをこっそり持ち出すなんて、悪いことだ。かといってベラドンナにアコナイトなんて、シロウトには取り扱いのできない毒草をなにに使うか、魔法の儀式の話抜きでまともな説明はできない。
「きみに盗人の真似事をさせてしまうのは忍びないが、しかし発覚するようなことはないから安心……というわけにもいかんか。知られなければ罪ではない、というものでもないしな。嫌だというのなら無理なお願いはしないさ」
「……いや、仕方ないよ。やろう」
ぼくは首を左右、上下の順番で振った。式神のウルのことをお祖母ちゃんに知られてはいけない。消されてしまうというのなら、隠しておくしかなかった。ぼくはウルと友達になったんだから。無断でやるしかない。
「やってくれるか。決行は今夜がいい」
――真夜中の一時、家からこっそり抜け出して、お祖母ちゃんの薬草園へやってきた。こんな時間に薬草園に入るのははじめてだ。一般的なハーブはそこらじゅうに、貴重なものや、毒のあるものは奥の柵に囲われたところに植わっている。
あたりまえだけど入り口の門には鍵がかかっていた。ウルにいわれて持ってきておいた針金クリップを伸ばして鍵穴へ差し入れて、羊皮紙の紙切れの一番うえの行――文字なのかもわからないへんてこりんなぐにゃぐにゃ――を見ながら「アンバインド」とつぶやいたら、かちりと音がする。
「……ほんとにこんなので開いちゃうんだ」
「その呪文は鍵開けだけではなく、多くの『状態解放』に対応する。悪用の余地があるから気をつけることだ。まあ、きみなら大丈夫だろうが」
そういうウルは、ぼくの左肩の上に乗っていた。ドラゴンの式神を連れて魔法が使えるようになったとか、なんだかゲームの登場人物になった気分だ。
鍵の開いた門をちょっと押し開けたところで、なぜか気配を感じた。……こんな時間に? 鍵は外側からしか開け閉めできるようになっていない。
「だれかいる……?」
「ちょっと待っていろ。様子を見てくる」
といって、ウルがぼくの肩からはなれると門の隙間をぬって薬草園の中へ入っていった。夜はめったに人のとおらない道だけど、だれかに見つかったらまずいかもと、左右に首を振ってみる。ヘッドライトの光が、左手のまがり角に近寄ってきているところだった。こっちにはまず入ってこないだろうけど、もしパトカーだったらどうしよう。ぼくみたいな子供が夜道をうろうろしていたら、ぜったい声をかけられる。
門の中に入ってしまおうかと思ったところで、戻ってきたらしいウルの声が聞こえてきた。
「呪文書の四番目を見なさい。読みは『主は我を見給わず』だ」
ポケットから羊皮紙の紙切れを取り出し、ウルのいった行に目をすえる。うす暗い街灯の明かりしかないからインクのしみが並んでいることしかわからないけど、どうせはっきり見えたって読めるわけじゃないから気にしない。
「どみぬす、だずのっとしーみー」
「よし、オーケーだ」
ウルがそういうのと同時に、角をまがってきたヘッドライトの光がこっちを照らす。まさかほんとうにパトカーだとは思わなかった。でも、光の輪はすぐにぼくを素どおりして、パトカーは徐行しながら細い道をそのまま進んでいく。それになんだか変な感じだ。ヘッドライトをまともに浴びたのに、まぶしくなかった。
「どういうこと?」
「見えないのさ。神の目に入らないものを人の子の目が捉えられるはずはない」
ウルのいっていることの意味がよくわからない。だけど、何気なく足もとを見て、ぼくは自分の身になにが起こったのか半分くらい理解できた。うす暗い街灯しかないといっても、ぼんやりと地面に映っていた影が、なくなっている。
「透明人間になる呪文?」
「まあ、だいたいそんなところだ」
鍵開けの呪文といい、どうやら、この紙切れにはこそ泥仕事むきの呪文がいろいろ書いてあるみたいだ。なんでこんなものがうちの屋根裏にあったんだろう。……ちょっとご先祖の素性があやしくなってきたな。
門をくぐって薬草園の中をしばらく歩いていったところで、さっき感じた気配の正体がわかった。全身真っ黒で、すっかり周囲の暗がりにとけ込んでいる生き物の、目だけが緑色に光っている。
「なんだ、猫だったのか」
「ただの猫ではないぞ。黒猫といえば――わかるよな?」
「……使い魔なの?」
「そう、きみのお祖母さまのだ。さっきの呪文を使わずに園に入っていたら、見つかっていた。本当に、よく気づいたなティム。さすがの現代の魔女も、この時勢に不可識の術をかけた侵入者があるとは想定していなかったようだ。こいつは魔術の作用を看破する力を与えられていない」
ウルのいうとおり、黒猫はぼくたちのことを認識できていないようだった。この猫がほんとうにお祖母ちゃんの使い魔なのかはわからないけど、すくなくともぼくらの姿は見えていないし、声も聞こえていない。普通の猫でも、この距離だったら逃げ出すか、逆に近寄ってくるはずだ。
いくらこちらのことが見えなくても、いきなり植わっているハーブが消えたりしたら、透明の畑泥棒がいるってわかってしまうだろう。ぼくは黒猫の様子をうかがいながら、ハーブの葉っぱをつんだり、根っこを掘ったりした。黒猫の動きを気にしているうちに、どうやら薬草園の見まわりをしているらしいことがわかってきた。ただの野良猫じゃないのはたしかだ。特別なものだったみたいだけど、ぼくが折り紙でつくっただけのウルが動いてしゃべるようになったのだから、お祖母ちゃんに真物の猫と見わけのつかない使い魔をつくり出せないってことはないだろう。ほんとにうちは魔術師の家系だったんだな、いまさらながら。
黒猫の目を盗んで、取り扱い注意のハーブが植わっている囲い柵の鍵を開け、素早くとおり抜けてすぐに出入り口を閉める。
ベラドンナは猛毒で、葉っぱにさわるだけでかぶれてしまう。手袋をして、実をつみ、根っこを掘る。アコナイトの根っこも一本。……これで、必要なハーブはそろったのかな。
見まわりをしている黒猫の目のまえで扉の開け閉めをしないようにだけ気をつけて、薬草園をあとにする。
うちに戻って、ひとまず取ってきたハーブを持って屋根裏部屋へあがった。
ウルに聞いてみる。
「これでどうするの?」
「察しはついているだろう? 魔法の薬の原料だ。ここにある錬金術用具が使えるが、作業は昼間やったほうが無難だな。家の人たちが仕事にいっているあいだに」
「ぼくも昼間は学校だよ」
「もちろんわかっている。助手を使おう。そこの棚の、上から三段目に小ビンが入っているから取ってくれ」
いわれた引き出しを開けてみると、たしかにコルクで栓がされた、ちいさいビンがあった。まだ薄いビンをつくれなかった時代のものなのか、大きさのわりにガラスがぶあつくて、あんまり透きとおっていない。
「……なにかが入っているようには見えないけど」
「ホムンクルスの材料だ」
ぼくもそのくらいは、単語としてなら知っている。錬金術師がつくり出したという人造生命のことで、典型的な姿としてはちいさな人間みたいな形をしているもの。このビンにその材料が入ってるって?
でもまあ、古い羊皮紙に書いてある文章をウルのいうとおりに読むと魔法の効果が出たわけだし、ここで疑ってもしょうがない。ウルの指示にしたがって、つんできたハーブのうちの何種類かをフラスコに入れて、ホムンクルスの材料とはまたべつのビンから、あやしい色の水薬をそそぐ。それから「ホムンクルスのビン」を開けて――やっぱり粉も液体も入ってなかった――、最後に針で指先をつついて、ぼくの血を一滴。
「本当はちがう体液を使うのだが、まあ三日も保てばいいから血で充分だろう。それに、たぶんきみではまだ早いだろうしな」
と、ウルがよくわからないことをいう。どういうことなのか聞いてみようかと思ったところで、フラスコから急に白い煙のようなものがもくもくと吹き出てきた。でも煙とちがって広がることはなく、ひとかたまりのまま、ぼくのまえにたまっていって……だんだんと、人の形になっていくような――
「どうも、よろしくおねがいします、マイオリジン」
ぼくと同じ髪の色、目の色、背の高さ、着ている服までいっしょの、女の子がそういってぺこりとおじぎした。身体はさっきの煙みたいなものでできているようで、すこし透きとおっていて部屋の向こうが見える。
「きみがホムンクルスなの……?」
「イエス、マイオリジン」
「マイオリジンってどういうこと?」
首をかしげたぼくに答えたのはウルだった。
「ホムンクルスとはホモ・クロス、つまり逆性人間のことなのだ。性別を反転させたドッペルゲンガーというわけだな」
「……聞いたことないよそんな話」
「まあ、人から真顔で問い詰められたら、出典はミンメイ・パブリッシング・ハウス発行『図解・西洋魔術大全』だと答えれば、たぶん許してもらえるだろう」
……さっきからウルがなにをいってるのかわからない。いや、そういえば最初のころからよくわからないことばかりいってたっけ。もういいや、気にするのはやめよう。眠くてあんまりよく考えられなくなってきたし。
「明日も学校ですし、マイオリジンはおやすみになってください。昼間のうちに、わたしとウルで魔法の秘薬はつくっておきます」
性別は変わってもやっぱり自分のことはよくわかるようで、ぼくが眠気にほとんど負けていることを察したホムンクルスが気をつかってくれた。
「悪いけど、そうさせてもらう。おやすみ、ウル、ホム」
と、あくびをしながらいったら、ホムは自分のことを指さして首をかしげた。
「……ホムって、わたしのことですか?」
「ぼくはティムだし、ホムでいいでしょ」
「名前をつけてもらえるとは思っていませんでした。ホムか……ふふ」
安直すぎる、と怒ったりするかもと思ったら、ホムはずいぶんとうれしそうに、にんまりと笑った。なんか変な子だ。ぼくが女だったらあんなふうになっていたんだろうか?
3
さすがにつぎの日は、というかたったの四時間後くらいだったので、とてつもなく眠かった。どうがんばっても学校で寝てしまう。ミス・サージェントに徹底的にしぼられることになるとわかっていても無理だろう。
……と思いながらふらふらと部屋を出たところで、屋根裏から、ウルが紫色のあやしい丸薬を持って飛んできた。渡されるままに口に入れてみたら、めちゃくちゃ苦い。でも眠気は一発で追い払われた。
「寝不足のところを悪いが、今日も必要なアイテムを集めにいくぞ。学校から帰ったら、夜まで少し寝ておくといい」
「……わかった」
ウルに見送られてリビングへおりて、いつもと同じように朝食や、その他もろもろの朝の用事をすませて学校へ向かう。ぼく以外の家族はめったに屋根裏部屋にあがらないけど、母さんが気まぐれを起こして掃除をしようなんて思いたったりしたら、ウルやホムが見つかって大騒ぎになって、計画はおじゃんになってしまうな……なんて、してもしょうがない心配が頭に浮かんだ。まあ、母さんも昼前にはたいてい出かけるから、そのあいだにあのふたりが魔法の薬をつくっておいてくれるだろう。
それにしても、女の子になっちゃうんじゃなくて、ちゃんとぼくと同じ姿のホムンクルスがつくれれば、そっちに学校へいってもらって自分は家で寝てるなりアイテム集めに出かけるなりできるのに。……と思ったところで、そういえばホムンクルスは使い魔や式神とどうちがうのかが気になってきた。
無からではなくて制作者のコピーだから、べつものってことになるんだろうか。でもウルは「三日も保てばいい」とかいっていたような。昨日は眠くて、とくに考えもしないで聞き流してしまった。ウルは式神で禁忌の存在、長もちしないで消えてしまうけれどそれは嫌だ、そこまではわかる。じゃあ、そのかりそめの生命を真物にするために、ホムを利用するっていうのはどうなんだろうか。そりゃあ、女の子版のぼくがいきなり増えたら、めんどうなことになるってのは簡単に想像がつくけど。
なんか奥歯にものがはさまったみたいに、頭の中に引っかかってしまった。おかげで授業も友達の話もぜんぜん耳に入ってこない。こっちを見るミス・サージェントの眼鏡が意味深に光ったのを感じる。まずいな、このままだとちかいうちに呼びだされてしまうぞ。ぼくがお説教されるだけならまだいいけど、父さんや母さんに話がいったらウルたちのことがバレてしまうかもしれない。
いや、ぼくがこっそりなにかをやってるっていうのは、もう感づかれていても不思議はなかった。拾ってきた犬か猫を飼っているのかなって程度に思ってくれればいいけど、式神のドラゴンを真物に変えようとしてるなんて知られたら……。
いけないいけない、普段どおりにしなきゃ。でも、「普段どおりに」なんて意識すると、よけいに調子がくるってしまう。
ぼくの様子がおかしいんじゃないかと思っているのはミス・サージェントだけじゃないみたいで、コーディルにも、休み時間につかまってしまった。
「なあティム、さいきん具合でも悪いのか?」
「え、べつにそんなことないけど?」
「だったらちゃんとサッカー出てくれよ。おまえがきてくれないから、おれたちだけ十人なんだぜ」
「ごめん、今度の試合っていつだっけ?」
「土曜だよ」
「わかった、約束する。今日は火曜だったよね」
あと三日あれば、たぶん終わるだろう。これで話はすんだと思ったら、コーディルはあきれ三割の心配七割といった顔になっていた。
「今日は水曜だぞ。ほんとにだいじょうぶか、ティム?」
……どうやら、「普段どおり」の演技がぼくはそうとうにへたらしい。放課後にはクラウスまで、
「帰っていいから。あわせて五倍返しに負けといてあげる」
なんていってくる始末だ。でもこのさいありがたいから、今日も掃除を代わってもらう。
あとあとやっかいになりそうなことがいろいろ増えてしまったけど、とにかく家に帰り着いて、ぼくはまっさきに屋根裏へあがった。ウルとホムへ、そもそも学校で集中力を欠く原因になった、気がかりについて問いただす。
身体がすこし透きとおっているけどものを持つことはできるみたいで、ガラスのかき混ぜ棒を手にしたまま、ホムはにっこりと笑って答えた。
「ご心配はいりません。生成されたホムンクルスはオリジンの分身であって、消散するときはオリジンとふたたび融合するだけですから」
「つまりホムンクルスはつくられた時点のオリジンのコピーで、役目を終えたらオリジンの一部に戻るということだ。自己の分裂と再統合に関する認識論は、いちいち考えていたら分厚い本一冊になってしまうぞ」
つづいてウルがそういった。……つまり、どういうことなんだろう?
ぼくの気がかりは晴れていなかったのだけど、ホムは自分が一時的な存在であるってことにまったく疑問も不安もないみたいで、
「マイオリジンは今夜もお出かけしないといけないのでしょう? ここはわたしにまかせて、おやすみください」
と、昨日の晩と同じく気をつかってくれた。この子、ほんとうにぼくの分身なんだろうか? ぼくよりも、よっぽどしっかりしてるぞ。
すなおに自分の部屋に戻って、ベッドにもぐり込む。いろいろな考えが頭の中をぐるぐるとしていたけど、眠気のほうが強くって、すぐに寝入ってしまった。
……二日連続で睡眠不足だから、ほんとは夕飯ぎりぎりまで寝ていたい。でも日のあるうちからベッドに入っていたんじゃ、具合が悪いのかって思われてしまうから、ちゃんと目覚ましは夕方まえにセットしておいた。なに食わぬ顔で、母さんとお祖母ちゃんを出迎える。父さんは晩ご飯の準備がちょうどすんだところで帰ってきた。ぼくの家族はあとお姉ちゃんがいるんだけど、ちょっと歳がはなれていて、いまはエディンバラ大学に通っているから月に一度くらいしか戻ってこない。
表面上は家族団らんの時間がすぎる。とにかくボロを出さないように、ぼくにとっては肩のこるひとときだった。テストがちかいから勉強するといって、いつもより早めに部屋へ引っ込む。とくに問いつめられたりもしなかったけど、なんか変だって思われていそうだ。そういえば、魔術師の掟とかいうのを破るとどうなっちゃうのかな。火あぶりやしばり首っていうのは、さすがにいまはないと……思いたい。
いちおう部屋ではほんとうに勉強に取りかかりはしたものの、やっぱりというか、ぜんぜん集中できなかった。とにかく家族のみんなが寝静まるのを待とうと思っていたら、いきなりノックの音がしてきた。びっくりしたけど、開けてみたらホムがいる。
「ふとんをかぶっていれば、マイオリジンとわたしの区別はつかないでしょうから、身代わりになりますね」
「でも、まだお祖母ちゃんたち一階にいるでしょ」
家から出られないんじゃ意味がない、と思ったら、ホムは昨日つかったものに加えて、ちがう羊皮紙も持ってきていた。説明するのはウルだ。
「今日は中心街のほうに用があってな。夜中でも人どおりが絶えないところだ、最初から透明の魔法を使っていくぞ。それと、これに壁抜けの呪文が載っている」
今度は壁抜けの術か。うちのご先祖って、やっぱり盗賊だったんじゃないの? 怪盗クウェンチ一家の末裔……これはこれでカッコいいかな? でも、泥棒だったとしたら、ロンドンを一時はなれた理由っていうのはどう考えてもほとぼりを冷ますためだ。うーん、やっぱり火事を消しとめた魔術師クウェンチ卿の末裔であってほしいかも。
ぼくの願望はともかくとして、いまは盗賊のほうが実態にちかいのはたしかだった。透明の呪文を使ってから一階へおりて、壁抜けの術で庭に移動する。いきなり道へ出たら、歩いている人にぶつかってしまうかもしれない。表の様子を確認してから、あらためてうちの敷地の外へ。
「どこへいくの?」
ウルへ聞いてみたら、紙のしっぽの先で東のほうを指した。
「時計塔さ」
議事堂の大時計塔といえばロンドンのど真ん中もど真ん中。ぼくの家もいちおうロンドンのうちには入るだろうけど、時計塔まではテムズ川ぞいを歩いて一時間くらいかかる。ホムが気を利かせてくれたおかげで、早めに出られてよかった。昨日と同じ時間に出ていたら、お祖母ちゃんが起きてくるまでに家に戻れないかもしれない。
ホムのことでちょっと気になることがあったから、川辺を歩きながら肩のうえのウルに聞いてみる。
「ねえウル、なんだか、ぼくよりホムのほうが賢い気がするんだけど、ホムンクルスはみんなそうなの?」
「ホムが賢いのは、きみのコピーだからさ。ホムンクルスはオリジン以上の存在ではない。オリジンより余分に知っていることといえば、自分はコピーであってオリジナルではないという自覚くらいだ」
「コピーだから三日で消えちゃっても当然で、ぜんぜん気にしない、なんて、思えるのかな」
「消えるわけではない。オリジンの一部に戻るだけだといったろう。そのときがくれば意味がわかるさ。そしてそれがホムンクルスとドッペルゲンガーのちがいでもある。たとえば、きみのクラスメイトのうちのだれかが、今日から実はドッペルゲンガーと入れ替わっていたとしよう。……気がついたかね?」
いきなりウルが突拍子もないことをいいはじめた。いちおう「たとえば」とつけ加えてはいるものの。
「だれもニセモノと入れ替わったりなんてしてなかったよ」
「つまり、たとえだれかがドッペルゲンガーに替わっていたとしても、きみは気づかないということだ。なぜなら、ドッペルゲンガーは『ニセモノ』ではないからな。きみ以外の全員が入れ替わっていても、きみには区別がつかない」
「……それは、たぶん、そうなのかもしれないけど」
「たぶんじゃないんだ、絶対わからない。だがドッペルゲンガーと入れ替えられたのがクラスメイトではなく、きみ自身だとしたらどうだ? クラスメイトはもちろん、家族だってだれも入れ替わったとは気づかない。それで問題ないと思うか?」
「そのドッペルゲンガーはぼくじゃない」
「だがきみ以外はだれもそれを問題としないんだ。きみと入れ替わったドッペルゲンガー自身もね。自我というのはそれだけ特異な地位を占めている。他我を類推することはできるが、しかし本当の意味でわかることはできない。自分がドッペルゲンガーと入れ替えられるのは大問題だが、他人が入れ替わってしまうぶんにはちがいを感じられないというのは、そういうことだよ。ホムンクルスが見た目で区別のできるよう逆性別でつくられるようになったのも、この種の失敗があったからなのだ」
うーん。わかったようでわからない。そもそもいまのウルの話って、ぼくの質問に対する答えになっていたんだろうか。ホムンクルスは本体より賢いってわけじゃなくて、ドッペルゲンガーとはちがってコピーであることを自覚している分身……いちおうちゃんと回答にはなってたや。だからって自分がオリジンの一部になって消えてしまうことをなんとも思わないっていうのはわからないとぼくがいったから、けっきょく他我っていうのは本当の意味で理解できないって話をしたのか。
ようするに、考えるだけ無駄だ、ってことなのかな。……いいや、今日のこれからの予定について聞いてみよう。
「時計塔ではなにをするの?」
「そもそも、時間とはなんだと思う」
むずかしいからあきらめて話題を変えたのに、ウルはまたまたよくわからないことをいいはじめた。時間とはなにか、って、そんなの知らないよ。
「ええと、巻き戻せない、とめられない、あと、なんだろう……」
「うむ、なかなかいい線を突いている。時間というのは状態の経過だ。時間があるから状態の経過が起きるのか、状態が経過するから時間が流れているように感じるのか、それは認識する側の受けとめかたによって変わってくるが、しかし認知を否定して時間を停止させることはできない。すくなくとも、簡単にはいかないな。あるモノを動かさず、作用を加えずそっとしておいても、時間そのものは過ぎていく」
「それでどうして時計塔に用事があるわけ?」
「あの大時計はこの国ではまちがいなく一番、世界中でも有数の時間の焦点だ。毎日、毎時、毎秒、おおぜいの人があの時計を見ている。まあ一度には一秒くらいしか見ないかもしれない。一生に一度しか見る機会のない人もいるだろう。そういう人は、たぶん一秒とはいわず、何分か眺めるにちがいない。大雑把に考えて、一日に百万人くらいは見ていると考えていいのではないかな? 見ている人々と大時計のあいだに、それぞれの時間が経過していく。あの時計に流れている時間は、ひとつではない」
「それで?」
ぼくは考えることを放棄してあいづちだけ打った。
「あの大時計はもう二百年近くのときを刻んできた。そのうちの百年だけでも、百万人ぶんの時間をかけると、どうなる?」
「百かける百万は、一億……」
「このつぎの目的地は、もうわかるな?」
理屈はさっぱりのみこめなかったけど、ウルがなにをしようとしているのかはぼくにもピンときた。いまのウルの身体は紙でできている。あたらしい身体が必要だ。でも、世界中のどこにいってもドラゴンがいる動物園なんてない。つくりものならともかく「真物のドラゴンの骨」があるって話を聞いたこともないけど、大きなドラゴンっぽい生き物の骨なら、近所においてある場所がある。博物館だ。うちからならビッグ・ベンにいくよりちかい。
それにしても、やっぱり歩くととおいな。だけどいまのぼくたちは透明だから、人や車をこっちからよけて進まないといけない。自転車に乗ってこられたらよかったんだけど、それだとあぶないか。
途中からは無口になって、ひたすら歩く。川ぞい最後の直線に差しかかって、ようやく、議事堂がまわりの建物や街路樹のすきまから見えてきた。時計塔は議事堂の北側だから道からは見えない。エリザベス・タワーに正式名称が変わって、いまぼくの目に見えてる南の塔がヴィクトリア・タワーってことを考えるとバランスのとれた命名になったと思うけど、ビッグ・ベンはビッグ・ベンだ。なんで「ビッグ・ベン」なのかはもはやトリビアにもならないから省略。
国会議事堂の一角だから、当然ながら警備は二十四時間厳重だ。社会科見学で一度きたことがある。ぼくたちは壁抜けの術を何度かつかって、時計塔の中へ入り込んだ。
リフトはついているけど足が不自由な人のためのものだし、そもそもだれもいないはずなのに動いていたらあやしまれる。階段をのぼっていかなきゃいけない。鐘としてのビッグ・べンまでは、三百三十四段ある。でもそこまではいく必要がなかった。ウルの指示で、大時計を動かしている機関部の歯車に、持ってきた魔法の薬をたらす。
すぐに異変が起こった。ゆっくりと、でも規則正しく動いていた歯車が、せわしなく逆回転をはじめる。一番大きな歯車が噛みあわさっているところから、きらきらときらめく虹色のしずくが出てきた。空になった薬のビンで、受けとめる。液体のようだけど、虹色に光っているからといって油ではない感じだ。なんだろう、これ。
きりのいい時刻じゃないのに、頭上からすごい大きさで鐘の音が聞こえてきた。しかも、リズムがめちゃくちゃだ。骨まで響くとんでもない音で、ぼくはかなりびっくりしたのだけど、ウルはぜんぜん気にしてないみたいだった。
「いままでに止まったことはあっても、この時計がこれだけ派手に狂ったことはない。時計番の職人があがってくるだろうな。ぶつかって驚かせてしまわないように、気をつけて降りるとしよう」
「なにが起きたの?」
「これまでにこの場に積もっていた時間を絞り出しただけさ。魔法の秘薬はきちんと働いたから、とくに実害はなかろう。さあ、いくぞ。つぎで最後だ」
ウルは今夜のうちに全部終わらせるつもりでいるみたいだ。まっすぐ帰るのと、途中で博物館によっていくのとでは、たしかにそこまで時間は変わらない。ウルが真物のドラゴンになったら、博物館からはうちまで空を飛んで戻れるかな?
4
ときならぬ鐘の音を響かせるビッグ・ベンをあとにして、西に三キロ、自然史博物館にやってきた。ここはもともとは大英博物館の別館だ。学校の行事できたことも、家族できたことも、友達と一緒にきたこともある。たぶんぼくがロンドンで一番好きなところだろう。
あたりまえだけど開館時間はとっくに終わっているので、いまやすっかりつかいなれた壁抜けの術でさっさと中へ。中央エントランスホールでは、巨大なディプロドクスの全身骨格標本が出迎えてくれる。でもごめんねディッピー、今日はきみに用事はないんだ。
ディッピーの長い首の下をとおり抜けようとするぼくへ、ウルが感心したような口調で話しかけてきた。
「ほう、この骨がつかえないことを知っているのか」
「ここには何度もきてるもの。このディプロドクスは複製品で、ほんとの化石じゃないんだ」
恐竜の展示スペースは博物館の西側、ブルー・ゾーンにある。一番人気のコーナーだから面積も一番広いけど、展示品のほうが多すぎるから、ところせましと骨格標本に解説パネル、メカトロニクスやその他の手法でつくられた再現模型が並んでいる。
さて、どの恐竜をウルの身体にするのがいいんだろうか。四本足の上に翼があるのがドラゴンだから、翼竜と組みあわせるのがいいのかな。ベースにするのはやっぱりTレックス? でもドラゴンっていうには前脚が貧弱だし、それにTレックスの身体にあった翼の大きさの翼竜っていないし……そもそもここのTレックス、ほんとの化石なのは一部だけだったような……
そんなことを考えながら展示室の左右を見まわしているところだった。
いきなり、柱の陰からちいさいなにかが飛び出してきた。ぼくたちの頭上を一周して、戻っていく。暗いし動きが速くてぜんぜん見えなかったけど、博物館の中に鳥がいるわけはない。虫でもなかった。
「え、なに?」
「――きたか」
ウルはなにもかも予想ずみ、といった感じで、ぼくの肩から離陸すると、なにかが飛び去ったほうへと向かっていく。ぼくもそのあとについていき、柱の角をまわり込んだ先には、人が立っていて――
「……お祖母ちゃん」
「やれやれ。巣から落ちたカラスのヒナか、迷い猫の仔でも隠しているのかと思ったら、とんでもないモノを匿っていたものだね、ティム」
つばの広いとんがり帽子をかぶって、黒いケープをはおり、ねじれた形の木の杖を持っている、いかにも魔女のイメージぴったりだったけど、お祖母ちゃんがこんな格好をしているのを見るのははじめてだ。お祖母ちゃんの足もとには薬草園で見た黒猫がいた。右手に持った杖にはカラスがとまっていて、そして折りヅルが頭の上をゆったりと旋回している。さっき柱のほうから飛んできたのはこの式神だったんだ。
まだ透明の術は切れていないけれど、お祖母ちゃんがぼくらを見ることができるのはそう意外でもない。ぼくではなく、ものすごく怖い目で、ウルを睨んでいた。かりそめの生命を真物に変えようとするのは、そんなにいけないことなんだろうか。
「やっぱりウルを消しちゃうの? 式神だから? ぼくが掟に背いたから?」
罰ならぼくが受けるから、せめてかりそめの生命がつづくあいだはウルをこのままにしてあげて、消さないで……とたのもうと思ったのだけど、お祖母ちゃんはあっけなく首を左右に振った。
「いいや、おまえは掟に反してはいないよ。そのドラゴンは式神ではない」
「……え?」
「そいつは正真正銘、太古の怪物さ。魔竜ウルグラード――クウェンチを名乗るようになるまえ、わが一族の遠い祖先が戦った。だが滅ぼすことはできず、その生命と引き換えに竜の魂を捕らえるのが精一杯だった」
どういうことなのかわからなくて、ぼくはお祖母ちゃんとウルのことを交互に見た。でもやっぱりなにもいうことが思いつかない。ウルは無言で紙の翼をはためかせているだけだった。お祖母ちゃんが、ため息をひとつついて話をつづける。
「おまえには魔術師の基本のABCくらい教えておくべきだったね。そうしておけば、使い魔や式神がそんなに賢くはないってことくらいすぐにわかったろうに」
「ウルが大昔の悪いドラゴンだっていうなら、どうしていまごろになって現われたの? ぼくが折り紙でドラゴンをつくっただけで?」
なにかのまちがいか、偶然ってことはないのかと、ぼくは自分でもなにがいいたいのかわからないまま疑問に感じたことをそのまま口にした。それに、そう、ぼくはなにかが『封印』されているような、厳重に鍵がかけてあったりふたを閉めてあったりしたようなものを開けた覚えはない。
お祖母ちゃんは相変わらず怖い顔をしていたけど、怒っているというわけではないみたいだった。すくなくとも、ぼくに対しては。
「ウルグラードが捕らえられたのは千年以上まえのことで、正確な年月はいまとなってはわからないけどね。一五八二年に一度封印が解けかけて、大慌てで間に合わせの牢獄に閉じ込め直した。ところがその仮封印の装置をつくった錬金術師のディーとケリーはすぐにボヘミアへ営業旅行へいってしまって、けっきょく壊れやすいガラスの容器にウルグラードの魂は入ったままになっていたのさ」
……もしかして、ぼくが首を折ってしまったあのレトルトのこと?
ここまでだまっていたウルが、とうとうしゃべりはじめた。
「ディーとケリーは迂闊だった。レトルト中の霊質の量は魂縛咒法の必要値以上に満たされていてな。おかげで、わたしは表にこそ出られなかったが、あれ以来は世界の様子を見ることができていた。竜という天敵の存在を忘れた人間が、いかに驕り高ぶり、万物の霊長を僭称して暴虐に振る舞ってきたのかを。世界に人間どもの蠢く都市は数多いが、ここ倫敦はまちがいなくその象徴のひとつだ。この街を原初の更地に戻して、人間が天敵の存在を思い出せるようにしてやろう」
ウルの話は、ぼくが聞きたいものではなかった。ロンドンを破壊する? ぼくたちは友達なんじゃなかったの?
足を半歩踏み出し、お祖母ちゃんがウルに向けて言葉を投げた。
「人類代表面をする気はないが、しかしお前が判事と執行官を兼任するのを認めるわけにはいかないね」
「ならばどうする、倫敦に残りし現代最後の魔女よ」
「知れたことさ」
と、お祖母ちゃんが杖を掲げた瞬間、ウルが――折り紙のドラゴンが床へと落ちた。ちがう、これはもうウルではなくなっている。黒い影のようなものが湧き出すや、ぼくの手から「時間のしずく」の入ったビンがすっぽ抜けて飛んでいった。これは魔法の力にちがいない。紙の身体で魔法はつかえないといっていたけれど、それもウソだったみたいだ。もしかすると、お祖母ちゃんに気づかれないよう、ウルはウルでずっと隠蔽の魔法をつかっていたのかもしれない。
「逃がしはしないよ!」
お祖母ちゃんが叫び、黒猫とカラス、折りヅルが、影を追って床のうえを、空中を翔る。おどろおどろしい声が、音ではなく、直接心に響いた。
〈ここで逃げるわけがなかろう〉
ウルはやっぱり「時間のしずく」で恐竜の化石をよみがえらせ、その身体に取りつくつもりだ。恐竜でもドラゴンでも、生きた真物が登場したらぜったい大人気になれるのに、どうしてロンドンを破壊しなくちゃいけないのさ!?
とめなくちゃ。ここまでウルの復活を手伝ってきたのはぼくだ。お祖母ちゃんまかせにしてはいけない。
「マイオリジン!」
いきおいよく駆けだそうとしたんだけど、そこでいきなり呼びとめられて、ちょっと出ばなをくじかれてしまった。ぼくのことをそんなふうに呼ぶのは、ひとりしかいない。
こっちへ走ってくるのは、やっぱりホムだった。手には古書を持っている。たぶんあれにも呪文が書いてあって、透明の術や壁抜けの術を駆使しながらここまできたにちがいない。
「ホム、どうかしたの?」
いま、それどころじゃないんだけど……と思ったところで、もちろん承知とばかりにホムはうなずいた。ぼくの目のまえで立ちどまって、手にしていた本をさしだしてくる。
「これをお届けにきました」
「なんなの、この本?」
とりあえず受け取るには受け取って、ぼくは首をかしげた。もちろん、呪文が書いてあるだろうことはわかるけど。
「言葉で説明している時間はないですね。でもだいじょうぶ、わたしはマイオリジンの一部ですから。……あと一日くらいはわたしでいられただろうから、ほんとうはもうすこしマイオリジンとお話ししたかったですけど」
ホムはほんのわずかだけさみしそうに、だけど笑ってそういうと、ぼくと目と目をあわせてきた。ホムの目に映っているぼくと目があって……
ホムが左右の手でそれぞれぼくの手を取る。そのまま身体が重ねあわされた。比喩ではなく。ぼくたちはぼくに、ぼくはぼくたちになっていた。
――わたしはウルと名乗る式神のドラゴンが、あまりにも物識りすぎるのではないかと感じていた。マイオリジンといっしょにウルが出かけていくのを待って、屋根裏部屋にあるはずの古い記録を調べてみようと思いつき、お芝居をして、ふたりには早めに出かけてもらった。でもマイオリジンに読めないものはわたしにも読めない。わたしがマイオリジンから分離するまえ、薬草園での記憶はあったので、それをヒントに、辞書もつかいながら、まず翻訳の呪文をさがし出して、つぎに速読を見つけた。もちろんそれだけでは、暗号で書かれた、ほんとうの神秘に迫っている魔術書を読むことはできない。だけどいま必要なのは、クウェンチ一族の先祖たちが残していただろう日記のたぐいだったから、とにかく古そうなものから、読むことができるぶんだけにしぼって目をとおしていった。
魔竜ウルグラードの名前は思っていたよりもずっと早く見つかった。自分のことを式神だといつわっておきながら、どうして本名を名乗ったのかはわからない。偽名をつかうのはドラゴンの誇りにふれることなのかもしれない。ウルグラードは邪悪な存在であること、魂を幽閉したことで肉体はくちたけれど、その本質が存在しているかぎり復活をはたそうとするだろうこと、考えうるその手段と対抗方法……全部は調べられなかった。速読の術を見つけてからはものすごいスピードではかどっていたけれど、そもそも最初に翻訳の術を見つけるのに一時間以上かかってしまっていた。
そう、ビッグ・ベンの鐘の音が、壊れたように鳴り響くのが聞こえてきたから。ウルグラードが復活の準備を整えつつあることがわかった以上、マイオリジンの力になるために出かけなければいけなくなった。どうしてビッグ・ベンの鐘が聞こえたかというと、調べものに夢中になりすぎて、だれかが屋根裏にのぼってこようとするのに気がつくことができなかったらたいへんだから、聞き耳の術もかけておいたおかげ。
すぐに下の階からもあわただしい音が聞こえてきた。お祖母さまが異常に気づいて、ウルグラードが幽閉から逃れていることを察したにちがいない。わたしも、マイオリジンとウルグラードがいるだろう自然史博物館へ向かった。もうすこし早く調べていればよかった。でも、まだ手おくれではない――
……まったく、ホムはほんとうに賢い。まちがいなくぼくより機転が利いていた。ぼくなら、読めないものならまず翻訳の術をさがせばいい、っていうところまで考えつくのにひと晩以上かかったにちがいない。そもそも、ぼくはウルのことをぜんぜん疑っていなかった。女の子だから、ドラゴンは無条件でカッコいい! と思わなかったおかげだろうか。
やるべきことを把握したぼくは、黒い影になって飛び去ったウルのあとを追った。
ものすごい大きな音とともに、建物全体がゆれた。恐竜の展示エリアは二層構造になっているんだけど、天井からつられているパネルや、それをささえていたパイプにワイヤーがふってくる。骨格標本もいくつか落ちてきてしまった。床にぶつかって、バラバラになる。……バラバラになっただけで、パーツが割れていなければいいけど。
ロマネスク様式の壁をまわりこんで、音の発生源が見えてきたときには、もうウルは、魔竜ウルグラードが現世に再臨していた。どの恐竜の化石をつかうのか、というのはそう大した問題じゃなかったようで、ぼくの目にはもとの姿がなんだったのかわからない。ウルグラードの姿は、恐竜ではなく、まさにドラゴンだった。
もっとも、ゾウの骨から鼻の長いあの姿を思い浮かべるのは、生きたゾウを知っているからできることで、たとえば宇宙人が遠い未来の地球にやってきて、絶滅したゾウの化石から復元図を描いたとしたら、たぶん大きな牙だけが特徴の生き物になるだろう。だから、恐竜の骨からその生きているときの姿をほんとうの意味であきらかにはできないってことではあるけど。
でも、ウルグラードはそんなレベルじゃなかった。肩が盛りあがり、骨が伸びて、翼が生えてきている。地球に三対の肢を持った脊椎動物は存在したことがない。シーラカンスはぱっと見だと三列ヒレがあるように見えるけど、一番しっぽがわの腹ビレは、背ビレと同様一枚しかない。足のもとじゃないんだ。
「おまえに肉体を与えるわけにはいかない!」
お祖母ちゃんがそう叫んで、杖をかまえた。緑色の光線が撃ち出され、ウルグラードへと向かっていく。ドラゴンの目が青く輝くと、その姿がゆがんだ。
……いや、ゆがんだのは、見えている目の前の光景そのものだ。ウルグラードだけじゃなく、壁も天井も、いびつになっていた。お祖母ちゃんの放った光線も、大きなレンズにあたったみたいにまがって、左手の壁にぶつかった。壁は音もなく崩れさって、ロンドンの夜景が向こうに見える。
「……偏光防壁か!」
「五百年近くも勉強する暇があったのだ、もう人間相手に不覚は取らぬよ!」
吼えるウルグラードへ、お祖母ちゃんの使い魔たちが飛びかかった。でも黒猫はしっぽで打ちすえられ、クリケットのボールみたいに飛んでいってしまう。空中のカラスと折りヅルに対しては、ウルグラードは炎を吐いた。紙のツルはひとたまりもなく燃え尽きてしまい、カラスも羽根が焼けこげて床に落ちる。
巨大な左右の翼も生えそろい、完全なドラゴンになったウルグラードの目がお祖母ちゃんを見すえた。ようやく戦いの現場にたどりついて、ぼくはお祖母ちゃんとドラゴンのあいだに割り込む。
「さがっておいで、ティム!」
お祖母ちゃんが心配するのは当然だろうけど、ぼくはウルのほうへ向き直った。
「やめて、どうしてそんなことをするの、ウル!」
「ティム、できればそなたを手にかけたくはない。ドラゴンは徹底した相互主義者であり、恩義には返報で、屈辱には復讐を以って臨むものだからだ。そなたはわたしの復活に力を貸してくれた。だがわたしは同時に、われを千年以上に渡って封じ込めたクウェンチの一族と、そして人間への報復を果たさねばならぬ」
「それならぼくだってクウェンチ家の一員だし、人間だよ。それにこの街のことが好きなんだ。どうしても復讐しないといけないの? ロンドンを壊さなきゃいけないの?」
「千年を超えて幽閉され、その歳月の後半ほとんどのあいだ世界を見つづけてきたわたしの考え、まだ幼いそなたに理解はできまい。人間は強くなりすぎた。だがそれにもかかわらず、本当に必要な知識と力は身につけていない。ただ徒らに世界を食いつぶし、自らの力によって滅びるだろう。人間が自滅するだけだというなら黙って見ていることもできるが、そうではない。先にこの世界の豊かさと美しさが失われる。人間は自らの営為を律しなければならないが、万人すべてにその必要をあまねく理解させる方法はない。人間が人間に命じることはできないからだ。例外は圧倒的な力による強制のみだが、人界すべてを覆い尽くす強権が樹立されることはなかったし、これからもないだろう。仮に絶対的支配が確立されたとしても、その地位に昇った者はただの暴君にしかなるまい。たとえ理想的賢人が指導者となったところで、命令は発布と実行の途上でゆがめられ、正しい意図のまま伝わることは決してない。人間が人間を治めている限り、どうやっても不可能なのだ。すべての人間が理想的賢者となれれば話は変わるが、しかしそれを望むにはあまりにも数が殖えすぎた。……ならば理想的賢者を選別し、ほかの人間を淘汰すればいい? そんなことをして残った、つまりはかかる暴挙を許容した人間のどこが『理想的賢者』足りうるのか? 人間に人間を剪定することはできぬ、かといってこのまま懶惰を放置しておいてよいはずがない。人間に必要なのは、人でなき手による破壊だ。災害や疫病すら人間の数を調整するには非力なものとなってしまっている以上、破壊の概念を具現化し、意志を持って手を下さねばならぬ。われら竜族は、かつてそうした存在であったのだ」
ウルグラードの話は長くて、しかもぼくにはぜんぜん意味がわからなかった。だけどどう答えればいいのかはなぜだかわかった。ホムのおかげかもしれない。
「だから、ドラゴンはいなくなったんだね」
「……なに?」
「お呪いが必要なくなってお祖母ちゃんが現役で最後の魔女になったみたいに、ドラゴンは必要がなくなった。だからいなくなったんだ」
きっと怒りだすと思ったら、ウルグラードは笑いはじめた。
「ふふふふふふははははは! その論法を使っていいのなら、この時代にわたしが解き放たれたという事実が、つまりドラゴンがふたたび必要とされるようになった、そういうことだとは思わないのか? いいだろう、結果のみを以って意味を求めるというならば、答えを問おうではないか!」
ウルグラードは大きく口を開いた。さっきカラスと折りヅルに吐いた炎は、あれでものすごくてかげんをしていたらしい。流れ出したのは、炎というよりは、熱を持った光そのものだった。ウルグラードの足もとで石床がとけて、さらに蒸発していく。ロンドンを更地に戻すというのははったりじゃなかった。
十九世紀につくられた重厚な天然石の床を蒸発させてしまうなら、現代のコンクリート建築であろうとひとたまりもない。というか、現代建築よりこの博物館の建物のほうが堅牢だ。そして貴重。そういう意味でもぼくはちょっと失敗してしまった。「でも」というのは、ホムが持ってきてくれた呪文書には、ウルグラードを倒す術なら書いてあったけど、ドラゴンの炎を防ぐ術は載っていなかったから。そして攻撃の術も、ぼくはまだ唱えていなかった。ウルグラードの行動が早すぎた。
……だから、もちろんぼくも、骨も残らず蒸発してしまうはずだった。だけどまぶしくて目を開けられずにいるあいだも、熱さを感じることすらなかった。お祖母ちゃんが防いでくれたのかと思ったけど、それもちがった。
目を開けると、ぼくとお祖母ちゃんのまえに、折り紙のドラゴンが翼を広げていた。脱け殻になったはずの、さっきまでのウルの身体が。
ウルグラードはたしかに炎を吐き終えていて、ぼくの立っている位置からは、オレンジ・ゾーン名物の「コクーン」が残骸になっているのが見えた。オレンジ・ゾーンは新館にあって、つまりとなりの建物。ようするに、歴史的建造物である自然史博物館の、西端の壁がごっそり吹き飛んで、そのうえ新館まで崩れてしまったことになる。でもぼくたちの背中側、博物館本館の中央方面と、恐竜の化石のほとんどは無事だった。よかった……のかな。
壁がなくなって、風が吹き込んできた。ぼくたちを守ってくれた折り紙のドラゴンが、空中で灰になって崩れていく。ぼくも、お祖母ちゃんも、ウルも、ただその光景を見ていた。
さいわい、一番最初にやるべきことを思い出せたのはぼくだった。ホムから受け取っていた呪文書を開いて、その中の一行に目をすえる。これまでに何億回も唱えられてきたにちがいない、定型文。でも呪文書にこめられた魔力と、クウェンチ一族の血筋が、そのありきたりの文句を言霊に変える。
「土は土へ、灰は灰へ、塵は塵へ」
呪文を詠唱したところで、これは最初にお祖母ちゃんがつかってウルグラードにまげられたのと同じ術だってことに気づいた。よく考えれば、うちの屋根裏部屋にあった呪文書に、家主であるお祖母ちゃんの知っているものより強力な術が載っているはずはないんだけど。
でもいまさらどうしようもない。ぼくは指鉄砲のかまえをして、ウルグラードへ向けて緑色の光線を撃ち放った。
ウルグラードの目は灰色のままだった。青く光らず、その姿がゆがんで見えるようにもならない。崩壊の術がウルグラードの身体に突き刺さり、よみがえった古代生物とドラゴンの魔力のつながりを断ち切った。
すぐに巨体を支える力が失われ、地響きをたててウルグラードは倒れた。
……わざとやられたんじゃないのかってくらい、あっけない。それに、やっぱり、一度は友達だと思っていた相手を死なせてしまうってことで、悲しくなってきた。
「……どうして。防げたはずなのに」
ぼくがつぶやくと、ウルグラードの頭がわずかに動いた。だんだんもとの化石に戻っていく牙のあいだから、低い声がもれる。
「驚いて動けなかったのさ、本当に。あの折り紙は式神ではなかった、竜だ。まだわたしの一部だった。だからわたしの攻撃を受け止めることができたのだろう。千幾年かまえ、そなたの祖先に捕らわれるまで、すでにわたしは千数百年を生きていたが、友はいなかった。友と呼んでくれたのは、そなただけだ。だからかな」
魔竜ウルグラードの声じゃなかった。これは、ウルだ。ぼくの友達。
ウルの目が崩れる寸前、ぼくの顔が一瞬だけ映った。なんだか、いまにも泣きそうだ。
「……ああ、きみを背中に乗せて空を飛ぶと約束していたことを忘れていた。約束を果たすことができなかったとは、わたしはドラゴン失格だな」
「ウル……」
「なぜそんな貌をしている。わたしはそなたを騙し、現世へ再臨し破壊を尽くすつもりでいた、悪竜だぞ。そなたはそれを打ち破った、英雄だ。偉大な敵手によって滅ぶことができるわが身とわが魂を、誇――」
声がとぎれ、完全に恐竜の頭蓋骨の化石に戻った。発掘されたときにはディナモサウルスと呼ばれていた、Tレックスの部分化石。ウルは化石をパーツとして考えていたみたいで、残っていたのは、合成恐竜というべき、巨大なだれも見たことのない骨格だった。
たくさんのサイレンと、ヘリコプターの回転翼の音が近づいてきた。ちょっとした地震なみにゆれて、しかも大爆発がおこって博物館の一角が吹き飛んでしまったわけだから、緊急通報にはさぞやコールが殺到しただろう。
いつもの調子に戻ったお祖母ちゃんが、周囲を見まわしてこうつぶやいた。
「やれやれ。ガス爆発だといって公式発表がとおるかねえ、これで」
……翌朝、一部が崩壊してしまったうえに、所蔵品もすくなからず損傷した自然史博物館は臨時休館に(たぶん一日、二日じゃすまないだろう)なった。
ぼくに対して警察から直接の事情聴取はなくて、市警の第十三課(公式なものじゃなくて、オカルト関係の事案を担当するはめになった刑事さんの通称らしい)立ち会いで、連合王国魔術師協会とかいうところの人たちから話を聞かれた。
お祖母ちゃんも協会の会員だそうだけど、今日は聴取されるほうだった。
折り紙は日本から送られてきたこと、それを使ってドラゴンをつくろうと思ったこと、最初はうまくいかなかったけど屋根裏部屋でレトルトを割った夜に夢でひらめいたこと、つくったドラゴンが動いてしゃべりだし、ウルグラードと名乗ったこと、ウルを折り紙じゃない大きくて頑丈な身体に移すために色んな品を集めたこと、そして博物館でのできごと。
――ぼくは記憶のかぎり全部話した。協会の人はメモを取ったりうなったり、ときどきお祖母ちゃんのほうへ視線を巡らせたりして、そのたびにお祖母ちゃんはだまってうなずいた。
ぼくはすぐに家へ帰されたけど、お祖母ちゃんは夜まで戻ってこなかった。あとで聞いた噂によると、お祖母ちゃんは厳重注意処分になったらしい。ぼくが勝手にキクエさんの折り紙を使ったせいだ。反省。
すぐといっても家に帰れたのはお昼まえで、一睡もしていなかったこともあって、さすがにその日は学校を休むことになった。だけどコーディルと約束していた、土曜日の試合には間にあわせることができた。
クラウスとの約束のほうは、翌週の月曜日に、クラウスだけじゃなくてアリスやフレーヴィアたちのぶんまで、ひとりで三階の廊下を全部掃除することになって、一時間もかかってしまった。たしかに、五倍にして返すといったから、五日ぶん代わると決まっていたわけじゃなく、五人ぶんをいっぺんに代わるのもありだったんだけど。
掃除をしながら、しまった、ホムンクルスの材料を準備しておけばよかったかな、とか、ちょっとだけ考えた。
That’s all.