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短編・ショートショート

絡繰人形は物語を知らない ver.0.1

作者: 葦沢かもめ

※作中に登場する絡繰人形による小説は、全て筆者が開発したプログラムによって執筆されています。

 玄関口げんかんぐちかかとつぶれた革靴かわぐついてから、おれはふと振り返った。

 おれが春にしてきたばかりの四畳半よじょうはんの学生アパートは、ほんの半年ですっかりたたみが見えなくなっていた。特価ゾッキ本の山がそびえ立っているおかげで、正面の窓はしばらく開けていない。右手には万年床まんねんどこ陣取じんどっており、左側のかべには設計図が幾重いくえにも折り重なってり付けられたままだ。その下には工具と部品とが無造作むぞうさに散らばっている。足のみ場があるのは、部屋の真ん中の卓袱台ちゃぶだい周りしかない。

 そして今はその希少な空間さえも、「彼女かのじょ」によって占拠せんきょされている。「彼女かのじょ」の名前はリャカという。おれが独学で組み上げた、「絡繰からくり人形」である。

 リャカは座布団ざぶとんの上に正座して、宮沢みやざわ賢治けんじを食い入るように読んでいた。その横顔は、新式の絡繰からくりにも引けを取らないほど美しい。花街はなまちで捨てられていた絡繰からくり人形を素体そたいにしたのは正解だった。血の通っていない美しい白いはだも、おれが何度もやすりがけして仕上げたものだ。

 だがそんなことは、どうでもいいのさ。おれは、男の相手をさせるためにリャカを作ったのではない。

「それじゃ、ちょっと外に出るよ」

「行ってらっしゃいませ」

 リャカは感情の無い声で答えた。視線は開いた本に落としたままだった。でもおれは知っている。その本を、リャカはもう三度は読んでいる。だがリャカは、自分で本を取ろうとしない。いつもおれわたした本しか読もうとしないのだ。

「その本も、もうきただろう」

「いえ。楽しいです」

 今まで一度も、リャカが不平を言ったことはなかった。いつもすました顔で本を読んでいる。もっと豊かな表情もできるように算譜プログラムを作ったはずだが、リャカが表情を変えるところは見たことが無かった。算譜プログラムというのは、絡繰人形の挙動を制御する特殊な言語みたいなものである。多分、「感情」の算譜プログラム錯誤エラーがあったのだろう。全てはおれの無能のせいだ。

 所詮しょせんおれは工学の専門家ではない。凡庸ぼんようフランス語科の学生では、工学書を読み漁ってどうにかこうにか旧式の絡繰からくりを組み上げるだけで精一杯せいいっぱいだった。多少動きがぎこちなかったとしても、リャカがおれの期待に応えてくれるなら、それで十分なのだ。

 いつもならリャカには留守番をさせて、おれ一人で書店へ行き、リャカに読ませるための本を買ってくるのだが、この日のおれは、なぜかリャカにたずねたのだった。

「君も書店に行くかい?」

「はい」

 リャカはすぐに顔を上げた。表情は変わらない。喜んでくれても良かったのだけれど。

 リャカをお供に連れて、おれ神保町じんぼうちょうの古書店街へ足を向けた。リャカの歩みは少しおそいので、半時はんときほどかかってしまった。

 おれの行きつけの書店へ入ると、老店主の目がわずかに丸く見開いたのが分かった。だがおれは気にせずに、小説の並ぶ書棚しょだなへ向かった。

 リャカは、あちこちの書棚しょだなに並んだ数多あまたの本を見まわしていた。これだけ多くの本を目にするのはこれが初めてだから、うれしいのかもしれない。

「読みたい本はあるかい?」

 だがリャカは本に手をばさなかった。

「特には」

 おれ遠慮えんりょでもしているのだろうか。

「これとか良さそうだ。ヴェルヌの『地底旅行』」

 おれが本をわたすと、リャカは待っていたように無言でそれを開いて読み始めた。自分で作っておいてなんだが、不思議なやつだ。

「書生さん、それは『ガァルフレンド』かい?」

 最近覚えたのであろう若者言葉を自慢じまんそうに口にしながら、老店主はリャカを一心に凝視ぎょうししていた。

「持ち込み禁止の張り紙はありませんでしたが?」

花魁おいらん人形と駆け落ちごっこをするのが、今の『ヤング』の流行りなのかね? なげかわしいことだ」

「店主、リャカは花魁おいらん人形ではありません」

「はいはい。好きにしたらよろし」

 言いたいことだけ言って、老店主はおくへ引っ込んでいった。

 この大正たいしょうの時代になって、絡繰からくり人形を昼間に連れて歩く人はめずらしいものではなくなった。とはいえ、まだ将軍のいたころは、絡繰からくり人形と言えば花街で男の相手をする花魁おいらん人形しかいなかったから、年寄りが絡繰からくり偏見へんけんをもっているのは仕方のないことではあった。それに昼間に見かける絡繰からくり人形も大抵たいていは金持ちの給仕メイドだから、おれあやしまれるのは当然と言える。

 おれも初めは、リャカを外に出そうとは思っていなかったし、これまで外に連れ出したことも無かった。人目のこともあるが、何よりリャカに持たせた能力を理解してくれる人がいないだろうという不安があったことが大きい。他人に見せてもずかしくないくらいの実力がともなってきてから大々的に売り出し、世の中をおどろかせてやろう、というささやかな野望もあった。それが無理だったとしても、このままずっとリャカと二人きりで小説を読んで暮らすのも悪くはない選択肢せんたくしだと、おれは本気で思っていた。

 だがおれ目論見もくろみ蜃気楼しんきろうであることは、すぐに明白となった。おれがいくら本を買い与えて読ませても、リャカの能力は進展しなかった。おれが必死になってリャカを作った努力は水の泡だったのだろうか、と何度も思った。リャカが生まれてきた意味は無かったのだろうかと、寝床ねどこでいつも考えていた。少しずつ、少しずつ、おれは追い込まれていた。きっかけが欲しかった。

 だからおれは、リャカを外へ連れ出したのかもしれない。それでもおれは、まだリャカと過ごす日常がこわれることはないだろうと高をくくるような、浅はかな「ヤング」だった。

 本を三冊買って書店を出ると、そこには黒りの馬車が止まっていた。

 何だろう、と思っていた矢先、背後にひそんでいた絡繰からくりがリャカを羽交はがめにして、おれから引き離した。さらにもう一体の絡繰からくりが間に割って入り、おれの前に立ちふさがった。

「おい待て!何をする!」

 リャカの素体は英国イギリス製の旧式だったから馬力も弱い。あっという間にリャカは馬車のわきまで引きられていった。

「その絡繰からくり人形、わしが買った」

 そう言い放った若い男が、馬車から身を乗り出して、らわれたリャカをながめている。あれは多分、戦争成金だろう。

「売り物ではありません」

「別にいいじゃないか。新型を一体買っても余るくらいは出すよ。わしは収集家でね。特に、まだ職人が手作りしていたさん式の顔が好きなんだ」

駄目だめです。リャカを売る訳にはいかない!」

 男は面倒めんどうそうにおれの方を向いた。

強情ごうじょうだねぇ。心配しなくても、大事に使ってあげるよ。使い捨てにするような無粋ぶすいやから一緒いっしょにされては困る」

おれのリャカは、そんなことのために作ったんじゃない」

「作ったとはまた酔狂すいきょうなことを言う。どうせでまかせだろう? まぁいいさ。なら何に使うんだね? ただ身の回りの雑用をさせるためだけに、君は絡繰からくりはべらせているとでも?」

 この期におよんで、おれはリャカの能力のことを言うべきか迷っていた。だが「ただの給仕メイドだ」と言って納得してもらえる相手ではなさそうなのは確かだった。

「リャカを作った理由を教えれば、これは無かったことにしてくれますか?」

「いいぞ。教えてみろ、書生しょせい君よ。この大衆の往来の前で言えることならな」

 若い男は嫌味いやみったらしく笑った。

 おれは横目でリャカの方を見遣みやる。リャカは、本を読んでいる時と変わらない表情に見えた。リャカが笑うところを見るまでは、おれあきらめられない。

「リャカは、小説を書いてもらうために作った絡繰からくりなのです」

 おれの言葉に対して、一瞬いっしゅん、男はを置いてから、あきれたように笑い出した。

絡繰からくりが小説を書く? 何を馬鹿ばかなことを言っているんだ、書生しょせい君。頭が空っぽの絡繰からくりだぜ? 小説なんて書けるはずがないじゃねぇか」

「それでもおれは、読みたい小説があるんです。だが自分では書けなかった。だからそれを書いてもらうためにリャカを作ったんです」

 それを聞いた男は、少し思案してから太ももをパチンとたたいた。

「よし。そんならここで試しに絡繰からくり先生に書いてもらおうじゃねぇか。それで白黒はっきりつけようぜ」

 おれの背中に、冷たいあせが一筋流れる。だがここでひるむわけにはいかない。

「いえ、それが……実は、リャカにはまだ小説が書けないのです」

「は? 今何て言ったんだい、書生しょせい君?」

「いずれは書けるようになるはずですが、今はまだ勉強している途中とちゅうなのです。それにおれの仮説も完璧かんぺきではありません。少しずつ修正していく必要があるのです」

 男はあからさまに不機嫌ふきげんな顔に変わった。

「なんだよそれ。つまらねぇなぁ。小説書けねぇの? じゃあ使えねぇじゃんか。もっと金を積んでやろうかと、少しでも思ってしまった自分が情けねぇよ」

 男は巾着きんちゃくぶくろを取り出して中に手を突っ込むと、中から適当に金貨をつかんで投げた。おれの足元に、一年は遊んで暮らせそうなお金が散らばった。

書生しょせい君、交渉こうしょう決裂けつれつだ。すまないが、それはもらっていくよ。明日にはごみ捨て場に転がっているかもしれないがね」

「やめろ!」

 男の絡繰からくりがリャカを背負って馬車に乗り込もうとした。おれはそれを止めようとしたが、手前の絡繰からくり邪魔じゃまをされて近付けない。

「待ってくれ! リャカが居なくなってしまったら、おれは!」

 するとその時、馬車の前に歩み出てきた人物がいた。

「ちょっとよろしいかな」

 それはこんのビロードのコートを着た老紳士しんしだった。うす灰色のかみ綺麗きれいに整えられている。顔のしわの深さとは対照的に、若者のようなんだ蒼玉サファイアひとみをしていた。すっと背筋のびた立ち姿は、いでいる海のような雰囲気ふんいきかもし出している。一見すると温厚そうではあるものの、一歩間違まちがえると深い底まで引きり込まれてしまうのではないかと予感させるおそろしさが、そこにはあった。

「いかがしましたか、ご老人」

 流石にこの男も運だけで成金になった訳ではないようで、老紳士しんしたたずまいに何かを感じ取っているようだった。

「その絡繰からくり人形は、ウチが買おう」

「お孫さんへのお祝いの品ですかな? しかし失礼ですが、私が先に買ったのです。私から買うなら、相場の二倍は頂くことになりますが、よろしいですかな?」

 老紳士しんしの口元が、ふとゆるんだ。

「よかろう。言い値で買ってやる。お代はウチの店に取りに来なさい」

 そう言うと、老紳士しんしは男に背中を向けて歩き始めた。

「店? 店ってどこだい?」

 老紳士しんしり向きながら答えた。

「『ゲイゼル』だよ。そうそう、君の父上によろしくな、猿田さるだ君」

 去っていく老紳士しんしの背中を見つめながら、男は舌打ちをした。

「くそっ! 『ゲイゼル』の野郎やろうかよ! おい、そのくだらん絡繰からくりは捨てていくぞ。無駄むだな時間を食っちまった」

 男の指示でリャカは解放された。さいわいどこもこわれていないようだ。

 馬車がひづめの音を立てて騒々そうぞうしく去っていき、おれ達だけが路上に残された。ほっとかたの力がけたが、すぐにおれはさっきの老紳士しんしの姿を探した。しかし人混みの中にまぎれてしまって、見つからない。

「さっきの人に御礼おれいをしないと」

「あそこ」

 リャカがその白い指を差した先に、あのこんのコートの老紳士しんしの姿が見えた。ちょうど路地に入っていくところだった。

「ありがとう、リャカ。助かる」

 しかしこのまま歩いて行ったのでは、また見失ってしまう。かといってリャカを置いていく訳にもいかない。おれはリャカをおんぶして、人混みをかき分けて走った。

 老紳士しんしの消えた路地に入ってみると、途端とたん人影ひとかげは少なくなった。老紳士しんしの姿は見えなかったが、一本道だから、この先のどこかにいるはずだった。曲がりくねった道をおくへ進んでみると、建物のかげになった薄暗うすくらがりの一角にかかげられた、ネオンサインの看板が目にまった。

『お茶パブ ゲイゼル』

 おそらくここが、老紳士しんしの言っていた「店」なのだろう。いかにもあやしい店だが、他に心当たりもない。

 おれはリャカを下ろしてから、恐る恐る店のドアをノックしてみた。

「すみません」

「どうぞ」

 さっきの老紳士しんしの声だった。ドアを開けて入ってみると、そこにはカウンター席が並んでいた。おくにはテーブル席もあるようだ。しかし客はいない。バーカウンターの前のたなには、所せましと茶葉の入ったびんが並んでいた。これがお茶パブというものなのだろうか。

「いらっしゃい。ゆっくりしていきなさい」

 気付くと老紳士しんしがカウンターに立っていて、湯をかしていた。

 席に座るのをすすめられたが、おれはその場で深く頭を下げた。

「先程は助けて頂き、ありがとうございました」

「気にしなくていいんだよ。私が勝手にやったことだ」

「しかし、お金が……」

「お代のことなら、かれは取りに来ないよ」

 老紳士しんしはにこりと笑いながら、茶葉のびんを一つ手に取った。茶葉をさじにとり、白い陶器とうきのポットに入れる。

「もしそうだとしても、何か御礼おれいをしないと気が済みません。何でもおっしゃってください。できる限りのことはしてみますから」

「面白い子だね。君は」

 老紳士しんしは、ポットに湯を回して注ぎ入れて、それから小さなふたを置いてらした。茶葉の安らぐかおりが広がった。それから老紳士しんしは口を開いた。

「ではこうしよう。私は君の絡繰からくり人形を買った。そして君は後払あとばらいで買い戻した。そしてその分のお金は、その子にこの店の給仕メイドとして三か月働くことで返してもらう。どうかね?」

「リャカが、この店で給仕メイドを……? 本当に給仕メイドの仕事だけですか?」

「もちろんだ。信頼しんらいしてくれていい。私はね、君の『小説を書く絡繰からくり人形を作りたい』という夢を信じたくなったんだ。この店は、懇意こんいにしてくれている作家も多い。もしかしたら君達の役に立つかもしれない」

「……」

 確かに茶を運ぶくらいならできなくもないとは思う。だが、今日初めて外に連れ出したのに、いきなり働くだなんてできるだろうか。

 おれはリャカの目を見つめる。するとリャカは、おれの服のすそつかむと、じっとおれの目を見てうなずき返した。リャカがこんな行動をするのを見るのは、初めてだった。

 これは何かのきっかけになるかもしれない。おれはそう直感した。

「分かりました。給仕メイドをするために作ってはいないので、ご期待に沿えるかは分かりませんが、やらせて頂きます」

 老紳士しんしはお茶をカップに注ぎながら、微笑ほほえみをかべていた。

「良かった。私は店主の佐原さわらだ。よろしく」

「私は椿つばきです。帝都ていと学院のフランス語科に通っています。こちらの絡繰からくり人形はリャカといいます」

「立ち話もなんだから、どうぞお座りなさい」

「しかし、高価なお茶を頂く訳にはいきませんし」

 リャカのからだの整備費用がかさんでおり、正直、おれふところ事情はよろしくない。

 だが佐原さわらさんは、構わずにカップを差し出した。

「ウチの従業員には、無償むしょうで提供しているんだよ。だがリャカちゃんは飲めないのだから、君が代わりに飲んでくれていいんだ。さぁ、冷めないうちにどうぞ。ジャスミン・ティーだ」

「では、ありがたく頂戴ちょうだいします」

 初めて飲んだジャスミン・ティーは、まるで茉莉花まつりかの花弁で包み込むように、冷えた体のしん奥底おくそこから温めてくれた。




 翌日、講義が終わったおれは、一旦いったん下宿先にもどってリャカを拾ってから、神保町じんぼうちょうへ向かった。佐原さわらさんいわく、お茶パブ「ゲイゼル」が営業しているのは夜だから、あまり急がなくてもよいとのことだった。

 店に着くころには日が落ちており、看板の桃色ももいろと黄色のネオンサインがあやしく辺りを照らしていた。

「失礼します」

 ドアをノックしてから入ると、そこには佐原さわらさんの姿は無かった。その代わり、おれと同年代くらいの給仕メイド服を着た女性がテーブルを布巾ふきんいているのが目に留まった。ふじ色の着物に白いエプロンがえる。キビキビとした動作でテーブルをく度に、後ろでまとめたかみが野花のようにれる。おれたちに気付いた彼女かのじょは振り返るなり、キッとにらみつけて布巾ふきんを投げつけてきた。

おそい! 貴方達が今日から入る新人さんでしょ? どうして先輩せんぱいより先に準備をしないのさ!」

「す、すみません!」

「言葉より先に手を動かせ! 接客に上限無し! 店の敷居しきいまたいだら、常にお客様のことを最優先に考えなさい!」

「はい!」

 まるで軍隊のおに教官のようなやつだ。仕方なく、おに教官の監視かんしの下、おれとリャカで手分けしてテーブルをみがいていると、店のおくから佐原さわらさんが顔を出した。

「おや、栗山川くりやまがわさん。新人の子が来たら私を呼ぶように言ったじゃないか」

おそく来るのが悪いんです。それに店の仕事を覚える前にお客さんの前に出そうだなんて、佐原さわらさんもあますぎる!」

「私の見込みにくるいは無いよ。リャカさんは絡繰からくりだから、きちんと仕事をしてくれるはずさ。それに椿つばき君はリャカさんの付きいというだけで、やとってはいないよ」

「え」

 栗山川くりやまがわさんと呼ばれた女性は、まずリャカが絡繰からくりであることに目を丸くして、さらにおれやとわれていないということに口をポカンと開けた。まさかリャカが絡繰からくり人形であることにさえ気付かなかったとは、なんと仕事熱心な方なのだろう。

 リャカが栗山川くりやまがわさんに連れられて給仕メイド服に着替きがえに行っている間に、おれ佐原さわらさんにお茶をれてもらった。それから夕飯代わりに、チップスを注文した。佐原さわらさんはお代は要らないと言っていたが、無理を言って受け取ってもらった。

 げたてのチップスをフォークにしてかじると、香辛料こうしんりょうを利かせたころもと火のよく通ったいも絶妙ぜつみょうな味わいが口の中に広がった。

 おれはまだ二人が帰ってきていないのを確認してから、佐原さわらさんにたずねた。

「あの栗山川くりやまがわさんという方は、まるで教官みたいですね」

彼女かのじょは自分に厳しいからね。以前は別の所で働いていたんだけど、今はこの店で働きながら作家を目指しているんだ。椿つばき君も今度読ませてもらうといい」

「読ませてもらえますかね」

「きっと今日読めるはずだよ」

「というと?」

 その時、店の裏から足音がした。きっとリャカと栗山川くりやまがわさんがもどってきたのだろう。

「お待たせしました」

 もどってきたリャカの姿を見たおれは、思わずチップスをフォークから落としそうになってしまった。

 臙脂えんじ色の着物に給仕メイド服のエプロンがよく似合っている。が、それだけではない。

「つい出来心で、軽くお化粧けしょうしてあげんだけど、どう? 可愛いでしょ?」

 栗山川くりやまがわさんが自慢じまんげになるのも無理はない。リャカはいつものすました表情だったが、ほのかに桜色を帯びたほおは、まるで人間のようだった。

「うん、よく似合ってる」

「あんた、もう少しリャカちゃんに女の子らしいことさせてあげなさいよ。着てた服も地味だったし」

「気を付けます……」

「さて、そろそろお店を開ける時間だ。準備をしておくれ」

「そこでチップスに舌鼓したつづみを打っている書生しょせい君は片付けてもいいですか、マスター?」

かれはお客さんだよ。丁重ていちょうにおもてなししなさい」

 栗山川くりやまがわさんはおれに向かって大きくベロを出しながら、店のおくへと消えていった。

 開店時間が過ぎてしばらくすると、ちらほらとお客さんがやってきた。半時が過ぎると、席が半分くらいはまっていた。

 リャカは、さすがに絡繰からくりらしく、教えたことは一度で理解して無難ぶなん給仕メイドの仕事をこなしていた。もっともリャカは無愛想ぶあいそうなので、栗山川くりやまがわさんが注文を受けて、リャカが配膳はいぜんをするように分担しているようだったが。

 リャカにちょっかいを出すようなやからがいるのではないか、と初めは不安に思っていたのだが、どのお客さんもリャカに優しく接してくれていた。佐原さわらさんの目が届いているせいもあるのかもしれない。だが観察していると、そもそも心優しい人が、佐原さわらさんの人柄ひとがらかれてこの店に来ているような印象を受けた。仕事終わりにアルコールで鬱憤うっぷんを晴らすのではなく、温かいお茶で安らぎたい。そういう願いを持つ人たちが、ここに集まってきているのだろう。

 客の入りのピークが過ぎたころ、一人の男が来店した。背は高くせ型で、よれたコートを羽織っている。まるで歩く案山子かかしのようだった。

 案山子かかし男が入った途端とたん、店内の小さなおしゃべりの声が静まり返った。一体何が起こるというのだろう。おれは万が一に備えて、店のおくにいるリャカに目をり、身構えた。

 案山子かかし男はおれとなりの空いているカウンター席に座った。佐原さわらさんに温かい麦茶を所望しょもうすると、茶色のかばんから大事そうに年季の入った封筒ふうとうを取り出した。今まで見たことが無いくらいに、分厚ぶあつ封筒ふうとうだった。

「来たのね」

 案山子かかし男に話しかけたのは、栗山川くりやまがわさんだった。

「そっちこそ、げたのかと思ったぜ」

 見れば栗山川くりやまがわさんも、同じくらい分厚ぶあつ封筒ふうとうを両手でかかえていた。

審判しんぱんだれにする? 店長は決まりとして、今日いる中だと……我孫子あびこさんと久留里くるりさんでどうだ?」

「私もそうしようと思っていたところよ」

 一体、かれらは何を始めようというのだろうか。おれが目立たないように息をひそめていると、佐原さわらさんが口を開いた。

「ちょっと待った。私は今日は辞退するよ。代わりに、そこにいる椿つばき君を推薦すいせんしよう」

「えっ!? どうしてですかマスター! なんで今日来たばかりの人に!」

「そうだぜ。僕達ぼくたちは、店長の批評を聞くために今日ここに来たようなものなのだから」

 急に矢面やおもてに立たされてしまったおれは、ただ状況じょうきょうを見守ることしかできなかった。

「私も、理由もなしに椿つばき君を審判しんぱん推薦すいせんした訳ではない。かれフランス語科の書生しょせいであり、文学に明るい。しかもそこにいる絡繰からくり人形のリャカさんを作った人物だ。ただの文芸批評家とはちがう視点を持っている」

「仮にそうだとしても、ここには色んな経歴を持った人達が集まってるじゃないですか。その中でかれが群をいて審判しんぱんに向いているとは思えません」

 すっかり顔を赤くして抗議こうぎしている栗山川くりやまがわさんを、佐原さわらさんは制してこう言った。

「理由はもう一つある。この椿つばき君は、リャカさんに小説を書かせようとしている野心家だ」

 その瞬間しゅんかん、店内にいる全ての人間の視線がおれに向いた。興味と関心と懐疑かいぎ恐怖きょうふと期待の混ざり合った眼差まなざしによって、おれは逃げ場を失ったことを即座そくざに理解した。

「本当か?」

 案山子かかし男がたずねてきた。

「本当に、その絡繰からくり人形は小説を書けるのか?」

 それは心の奥から出てきたくもりのない言葉で、嘲笑ちょうしょうの色が無いのは明らかだった。

 だがおれは、昨日の猿田さるだという男を思い出していた。結局、猿田さるだの言っていたことは事実だった。俺はリャカに小説を書かせることはできていないし、そうである以上、リャカの存在意義は無いに等しい。濁流だくりゅうのようにおそいかかるおのれの無力さにおぼれてしまいそうになるのをこらえながら、俺は言葉をつむいだ。

「リャカは文章を書くことはできますが、誰かを感動させたり、面白いと思わせるような小説を書くことはできていません。ですから文章は書けますが、小説はまだ書けません」

「しかし絡繰からくり人形なら、言葉を話せるだろう。それなのに小説が書けないというのは、ちとばかり変だ」

「一般的な絡繰からくりの会話は、あらかじめんでおいた言葉を場面に応じて発声させているだけです。自分でものを考えて、それを言葉にしているのではないのです。私も最初はそれを応用できるのではないかと思って試したのですが、思ったような文章を書くことはできませんでした」

 おれは、あの猿田さるだと同じように、案山子かかし男からも罵倒ばとうされるのだろうと身構えた。

 だが彼の返答は意外なものだった。

「いいだろう。ぼくは承知した」

「私も了解りょうかいです。納得はしていませんが」

 栗山川くりやまがわさんは、ひまさえあれば布巾ふきんを投げつけてきそうな目でおれにらんでいた。

「いえ、ですからリャカは小説を書くことはできていません。私は、皆さんが期待しているような天才技術者ではないのです」

 おれのどが詰まりそうになりながら、声をしぼり出した。だが佐原さわらさんはおれかたたたいて言った。

絡繰からくり人形に小説を書かせようと思いつく人間なら、いくらでもいる。だが実際に書かせようとするのは百人に一人だ。そして実際に書かせようとして失敗しても、試行錯誤しこうさくごを重ねて挑戦ちょうせんをし続けるのは、さらに百人に一人だ。それだけで、君は面白い。ここにいる人達はみな、そう思っているのだよ」

 その言葉は、おれを冷たい水の中からすくい上げて、温かい毛布に包んでくれたような気がした。こんなに幸せな気持ちになったのは、リャカを作り始めて以来、始めてのことだった。

「それは……ありがとうございます」

「では決まりだね。椿つばき君、よろしくたのむよ」

「ちょっと待ってください。おれはまだ何が何だか分かっていません。事情を説明してください。一体これから何をしようというんですか?」

「簡単なことだよ。栗山川くりやまがわさんと、こちらの日向ひゅうがさんは、今日『小説比べ』をする約束をしていたんだ。『小説比べ』というのは、二人の作家が書いた小説を、三人の審判しんぱんが読み、各自で優劣ゆうれつをつけて、多くの優勢を取った作家の勝ち、という遊びだ。

 椿つばき君は、二人の小説を読んで、優勢と思った方をこの紙に書いてくれればいい」

 佐原さわらさんから、小さな紙片と万年筆を手渡てわたされた。

「なるほど。しかし小説の優劣ゆうれつというのは結局、個人の主観だとおれは思っているのですが、それは考慮こうりょしないのですか?」

「主観でいいんだよ。公正に判断してくれる審判しんぱんであると参加者がおたがいに認めていれば、問題ない」

 ここでテーブル席に座っていた二人の男が立ち上がり、カウンター席の空いているところへ座った。一人は腹が丸く出ていて長いあごひげたくわえた初老の男で、もう一人はかみをポマードで七三に分けた中年男性だった。かれらが、おれ以外の二人の審判しんぱんなのだろう。

「では、いつものように読むのがおそい方から始めましょう。椿つばき君は、読むのは速いかい?」

「読む速さなら、『吾輩わがはいねこである』を半日で読むくらいです」

「じゃあ久留里くるりさんの次にしようか」

 佐原さわらさんがさっきの二人のうち、小太りの男に目配めくばせをした。久留里くるりさんは、すぐ近くに立っていた栗山川くりやまがわさんから封筒ふうとうを受け取って、中から原稿げんこう用紙を取り出すと、長いあごひげいじりながら読み始めた。

「あの、その間におれ日向ひゅうがさんの原稿げんこうを読みましょうか?」

 正直、おれは早くその審判しんぱんとやらの仕事を終わらせてしまいたかった。昨日おそくまで本を読んでいたせいで、すっかりねむたくなっていたのだ。欠伸あくびが止まらない。

 しかしおれが目をると、佐原さわらさんは首を横にっていた。その理由はすぐに分かった。店の中にいた客の全員が、久留里くるりさんの後ろに集まって、一緒いっしょ原稿げんこう用紙に目を通し始めたのだ。敵方である日向ひゅうがさんも、それに加わっている。

 つまり、最初に読み始めた審判しんぱんとともに観客も読むことになっているから、別の審判しんぱんが並行して読んでしまうのは興がめるということなのだろう。

 しばらく待っていると、久留里くるりさんから一枚目の原稿げんこうわたされた。初めて読む栗山川くりやまがわさんの小説だ。眠気ねむけし殺して、その四百字めの原稿げんこう用紙に目を通す。読み終わってから、次の番の我孫子あびこさんへ手渡てわたした。我孫子あびこさんは、さっきからニコニコと笑っているのだが、どうやらこれが普段ふだんの表情のようだ。

 それからおれみなの目をぬすんで、日向ひゅうがさんの封筒ふうとうから原稿げんこうを抜き取った。だれも気付いていないようだ。そして冒頭ぼうとうに目を通す。

 久留里くるりさんから二枚目がわたされるころには、もう日向ひゅうがさんの一枚目も読み終わっていた。それから優勢の方の名前を書いて、紙片をまるめてこぶしにぎった。そしてそのままカウンターテーブルに突っ伏す。どうせ終わったら起こされるはずだ。そしておれしばらくの間、睡魔すいまに身を任せた。

「おい。起きろ、審判しんぱん」 

 栗山川くりやまがわさんにかたらされて起きた時には、時計の長針が文字ばんを二周ほどしていた。

「何でしょうか?」

「あんた、いつの間にてんのさ。ちゃんと原稿げんこう読んだんでしょうね?」

 そこに笑顔の絶えない我孫子あびこさんが口をはさんだ。

大丈夫だいじょうぶだ。後の番の私が見ていたからね。かれはちゃんと読んでいたよ。最初の一枚だけね」

 栗山川くりやまがわさんが無言で布巾ふきんつかんだのを、おれ見逃みのがさなかった。

「待ってください。これには深い事情がありまして」

「言い訳を述べてみなさい」

「実は、おれは小説を少し読んだだけで良し悪しが分かるのです」

 顔面にたかのような速さで布巾ふきん衝突しょうとつした。

「そんなこと、ありえないでしょ! 私を馬鹿ばかにするな!」

「いや、本当なんです! 文字を読むと、頭の中で音が聞こえてくるんです。その音で、小説全体のイメージが分かるので」

「あんたの妄想もうそうなんて聞きたくない!」

「待ちなよ、栗山川くりやまがわじょうさん」

 般若はんにゃのような栗山川くりやまがわさんを止めたのは、久留里くるりさんだった。

「私は外科医をしているが、こんな報告を聞いたことがある。ごくまれに、文字を読んだ時に色が見える人がいるそうだ。他にも、音に色があると感じる人もいるらしい。だから、小説を読むと音が聞こえるというのもあり得ない話ではないと、私は思うよ」

「本当にそんなことがあるんですか?」

 栗山川くりやまがわさんは目を丸くしてたずねる。

「残念ながら、私も直接そういう人に会ったことはないがね。しかし、この書生しょせい君がその持ち主だというのだから、ここでそれを証明してもらえばいい」

「どうやってやるんです?」

「まずは私と我孫子あびこさんの評価と比べてみようじゃないか。それにこの店には、過去の小説比べの原稿げんこうと結果が残っているから、それも書生しょせい君に読ませてみればいい」

 どうやらおれは今日も夜かしすることになりそうだ。ねむらなくてもいいリャカが、おれうらやましかった。

「分かりました。おれの評価はこの手の中の紙片に書いてあります。まずはお二人の評価をお教えください」

「ではまず私から。私、久留里くるり栗山川くりやまがわさんに投票します」

 そう言って、久留里くるりさんは栗山川くりやまがわさんの名前が書かれた紙片をテーブルに置いた。

「今日は批評は後にしよう。我孫子あびこさん、どうぞ」

「分かりました」

 我孫子あびこさんはにこやかに答えて、テーブルに置いてあった紙片を裏返す。

「私も栗山川くりやまがわさんへ一票」

 案山子かかし日向ひゅうがさんが、やはりというようにかたを落とす。どうやら栗山川くりやまがわさんの原稿げんこうを読んで、結果をさとっていたようだ。

「ではそこの書生しょせい君の評価を聞いてみよう」

 おれこぶしを開いて、くしゃくしゃになった紙片のしわばしながらテーブルの上に置いた。

おれ栗山川くりやまがわさんへ票を入れます」

 おぉ、という声が上がる。

「ふむ。では理由をお聞かせ願おうか?」

日向ひゅうがさんの小説も、良かったと思います。私には、雨漏あまもりしている屋根から落ちる水滴すいてきの音がしました。期せずして家の中に入り込んでしまった水滴すいてきが、にくたらしそうに見つめる人間のつぶやきに身をふるわせながら、割れた湯呑ゆのみの中へ落ちていくのが聞こえました。私は好きです。

 でも栗山川くりやまがわさんの小説は、ちょうげる羽音が聞こえました。そのちょう瑠璃るり色の羽をしていて、暗い森の中でも日の光を浴びたみたいにかがやいていました。いつも人間のちょう収集家に追われているのですが、羽化したらすぐに死んでしまうはかない命なので、げるうちに死んでしまうのです。そういうちょうの羽音でした。

 音の情景の広がりと、裏にあるつながりと、音の能動性を感じたので、私は栗山川くりやまがわさんに票を入れました」

 おれの説明に、一同は静かに耳をかたむけていた。中にはうなずいている人もいた。

「それを君は、あの冒頭ぼうとうの一枚から読み取ったのかい?」

 我孫子あびこさんは、笑顔を忘れて真顔になりながらたずねてきた。

「読み取った訳ではありません。文字情報だけでは、その先にどう展開するかなんて分かりませんから。でも聞こえる音からは、その先にどう展開するのかが直感的に分かるのです」

「これはおどろいたね。二人の小説の特徴とくちょう端的たんてきに言い表しているよ。私でも、ここまで簡潔に例えるのは難しい」

「作家の我孫子あびこさんでもそう思うのかい。それならかれの能力は本物かもしれないぞ。よし、マスター。過去の小説比べの原稿げんこうも持ってきてくれ。かれに読ませたい」

 久留里くるりさんがたのんだ時には、すで佐原さわらさんはひもしばった分厚い封筒ふうとうの束を持ってきていた。

 天井てんじょうを見上げて打ちひしがれたおれに、佐原さわらさんはカウンターから温かいほうじ茶を差し出した。ちょっと苦みが強くて、目がえてしまった。これはれい時を回るまで解放してもらえそうにない。




 その日以来、おれは小説比べの審判しんぱん頻繁ひんぱんたのまれることになった。過去の小説比べについてのおれの見解がことごと審判しんぱんの評価と一致いっちしていたことで、信頼しんらいを得ることができたようだった。初めは、リャカの付きいで店に行ってもひまを持て余すだろうと思っていたが、かえってリャカよりもおれの方がいそがしくなってしまったような気がする。

 一方、リャカは着実に店の仕事を覚えていた。二週間も経つと栗山川くりやまがわさんの代わりを務められる程に成長していた。接客に愛想あいそが無いのは相変わらずだったが。

 そんなころ、すっかり固定席になったカウンターの右端みぎはしで夕飯のチップスを食べていると、となりに座ってくる人がいた。栗山川くりやまがわさんに小説比べで負けた、案山子かかし男の日向ひゅうがさんだ。会うのは、小説比べの日以来だ。

「今、時間あるかい? 食べながらでいいんだが」

「何でしょう?」

「実はぼくは、大学で絡繰からくり工学を学んでいる学生でね。君がリャカさんに小説を書かせようとしていると聞いて、ぼくも軽い気持ちで作ってみたんだ。しかし満足できる小説を書いてくれなくて困ってしまった。そこで君に助けを求めに来たって訳さ」

「リャカも完璧かんぺきな小説を書けている訳ではありません。おれも勉強したいことが多いので、ぜひお話を聞かせてください」

 日向さんは、佐原さわらさんに温かい麦茶を注文してから話し始めた。

ぼくが知りたいのは算法アルゴリズムなんだ。ぼくは、雛形ひながたになる文章をあらかじめあたえておいて、そこに単語を入れむ方式で小説が書けるのではないかと考えた。

 例えば、まず『こうおつへ行った。』という文章を絡繰からくり記憶きおくさせる。そしてこうを『かれ』、おつを『東京』にすれば、『かれは東京へ行った。』という文章になる。あるいはこうを『犬』、おつを『公園』にすれば、『犬は公園へ行った。』という文章になる。

 だがいくつか問題がある。その一つは、雛形ひながたの文章に自由度が無いことだ。『こうおつへ行った。』の後に『こうおつと思った。』を続けたいこともあれば、『こうおつと考えた。』と続けたいこともある。そうした分岐ぶんきを各雛形ひながたに対して定義していくと、膨大ぼうだいな数になる。そこを人間が全て指定することは困難だ。だから、物語はほぼ固定されたものになってしまう。

 文章の自由度を高くする方法について、何か知っているかい?」

 おれは口に入れていたチップスを飲み込んでから答えた。

「それなら一つ面白い算法アルゴリズムがあります。最近、ロシアのマルコフという数学者が、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』を例に使って発表した手法です。マルコフは、小説においてある単語が現れる確率は、その前の単語に影響えいきょうされることを示しました。おれはそれを応用することで、小説のような文章をリャカに書いてもらっています」

「その算法アルゴリズムで、本当に小説を書けるのかい? 確かに面白そうだが、ぼくには確信が持てない」

「では実際にリャカに書いてもらいましょうか」

 おれは万年筆と帳面をテーブルに置いて、リャカを呼び寄せた。

「リャカ、小説を書いて欲しい。参考にする小説は、夏目漱石そうせきの『倫敦ロンドンとう』にしよう。文字数は、三百文字くらいで」

「承知いたしました」

 リャカはなやむ様子も見せずに、紙の上で万年筆をなめらかに走らせた。一分もしないうちに、小説のような文章が姿を現した。


 風なき河にをあやつるのだからエーンズウォースが獄門ごくもん役に歌わせたもう。心安く覚して帰りたまえ」と女が黒い喪服もふくを着て悄然しょうぜんとして立って朦朧もうろうとあたりを見廻みまわすと男の子を連れた女そのままである。沙翁さおうとは名前からがすでにおそろしい。古来からとう中に吸い込まれる時の上に移すのは一時の事をしない。動かない。意識の内容周囲のかべにあるのは一時の事にてあれど」とう。折から遠くより木枯こがらしの高きとうを見て、大きな寝台しんだいが横わる。厚樫あつがしの心を寒からしめているかとあやしまれる。幼なき方はゆかこしをかけてある女神の裸体らたい像が風にあおられて、大きな寝台しんだいが横わる。


 日向ひゅうがさんは興味津々きょうみしんしんな眼で、その文章を何度も読み返していた。

「ほぅ、これはこれは。所々(ところどころ)、文法が変だったり、文の意味が不明だったりするが、しかし文章にはなっている。面白い」

「では次に、おれが最近気になっている、宮沢みやざわ賢治けんじの『注文の多い料理店』を混ぜてみましょう。リャカ、参考にする小説に『注文の多い料理店』を加えて、同じ条件で書いてみてくれ」

「承知いたしました」

 リャカは再び、あっという間に文章を書き上げた。


 鉄のかぶとが野をおおう秋の陽炎かげろうのごとくとう下に通ずる穴倉でその内に仕事を求め、太平の裏から次第に消え去ると同時に眼前の塔影とうえいが一つありました。「どうもおかしいぜ。」 みるとたしかにつぼのなかがあんまり暖いとひびがきれるから、見る人こそ幸あれ。日毎夜毎ひごとよごとに死なんとなく鳴らした。「そうだろう。」「沢山たくさんの注文というのがやられる」「気の毒な、もうものが、ある時は巡査じゅんさを探す、巡査じゅんさでゆかぬ時は人にたべさせるのである。僧侶そうりょ、貴族、武士、法士の前に、わが死ぬべき折の様を想い見る人は寒さにぶるぶるふるえ、声もなく、またとびらがあって、それだから仕方がないわ」とおのぐだけでも骨が折れる。


「少し文の印象が変わったな。『たべさせる』とか『ふるえ』とか、平仮名が多くなった。台詞せりふも口語的に変わった。これはつまり、参考にする文章が多くなれば、それだけ自由度も増えるということか」

「その通りです。このマルコフの算法アルゴリズムを使えば、これまでの人類には想像もできなかった小説すら書くことができるかもしれません。

 とはいえ、このリャカの文章を小説と呼んでいいのかは分かりません。あくまでも、確率に従って単語が並んでいるだけなのですから。いずれ、より複雑な算法アルゴリズムで、よりもっともらしい文章が書ける日が来るでしょう。しかしそれでも小説を書けたとは言えないと、おれは思っていますが」

 そこにカウンターから静かに見守っていた佐原さわらさんが口をはさんだ。

「ところでリャカさんが読む小説は、椿つばき君が選んでいるのですか?」

「そうです。リャカは読む小説を自分で選ぶことができないので、良い音が聞こえる小説を選んで読んでもらっています」

「とすると、リャカさんの書いた小説というのは、必然的に椿つばき君の主観がふくまれているということですよね。それはリャカさんの書く小説の質を高める代わりに、書き得る文章の可能性をせばめているのかもしれません」

「というと?」

「例えるなら、お茶と同じです。お茶というのは、いわば茶葉から茶漉ちゃこししを通して抽出ちゅうしゅつされたものです。茶漉ちゃこししの目が細かければ、お茶に混ざるものも少なくなります。それは良いことなのかもしれません。しかし細かい目の茶漉ちゃこししでは、きっと茶柱は立たないでしょう。リャカさんにあたえる小説を選びすぎるのも、良くないのかもしれませんよ」

 佐原さわらさんのかんは、やはりするどい。おれは、少し間を置いて考えてから答えた。

おれはむしろ、リャカに小説を読ませている現状を変えなければならないと思っています。小説というものは、作家が伝えたいものがまず存在して、それを伝えるための形式として小説が生まれるのだと思うのです。だから、リャカ自身が読みたい小説を選んで読み、その上で何かを伝えたいと思えるような意志を持たせる必要があると感じています。そのための方法は、全く見当がついていませんが」

 すると日向ひゅうがさんが、宙に向かってつぶやいた。

「確かに、君の言う通りかもしれない。過去の小説をぎして作られた小説は、まるで『フランケンシュタイン』に出てくる怪物かいぶつのようだからな」

「言い得てみょうですね」

「いや、しかし今日は勉強になった。ありがとう。ぼくもリャカさんに負けない絡繰からくりを作ってみせるよ」

「もし完成したら、当店で絡繰からくりによる小説比べをやりましょう。本邦ほんぽう初、いや世界初かもしれません」

 佐原さわらさんは冗談じょうだんめかして笑っていたが、目は本気だった。ひょっとすると、もう裏で準備までしているかもしれない。

 その日の帰り道、リャカと一緒いっしょに歩きながら、他にも小説を書く絡繰からくり沢山たくさんいる世界を想像した。世間は小説という娯楽ごらくあふれるのだろうか。人間の作家は居なくなるのだろうか。そして、リャカはどうなるのだろうか。

 おれの未熟な技術では、いずれリャカは時代遅じだいおくれになるだろう。ずっと出鱈目でたらめな文章を書き続けて、「これが古い絡繰からくりか」と目の前で嘲笑ちょうしょうされるような、そういう見世物みせもの絡繰からくりになるのだ。それをけるためには、もっとおれが勉強をして、常にリャカの能力を更新こうしんしていく必要がある。フランス語科になんていないで、工学を専攻せんこうせねばなるまい。

 だがおれには、今更いまさら絡繰からくり作りに人生をける勇気が無かった。絡繰からくり人形の本場である英国イギリス仏国フランスで学んで、作家絡繰からくりを作る会社を作ろうかと、本気で考えたことは何度もあった。しかしリャカがいずれ本当に小説を書けるだなんて、だれも保証してくれないのだ。このまま出版社か新聞社にでも就職して安定した人生を送る方が、よっぽど幸せな生き方である。結婚けっこんしているころにはリャカを木箱にしまって、ネジを巻くことも無くなるだろう。

 それならいっそ、絡繰からくり人形に詳しい日向ひゅうがさんにリャカを預けた方がいいのかもしれない。きっとその方がリャカも幸せになれるのではなかろうか。おれ一緒いっしょに居たところで、あのせま四畳半よじょうはんに押し込められて、同じ本を何度も読みながら時が経つのを待つことしかできないのだから。

 瓦斯ガス灯のたよりない灯りが、おれ達の足元を照らしている。らめくかげのように、おれ達はこのままやみの中へけていってしまいそうな気がした。

「リャカは、他の絡繰からくりと小説比べをしてみたいかい?」

「特には」

「そうか」

 秋の夜風が吹き抜けていく。外套がいとうを羽織っていたが、ちょっと寒かった。

 風が止むのを待ってから、リャカはつぶやいた。

「私には、小説を批評することはできませんので」

 その瞬間しゅんかんおれの頭の中にひらめきが舞い降りた。

 そうだ、小説の批評ができるようにすれば、リャカはもっと良い小説が書けるかもしれない。リャカが考えた文章を、リャカ自身が批評して、その結果を元に書き直す。リャカの頭の中で、小説比べが行われるのだ。そうすれば、リャカは小説を書けるようになるかもしれない。それに他人の小説を自分で批評して、良い部分を判断して取り入れることもできるだろう。

「君に小説を批評できるようにしてあげよう。必ず」

 そしておれひざまずいて、リャカに背中を向けた。薄暗うすぐらくてよく分からなかったが、リャカは目を丸くしておれを見つめているように見えた。いつもは無表情だから、おれの見間違まちがいかもしれない。

「善は急げだ」

 おれはリャカを背負って、四畳半よじょうはんへと続く夜道を駆け抜けた。このままリャカと一緒いっしょにどこまでも行けるのではないかと、おれは思った。




 その夜から、おれは小説を批評する算法アルゴリズムの開発に取り組んだ。小説の批評というのは、結局は主観だ。好き嫌いで評価が分かれる部分は少なくない。だからおれは「ゲイゼル」にいる人達を模倣もほうして、それぞれ異なる評価基準を持つ仮想審判しんぱんをリャカに組み込むことにした。

 個々の算法アルゴリズム自体は単純で、効果があるのか不安で仕方なかった。だがしかし、もし失敗したとしてもおれの仮説が否定されるだけだ。失うものは何も無い。

 他にも思いついた改良を色々と試しているうちに、気付けば一月ほどが経っていた。

 絡繰からくりの部品で散らかった四畳半よじょうはんで、おれは目を覚ました。すでに太陽は高くのぼっていた。昨晩は、帳面に書いた算譜プログラム穿孔紙パンチカードに写しているところで、意識を失ったようだった。

 算譜プログラムは、穿孔紙パンチカードと呼ばれる紙にあなを開けることで記録できる。これを絡繰からくり人形の背中側にある読取機ローダに取り付けることで、絡繰からくり人形は穿孔紙パンチカードに記録された算譜プログラムに従って行動できるようになる。

 昨晩のうちに算譜プログラムをどこまで穿孔紙パンチカードに写したか覚えていないが、穿孔紙パンチカードを何枚か確認してみると、算譜プログラムは全て写し終わっているようだった。全て確認するのも面倒めんどうなので、リャカに試しにやってみてもらうことにした。もし間違まちがいがあったら動作が止まるはずだ。

「リャカ、こっちへ。算譜プログラムを入れ替えてみよう」

「はい」

 おれは、リャカの服の背中のぼたんを外して、背とびらを開けた。自動的にリャカは脱力だつりょくして、停止状態に入る。中の読取機ローダから穿孔パンチカードを慎重しんちょうに取り外し、新しい方をめてから背とびらを閉じた。服のぼたんめ終わるころには、リャカは再起動リブートしていた。ここ最近は、ずっとこれの繰り返しだ。

「リャカ、書いてみてくれ」

 リャカは、素早く卓袱台ちゃぶだいの前に座って、紙を手繰たぐり寄せ、万年筆をにぎる。まるで泉からき出した水のように、次々と文字が書き連ねられていく。


 街は海の底の知れた女の子らしかった。朝、どんな用件もない。旅人は、てんでなかった。不穏ふおんな文字が記されている。おだやかな口調を真似さえしていないのだ。美しい静かになるのだろう。不穏ふおんな文字が流れるのであった。気楽にしてろう。はなやかな振袖ふりそでの模様を喋舌しゃべりました。素敵だなあ。元気そうである。キレイな方が得策です。方のように薄暗うすぐらい通路に転がった。夕方には、わたしですよ。夜のしんとしていましてね。男のように夜おそくなってしまいました。夕暮れの冷気が、日のうちだった。鉤爪かぎづめのように片手で少し蝋燭ろうそくの光の下を向いた。羽根ぶとんしかなかった。日光はももいろにいっぱいであった。山のように口元に笑みがかんだ。


 リャカの小説は、まだ人間の小説には程遠いが、以前よりも透き通った管楽器のような音に近付いてきていた。

「いいぞ、リャカ。上手くなってきている。その調子だ」

 おれが何気なく、そう話しかけた時だった。

「わぁ、うれしい。私、そんな風にめられるのは慣れてないのよ」

 リャカは、まるで年頃としごろの女学生のように、ほおを紅潮させながら屈託くったくのない笑みをかべていた。

 おれは、目の前の光景が信じられなかった。

「今、なんて言ったんだ?」

「何度も言わせないでよ、馬鹿ばか!」

 リャカは手近に置いてあった機械油用の布巾ふきんつかんで、おれに向かって投げつけた。

 まるで栗山川くりやまがわさんみたいじゃないか。

大丈夫だいじょうぶか? 何か変な算譜プログラムを書いてしまったかもしれない。今、取り替えよう」

「止めて! お願いだから!」

 途端とたんにリャカは取り乱して、散らばった部品をはじき飛ばしながら、部屋のすみへと後退あとずさっていった。幽霊ゆうれいでも見ているみたいに、顔が引きっている。

「分かった、分かった。算譜プログラムは取り替えないから、落ち着いて」

「信じてもいい?」

おれを信じろ。おれはいつでもリャカの味方だ」

「約束してくれる?」

「約束するよ」

 リャカはおれの目をじっと見つめていた。リャカの宝石のようなひとみは、どこまでも透き通っていた。

「……分かった」

 リャカはようやく冷静さを取り戻したようだった。しかし、いつもみたいに無表情で座っているのではなく、部屋のすみうずくまったまま動かず、おれとは視線を合わせようとしなかった。

 その姿を観察しながら、おれも次第に状況じょうきょうつかめてきた。これはつまり、リャカが意識を持ったということではないだろうか。おれが、リャカに組み込んだ仮想審判しんぱんの中には、栗山川くりやまがわさんを模倣もほうしたものもある。きっとそれが、算譜プログラム錯誤エラーか何かによって、リャカの意識として表れてしまったのだ。

 もし意識を持ったのなら、おれはまず確かめたいことがあった。

「何か本を読むかい?」

 おれは高く積まれた特価ゾッキ本の山を指差した。もしリャカが自分で読みたい本を選べるのなら、大きな前進である。

「特には」

 答えは以前と一緒いっしょだった。うれしいような、悲しいような。

「でもひまだろう。これを読んでみないかい?」

 ちょうど山の上に積んであった、「ファウスト」を差し出してみる。

「……じゃあ読む」

 リャカはしぶしぶ々本を受け取って、読み始めた。さっき小説を書くこともできていたから、基本的な能力は大きく変わっていないようだ。

 とりあえずは、このまま様子見するしかなさそうである。

 しかし、リャカの性格がここまで劇的に変わってしまって良かったのだろうか。もしおれがリャカの頭の中に仮想審判しんぱんを作ろうとしていなかったら、リャカは以前の物静かな性格のままだったかもしれない。リャカの幸せを、おれこわしてしまったのかもしれない。責任は全て、自分の読みたい小説を書かせようという私利私欲のためにリャカを玩具おもちゃにした、おれにある。

 それでもおれ脳裏のうりには、いつもおれの聞きたい小説の音が木霊こだましている。それは朝のきりに包まれた森の中で、だれにもまれていないこけした土を、ゆっくりと裸足はだしで踏みめた時の音だ。足の裏から大地の鼓動こどうが心臓まで伝わって、生命のことわりささやく。夜露よつゆを運んだ風がはだをなぞって、そこに立っていることを祝福してくれる。そういう音だ。

 その音が、耳にこびり付いてはなれない。小説を読んでも音が聞こえない普通ふつうの人に、おれはなりたかった。

 夕刻、店に行く時間になった。いつものように声をけると、リャカは素直についてきた。

 だが道中、リャカはひたすらしゃべっていた。「今日も久留里くるりさんは来るだろうか」とか「茶葉の仕入れまでに、どれそれの茶葉の在庫は足りるだろうか」とか、そんな他愛たあいのない話を、リャカは楽しそうに語るのだった。今までリャカがこんな話を、しかも表情豊かに話すことなど一度も無かった。おれおどろくばかりだった。

 店に着くと、すで佐原さわらさんと栗山川くりやまがわさんが準備を始めていた。

「おはようございます! 本日もよろしくお願いします!」

 昨日までとは別人のようなリャカの変貌へんぼうぶりに、二人も呆気あっけに取られていた。

椿つばき君、これはどういう風の吹き回しだい?」

「昨日、夜おそくまで算譜プログラムを書いていたら、どうも間違まちがえてしまったみたいで、こんなことに」

「すっかり明るくて元気な子になっちゃって。良いことなんだけどさ」

 栗山川くりやまがわさんも、着替きがえに行くリャカの後姿を心配そうにながめていた。

 リャカが店のおくへ消えてから、佐原さわらさんがたずねてきた。

「夜おそくまでって、具体的にどんな作業をしていたんだい?」

「帳面に算譜プログラムを書き上げて、それからぼけまなこ穿孔パンチカードにあなを開ける作業をしていました。気付いたらてしまっていて、でも完成しているみたいだったので、あまりよく確認せずにリャカに読み込ませてしまったんです」

「それはもしかしたら、椿つばき君がている間に――」

「小人が悪戯いたずらでもしたんですかね」

「……そうかもしれないね」

 おれ冗談じょうだんを言ったつもりだったが、佐原さわらさんは笑ってくれなかった。

 確かに笑えない事態ではある。もしこのまま改良を続けたら、リャカはさらに人格が変わってしまうかもしれない。今回は社交的な性格に変わったからいいが、暴力的な性格に変わってしまう可能性も捨て切れない。そうなることだけはけたかった。

 やってきたお客さん達も、リャカの変わり身に目を丸くしていた。久留里くるりさんなんかは「以前の無愛想な接客も、あれはあれで良かったのだけど」とぼやいたりしていたが、みな、新しいリャカを受け入れてくれているようだった。おれはほっと胸をで下ろした。

 気付けば腹が減っていた。おれ佐原さわらさんにいつものチップスを注文して、空腹を満たしていた。そんな時だった。

 見慣れない男が来店した。

 そしてすぐにおれは気付いた。忘れるはずがない。リャカを誘拐ゆうかいしようとした、あの成金男の猿田さるだだ。佐原さわらさんは、店には来ないと断言していたはずなのに、どうして今になって来たのだろう。

 猿田さるだは、静まり返った店内を気にも留めずに、真っおれの座っているカウンター席に歩み寄ってきた。

「よぉ、久しぶりだな」

「お前、どうしてここに」

 おれはリャカを後ろにかばいながら、猿田さるだ対峙たいじした。

猿田さるだ君、この店には近付かない約束じゃなかったかね?」

 カウンターから佐原さわらさんが話しかけたが、猿田さるだは気にめる様子はない。

「今日は栗山川くりやまがわやつと小説で喧嘩けんかしに来たんじゃない。この男と商談に来たんだ」

「商談? リャカなら売らないからな」

「そんな絡繰からくり、要らねぇよ。それよりももっと価値があるものを、わしは見つけた」

「もっと価値があるもの?」

「お前、小説の冒頭ぼうとうを読むだけで、小説の良し悪しが分かるんだろう? わしは、お前のその能力が欲しい」

 その言葉に、おれ呆気あっけに取られてしまった。

「え?」

わし絡繰からくりの輸入をやる会社を経営しているんだがな、最近、欧州おうしゅうで絵をえがいたり、歌をうたったりする絡繰からくりが出てきた。そこでわしは、次は小説を書く絡繰からくりだとひらめいた。で、技術者をやとって作らせてみたんだが、どれも瓦落多ガラクタだった。原因は、どいつも小説を理解していなかったからだ。だがお前なら、小説のことをよく知っている。それに自分で絡繰からくりを作る技術もある。

 わしの会社で働かないか。最新式の絡繰からくりを、何体でも実験に使っていい。海外で勉強したいなら学費も生活費も出そう。一緒いっしょかたを組んで、世界を舞台ぶたいに戦おうじゃないか」

「ちょっと待った。リャカは、まだちゃんと小説を書けてはいない。それにおれ自身、勉強不足だ。荷が重すぎる」

わしは、お前の可能性にけたんだ。技術が足りないなら、勉強すればいいだけだ。まだだれも、作家絡繰からくりを作ったやつはいねぇし、作家絡繰からくりができると証明したやつもいねぇ。だからお前がいくら勉強したところで、失敗することはあるだろう。だがな、人生やってみなければ分からないだろう? 人間、だれもが他人の歩いた道を歩いているだけじゃ、道がびることは無ぇ。だれかが道無き道を歩み始めた時に、そこに道ができるんだ。わしは、お前ならそれができると思ってる」

 正直に言おう。この猿田さるだ勧誘かんゆうに、おれは心からかれていた。わたりに船とはこのことだ。金に困ることなく学ぶことができて、おれが聞きたい音のする小説を書いてくれる作家絡繰からくりの研究に、好きなだけ没頭ぼっとうできる。もしかしたら、最新式の絡繰からくりを使えば作家絡繰からくりを作れるかもしれない。

 だがしかし、心の中に引っかかっているものを、おれは無視できなかった。おれは自分が求めている理想の小説の音が聞ければそれで満足なのだろうか。リャカを元の性格にもどしてやることもできなくても、それでいいのだろうか。

 おれ我儘わがままな自分がきらいだ。おれは「いつでもリャカの味方だ」と約束したはずなのに、まだおれの頭の中では、あの理想の小説の音が鳴り響いている。おれの目の前で、森の妖精ようせいが手招きをしてまぼろしのようにおどっているのだ。確かにそれは手の届く場所にあるように見える。だが手をばしてみると、妖精ようせいはいつの間にか姿を消していて、またすぐ近くの木陰こかげに顔を出しておどっている。

 そんないたちごっこは、いつか終わらせなければならない。いつまでも先延ばしにしてはいけない。

 おれは、夢の中の森に火を放たなければならない。

「すみませんが、おれにはもう無理です」

 おれは、チップスを食べていたフォークを手に取って、逆手さかてにぎり、意を決しておれの両目を横からぎ払った。

 これでもう、小説は読めない。音なんて聞こえない。




 あの事件から一か月が経ちました。私は、退院したあるじ様と、久しぶりにお茶パブ「ゲイゼル」へ行くことにしました。

 あるじ様の視力がもどるにはまだ時間がかかるので、私が先導しなければなりません。お店への道のりにかかる時間は、以前よりも長くなってしまいました。

 お店に入ると、マスターと栗山川くりやまがわさんが出迎でむかえてくれました。

「いらっしゃい。ご注文は?」

「チップスと、それからジャスミン・ティーをお願いします」

「かしこまりました」

 私はあるじ様をいつものカウンター席に座らせてから、そのとなりに座りました。

「リャカちゃんが席に座っているのは、なんだか不思議な感じね」

「私もです」

「それで? 今日は、何か伝えたいことがあるから来たんでしょう?」

 栗山川くりやまがわさんの視線に、私は苦笑いを返すことしかできませんでした。

「バレていましたか」

らさないで、早く教えなさいよ」

「実は、私の性格を変えたのは、私自身なのです。私はずっと、栗山川くりやまがわさんみたいになれたら、あるじ様の書きたい小説が書けるようになるかもしれないと思っていたので、つい算譜プログラムを書き換えてしまったのです」

 しかしそれを聞いた栗山川くりやまがわさんも佐原さわらさんも、表情一つ変えませんでした。

「そんなこと、とっくに気付いてたわよ」

「どうして分かったんですか?」

「女のかんってやつさ」

 人間の女性というのは、何とも不思議な生き物です。

「そんなことより、これからどうするのさ。どうせさる野郎やろうには、まださそわれてるんでしょう? アイツ、そういうところあきらめ悪いから」

「それはおれが答えよう」

 あるじ様は、ふところから手探りで一枚の切符チケットを取り出して、テーブルの上に置きました。

絡繰からくり人形の聖地、倫敦ロンドンに留学します。猿田さるださんが船を手配してくれました。医師からも、船に乗るころには目も治っているだろうと言われています」

「それでリャカちゃんはどうするのさ? まさか置いていくとか言わないでしょうね?」

「リャカは、おれのために小説を書けるようになりたいと言ってくれています。だからおれは、リャカを倫敦ロンドンに連れて行って、小説を書けるようにします。猿田さるださんからは『最新型の絡繰からくりをやる』とも言われましたが、丁重ていちょうにお断りしました」

「なるほどね~。うらやましいわ」

 栗山川くりやまがわさんは、うれしそうに私をながめていました。

栗山川くりやまがわさんも、一緒いっしょに行きますか?」

「そういうことじゃないのよ。リャカちゃんが小説を書けるようになるのは、まだ先かしらね」

「それが皮肉だということくらいは、私にも分かります」

「成長したじゃない」

 そこにマスターが、チップスと共にジャスミン・ティーのカップを持ってきました。

「ところで、私から餞別せんべつに何かをおくろうと思うのだけど、異国での生活に必要なものとか、何か欲しいものはあるかい?」

「本当ですか! ありがとうございます、佐原さわらさん。とは言っても、猿田さるださんが世話してくれているので、生活に不自由は無さそうですね。いて言えば、長い船旅になりそうなので、暇潰ひまつぶしになる本があるといいかもしれません」

「なるほど。それは良い考えだ。好きな本を買ってあげるよ」

 それからあるじ様は、私に向かってたずねました。

「リャカは、何が読みたい?」

※本作はver.0.1であり、今後アップデートした作品を投稿する予定です。


2020/5/10 初稿

2020/5/17 第二稿 誤字修正

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