↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

短編・ショートショート

絡繰人形は物語を知らない ver.0.1

作者: 葦沢かもめ
掲載日:2020/05/10

※作中に登場する絡繰人形による小説は、全て筆者が開発したプログラムによって執筆されています。

 玄関口(げんかんぐち)で踵(かかと)の潰(つぶ)れた革靴(かわぐつ)を履(は)いてから、俺(おれ)はふと振り返った。

 俺(おれ)が春に越(こ)してきたばかりの四畳半(よじょうはん)の学生アパートは、ほんの半年ですっかり畳(たたみ)が見えなくなっていた。特価(ゾッキ)本の山がそびえ立っているお陰(かげ)で、正面の窓は暫(しばら)く開けていない。右手には万年床(まんねんどこ)が陣取(じんど)っており、左側の壁(かべ)には設計図が幾重(いくえ)にも折り重なって貼(は)り付けられたままだ。その下には工具と部品とが無造作(むぞうさ)に散らばっている。足の踏(ふ)み場があるのは、部屋の真ん中の卓袱台(ちゃぶだい)周りしかない。

 そして今はその希少な空間さえも、「彼女(かのじょ)」によって占拠(せんきょ)されている。「彼女(かのじょ)」の名前はリャカという。俺(おれ)が独学で組み上げた、「絡繰(からくり)人形」である。

 リャカは座布団(ざぶとん)の上に正座して、宮沢(みやざわ)賢治(けんじ)を食い入るように読んでいた。その横顔は、新式の絡繰(からくり)にも引けを取らないほど美しい。花街(はなまち)で捨てられていた絡繰(からくり)人形を素体(そたい)にしたのは正解だった。血の通っていない美しい白い肌(はだ)も、俺(おれ)が何度も鑢(やすり)がけして仕上げたものだ。

 だがそんなことは、どうでもいいのさ。俺(おれ)は、男の相手をさせるためにリャカを作ったのではない。

「それじゃ、ちょっと外に出るよ」

「行ってらっしゃいませ」

 リャカは感情の無い声で答えた。視線は開いた本に落としたままだった。でも俺(おれ)は知っている。その本を、リャカはもう三度は読んでいる。だがリャカは、自分で本を取ろうとしない。いつも俺(おれ)が渡(わた)した本しか読もうとしないのだ。

「その本も、もう飽(あ)きただろう」

「いえ。楽しいです」

 今まで一度も、リャカが不平を言ったことはなかった。いつもすました顔で本を読んでいる。もっと豊かな表情もできるように算譜(プログラム)を作ったはずだが、リャカが表情を変えるところは見たことが無かった。算譜(プログラム)というのは、絡繰人形の挙動を制御する特殊な言語みたいなものである。多分、「感情」の算譜(プログラム)に錯誤(エラー)があったのだろう。全ては俺(おれ)の無能のせいだ。

 所詮(しょせん)、俺(おれ)は工学の専門家ではない。凡庸(ぼんよう)な仏(フランス)語科の学生では、工学書を読み漁ってどうにかこうにか旧式の絡繰(からくり)を組み上げるだけで精一杯(せいいっぱい)だった。多少動きがぎこちなかったとしても、リャカが俺(おれ)の期待に応えてくれるなら、それで十分なのだ。

 いつもならリャカには留守番をさせて、俺(おれ)一人で書店へ行き、リャカに読ませるための本を買ってくるのだが、この日の俺(おれ)は、なぜかリャカに尋(たず)ねたのだった。

「君も書店に行くかい?」

「はい」

 リャカはすぐに顔を上げた。表情は変わらない。喜んでくれても良かったのだけれど。

 リャカをお供に連れて、俺(おれ)は神保町(じんぼうちょう)の古書店街へ足を向けた。リャカの歩みは少し遅(おそ)いので、半時(はんとき)ほどかかってしまった。

 俺(おれ)の行きつけの書店へ入ると、老店主の目が僅(わず)かに丸く見開いたのが分かった。だが俺(おれ)は気にせずに、小説の並ぶ書棚(しょだな)へ向かった。

 リャカは、あちこちの書棚(しょだな)に並んだ数多(あまた)の本を見まわしていた。これだけ多くの本を目にするのはこれが初めてだから、嬉(うれ)しいのかもしれない。

「読みたい本はあるかい?」

 だがリャカは本に手を伸(の)ばさなかった。

「特には」

 俺(おれ)に遠慮(えんりょ)でもしているのだろうか。

「これとか良さそうだ。ヴェルヌの『地底旅行』」

 俺(おれ)が本を渡(わた)すと、リャカは待っていたように無言でそれを開いて読み始めた。自分で作っておいてなんだが、不思議な奴(やつ)だ。

「書生さん、それは『ガァルフレンド』かい?」

 最近覚えたのであろう若者言葉を自慢(じまん)そうに口にしながら、老店主はリャカを一心に凝視(ぎょうし)していた。

「持ち込み禁止の張り紙はありませんでしたが?」

「花魁(おいらん)人形と駆け落ちごっこをするのが、今の『ヤング』の流行りなのかね? 嘆(なげ)かわしいことだ」

「店主、リャカは花魁(おいらん)人形ではありません」

「はいはい。好きにしたらよろし」

 言いたいことだけ言って、老店主は奥(おく)へ引っ込んでいった。

 この大正(たいしょう)の時代になって、絡繰(からくり)人形を昼間に連れて歩く人は珍(めずら)しいものではなくなった。とはいえ、まだ将軍のいた頃(ころ)は、絡繰(からくり)人形と言えば花街で男の相手をする花魁(おいらん)人形しかいなかったから、年寄りが絡繰(からくり)に偏見(へんけん)をもっているのは仕方のないことではあった。それに昼間に見かける絡繰(からくり)人形も大抵(たいてい)は金持ちの給仕(メイド)だから、俺(おれ)が怪(あや)しまれるのは当然と言える。

 俺(おれ)も初めは、リャカを外に出そうとは思っていなかったし、これまで外に連れ出したことも無かった。人目のこともあるが、何よりリャカに持たせた能力を理解してくれる人がいないだろうという不安があったことが大きい。他人に見せても恥(は)ずかしくないくらいの実力が伴(ともな)ってきてから大々的に売り出し、世の中を驚(おどろ)かせてやろう、というささやかな野望もあった。それが無理だったとしても、このままずっとリャカと二人きりで小説を読んで暮らすのも悪くはない選択肢(せんたくし)だと、俺(おれ)は本気で思っていた。

 だが俺(おれ)の目論見(もくろみ)が蜃気楼(しんきろう)であることは、すぐに明白となった。俺(おれ)がいくら本を買い与えて読ませても、リャカの能力は進展しなかった。俺(おれ)が必死になってリャカを作った努力は水の泡だったのだろうか、と何度も思った。リャカが生まれてきた意味は無かったのだろうかと、寝床(ねどこ)でいつも考えていた。少しずつ、少しずつ、俺(おれ)は追い込まれていた。きっかけが欲しかった。

 だから俺(おれ)は、リャカを外へ連れ出したのかもしれない。それでも俺(おれ)は、まだリャカと過ごす日常が壊(こわ)れることはないだろうと高を括(くく)るような、浅はかな「ヤング」だった。

 本を三冊買って書店を出ると、そこには黒塗(ぬ)りの馬車が止まっていた。

 何だろう、と思っていた矢先、背後に潜(ひそ)んでいた絡繰(からくり)がリャカを羽交(はが)い締(じ)めにして、俺(おれ)から引き離した。さらにもう一体の絡繰(からくり)が間に割って入り、俺(おれ)の前に立ち塞(ふさ)がった。

「おい待て!何をする!」

 リャカの素体は英国(イギリス)製の旧式だったから馬力も弱い。あっという間にリャカは馬車の脇(わき)まで引き摺(ず)られていった。

「その絡繰(からくり)人形、儂(わし)が買った」

 そう言い放った若い男が、馬車から身を乗り出して、捕(と)らわれたリャカを眺(なが)めている。あれは多分、戦争成金だろう。

「売り物ではありません」

「別にいいじゃないか。新型を一体買っても余るくらいは出すよ。儂(わし)は収集家でね。特に、まだ職人が手作りしていた参(さん)式の顔が好きなんだ」

「駄目(だめ)です。リャカを売る訳にはいかない!」

 男は面倒(めんどう)そうに俺(おれ)の方を向いた。

「強情(ごうじょう)だねぇ。心配しなくても、大事に使ってあげるよ。使い捨てにするような無粋(ぶすい)な輩(やから)と一緒(いっしょ)にされては困る」

「俺(おれ)のリャカは、そんなことのために作ったんじゃない」

「作ったとはまた酔狂(すいきょう)なことを言う。どうせでまかせだろう? まぁいいさ。なら何に使うんだね? ただ身の回りの雑用をさせるためだけに、君は絡繰(からくり)を侍(はべ)らせているとでも?」

 この期に及(およ)んで、俺(おれ)はリャカの能力のことを言うべきか迷っていた。だが「ただの給仕(メイド)だ」と言って納得してもらえる相手ではなさそうなのは確かだった。

「リャカを作った理由を教えれば、これは無かったことにしてくれますか?」

「いいぞ。教えてみろ、書生(しょせい)君よ。この大衆の往来の前で言えることならな」

 若い男は嫌味(いやみ)ったらしく笑った。

 俺(おれ)は横目でリャカの方を見遣(みや)る。リャカは、本を読んでいる時と変わらない表情に見えた。リャカが笑うところを見るまでは、俺(おれ)は諦(あきら)められない。

「リャカは、小説を書いてもらうために作った絡繰(からくり)なのです」

 俺(おれ)の言葉に対して、一瞬(いっしゅん)、男は間(ま)を置いてから、呆(あき)れたように笑い出した。

「絡繰(からくり)が小説を書く? 何を馬鹿(ばか)なことを言っているんだ、書生(しょせい)君。頭が空っぽの絡繰(からくり)だぜ? 小説なんて書けるはずがないじゃねぇか」

「それでも俺(おれ)は、読みたい小説があるんです。だが自分では書けなかった。だからそれを書いてもらうためにリャカを作ったんです」

 それを聞いた男は、少し思案してから太腿(もも)をパチンと叩(たた)いた。

「よし。そんならここで試しに絡繰(からくり)先生に書いてもらおうじゃねぇか。それで白黒はっきりつけようぜ」

 俺(おれ)の背中に、冷たい汗(あせ)が一筋流れる。だがここで怯(ひる)むわけにはいかない。

「いえ、それが……実は、リャカにはまだ小説が書けないのです」

「は? 今何て言ったんだい、書生(しょせい)君?」

「いずれは書けるようになるはずですが、今はまだ勉強している途中(とちゅう)なのです。それに俺(おれ)の仮説も完璧(かんぺき)ではありません。少しずつ修正していく必要があるのです」

 男はあからさまに不機嫌(ふきげん)な顔に変わった。

「なんだよそれ。つまらねぇなぁ。小説書けねぇの? じゃあ使えねぇじゃんか。もっと金を積んでやろうかと、少しでも思ってしまった自分が情けねぇよ」

 男は巾着(きんちゃく)袋(ぶくろ)を取り出して中に手を突っ込むと、中から適当に金貨を掴(つか)んで投げた。俺(おれ)の足元に、一年は遊んで暮らせそうなお金が散らばった。

「書生(しょせい)君、交渉(こうしょう)は決裂(けつれつ)だ。すまないが、それはもらっていくよ。明日には芥(ごみ)捨て場に転がっているかもしれないがね」

「やめろ!」

 男の絡繰(からくり)がリャカを背負って馬車に乗り込もうとした。俺(おれ)はそれを止めようとしたが、手前の絡繰(からくり)に邪魔(じゃま)をされて近付けない。

「待ってくれ! リャカが居なくなってしまったら、俺(おれ)は!」

 するとその時、馬車の前に歩み出てきた人物がいた。

「ちょっとよろしいかな」

 それは紺(こん)のビロードのコートを着た老紳士(しんし)だった。薄(うす)灰色の髪(かみ)は綺麗(きれい)に整えられている。顔の皴(しわ)の深さとは対照的に、若者のような澄(す)んだ蒼玉(サファイア)の瞳(ひとみ)をしていた。すっと背筋の伸(の)びた立ち姿は、凪(な)いでいる海のような雰囲気(ふんいき)を醸(かも)し出している。一見すると温厚そうではあるものの、一歩間違(まちが)えると深い底まで引き摺(ず)り込まれてしまうのではないかと予感させる恐(おそ)ろしさが、そこにはあった。

「いかがしましたか、ご老人」

 流石にこの男も運だけで成金になった訳ではないようで、老紳士(しんし)の佇(たたず)まいに何かを感じ取っているようだった。

「その絡繰(からくり)人形は、ウチが買おう」

「お孫さんへのお祝いの品ですかな? しかし失礼ですが、私が先に買ったのです。私から買うなら、相場の二倍は頂くことになりますが、よろしいですかな?」

 老紳士(しんし)の口元が、ふと緩(ゆる)んだ。

「よかろう。言い値で買ってやる。お代はウチの店に取りに来なさい」

 そう言うと、老紳士(しんし)は男に背中を向けて歩き始めた。

「店? 店ってどこだい?」

 老紳士(しんし)は振(ふ)り向きながら答えた。

「『ゲイゼル』だよ。そうそう、君の父上によろしくな、猿田(さるだ)君」

 去っていく老紳士(しんし)の背中を見つめながら、男は舌打ちをした。

「くそっ! 『ゲイゼル』の野郎(やろう)かよ! おい、そのくだらん絡繰(からくり)は捨てていくぞ。無駄(むだ)な時間を食っちまった」

 男の指示でリャカは解放された。幸(さいわ)いどこも壊(こわ)れていないようだ。

 馬車が蹄(ひづめ)の音を立てて騒々(そうぞう)しく去っていき、俺(おれ)達だけが路上に残された。ほっと肩(かた)の力が抜(ぬ)けたが、すぐに俺(おれ)はさっきの老紳士(しんし)の姿を探した。しかし人混みの中に紛(まぎ)れてしまって、見つからない。

「さっきの人に御礼(おれい)をしないと」

「あそこ」

 リャカがその白い指を差した先に、あの紺(こん)のコートの老紳士(しんし)の姿が見えた。ちょうど路地に入っていくところだった。

「ありがとう、リャカ。助かる」

 しかしこのまま歩いて行ったのでは、また見失ってしまう。かといってリャカを置いていく訳にもいかない。俺(おれ)はリャカをおんぶして、人混みをかき分けて走った。

 老紳士(しんし)の消えた路地に入ってみると、途端(とたん)に人影(ひとかげ)は少なくなった。老紳士(しんし)の姿は見えなかったが、一本道だから、この先のどこかにいるはずだった。曲がりくねった道を奥(おく)へ進んでみると、建物の陰(かげ)になった薄暗(うすくら)がりの一角に掲(かか)げられた、ネオンサインの看板が目に留(と)まった。

『お茶パブ ゲイゼル』

 恐(おそ)らくここが、老紳士(しんし)の言っていた「店」なのだろう。いかにも怪(あや)しい店だが、他に心当たりもない。

 俺(おれ)はリャカを下ろしてから、恐る恐る店のドアをノックしてみた。

「すみません」

「どうぞ」

 さっきの老紳士(しんし)の声だった。ドアを開けて入ってみると、そこにはカウンター席が並んでいた。奥(おく)にはテーブル席もあるようだ。しかし客はいない。バーカウンターの前の棚(たな)には、所狭(せま)しと茶葉の入った瓶(びん)が並んでいた。これがお茶パブというものなのだろうか。

「いらっしゃい。ゆっくりしていきなさい」

 気付くと老紳士(しんし)がカウンターに立っていて、湯を沸(わ)かしていた。

 席に座るのを勧(すす)められたが、俺(おれ)はその場で深く頭を下げた。

「先程は助けて頂き、ありがとうございました」

「気にしなくていいんだよ。私が勝手にやったことだ」

「しかし、お金が……」

「お代のことなら、彼(かれ)は取りに来ないよ」

 老紳士(しんし)はにこりと笑いながら、茶葉の瓶(びん)を一つ手に取った。茶葉を匙(さじ)にとり、白い陶器(とうき)のポットに入れる。

「もしそうだとしても、何か御礼(おれい)をしないと気が済みません。何でも仰(おっしゃ)ってください。できる限りのことはしてみますから」

「面白い子だね。君は」

 老紳士(しんし)は、ポットに湯を回して注ぎ入れて、それから小さな蓋(ふた)を置いて蒸(む)らした。茶葉の安らぐ香(かお)りが広がった。それから老紳士(しんし)は口を開いた。

「ではこうしよう。私は君の絡繰(からくり)人形を買った。そして君は後払(あとばら)いで買い戻した。そしてその分のお金は、その子にこの店の給仕(メイド)として三か月働くことで返してもらう。どうかね?」

「リャカが、この店で給仕(メイド)を……? 本当に給仕(メイド)の仕事だけですか?」

「もちろんだ。信頼(しんらい)してくれていい。私はね、君の『小説を書く絡繰(からくり)人形を作りたい』という夢を信じたくなったんだ。この店は、懇意(こんい)にしてくれている作家も多い。もしかしたら君達の役に立つかもしれない」

「……」

 確かに茶を運ぶくらいならできなくもないとは思う。だが、今日初めて外に連れ出したのに、いきなり働くだなんてできるだろうか。

 俺(おれ)はリャカの目を見つめる。するとリャカは、俺(おれ)の服の裾(すそ)を掴(つか)むと、じっと俺(おれ)の目を見て頷(うなず)き返した。リャカがこんな行動をするのを見るのは、初めてだった。

 これは何かのきっかけになるかもしれない。俺(おれ)はそう直感した。

「分かりました。給仕(メイド)をするために作ってはいないので、ご期待に沿えるかは分かりませんが、やらせて頂きます」

 老紳士(しんし)はお茶をカップに注ぎながら、微笑(ほほえ)みを浮(う)かべていた。

「良かった。私は店主の佐原(さわら)だ。よろしく」

「私は椿(つばき)です。帝都(ていと)学院の仏(フランス)語科に通っています。こちらの絡繰(からくり)人形はリャカといいます」

「立ち話もなんだから、どうぞお座りなさい」

「しかし、高価なお茶を頂く訳にはいきませんし」

 リャカの躰(からだ)の整備費用が嵩(かさ)んでおり、正直、俺(おれ)の懐(ふところ)事情はよろしくない。

 だが佐原(さわら)さんは、構わずにカップを差し出した。

「ウチの従業員には、無償(むしょう)で提供しているんだよ。だがリャカちゃんは飲めないのだから、君が代わりに飲んでくれていいんだ。さぁ、冷めないうちにどうぞ。ジャスミン・ティーだ」

「では、ありがたく頂戴(ちょうだい)します」

 初めて飲んだジャスミン・ティーは、まるで茉莉花(まつりか)の花弁で包み込むように、冷えた体の芯(しん)を奥底(おくそこ)から温めてくれた。




 翌日、講義が終わった俺(おれ)は、一旦(いったん)下宿先に戻(もど)ってリャカを拾ってから、神保町(じんぼうちょう)へ向かった。佐原(さわら)さん曰(いわ)く、お茶パブ「ゲイゼル」が営業しているのは夜だから、あまり急がなくてもよいとのことだった。

 店に着く頃(ころ)には日が落ちており、看板の桃色(ももいろ)と黄色のネオンサインが妖(あや)しく辺りを照らしていた。

「失礼します」

 ドアをノックしてから入ると、そこには佐原(さわら)さんの姿は無かった。その代わり、俺(おれ)と同年代くらいの給仕(メイド)服を着た女性がテーブルを布巾(ふきん)で拭(ふ)いているのが目に留まった。藤(ふじ)色の着物に白いエプロンが映(は)える。キビキビとした動作でテーブルを拭(ふ)く度に、後ろで纏(まと)めた髪(かみ)が野花のように揺(ゆ)れる。俺(おれ)たちに気付いた彼女(かのじょ)は振り返るなり、キッと睨(にら)みつけて布巾(ふきん)を投げつけてきた。

「遅(おそ)い! 貴方達が今日から入る新人さんでしょ? どうして先輩(せんぱい)より先に準備をしないのさ!」

「す、すみません!」

「言葉より先に手を動かせ! 接客に上限無し! 店の敷居(しきい)を跨(また)いだら、常にお客様のことを最優先に考えなさい!」

「はい!」

 まるで軍隊の鬼(おに)教官のような奴(やつ)だ。仕方なく、鬼(おに)教官の監視(かんし)の下、俺(おれ)とリャカで手分けしてテーブルを磨(みが)いていると、店の奥(おく)から佐原(さわら)さんが顔を出した。

「おや、栗山川(くりやまがわ)さん。新人の子が来たら私を呼ぶように言ったじゃないか」

「遅(おそ)く来るのが悪いんです。それに店の仕事を覚える前にお客さんの前に出そうだなんて、佐原(さわら)さんも甘(あま)すぎる!」

「私の見込(こ)みに狂(くる)いは無いよ。リャカさんは絡繰(からくり)だから、きちんと仕事をしてくれるはずさ。それに椿(つばき)君はリャカさんの付き添(そ)いというだけで、雇(やと)ってはいないよ」

「え」

 栗山川(くりやまがわ)さんと呼ばれた女性は、まずリャカが絡繰(からくり)であることに目を丸くして、さらに俺(おれ)が雇(やと)われていないということに口をポカンと開けた。まさかリャカが絡繰(からくり)人形であることにさえ気付かなかったとは、なんと仕事熱心な方なのだろう。

 リャカが栗山川(くりやまがわ)さんに連れられて給仕(メイド)服に着替(きが)えに行っている間に、俺(おれ)は佐原(さわら)さんにお茶を淹(い)れてもらった。それから夕飯代わりに、チップスを注文した。佐原(さわら)さんはお代は要らないと言っていたが、無理を言って受け取ってもらった。

 揚(あ)げたてのチップスをフォークに刺(さ)して齧(かじ)ると、香辛料(こうしんりょう)を利かせた衣(ころも)と火のよく通った芋(いも)の絶妙(ぜつみょう)な味わいが口の中に広がった。

 俺(おれ)はまだ二人が帰ってきていないのを確認してから、佐原(さわら)さんに尋(たず)ねた。

「あの栗山川(くりやまがわ)さんという方は、まるで教官みたいですね」

「彼女(かのじょ)は自分に厳しいからね。以前は別の所で働いていたんだけど、今はこの店で働きながら作家を目指しているんだ。椿(つばき)君も今度読ませてもらうといい」

「読ませてもらえますかね」

「きっと今日読めるはずだよ」

「というと?」

 その時、店の裏から足音がした。きっとリャカと栗山川(くりやまがわ)さんが戻(もど)ってきたのだろう。

「お待たせしました」

 戻(もど)ってきたリャカの姿を見た俺(おれ)は、思わずチップスをフォークから落としそうになってしまった。

 濃(こ)い臙脂(えんじ)色の着物に給仕(メイド)服のエプロンがよく似合っている。が、それだけではない。

「つい出来心で、軽くお化粧(けしょう)してあげんだけど、どう? 可愛いでしょ?」

 栗山川(くりやまがわ)さんが自慢(じまん)げになるのも無理はない。リャカはいつものすました表情だったが、仄(ほの)かに桜色を帯びた頬(ほお)は、まるで人間のようだった。

「うん、よく似合ってる」

「あんた、もう少しリャカちゃんに女の子らしいことさせてあげなさいよ。着てた服も地味だったし」

「気を付けます……」

「さて、そろそろお店を開ける時間だ。準備をしておくれ」

「そこでチップスに舌鼓(したつづみ)を打っている書生(しょせい)君は片付けてもいいですか、マスター?」

「彼(かれ)はお客さんだよ。丁重(ていちょう)におもてなししなさい」

 栗山川(くりやまがわ)さんは俺(おれ)に向かって大きくベロを出しながら、店の奥(おく)へと消えていった。

 開店時間が過ぎてしばらくすると、ちらほらとお客さんがやってきた。半時が過ぎると、席が半分くらいは埋(う)まっていた。

 リャカは、さすがに絡繰(からくり)らしく、教えたことは一度で理解して無難(ぶなん)に給仕(メイド)の仕事をこなしていた。もっともリャカは無愛想(ぶあいそう)なので、栗山川(くりやまがわ)さんが注文を受けて、リャカが配膳(はいぜん)をするように分担しているようだったが。

 リャカにちょっかいを出すような輩(やから)がいるのではないか、と初めは不安に思っていたのだが、どのお客さんもリャカに優しく接してくれていた。佐原(さわら)さんの目が届いているせいもあるのかもしれない。だが観察していると、そもそも心優しい人が、佐原(さわら)さんの人柄(ひとがら)に惹(ひ)かれてこの店に来ているような印象を受けた。仕事終わりにアルコールで鬱憤(うっぷん)を晴らすのではなく、温かいお茶で安らぎたい。そういう願いを持つ人たちが、ここに集まってきているのだろう。

 客の入りのピークが過ぎた頃(ころ)、一人の男が来店した。背は高く痩(や)せ型で、よれたコートを羽織っている。まるで歩く案山子(かかし)のようだった。

 案山子(かかし)男が入った途端(とたん)、店内の小さなお喋(しゃべ)りの声が静まり返った。一体何が起こるというのだろう。俺(おれ)は万が一に備えて、店の奥(おく)にいるリャカに目を遣(や)り、身構えた。

 案山子(かかし)男は俺(おれ)の隣(となり)の空いているカウンター席に座った。佐原(さわら)さんに温かい麦茶を所望(しょもう)すると、茶色の鞄(かばん)から大事そうに年季の入った封筒(ふうとう)を取り出した。今まで見たことが無いくらいに、分厚(ぶあつ)い封筒(ふうとう)だった。

「来たのね」

 案山子(かかし)男に話しかけたのは、栗山川(くりやまがわ)さんだった。

「そっちこそ、逃(に)げたのかと思ったぜ」

 見れば栗山川(くりやまがわ)さんも、同じくらい分厚(ぶあつ)い封筒(ふうとう)を両手で抱(かか)えていた。

「審判(しんぱん)は誰(だれ)にする? 店長は決まりとして、今日いる中だと……我孫子(あびこ)さんと久留里(くるり)さんでどうだ?」

「私もそうしようと思っていたところよ」

 一体、彼(かれ)らは何を始めようというのだろうか。俺(おれ)が目立たないように息を潜(ひそ)めていると、佐原(さわら)さんが口を開いた。

「ちょっと待った。私は今日は辞退するよ。代わりに、そこにいる椿(つばき)君を推薦(すいせん)しよう」

「えっ!? どうしてですかマスター! なんで今日来たばかりの人に!」

「そうだぜ。僕達(ぼくたち)は、店長の批評を聞くために今日ここに来たようなものなのだから」

 急に矢面(やおもて)に立たされてしまった俺(おれ)は、ただ状況(じょうきょう)を見守ることしかできなかった。

「私も、理由もなしに椿(つばき)君を審判(しんぱん)に推薦(すいせん)した訳ではない。彼(かれ)は仏(フランス)語科の書生(しょせい)であり、文学に明るい。しかもそこにいる絡繰(からくり)人形のリャカさんを作った人物だ。ただの文芸批評家とは違(ちが)う視点を持っている」

「仮にそうだとしても、ここには色んな経歴を持った人達が集まってるじゃないですか。その中で彼(かれ)が群を抜(ぬ)いて審判(しんぱん)に向いているとは思えません」

 すっかり顔を赤くして抗議(こうぎ)している栗山川(くりやまがわ)さんを、佐原(さわら)さんは制してこう言った。

「理由はもう一つある。この椿(つばき)君は、リャカさんに小説を書かせようとしている野心家だ」

 その瞬間(しゅんかん)、店内にいる全ての人間の視線が俺(おれ)に向いた。興味と関心と懐疑(かいぎ)と恐怖(きょうふ)と期待の混ざり合った眼差(まなざ)しによって、俺(おれ)は逃げ場を失ったことを即座(そくざ)に理解した。

「本当か?」

 案山子(かかし)男が尋(たず)ねてきた。

「本当に、その絡繰(からくり)人形は小説を書けるのか?」

 それは心の奥から出てきた曇(くも)りのない言葉で、嘲笑(ちょうしょう)の色が無いのは明らかだった。

 だが俺(おれ)は、昨日の猿田(さるだ)という男を思い出していた。結局、猿田(さるだ)の言っていたことは事実だった。俺はリャカに小説を書かせることはできていないし、そうである以上、リャカの存在意義は無いに等しい。濁流(だくりゅう)のように襲(おそ)いかかる己(おのれ)の無力さに溺(おぼ)れてしまいそうになるのを堪(こら)えながら、俺は言葉を紡(つむ)いだ。

「リャカは文章を書くことはできますが、誰かを感動させたり、面白いと思わせるような小説を書くことはできていません。ですから文章は書けますが、小説はまだ書けません」

「しかし絡繰(からくり)人形なら、言葉を話せるだろう。それなのに小説が書けないというのは、ちとばかり変だ」

「一般的な絡繰(からくり)の会話は、あらかじめ吹(ふ)き込(こ)んでおいた言葉を場面に応じて発声させているだけです。自分でものを考えて、それを言葉にしているのではないのです。私も最初はそれを応用できるのではないかと思って試したのですが、思ったような文章を書くことはできませんでした」

 俺(おれ)は、あの猿田(さるだ)と同じように、案山子(かかし)男からも罵倒(ばとう)されるのだろうと身構えた。

 だが彼の返答は意外なものだった。

「いいだろう。僕(ぼく)は承知した」

「私も了解(りょうかい)です。納得はしていませんが」

 栗山川(くりやまがわ)さんは、隙(ひま)さえあれば布巾(ふきん)を投げつけてきそうな目で俺(おれ)を睨(にら)んでいた。

「いえ、ですからリャカは小説を書くことはできていません。私は、皆さんが期待しているような天才技術者ではないのです」

 俺(おれ)は喉(のど)が詰まりそうになりながら、声を絞(しぼ)り出した。だが佐原(さわら)さんは俺(おれ)の肩(かた)を叩(たた)いて言った。

「絡繰(からくり)人形に小説を書かせようと思いつく人間なら、いくらでもいる。だが実際に書かせようとするのは百人に一人だ。そして実際に書かせようとして失敗しても、試行錯誤(しこうさくご)を重ねて挑戦(ちょうせん)をし続けるのは、さらに百人に一人だ。それだけで、君は面白い。ここにいる人達は皆(みな)、そう思っているのだよ」

 その言葉は、俺(おれ)を冷たい水の中から掬(すく)い上げて、温かい毛布に包んでくれたような気がした。こんなに幸せな気持ちになったのは、リャカを作り始めて以来、始めてのことだった。

「それは……ありがとうございます」

「では決まりだね。椿(つばき)君、よろしく頼(たの)むよ」

「ちょっと待ってください。俺(おれ)はまだ何が何だか分かっていません。事情を説明してください。一体これから何をしようというんですか?」

「簡単なことだよ。栗山川(くりやまがわ)さんと、こちらの日向(ひゅうが)さんは、今日『小説比べ』をする約束をしていたんだ。『小説比べ』というのは、二人の作家が書いた小説を、三人の審判(しんぱん)が読み、各自で優劣(ゆうれつ)をつけて、多くの優勢を取った作家の勝ち、という遊びだ。

 椿(つばき)君は、二人の小説を読んで、優勢と思った方をこの紙に書いてくれればいい」

 佐原(さわら)さんから、小さな紙片と万年筆を手渡(てわた)された。

「なるほど。しかし小説の優劣(ゆうれつ)というのは結局、個人の主観だと俺(おれ)は思っているのですが、それは考慮(こうりょ)しないのですか?」

「主観でいいんだよ。公正に判断してくれる審判(しんぱん)であると参加者がお互(たが)いに認めていれば、問題ない」

 ここでテーブル席に座っていた二人の男が立ち上がり、カウンター席の空いているところへ座った。一人は腹が丸く出ていて長い顎(あご)髭(ひげ)を蓄(たくわ)えた初老の男で、もう一人は髪(かみ)をポマードで七三に分けた中年男性だった。彼(かれ)らが、俺(おれ)以外の二人の審判(しんぱん)なのだろう。

「では、いつものように読むのが遅(おそ)い方から始めましょう。椿(つばき)君は、読むのは速いかい?」

「読む速さなら、『吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である』を半日で読むくらいです」

「じゃあ久留里(くるり)さんの次にしようか」

 佐原(さわら)さんがさっきの二人のうち、小太りの男に目配(めくば)せをした。久留里(くるり)さんは、すぐ近くに立っていた栗山川(くりやまがわ)さんから封筒(ふうとう)を受け取って、中から原稿(げんこう)用紙を取り出すと、長い顎(あご)髭(ひげ)を弄(いじ)りながら読み始めた。

「あの、その間に俺(おれ)は日向(ひゅうが)さんの原稿(げんこう)を読みましょうか?」

 正直、俺(おれ)は早くその審判(しんぱん)とやらの仕事を終わらせてしまいたかった。昨日遅(おそ)くまで本を読んでいたせいで、すっかり眠(ねむ)たくなっていたのだ。欠伸(あくび)が止まらない。

 しかし俺(おれ)が目を遣(や)ると、佐原(さわら)さんは首を横に振(ふ)っていた。その理由はすぐに分かった。店の中にいた客の全員が、久留里(くるり)さんの後ろに集まって、一緒(いっしょ)に原稿(げんこう)用紙に目を通し始めたのだ。敵方である日向(ひゅうが)さんも、それに加わっている。

 つまり、最初に読み始めた審判(しんぱん)とともに観客も読むことになっているから、別の審判(しんぱん)が並行して読んでしまうのは興が醒(さ)めるということなのだろう。

 しばらく待っていると、久留里(くるり)さんから一枚目の原稿(げんこう)が渡(わた)された。初めて読む栗山川(くりやまがわ)さんの小説だ。眠気(ねむけ)を押(お)し殺して、その四百字詰(づ)めの原稿(げんこう)用紙に目を通す。読み終わってから、次の番の我孫子(あびこ)さんへ手渡(てわた)した。我孫子(あびこ)さんは、さっきからニコニコと笑っているのだが、どうやらこれが普段(ふだん)の表情のようだ。

 それから俺(おれ)は皆(みな)の目を盗(ぬす)んで、日向(ひゅうが)さんの封筒(ふうとう)から原稿(げんこう)を抜き取った。誰(だれ)も気付いていないようだ。そして冒頭(ぼうとう)に目を通す。

 久留里(くるり)さんから二枚目が渡(わた)される頃(ころ)には、もう日向(ひゅうが)さんの一枚目も読み終わっていた。それから優勢の方の名前を書いて、紙片をまるめて拳(こぶし)に握(にぎ)った。そしてそのままカウンターテーブルに突っ伏す。どうせ終わったら起こされるはずだ。そして俺(おれ)は暫(しばら)くの間、睡魔(すいま)に身を任せた。

「おい。起きろ、審判(しんぱん)」 

 栗山川(くりやまがわ)さんに肩(かた)を揺(ゆ)らされて起きた時には、時計の長針が文字盤(ばん)を二周ほどしていた。

「何でしょうか?」

「あんた、いつの間に寝(ね)てんのさ。ちゃんと原稿(げんこう)読んだんでしょうね?」

 そこに笑顔の絶えない我孫子(あびこ)さんが口を挟(はさ)んだ。

「大丈夫(だいじょうぶ)だ。後の番の私が見ていたからね。彼(かれ)はちゃんと読んでいたよ。最初の一枚だけね」

 栗山川(くりやまがわ)さんが無言で布巾(ふきん)を掴(つか)んだのを、俺(おれ)は見逃(みのが)さなかった。

「待ってください。これには深い事情がありまして」

「言い訳を述べてみなさい」

「実は、俺(おれ)は小説を少し読んだだけで良し悪しが分かるのです」

 顔面に鷹(たか)のような速さで布巾(ふきん)が衝突(しょうとつ)した。

「そんなこと、ありえないでしょ! 私を馬鹿(ばか)にするな!」

「いや、本当なんです! 文字を読むと、頭の中で音が聞こえてくるんです。その音で、小説全体のイメージが分かるので」

「あんたの妄想(もうそう)なんて聞きたくない!」

「待ちなよ、栗山川(くりやまがわ)の御(お)嬢(じょう)さん」

 般若(はんにゃ)のような栗山川(くりやまがわ)さんを止めたのは、久留里(くるり)さんだった。

「私は外科医をしているが、こんな報告を聞いたことがある。極(ごく)稀(まれ)に、文字を読んだ時に色が見える人がいるそうだ。他にも、音に色があると感じる人もいるらしい。だから、小説を読むと音が聞こえるというのもあり得ない話ではないと、私は思うよ」

「本当にそんなことがあるんですか?」

 栗山川(くりやまがわ)さんは目を丸くして尋(たず)ねる。

「残念ながら、私も直接そういう人に会ったことはないがね。しかし、この書生(しょせい)君がその持ち主だというのだから、ここでそれを証明してもらえばいい」

「どうやってやるんです?」

「まずは私と我孫子(あびこ)さんの評価と比べてみようじゃないか。それにこの店には、過去の小説比べの原稿(げんこう)と結果が残っているから、それも書生(しょせい)君に読ませてみればいい」

 どうやら俺(おれ)は今日も夜更(ふ)かしすることになりそうだ。眠(ねむ)らなくてもいいリャカが、俺(おれ)は羨(うらや)ましかった。

「分かりました。俺(おれ)の評価はこの手の中の紙片に書いてあります。まずはお二人の評価をお教えください」

「ではまず私から。私、久留里(くるり)は栗山川(くりやまがわ)さんに投票します」

 そう言って、久留里(くるり)さんは栗山川(くりやまがわ)さんの名前が書かれた紙片をテーブルに置いた。

「今日は批評は後にしよう。我孫子(あびこ)さん、どうぞ」

「分かりました」

 我孫子(あびこ)さんはにこやかに答えて、テーブルに置いてあった紙片を裏返す。

「私も栗山川(くりやまがわ)さんへ一票」

 案山子(かかし)の日向(ひゅうが)さんが、やはりというように肩(かた)を落とす。どうやら栗山川(くりやまがわ)さんの原稿(げんこう)を読んで、結果を悟(さと)っていたようだ。

「ではそこの書生(しょせい)君の評価を聞いてみよう」

 俺(おれ)は拳(こぶし)を開いて、くしゃくしゃになった紙片の皴(しわ)を伸(の)ばしながらテーブルの上に置いた。

「俺(おれ)も栗山川(くりやまがわ)さんへ票を入れます」

 おぉ、という声が上がる。

「ふむ。では理由をお聞かせ願おうか?」

「日向(ひゅうが)さんの小説も、良かったと思います。私には、雨漏(あまも)りしている屋根から落ちる水滴(すいてき)の音がしました。期せずして家の中に入り込んでしまった水滴(すいてき)が、憎(にく)たらしそうに見つめる人間の呟(つぶや)きに身を震(ふる)わせながら、割れた湯呑(ゆの)みの中へ落ちていくのが聞こえました。私は好きです。

 でも栗山川(くりやまがわ)さんの小説は、蝶(ちょう)の逃(に)げる羽音が聞こえました。その蝶(ちょう)は瑠璃(るり)色の羽をしていて、暗い森の中でも日の光を浴びたみたいに輝(かがや)いていました。いつも人間の蝶(ちょう)収集家に追われているのですが、羽化したらすぐに死んでしまう儚(はかな)い命なので、逃(に)げるうちに死んでしまうのです。そういう蝶(ちょう)の羽音でした。

 音の情景の広がりと、裏にある繋(つな)がりと、音の能動性を感じたので、私は栗山川(くりやまがわ)さんに票を入れました」

 俺(おれ)の説明に、一同は静かに耳を傾(かたむ)けていた。中には頷(うなず)いている人もいた。

「それを君は、あの冒頭(ぼうとう)の一枚から読み取ったのかい?」

 我孫子(あびこ)さんは、笑顔を忘れて真顔になりながら尋(たず)ねてきた。

「読み取った訳ではありません。文字情報だけでは、その先にどう展開するかなんて分かりませんから。でも聞こえる音からは、その先にどう展開するのかが直感的に分かるのです」

「これは驚(おどろ)いたね。二人の小説の特徴(とくちょう)を端的(たんてき)に言い表しているよ。私でも、ここまで簡潔に例えるのは難しい」

「作家の我孫子(あびこ)さんでもそう思うのかい。それなら彼(かれ)の能力は本物かもしれないぞ。よし、マスター。過去の小説比べの原稿(げんこう)も持ってきてくれ。彼(かれ)に読ませたい」

 久留里(くるり)さんが頼(たの)んだ時には、既(すで)に佐原(さわら)さんは紐(ひも)で縛(しば)った分厚い封筒(ふうとう)の束を持ってきていた。

 天井(てんじょう)を見上げて打ちひしがれた俺(おれ)に、佐原(さわら)さんはカウンターから温かい焙(ほう)じ茶を差し出した。ちょっと苦みが強くて、目が冴(さ)えてしまった。これは零(れい)時を回るまで解放してもらえそうにない。




 その日以来、俺(おれ)は小説比べの審判(しんぱん)を頻繁(ひんぱん)に頼(たの)まれることになった。過去の小説比べについての俺(おれ)の見解が悉(ことごと)く審判(しんぱん)の評価と一致(いっち)していたことで、信頼(しんらい)を得ることができたようだった。初めは、リャカの付き添(そ)いで店に行っても暇(ひま)を持て余すだろうと思っていたが、かえってリャカよりも俺(おれ)の方が忙(いそが)しくなってしまったような気がする。

 一方、リャカは着実に店の仕事を覚えていた。二週間も経つと栗山川(くりやまがわ)さんの代わりを務められる程に成長していた。接客に愛想(あいそ)が無いのは相変わらずだったが。

 そんな頃(ころ)、すっかり固定席になったカウンターの右端(みぎはし)で夕飯のチップスを食べていると、隣(となり)に座ってくる人がいた。栗山川(くりやまがわ)さんに小説比べで負けた、案山子(かかし)男の日向(ひゅうが)さんだ。会うのは、小説比べの日以来だ。

「今、時間あるかい? 食べながらでいいんだが」

「何でしょう?」

「実は僕(ぼく)は、大学で絡繰(からくり)工学を学んでいる学生でね。君がリャカさんに小説を書かせようとしていると聞いて、僕(ぼく)も軽い気持ちで作ってみたんだ。しかし満足できる小説を書いてくれなくて困ってしまった。そこで君に助けを求めに来たって訳さ」

「リャカも完璧(かんぺき)な小説を書けている訳ではありません。俺(おれ)も勉強したいことが多いので、ぜひお話を聞かせてください」

 日向さんは、佐原(さわら)さんに温かい麦茶を注文してから話し始めた。

「僕(ぼく)が知りたいのは算法(アルゴリズム)なんだ。僕(ぼく)は、雛形(ひながた)になる文章をあらかじめ与(あた)えておいて、そこに単語を入れ込(こ)む方式で小説が書けるのではないかと考えた。

 例えば、まず『甲(こう)は乙(おつ)へ行った。』という文章を絡繰(からくり)に記憶(きおく)させる。そして甲(こう)を『彼(かれ)』、乙(おつ)を『東京』にすれば、『彼(かれ)は東京へ行った。』という文章になる。あるいは甲(こう)を『犬』、乙(おつ)を『公園』にすれば、『犬は公園へ行った。』という文章になる。

 だが幾(いく)つか問題がある。その一つは、雛形(ひながた)の文章に自由度が無いことだ。『甲(こう)は乙(おつ)へ行った。』の後に『甲(こう)は乙(おつ)と思った。』を続けたいこともあれば、『甲(こう)は乙(おつ)と考えた。』と続けたいこともある。そうした分岐(ぶんき)を各雛形(ひながた)に対して定義していくと、膨大(ぼうだい)な数になる。そこを人間が全て指定することは困難だ。だから、物語はほぼ固定されたものになってしまう。

 文章の自由度を高くする方法について、何か知っているかい?」

 俺(おれ)は口に入れていたチップスを飲み込んでから答えた。

「それなら一つ面白い算法(アルゴリズム)があります。最近、ロシアのマルコフという数学者が、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』を例に使って発表した手法です。マルコフは、小説においてある単語が現れる確率は、その前の単語に影響(えいきょう)されることを示しました。俺(おれ)はそれを応用することで、小説のような文章をリャカに書いてもらっています」

「その算法(アルゴリズム)で、本当に小説を書けるのかい? 確かに面白そうだが、僕(ぼく)には確信が持てない」

「では実際にリャカに書いてもらいましょうか」

 俺(おれ)は万年筆と帳面をテーブルに置いて、リャカを呼び寄せた。

「リャカ、小説を書いて欲しい。参考にする小説は、夏目漱石(そうせき)の『倫敦(ロンドン)塔(とう)』にしよう。文字数は、三百文字くらいで」

「承知致(いた)しました」

 リャカは悩(なや)む様子も見せずに、紙の上で万年筆を滑(なめ)らかに走らせた。一分もしないうちに、小説のような文章が姿を現した。


 風なき河に帆(ほ)をあやつるのだからエーンズウォースが獄門(ごくもん)役に歌わせたもう。心安く覚して帰りたまえ」と女が黒い喪服(もふく)を着て悄然(しょうぜん)として立って朦朧(もうろう)とあたりを見廻(みま)わすと男の子を連れた女そのままである。沙翁(さおう)とは名前からがすでに恐(おそ)ろしい。古来から塔(とう)中に吸い込まれる時櫓(ろ)の上に移すのは一時の事をしない。動かない。意識の内容周囲の壁(かべ)にあるのは一時の事にてあれど」と云(い)う。折から遠くより吹(ふ)く木枯(こがら)しの高き塔(とう)を見て、大きな寝台(しんだい)が横わる。厚樫(あつがし)の心を寒からしめているかと怪(あや)しまれる。幼なき方は床(ゆか)に腰(こし)をかけてある女神の裸体(らたい)像が風に煽(あお)られて、大きな寝台(しんだい)が横わる。


 日向(ひゅうが)さんは興味津々(きょうみしんしん)な眼で、その文章を何度も読み返していた。

「ほぅ、これはこれは。所々(ところどころ)、文法が変だったり、文の意味が不明だったりするが、しかし文章にはなっている。面白い」

「では次に、俺(おれ)が最近気になっている、宮沢(みやざわ)賢治(けんじ)の『注文の多い料理店』を混ぜてみましょう。リャカ、参考にする小説に『注文の多い料理店』を加えて、同じ条件で書いてみてくれ」

「承知致(いた)しました」

 リャカは再び、あっという間に文章を書き上げた。


 鉄の甲(かぶと)が野を蔽(おお)う秋の陽炎(かげろう)のごとく塔(とう)下に通ずる穴倉でその内に仕事を求め、太平の裏から次第に消え去ると同時に眼前の塔影(とうえい)が一つありました。「どうもおかしいぜ。」 みるとたしかに壺(つぼ)のなかがあんまり暖いとひびがきれるから、見る人こそ幸あれ。日毎夜毎(ひごとよごと)に死なんとなく鳴らした。「そうだろう。」「沢山(たくさん)の注文というのがやられる」「気の毒な、もうものが、ある時は巡査(じゅんさ)を探す、巡査(じゅんさ)でゆかぬ時は人にたべさせるのである。僧侶(そうりょ)、貴族、武士、法士の前に、わが死ぬべき折の様を想い見る人は寒さにぶるぶるふるえ、声もなく、また扉(とびら)があって、それだから仕方がないわ」と斧(おの)を磨(と)ぐだけでも骨が折れる。


「少し文の印象が変わったな。『たべさせる』とか『ふるえ』とか、平仮名が多くなった。台詞(せりふ)も口語的に変わった。これはつまり、参考にする文章が多くなれば、それだけ自由度も増えるということか」

「その通りです。このマルコフの算法(アルゴリズム)を使えば、これまでの人類には想像もできなかった小説すら書くことができるかもしれません。

 とはいえ、このリャカの文章を小説と呼んでいいのかは分かりません。あくまでも、確率に従って単語が並んでいるだけなのですから。いずれ、より複雑な算法(アルゴリズム)で、よりもっともらしい文章が書ける日が来るでしょう。しかしそれでも小説を書けたとは言えないと、俺(おれ)は思っていますが」

 そこにカウンターから静かに見守っていた佐原(さわら)さんが口を挟(はさ)んだ。

「ところでリャカさんが読む小説は、椿(つばき)君が選んでいるのですか?」

「そうです。リャカは読む小説を自分で選ぶことができないので、良い音が聞こえる小説を選んで読んでもらっています」

「とすると、リャカさんの書いた小説というのは、必然的に椿(つばき)君の主観が含(ふく)まれているということですよね。それはリャカさんの書く小説の質を高める代わりに、書き得る文章の可能性を狭(せば)めているのかもしれません」

「というと?」

「例えるなら、お茶と同じです。お茶というのは、いわば茶葉から茶漉(ちゃこし)しを通して抽出(ちゅうしゅつ)されたものです。茶漉(ちゃこし)しの目が細かければ、お茶に混ざるものも少なくなります。それは良いことなのかもしれません。しかし細かい目の茶漉(ちゃこし)しでは、きっと茶柱は立たないでしょう。リャカさんに与(あた)える小説を選びすぎるのも、良くないのかもしれませんよ」

 佐原(さわら)さんの勘(かん)は、やはり鋭(するど)い。俺(おれ)は、少し間を置いて考えてから答えた。

「俺(おれ)はむしろ、リャカに小説を読ませている現状を変えなければならないと思っています。小説というものは、作家が伝えたいものがまず存在して、それを伝えるための形式として小説が生まれるのだと思うのです。だから、リャカ自身が読みたい小説を選んで読み、その上で何かを伝えたいと思えるような意志を持たせる必要があると感じています。そのための方法は、全く見当がついていませんが」

 すると日向(ひゅうが)さんが、宙に向かって呟(つぶや)いた。

「確かに、君の言う通りかもしれない。過去の小説を継(つ)ぎ接(は)ぎして作られた小説は、まるで『フランケンシュタイン』に出てくる怪物(かいぶつ)のようだからな」

「言い得て妙(みょう)ですね」

「いや、しかし今日は勉強になった。ありがとう。僕(ぼく)もリャカさんに負けない絡繰(からくり)を作ってみせるよ」

「もし完成したら、当店で絡繰(からくり)による小説比べをやりましょう。本邦(ほんぽう)初、いや世界初かもしれません」

 佐原(さわら)さんは冗談(じょうだん)めかして笑っていたが、目は本気だった。ひょっとすると、もう裏で準備までしているかもしれない。

 その日の帰り道、リャカと一緒(いっしょ)に歩きながら、他にも小説を書く絡繰(からくり)が沢山(たくさん)いる世界を想像した。世間は小説という娯楽(ごらく)に溢(あふ)れるのだろうか。人間の作家は居なくなるのだろうか。そして、リャカはどうなるのだろうか。

 俺(おれ)の未熟な技術では、いずれリャカは時代遅(じだいおく)れになるだろう。ずっと出鱈目(でたらめ)な文章を書き続けて、「これが古い絡繰(からくり)か」と目の前で嘲笑(ちょうしょう)されるような、そういう見世物(みせもの)絡繰(からくり)になるのだ。それを避(さ)けるためには、もっと俺(おれ)が勉強をして、常にリャカの能力を更新(こうしん)していく必要がある。仏(フランス)語科になんていないで、工学を専攻(せんこう)せねばなるまい。

 だが俺(おれ)には、今更(いまさら)絡繰(からくり)作りに人生を賭(か)ける勇気が無かった。絡繰(からくり)人形の本場である英国(イギリス)か仏国(フランス)で学んで、作家絡繰(からくり)を作る会社を作ろうかと、本気で考えたことは何度もあった。しかしリャカがいずれ本当に小説を書けるだなんて、誰(だれ)も保証してくれないのだ。このまま出版社か新聞社にでも就職して安定した人生を送る方が、よっぽど幸せな生き方である。結婚(けっこん)している頃(ころ)にはリャカを木箱にしまって、ネジを巻くことも無くなるだろう。

 それならいっそ、絡繰(からくり)人形に詳しい日向(ひゅうが)さんにリャカを預けた方がいいのかもしれない。きっとその方がリャカも幸せになれるのではなかろうか。俺(おれ)と一緒(いっしょ)に居たところで、あの狭(せま)い四畳半(よじょうはん)に押し込められて、同じ本を何度も読みながら時が経つのを待つことしかできないのだから。

 瓦斯(ガス)灯の頼(たよ)りない灯りが、俺(おれ)達の足元を照らしている。揺(ゆ)らめく影(かげ)のように、俺(おれ)達はこのまま闇(やみ)の中へ溶(と)けていってしまいそうな気がした。

「リャカは、他の絡繰(からくり)と小説比べをしてみたいかい?」

「特には」

「そうか」

 秋の夜風が吹き抜けていく。外套(がいとう)を羽織っていたが、ちょっと寒かった。

 風が止むのを待ってから、リャカは呟(つぶや)いた。

「私には、小説を批評することはできませんので」

 その瞬間(しゅんかん)、俺(おれ)の頭の中に閃(ひらめ)きが舞い降りた。

 そうだ、小説の批評ができるようにすれば、リャカはもっと良い小説が書けるかもしれない。リャカが考えた文章を、リャカ自身が批評して、その結果を元に書き直す。リャカの頭の中で、小説比べが行われるのだ。そうすれば、リャカは小説を書けるようになるかもしれない。それに他人の小説を自分で批評して、良い部分を判断して取り入れることもできるだろう。

「君に小説を批評できるようにしてあげよう。必ず」

 そして俺(おれ)は跪(ひざまず)いて、リャカに背中を向けた。薄暗(うすぐら)くてよく分からなかったが、リャカは目を丸くして俺(おれ)を見つめているように見えた。いつもは無表情だから、俺(おれ)の見間違(まちが)いかもしれない。

「善は急げだ」

 俺(おれ)はリャカを背負って、四畳半(よじょうはん)へと続く夜道を駆け抜けた。このままリャカと一緒(いっしょ)にどこまでも行けるのではないかと、俺(おれ)は思った。




 その夜から、俺(おれ)は小説を批評する算法(アルゴリズム)の開発に取り組んだ。小説の批評というのは、結局は主観だ。好き嫌いで評価が分かれる部分は少なくない。だから俺(おれ)は「ゲイゼル」にいる人達を模倣(もほう)して、それぞれ異なる評価基準を持つ仮想審判(しんぱん)をリャカに組み込むことにした。

 個々の算法(アルゴリズム)自体は単純で、効果があるのか不安で仕方なかった。だがしかし、もし失敗したとしても俺(おれ)の仮説が否定されるだけだ。失うものは何も無い。

 他にも思いついた改良を色々と試しているうちに、気付けば一月ほどが経っていた。

 絡繰(からくり)の部品で散らかった四畳半(よじょうはん)で、俺(おれ)は目を覚ました。既(すで)に太陽は高く昇(のぼ)っていた。昨晩は、帳面に書いた算譜(プログラム)を穿孔紙(パンチカード)に写しているところで、意識を失ったようだった。

 算譜(プログラム)は、穿孔紙(パンチカード)と呼ばれる紙に孔(あな)を開けることで記録できる。これを絡繰(からくり)人形の背中側にある読取機(ローダ)に取り付けることで、絡繰(からくり)人形は穿孔紙(パンチカード)に記録された算譜(プログラム)に従って行動できるようになる。

 昨晩のうちに算譜(プログラム)をどこまで穿孔紙(パンチカード)に写したか覚えていないが、穿孔紙(パンチカード)を何枚か確認してみると、算譜(プログラム)は全て写し終わっているようだった。全て確認するのも面倒(めんどう)なので、リャカに試しにやってみてもらうことにした。もし間違(まちが)いがあったら動作が止まるはずだ。

「リャカ、こっちへ。算譜(プログラム)を入れ替えてみよう」

「はい」

 俺(おれ)は、リャカの服の背中の釦(ぼたん)を外して、背扉(とびら)を開けた。自動的にリャカは脱力(だつりょく)して、停止状態に入る。中の読取機(ローダ)から穿孔(パンチ)カードを慎重(しんちょう)に取り外し、新しい方を嵌(は)めてから背扉(とびら)を閉じた。服の釦(ぼたん)を嵌(は)め終わる頃(ころ)には、リャカは再起動(リブート)していた。ここ最近は、ずっとこれの繰り返しだ。

「リャカ、書いてみてくれ」

 リャカは、素早く卓袱台(ちゃぶだい)の前に座って、紙を手繰(たぐ)り寄せ、万年筆を握(にぎ)る。まるで泉から湧(わ)き出した水のように、次々と文字が書き連ねられていく。


 街は海の底の知れた女の子らしかった。朝、どんな用件もない。旅人は、てんでなかった。不穏(ふおん)な文字が記されている。穏(おだ)やかな口調を真似さえしていないのだ。美しい静かになるのだろう。不穏(ふおん)な文字が流れるのであった。気楽にして遣(や)ろう。華(はな)やかな振袖(ふりそで)の模様を喋舌(しゃべ)りました。素敵だなあ。元気そうである。キレイな方が得策です。方のように薄暗(うすぐら)い通路に転がった。夕方には、わたしですよ。夜のしんとしていましてね。男のように夜遅(おそ)くなってしまいました。夕暮れの冷気が、日のうちだった。鉤爪(かぎづめ)のように片手で少し蝋燭(ろうそく)の光の下を向いた。羽根ぶとんしかなかった。日光は桃(もも)いろにいっぱいであった。山のように口元に笑みが浮(う)かんだ。


 リャカの小説は、まだ人間の小説には程遠いが、以前よりも透き通った管楽器のような音に近付いてきていた。

「いいぞ、リャカ。上手くなってきている。その調子だ」

 俺(おれ)が何気なく、そう話しかけた時だった。

「わぁ、嬉(うれ)しい。私、そんな風に褒(ほ)められるのは慣れてないのよ」

 リャカは、まるで年頃(としごろ)の女学生のように、頬(ほお)を紅潮させながら屈託(くったく)のない笑みを浮(う)かべていた。

 俺(おれ)は、目の前の光景が信じられなかった。

「今、なんて言ったんだ?」

「何度も言わせないでよ、馬鹿(ばか)!」

 リャカは手近に置いてあった機械油用の布巾(ふきん)を掴(つか)んで、俺(おれ)に向かって投げつけた。

 まるで栗山川(くりやまがわ)さんみたいじゃないか。

「大丈夫(だいじょうぶ)か? 何か変な算譜(プログラム)を書いてしまったかもしれない。今、取り替えよう」

「止めて! お願いだから!」

 途端(とたん)にリャカは取り乱して、散らばった部品を弾(はじ)き飛ばしながら、部屋の隅(すみ)へと後退(あとずさ)っていった。幽霊(ゆうれい)でも見ているみたいに、顔が引き攣(つ)っている。

「分かった、分かった。算譜(プログラム)は取り替えないから、落ち着いて」

「信じてもいい?」

「俺(おれ)を信じろ。俺(おれ)はいつでもリャカの味方だ」

「約束してくれる?」

「約束するよ」

 リャカは俺(おれ)の目をじっと見つめていた。リャカの宝石のような瞳(ひとみ)は、どこまでも透き通っていた。

「……分かった」

 リャカはようやく冷静さを取り戻したようだった。しかし、いつもみたいに無表情で座っているのではなく、部屋の隅(すみ)で蹲(うずくま)ったまま動かず、俺(おれ)とは視線を合わせようとしなかった。

 その姿を観察しながら、俺(おれ)も次第に状況(じょうきょう)が掴(つか)めてきた。これはつまり、リャカが意識を持ったということではないだろうか。俺(おれ)が、リャカに組み込んだ仮想審判(しんぱん)の中には、栗山川(くりやまがわ)さんを模倣(もほう)したものもある。きっとそれが、算譜(プログラム)の錯誤(エラー)か何かによって、リャカの意識として表れてしまったのだ。

 もし意識を持ったのなら、俺(おれ)はまず確かめたいことがあった。

「何か本を読むかい?」

 俺(おれ)は高く積まれた特価(ゾッキ)本の山を指差した。もしリャカが自分で読みたい本を選べるのなら、大きな前進である。

「特には」

 答えは以前と一緒(いっしょ)だった。嬉(うれ)しいような、悲しいような。

「でも暇(ひま)だろう。これを読んでみないかい?」

 ちょうど山の上に積んであった、「ファウスト」を差し出してみる。

「……じゃあ読む」

 リャカは渋(しぶしぶ)々本を受け取って、読み始めた。さっき小説を書くこともできていたから、基本的な能力は大きく変わっていないようだ。

 とりあえずは、このまま様子見するしかなさそうである。

 しかし、リャカの性格がここまで劇的に変わってしまって良かったのだろうか。もし俺(おれ)がリャカの頭の中に仮想審判(しんぱん)を作ろうとしていなかったら、リャカは以前の物静かな性格のままだったかもしれない。リャカの幸せを、俺(おれ)は壊(こわ)してしまったのかもしれない。責任は全て、自分の読みたい小説を書かせようという私利私欲のためにリャカを玩具(おもちゃ)にした、俺(おれ)にある。

 それでも俺(おれ)の脳裏(のうり)には、いつも俺(おれ)の聞きたい小説の音が木霊(こだま)している。それは朝の霧(きり)に包まれた森の中で、誰(だれ)にも踏(ふ)まれていない苔(こけ)生(む)した土を、ゆっくりと裸足(はだし)で踏み締(し)めた時の音だ。足の裏から大地の鼓動(こどう)が心臓まで伝わって、生命の理(ことわり)を囁(ささや)く。夜露(よつゆ)を運んだ風が肌(はだ)をなぞって、そこに立っていることを祝福してくれる。そういう音だ。

 その音が、耳にこびり付いて離(はな)れない。小説を読んでも音が聞こえない普通(ふつう)の人に、俺(おれ)はなりたかった。

 夕刻、店に行く時間になった。いつものように声を掛(か)けると、リャカは素直についてきた。

 だが道中、リャカはひたすら喋(しゃべ)っていた。「今日も久留里(くるり)さんは来るだろうか」とか「茶葉の仕入れまでに、どれそれの茶葉の在庫は足りるだろうか」とか、そんな他愛(たあい)のない話を、リャカは楽しそうに語るのだった。今までリャカがこんな話を、しかも表情豊かに話すことなど一度も無かった。俺(おれ)は驚(おどろ)くばかりだった。

 店に着くと、既(すで)に佐原(さわら)さんと栗山川(くりやまがわ)さんが準備を始めていた。

「おはようございます! 本日もよろしくお願いします!」

 昨日までとは別人のようなリャカの変貌(へんぼう)ぶりに、二人も呆気(あっけ)に取られていた。

「椿(つばき)君、これはどういう風の吹き回しだい?」

「昨日、夜遅(おそ)くまで算譜(プログラム)を書いていたら、どうも間違(まちが)えてしまったみたいで、こんなことに」

「すっかり明るくて元気な子になっちゃって。良いことなんだけどさ」

 栗山川(くりやまがわ)さんも、着替(きが)えに行くリャカの後姿を心配そうに眺(なが)めていた。

 リャカが店の奥(おく)へ消えてから、佐原(さわら)さんが尋(たず)ねてきた。

「夜遅(おそ)くまでって、具体的にどんな作業をしていたんだい?」

「帳面に算譜(プログラム)を書き上げて、それから寝(ね)ぼけ眼(まなこ)で穿孔(パンチ)カードに孔(あな)を開ける作業をしていました。気付いたら寝(ね)てしまっていて、でも完成しているみたいだったので、あまりよく確認せずにリャカに読み込ませてしまったんです」

「それはもしかしたら、椿(つばき)君が寝(ね)ている間に――」

「小人が悪戯(いたずら)でもしたんですかね」

「……そうかもしれないね」

 俺(おれ)は冗談(じょうだん)を言ったつもりだったが、佐原(さわら)さんは笑ってくれなかった。

 確かに笑えない事態ではある。もしこのまま改良を続けたら、リャカはさらに人格が変わってしまうかもしれない。今回は社交的な性格に変わったからいいが、暴力的な性格に変わってしまう可能性も捨て切れない。そうなることだけは避(さ)けたかった。

 やってきたお客さん達も、リャカの変わり身に目を丸くしていた。久留里(くるり)さんなんかは「以前の無愛想な接客も、あれはあれで良かったのだけど」とぼやいたりしていたが、皆(みな)、新しいリャカを受け入れてくれているようだった。俺(おれ)はほっと胸を撫(な)で下ろした。

 気付けば腹が減っていた。俺(おれ)は佐原(さわら)さんにいつものチップスを注文して、空腹を満たしていた。そんな時だった。

 見慣れない男が来店した。

 そしてすぐに俺(おれ)は気付いた。忘れるはずがない。リャカを誘拐(ゆうかい)しようとした、あの成金男の猿田(さるだ)だ。佐原(さわら)さんは、店には来ないと断言していたはずなのに、どうして今になって来たのだろう。

 猿田(さるだ)は、静まり返った店内を気にも留めずに、真っ直(す)ぐ俺(おれ)の座っているカウンター席に歩み寄ってきた。

「よぉ、久しぶりだな」

「お前、どうしてここに」

 俺(おれ)はリャカを後ろに庇(かば)いながら、猿田(さるだ)と対峙(たいじ)した。

「猿田(さるだ)君、この店には近付かない約束じゃなかったかね?」

 カウンターから佐原(さわら)さんが話しかけたが、猿田(さるだ)は気に留(と)める様子はない。

「今日は栗山川(くりやまがわ)の奴(やつ)と小説で喧嘩(けんか)しに来たんじゃない。この男と商談に来たんだ」

「商談? リャカなら売らないからな」

「そんな絡繰(からくり)、要らねぇよ。それよりももっと価値があるものを、儂(わし)は見つけた」

「もっと価値があるもの?」

「お前、小説の冒頭(ぼうとう)を読むだけで、小説の良し悪しが分かるんだろう? 儂(わし)は、お前のその能力が欲しい」

 その言葉に、俺(おれ)は呆気(あっけ)に取られてしまった。

「え?」

「儂(わし)は絡繰(からくり)の輸入をやる会社を経営しているんだがな、最近、欧州(おうしゅう)で絵を描(えが)いたり、歌を唄(うた)ったりする絡繰(からくり)が出てきた。そこで儂(わし)は、次は小説を書く絡繰(からくり)だと閃(ひらめ)いた。で、技術者を雇(やと)って作らせてみたんだが、どれも瓦落多(ガラクタ)だった。原因は、どいつも小説を理解していなかったからだ。だがお前なら、小説のことをよく知っている。それに自分で絡繰(からくり)を作る技術もある。

 儂(わし)の会社で働かないか。最新式の絡繰(からくり)を、何体でも実験に使っていい。海外で勉強したいなら学費も生活費も出そう。一緒(いっしょ)に肩(かた)を組んで、世界を舞台(ぶたい)に戦おうじゃないか」

「ちょっと待った。リャカは、まだちゃんと小説を書けてはいない。それに俺(おれ)自身、勉強不足だ。荷が重すぎる」

「儂(わし)は、お前の可能性に賭(か)けたんだ。技術が足りないなら、勉強すればいいだけだ。まだ誰(だれ)も、作家絡繰(からくり)を作った奴(やつ)はいねぇし、作家絡繰(からくり)ができると証明した奴(やつ)もいねぇ。だからお前がいくら勉強したところで、失敗することはあるだろう。だがな、人生やってみなければ分からないだろう? 人間、誰(だれ)もが他人の歩いた道を歩いているだけじゃ、道が伸(の)びることは無ぇ。誰(だれ)かが道無き道を歩み始めた時に、そこに道ができるんだ。儂(わし)は、お前ならそれができると思ってる」

 正直に言おう。この猿田(さるだ)の勧誘(かんゆう)に、俺(おれ)は心から惹(ひ)かれていた。渡(わた)りに船とはこのことだ。金に困ることなく学ぶことができて、俺(おれ)が聞きたい音のする小説を書いてくれる作家絡繰(からくり)の研究に、好きなだけ没頭(ぼっとう)できる。もしかしたら、最新式の絡繰(からくり)を使えば作家絡繰(からくり)を作れるかもしれない。

 だがしかし、心の中に引っかかっているものを、俺(おれ)は無視できなかった。俺(おれ)は自分が求めている理想の小説の音が聞ければそれで満足なのだろうか。リャカを元の性格に戻(もど)してやることもできなくても、それでいいのだろうか。

 俺(おれ)は我儘(わがまま)な自分が嫌(きら)いだ。俺(おれ)は「いつでもリャカの味方だ」と約束したはずなのに、まだ俺(おれ)の頭の中では、あの理想の小説の音が鳴り響いている。俺(おれ)の目の前で、森の妖精(ようせい)が手招きをして幻(まぼろし)のように踊(おど)っているのだ。確かにそれは手の届く場所にあるように見える。だが手を伸(の)ばしてみると、妖精(ようせい)はいつの間にか姿を消していて、またすぐ近くの木陰(こかげ)に顔を出して踊(おど)っている。

 そんな鼬(いたち)ごっこは、いつか終わらせなければならない。いつまでも先延ばしにしてはいけない。

 俺(おれ)は、夢の中の森に火を放たなければならない。

「すみませんが、俺(おれ)にはもう無理です」

 俺(おれ)は、チップスを食べていたフォークを手に取って、逆手(さかて)に握(にぎ)り、意を決して俺(おれ)の両目を横から薙(な)ぎ払った。

 これでもう、小説は読めない。音なんて聞こえない。




 あの事件から一か月が経ちました。私は、退院した主(あるじ)様と、久しぶりにお茶パブ「ゲイゼル」へ行くことにしました。

 主(あるじ)様の視力が戻(もど)るにはまだ時間がかかるので、私が先導しなければなりません。お店への道のりにかかる時間は、以前よりも長くなってしまいました。

 お店に入ると、マスターと栗山川(くりやまがわ)さんが出迎(でむか)えてくれました。

「いらっしゃい。ご注文は?」

「チップスと、それからジャスミン・ティーをお願いします」

「かしこまりました」

 私は主(あるじ)様をいつものカウンター席に座らせてから、その隣(となり)に座りました。

「リャカちゃんが席に座っているのは、なんだか不思議な感じね」

「私もです」

「それで? 今日は、何か伝えたいことがあるから来たんでしょう?」

 栗山川(くりやまがわ)さんの視線に、私は苦笑いを返すことしかできませんでした。

「バレていましたか」

「焦(じ)らさないで、早く教えなさいよ」

「実は、私の性格を変えたのは、私自身なのです。私はずっと、栗山川(くりやまがわ)さんみたいになれたら、主(あるじ)様の書きたい小説が書けるようになるかもしれないと思っていたので、つい算譜(プログラム)を書き換えてしまったのです」

 しかしそれを聞いた栗山川(くりやまがわ)さんも佐原(さわら)さんも、表情一つ変えませんでした。

「そんなこと、とっくに気付いてたわよ」

「どうして分かったんですか?」

「女の勘(かん)ってやつさ」

 人間の女性というのは、何とも不思議な生き物です。

「そんなことより、これからどうするのさ。どうせ猿(さる)の野郎(やろう)には、まだ誘(さそ)われてるんでしょう? アイツ、そういうところ諦(あきら)め悪いから」

「それは俺(おれ)が答えよう」

 主(あるじ)様は、懐(ふところ)から手探りで一枚の切符(チケット)を取り出して、テーブルの上に置きました。

「絡繰(からくり)人形の聖地、倫敦(ロンドン)に留学します。猿田(さるだ)さんが船を手配してくれました。医師からも、船に乗る頃(ころ)には目も治っているだろうと言われています」

「それでリャカちゃんはどうするのさ? まさか置いていくとか言わないでしょうね?」

「リャカは、俺(おれ)のために小説を書けるようになりたいと言ってくれています。だから俺(おれ)は、リャカを倫敦(ロンドン)に連れて行って、小説を書けるようにします。猿田(さるだ)さんからは『最新型の絡繰(からくり)をやる』とも言われましたが、丁重(ていちょう)にお断りしました」

「なるほどね~。羨(うらや)ましいわ」

 栗山川(くりやまがわ)さんは、嬉(うれ)しそうに私を眺(なが)めていました。

「栗山川(くりやまがわ)さんも、一緒(いっしょ)に行きますか?」

「そういうことじゃないのよ。リャカちゃんが小説を書けるようになるのは、まだ先かしらね」

「それが皮肉だということくらいは、私にも分かります」

「成長したじゃない」

 そこにマスターが、チップスと共にジャスミン・ティーのカップを持ってきました。

「ところで、私から餞別(せんべつ)に何かを贈(おく)ろうと思うのだけど、異国での生活に必要なものとか、何か欲しいものはあるかい?」

「本当ですか! ありがとうございます、佐原(さわら)さん。とは言っても、猿田(さるだ)さんが世話してくれているので、生活に不自由は無さそうですね。強(し)いて言えば、長い船旅になりそうなので、暇潰(ひまつぶ)しになる本があるといいかもしれません」

「なるほど。それは良い考えだ。好きな本を買ってあげるよ」

 それから主(あるじ)様は、私に向かって尋(たず)ねました。

「リャカは、何が読みたい?」

※本作はver.0.1であり、今後アップデートした作品を投稿する予定です。


2020/5/10 初稿

2020/5/17 第二稿 誤字修正

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。