1-3
*
数日が経って。
わたしは寝込んでいるひとたちに食事を運んだり、話し相手になったりしていた。
「アカシア!」
治療塔でご飯の準備をしていたら、医師長さまが駆け寄ってきた。
「どうされたんですか」
沈痛な面持ちで医師長さまが言った。
「……女王陛下が、発病なされた」
頭の後ろをがつんと重たいもので殴られた、気がした。
サンクチュアリさまだけは大丈夫だって、思い込んでいたのに。
*
寝室の、天蓋つきのきれいなベッドに横たわるサンクチュアリさまは、青白い顔で眠っていた。
「私たちは止めたんだが、地上に降りて調べたいことがあるとおっしゃられて空に出て、意識を失われたんだ」
わたしの横に立って医師長さまが説明してくれる。
「すぐに助けたから大事はなかったものの、もう空は飛べないだろう」
「それって」
言葉を続けることはできなかった。
無翼人の与えられている時間が尽きてしまえば、再び地上の世界は終わりを迎える。
そして、サンクチュアリさまが病に罹ったということは、他の有翼人にも病が拡がっていくことは避けられないという事実を示している。
――地上と天空、ふたつの世界が滅亡する?
わたしの顔色の変化を読み取り、医師長さまが首肯する。
「想像の通りだ」
「く、薬の研究は?」
「かなり難航している。正直、女王陛下を助けられるかどうかさえ……疑わしい」
そんな!
批難の言葉が喉元まで出かかる。だけど、医師長さまの辛そうな表情を見ていたら、精一杯やって今の状況があるということは明らかで。何もできないわたしが、偉そうに言えることなんてひとつもなかった。
何も、できない?
本当に?
やれることは、あるんじゃないの?
「……ふたりとも……」
低くくぐもった声。
サンクチュアリさまの瞳が、うっすらと開いていた。涙で潤んで、きらきらと光っている。
「女王陛下!」
「サンクチュアリさま!」
辛そうに、苦しそうに。サンクチュアリさまはゆっくりと手をわたしに向けて差し出してきた。白い掌は冷たく、ほんの少しだけ湿っていた。
「……アカシア。あなたにしか、できないことを頼みたいのです」
体が熱くなる。自然と、声が大きくなった。
「はい、……はい!」
「かつての……かつての王国の、森の奥に住む賢者に会ってください……。きっと、彼なら……何かを知っている筈……。天空でできることは、すべてしました。あとは……地上に、頼る……しか……」
かつての王国。わたしの父の代で終わってしまった王国。
サンクチュアリさまは、わたしに対して地上に降りるように言っているのだった。
こんな形で、もう一度地上に行くことになるなんて。だけどわたしは、揺るがない。
「わかりました」
助けるんだ。
わたしにできること、全部やって。かつての王国みたいに、終わらせたりはしない。
*
11年。
きちんと数えてみたら、わたしが天空に来て、11年が経っていた。かつての王国は、今、どうなっているんだろうか。
謀反を起こした大臣が国を治めているんだろうか。平和なんだろうか。豊かなんだろうか。想像に押し流されそうになる。いけない、個人的感情は今回は置いておかないと。賢者に会う、これがわたしの地上に降りる目的なんだ。
ぐるぐると考えていたら、サンクチュアリさまが再びわたしを寝室に呼んだ。今日はだいぶ調子がいいらしくて、寝台の上に座っている。
サンクチュアリさまはわたしに1枚の羽根を渡してくれた。
淡く青く光る羽根には紐がつけられている。
「これを、アカシア、……貴女に」
促されるままに羽根を首にかけた。
「私の力を込めました。この羽根に祈れば、簡単な元素の力が使えます。また、ここに戻ってくるときにも、これに祈ってください。それだけで、十分です」
「簡単な元素の力、ですか?」
「ええ。地。水。火。風。私の使役する精霊たちの力です。地上では色々なことがあると思います。だから、些細なものではありますが、お守りとして」
お守り。
そう言われるだけで、不思議と力が湧いてくるようだった。
「アカシアに、加護がありますように」
何故だかサンクチュアリさまの瞳は潤んでいた。
「はい。必ず、賢者さまに会って、戻ってきます」
サンクチュアリさまの期待に応える。
その為に地上に降りる。迷いは吹っ切れていた。
「行ってきます」
*
回廊の途中に、出っ張った場所がある。空に浮く庭のようなもので、空を飛ぶ有翼人はサンクチュアリさまも含めてここから羽ばたいていく。翼のないわたしは間違って落ちてはいけないとそこに行くことを禁じられていた。
だからはじめて庭に出て、少しだけ足が震えた。
陽の当たる、正方形の明るい庭だ。子どもたちが遊ぶのに十分な広さがあるけれど、今は誰もいない。芝生がきらきらと光っている。だけどそれ以外はすべて晴れた空の色だ。
何もない、けれど美しい眺めだった。
柔らかい風が頬を撫でていく。
「……よし」
正方形の一端まで歩き、足もとに視線を落とす。広がるのは雲、海、大地。
地上の世界は、ここからずっとずっと下にあるのだ。確かに、無翼人のわたしは落ちてしまえば助からないだろう。
この震えは武者震いだ。
地上に降りるのは、ちょっと怖いけれど。だけど大丈夫。首から下げた羽根にそっと触れる。サンクチュアリさまがついてくださっている。深呼吸をひとつ。ふたつ。
ひとりでの、旅立ちだ。
みっつめの深呼吸で、足に力を込める。
「行くぞっ!」
飛ぶ、というか、跳んだ。
ふわり。
わたしのからだを、サンクチュアリさまの羽根から出た青い光が包みこむ。スカートを手で抑えつつ、ゆっくりと降りていく。
青空――
雲のなかは見た目通り真っ白。ほんの少し冷たくて。
再び青空。
眼下には大地が広がっている。
それから、青だけじゃなく、蒼も、碧も。ありのままの色がそこにはあった。
世界を彩るのは、人間の営みとは全く別のところにある。そんな事実をやさしく示されているようだった。サンクチュアリさまや、他の有翼人はいつもこんな景色を見ているのだろうか。少しだけ羨ましくなった。
鳥肌が立つ。
全身を風が駆け巡る。
やがて浮揚感に慣れてくると、安心感が湧いてきた。余裕が出てくると落ち着いて地上を見ることができた。だいぶ地面に近づいてきているようで、建物みたいな人工物も確認できた。
このどこかにかつての王国があった。
ちょっとだけ胸が苦しくなる。首を左右に振って、感傷をかき消す。そのまま後ろに頭を向けると、時計樹の幹が見えた。
大きな、という形容詞では表現しきれない、どっしりとした太い幹。大地とはまた違う、存在感のある深い色をしている。
わたしはあの上から来た。
戻ってきた。
地上の世界。無翼人の世界に。
さぁ、地面はすぐそこだ。わたしを包む光が収束していく。きちんと大地を踏みしめることができるように、わたしは落下地点を確認して――
「ちょ、ちょっと待って!」
どさささささっ!