2-11
それが誰か、解ってしまった。
――わたしの心を支えてくれた、大事なひと。答えを示してくれたひと。
もう二度と逢えなくてもいいの?
わたしが、わたしに問いかけている。
「……当たり前でしょう」
迷う筈はなかった。そうでなければ、どうして天空から降りてきたの。やれることはやってみせるって、自分自身に誓ったんだから。
大丈夫。わたしは、闘える。
救う。
世界ってやつを、救ってみせる。
ゆっくりと意識が戻ってきて。
「――カーシャ? どうしたんだよ。急に倒れたからびっくりしたぞ。おい、聞こえてるか? カーシャ?」
わたしを心配そうに覗き込むアレスを、やっと正面から見ることができた。
短めの黒い髪。深く澄んだ、真実を見極めようとする紫色の瞳。意志の強さを表した鼻筋。11年経っても変わることのない、優しさ。
「……わたし、勘違いしてたわ」
「何を?」
「国さえ取り戻せば何とかなるって思ってたけど。ほんとは、国があってひとがいるんじゃなくて。ひとがいて、国がある。そういうのが、よき為政者の務めだよ。頑張ってね」
「急に何を言い出すんだよ。意味が分からないぞ」
アレスがよき為政者になろうと努めているように。
サンクチュアリさまの為に。ディテの為に。そして、アレスの為に。
わたしは。
アレスに手を伸ばす。
「飛ぶよ、アレス」
再会してから、名前を呼ぶのはこれが最初で最後だ。
「と、飛ぶって……」
困惑したままのアレスの手をとる。しっかりと、離さないように。全身が熱くなる。今なら飛べる。
心がそう告げている。
「――!」
上昇は一瞬だった。
きらきらと淡く青い光はわたしだけの翼。
穴を覗き込んでいたラタトスクたちが顔を上げて、宙に浮いているわたしとアレスを見つめた。わたしは左手をまっすぐラタトスクに伸ばす。
「――さぁ、約束よ。指輪を渡してちょうだい」
*
黒くて黒い、輝く指輪。飾りのないシンプルなデザインは、ラタトスクのコレクションのひとつ。それ以外にも、数十個の指輪を悪戯好きの大地の精は持たせてくれた。
「これだけあれば十分だろう。全部、私たちの力でできているから、すり潰して薬にして飲ませてやるといい」
「そんなにあっさりとくれていいのか」
「同感だわ」
まだ何か裏にあるんじゃないだろうか。そんな疑念が湧いてしまう。
「はは! まさか。十分に面白かったよ。天空の書庫の鍵といい、君にはいつも楽しませてもらってるから。また期待してる」
「え、鍵を隠したのも貴方たちだって言うの!」
「私たちは神出鬼没で悪戯好きな大地の精だからね。特に楽しみなのは人間が翻弄されて慌てふためく姿さ。楽しければ何でもするよ」
無邪気に笑うラタトスクを一瞬踏みつけてやろうかと思ったのは内緒だ。指輪と、サンクチュアリさまの青い羽根を受け取り、わたしとアレスはすぐに宿へ戻った。
夕方になっていた。
ディテは、穏やかな表情のまま、既に息をしていなかった。
わたしは泣かなかった。泣いたらディテに失礼だと思ったから、必死に堪えた。
「きちんと弔ってやるから」
アレスがわたしの肩をぽん、と叩く。
「……うん」
わたしはルナのガラス玉をひとつ、アレスに託した。
「これを、ディテのお墓に。もうひとつは、わたしが天空に持って行くから」
「分かった」
夜が訪れる前に、天空へ戻らなければならない。指輪をすり潰してサンクチュアリさまたちに飲ませてあげないと。
お別れの、ときだ。
きれいな夕暮れ。逆光で表情を消せるからちょうどいい。宿の前で、わたしはアレスと向き合う。わたしより少し背の高いアレス。11年で、広がっていた身長差。だけど心地いい身長差。
大きな掌をアレスが差し出してくる。それに応えて、しっかりと握手をする。少し骨ばった、男のひとの掌だった。温かかった。
手を離すと、アレスは微笑んだ。
「ラタトスクじゃないけど、楽しかったよ。この数日、あっという間だった」
「うん」
「カーシャは、天や神っていうより時計樹の使いだったな。おかげで世界が終わらずに済むんだから」
「うん」
頷くことしかできなかった。一刻も早くこの場から離れたかった。
お別れは簡単に済ませたかった。だって。
「あのさ、ずっと確かめたいことがあったんだけど」
不意に、アレスの表情から微笑みが消える。
「カーシャはかつての王国の姫、アカシアなんだろう」
弾かれたようにわたしはアレスを見つめ返した。その表情には確信があるように感じられた。どうして。今になって、そんなことを言い出すの? 思考が固まりそうになる。
「だとしたら、俺は」
「姫? まさか」
続きを聞きたくなくて無理やり遮った。深呼吸。声のトーンを低くして。アレスの言葉を全身で拒絶する。
口元に笑みを浮かべて。無理やり、嘲笑を含ませて。アレスが狼狽する。
「だ、だけど」
確信を否定されて、アレスが戸惑いを浮かべる。
「わたし、行くね」
羽根を握りしめる。
「風よ、わたしを時計樹のもとへ!」
一刻も早くこの場から離れるんだ。これ以上は、辛い。から。落とし穴から出るときに。それと引き換え、だった、から。もう、二度と、逢えない……から。
体が強い力で天空に引っ張られる。
時計樹が、呼んでいる。旅の終わりを告げている。




