四十二日目
鳥の声で目が覚めた。アイサは瞼を開け、ちらりと右隣を窺った。
クナウティアの豊かな金髪が、窓からさしこむやわらかな光に照らされて優しく輝く。
壁時計はいつもの起床時間を示していたが、美しい横顔に目覚める気配はない。
昨夜は二人で、あの『見張り台』で星を見て過ごした。『ナスターシアの冒険』を持ち込んでああだこうだと言いあっていたせいで、いつもより眠る時間が遅くなってしまったのだ。
議論はなかなか面白かった。一つは、森の塔に閉じ込められていた少年リスルを、ナスターシアが出会って間もないうちに連れ去って旅の仲間にしてしまう場面についてだ。アイサとしては、それはいささか早計に過ぎるのではと感じた。リスルの生い立ちや素性について、ナスターシアは何も知らない。『ここから出たい』という彼のただ一言を聴いて『じゃあ一緒に行こう』と手を引くのである。あまりにも簡単すぎる。もっとじっくりと考えるべきではないか。しかしクナウティアは、「リスルはこの時、『塔から出る』ことを心の底から望んでいるんだから、それを叶えてやったナスターシアは正しい」と言った。この瞬間の幸せは間違いないのだから、それでいいのだと。
感覚の違いは人それぞれだ。軍学校に居た頃は、こういった価値観の違いによる議論が良くあった。しかし、学校を卒業し、実際に軍に所属して働き始めるにつれ、そういった議論はなくなっていった。実際のところ軍において、末端のアイサたちが最終的な決断を任されることは無いからだ。
下された命令をこなすことが仕事で、自分たちで何をどんなに考えたところで、すべて無駄になってしまうのだから。
アイサはため息をつき、そろりと寝台を抜け出した。豪奢な寝間着を脱いでいつもの簡素なシャツとズボンに着替え、こっそりと寝室を出る。彼女のことはもうすこし寝かせてやりたかった。
身だしなみを整え、朝食の準備を始める。クナウティアは最近、小麦粉をミルクで練って砂糖で味をつけた生地を焼いたものが気に入っているようなので、それをつくってやることにした。きれいな焼目がつくように火加減を調節しながら、何枚も焼いては器に重ねていく。最後にバターをのせ、りんごのジャムを添えた。
ミルクを鍋にかけ、二階の気配を窺う。どうやら彼女はまだ眠っているようだ。寝かせておいても良いのだが、勤勉な彼女は朝の仕事ができないことを何よりも嫌う。アイサは鍋の火をごく小さく落とし、寝室へ向かった。
クナウティアは先ほどとすこしも変わらぬ姿で、行儀よく真上を向いて眠っていた。
「おい」
声をかけるが、起きる気配はない。アイサは彼女の華奢な肩をそっと叩いた。
「クナウティア、起きろ。朝だぞ」
透けるように滑らかな瞼がぱちりと開く。紫の瞳は、きょろりとアイサをとらえた。
「おはよう、アイサ。ごめん私、寝坊しちゃったのね」
「昨夜は遅かったからな。朝食を用意した。お前の好きな焼き菓子だ。りんごのジャムもある」
「わぁ、うれしい! お昼は私も手伝うわね」
「仕事があるだろう。昼はいつも通り私がつくる。夜は一緒につくろう」
クナウティアはにこりと嬉しそうに微笑んで寝台を抜け出し、せわしなく服を着替える。今日の服は薄手のワンピースのようだ。ひらりと揺れる裾や袖が可愛らしい。
二人連なって部屋を出て、階段を下りる。
クナウティアが立ち止まり、窓の外を指さした。
「見て、アイサ。とってもいいお天気よ」
アイサはちらりと目をやって、わずかに息をのんだ。
良い天気だ。太陽は輝き、木々の緑はやわらかくも鮮やかだった。長らく大地を覆っていた分厚い雪は、ところどころ地面が顔を出し、緑が芽吹き始めている。
「……あぁ。いい天気だ」
アイサは首から下げた魔法石に、シャツの上からそっと触れた。
春が来たのだ。
クナウティアは静かに階段を下りていく。アイサはゴクリを唾をのみ、一息おいてからそれを追いかけた。
クナウティアが風呂場で顔を洗っているうちに、アイサは温めたミルクをカップへ注ぎ、盛り付けた焼き菓子と共に居間のテーブルへ並べた。
甘い香りが漂う。
朝からこんなに手の込んだものを食べるなんて、ここへ来るまでは考えられなかった。……いや、もっと昔、母と共に暮らしていたとき以来のことだ。母が元気だった頃は、よくいろんな菓子や料理をつくってくれたし、アイサも母のためにいろんなものをつくった。
ここでの暮らしは、あの頃を思い出す。まだ自分がただの少女として生きていられた、穏やかで夢のような時間。
「お待たせ。わぁ、美味しそう」
足早にやってきたクナウティアは、それこそ少女のような仕草で上機嫌にテーブルへついた。
「いただきましょう」
「あぁ」
二人で顔を見合わせ、食事を始める。クナウティアは焼き菓子にバターとジャムを絡め、ナイフとフォークで大きく切り取って口のなかへ放り込んだ。
「おいしい」
瞳をとろりと蕩けさせる彼女に、アイサも笑って菓子を食べる。
甘いはずなのに、あまり味がわからない。アイサはろくにかみ砕きもせず、無理に喉を動かしてのみこんだ。
ふと胸もとで感じた振動に、アイサはビクリと肩を揺らして手を止めた。
おそるおそる視線を落とせば、シャツの内側の魔法石が振動しながら光を放っている。
「連絡用の魔法石ね」
クナウティアが言う。アイサはじっと、赤く輝く石を見つめていた。
「お話、しなくていいの?」
アイサはゆっくりと息を吐き、尾を引かれるようにしながら立ち上がった。
「すまない。すこし、出てくる。食べていてくれ」
「ええ」
逃げるように外へ出て、家の壁にもたれかかった。
シャツとズボンだけでは、すこし冷える。けれどその程度だ。陽は照り、頬を撫でる風もどこかなまぬるい。足首まですらも無いわずかな雪から目を背け、震える指先で魔法石の頂点の突起を押し込んだ。
石が青色に変わる。
『天駆ける獅子』
「……海わたる船」
『何をぐずぐずしているんだね、アイサ・ベルシュナ』
アイサは息をぐっとのみこみ、「申し訳ありません」とちいさく言った。
『もうとっくに雪も溶けている頃だろう。君はそんな簡単な事実さえわからないような愚か者だったのか? それとも、田舎暮らしで腑抜けてしまったのか』
アイサはもう一度「申し訳ありません」と低く返す。
『報告もろくにせず、いったい何をしていたんだね。いや、優秀な君のことだ、何か考えがあったのだろうな』
威圧的な上官の声に、言葉をさしはさむことができない。
『時間が無いのだ。このままでは、あのお方は強硬手段に出てしまう。すべては君の働きにかかっているのだよ』
「……わかっております」
『良いか、明日だ。明日の午後、所定の場所にて決行する。もうこれ以上は待てぬ』
上官はきっぱりと言い切った。そこに、アイサの反論する隙は無い。
『アイサ・ベルシュナ。己のやるべきことをしっかりと考えろ。信頼のおける君だからこそこの任務を任されたのだ。失敗は許されんぞ』
通信が終わる。石は赤色に戻り、輝きを失った。アイサは石の突起をそっとひっぱり、それからつよく握った。
そうだった。自分はここへ、仕事のためにやってきたのだった。
国のため、王のために。そして亡き義父や母のためにも、任務を果たし、立派な軍人でいなければならない。
細く長く、息を吐く。魔法石をシャツのなかへしまい込み、できるだけ何でもないような顔をつくって室内に戻った。
「終わったの?」
クナウティアが小首を傾げて言った。彼女の器は、すでにきれいに空っぽだ。
アイサは席につき、自分の器から一枚、焼き菓子をとってクナウティアの器へ移してやった。彼女は「いいの?」と遠慮しつつフォークを構える。アイサが「もちろん」と笑えば、クナウティアは喜んで食べ始めた。
「お仕事の話だった?」
「あぁ」
「そろそろ戻ってこいって?」
「……いや」アイサはわずかに息を吸った。「例の男はすでに見つかったらしい。この際だから、もうしばらく羽を伸ばすつもりでゆっくり過ごすと良い、と」
「ほんと? じゃあまだここに居られる?」
「すこしだけなら」
「やった! まだアイサとやりたいことや、行きたい場所がたくさんあるの」
「私もだ」
アイサは焼き菓子を切り分け、口に運びかけたが、代わりに息を深く吸った。
「手始めに、明日はスズナミの街へ行かないか」
クナウティアが、大きな瞳をぱちりと瞬かせる。
「スズナミへ?」
「あぁ。……この間言っていただろう、毛糸や生地を実際に手に取って選んでみたいと。ここへ来るとき、スズナミを通ってきたんだ。確かあそこには、大きな手芸店があった。他にも、菓子屋や雑貨屋なんかもあったはずだ。一緒に見てまわらないか」
――私が、守ってやるから。
そう口にした瞬間、アイサは胸の痛みに瞳を細めた。しかし、クナウティアはそんなことには気が付かず、にこりと微笑む。
「嬉しい。アイサが一緒なら安心ね」
屈託なく言って、ぱくぱくと食事を進める。
「……では、朝から出発しよう」
アイサはのろのろと食事を再開した。焼き菓子はなかなか喉を通っていかず、すべて食べ終えるのにはかなりの時間が必要だった。
その日アイサは、一心不乱にトレーニングに取り組んだ。クナウティアが仕事をしている間はもちろん、彼女が趣味のことをしている午後も、夕方の勉強時間も。食事やお茶の時間以外は、すべてトレーニングに費やした。「せっかく外でトレーニングできるようになったから」と言えば、クナウティアは不審がることもなかった。だって、外はもう春なのだ。昼に日が昇ったあとは、もう雪などほとんど溶けてしまっていた。
全身がくたくたになるほど、走り込み、筋肉を酷使し、剣術の型を思いつく限りすべて行った。それでも心にかかったもやのようなものが晴れることはなかった。
夕食後、二人はいつものように順番に入浴し、共に寝台へ寝転がり、そしてクナウティアはすぐに眠りについた。
アイサはしばらく、彼女の月明かりに照らされた美しい顔を見つめていた。