十三日目
「アイサ、アイサ」
夕食後、食器を洗うアイサのもとへ、クナウティアが得意げな顔で近寄ってきた。
「どうした」
にやりと笑う彼女は、後ろ手に何かを隠しているようだ。
「気になる?」
アイサが頷くと、クナウティアは「じゃーん」と両手を広げた。子どものような仕草で披露されたのは、小さな緑色の魔法石だ。
アイサは最後の皿を洗い流し、手を拭きながら「それは?」と訊いた。
「お師匠様の魔法石よ。今朝これのことを思いだして、お掃除のときに探しておいたの」
「いったい何の魔法石なんだ?」
「それは内緒。さぁ、準備するわよ!」
「準備?」
「アイサは温かいミルクとお菓子を用意しておいて!」
クナウティアは足取り軽く台所を出ていった。何をしようとしているのかはさっぱりわからないが、アイサは彼女の望みをかなえるべく鍋でミルクを温めた。菓子は『ゼペッシュ食料品店』で購入した、街のパン屋がつくったらしい焼き菓子だ。粉をミルクや卵・バターで練ってちいさく丸めてこんがりと焼いたそれが、最近のクナウティアの気に入りだった。粉砂糖をまぶしてあるので数粒でも満足感があり、アイサも好んで食べている。
「準備できた?」
戻ってきたクナウティアは、暖かそうな分厚いカーディガンを着ていた。腕にはもう一着のカーディガンと毛布、それにちいさなランプを抱えている。
「はい、これ着て」
アイサは手渡されたカーディガンに袖を通した。しっかりと密に編まれているそれは、適度な重みがあって暖かい。クナウティアはその隙に、アイサの用意したミルクと菓子をトレイに載せた。
「よし、じゃあ行くわよ」
クナウティアはトレイを持って歩き出す。アイサは毛布とランプを持って彼女を追いかけたが、トレイを持つクナウティアの足取りはよたよたとおぼつかない。
「替わろう」
アイサが手を出せば、彼女は「お願い」と素直に荷物を交代した。
クナウティアは二階へ上がると、いつもの寝室の奥にある扉を開けた。そこは薬草や魔法道具の保管場所で、掃除もクナウティアが担当しているため、アイサは一度も入ったことがなかった。
なかはとてもきれいに整頓されていて、収納用の棚や箱がたくさん並んでいた。
「こっち」
奥にあるすこし古びた木製の階段を上っていく。
屋根裏には何もなかった。真っ暗ななかをクナウティアがランプで照らせば、大きな窓だけがきらりと輝く。
「定期的に掃除はしているんだけど、ちょっと埃っぽいわね。天井が低いから気を付けて」
そう言うと、彼女は窓のそばへ近寄った。毛布とランプを床へ置き、両手で力を込めて窓を開ける。
外はひどい雪だ。いったい何をするのかと眺めていると、クナウティアはひょいと窓に足をかけた。
「おい!」
アイサはとっさにトレイを片手に持ち替え、慌てて彼女の背中を掴んだ。カップががたりと揺れる。クナウティアは不思議そうに振り返った。
「なぁに?」
「なにって、お前……っ」
窓の外へ視線を落とせば、屋根の上には見張り台のようなものがつくられていた。
クナウティアはにこりと笑って窓を乗り越え、見張り台へ両足をおろす。
「大丈夫、ここは暖かいの。もちろん、家の中と同じとはいかないけど」
心配したのはそこではないが、アイサはほっと息をついて手を放した。
「……こんなものがあるとは知らなかった」
おそらくここは、正面の入り口からは見えない裏側の屋根だ。この家へ来てから一度も外へ出ていないので、まったく気づかなかった。魔法石のおかげで雪はこの家を避けていくので、当然ながら見張り台にも一切積もっていない。
「アイサ、トレイ貸して」
手を伸ばすクナウティアへ、幸いにもミルクのこぼれなかったトレイを手渡した。アイサも窓を乗り越え、おそるおそる足をおろす。見張り台は大人が二人乗っても軋むこともなく、しっかりとしたものだった。
クナウティアはトレイを床へ置き、腰を下ろした。
「ちいさいころ……ここに来て初めての冬だったかしら。家の外に出られないのが嫌で泣きわめいたら、お師匠様がここをつくってくれたの」
手招きで促されるままにアイサが隣へ座ると、クナウティアは二人の背中を包むように毛布を羽織った。
クナウティアは昔を思い出したようにくすりと笑う。
「でもね、せっかくつくってくれたのは良いものの、あたり一面見渡す限り雪ばっかりでしょ。余計に嫌になっちゃって」
確かに、夜のせいもあるだろうが、いまアイサの視界に入るのは、闇に浮かび上がる積もった雪と、降り注ぐ雪だけだ。空は分厚い雲に覆われて、やけに圧迫感がある。雪さえ降っていなければ、ふもとの街や遠くの城、星空なんかも見えるのかもしれないが、すくなくともアイサがここへ来てからというもの、雪の降らない日など一度もなかった。
「それで、拗ねた私にお師匠様が新しくこれを用意してくれたの」
クナウティアはカーディガンのポケットから、先ほどの魔法石を取り出した。
「見てて」
アイサは頷き、じっと魔法石を見つめた。すると、次第に彼女の手の上の石が輝き始め、光がかたまりになり、ものすごい速さで空へ飛んでいった。
たくさんの風をまとった光は、雲を突き抜け蹴散らした。二人の頭上の厚い雲にぽっかりと穴が開き、大きな月とたくさんの星々が顔を出して輝きを放った。
アイサは息をのみ、じっと天を仰いでいた。隣のクナウティアもそうしているのがわかった。星がちらちらと揺れて見える。雪たちが、踊るように舞い降りてくる。
「星が降ってくるみたいでしょ」
クナウティアが言った。アイサは「美しい」と返した。クナウティアは嬉しそうに笑い、菓子を食べ、ミルクを飲んだ。アイサはまだ空を仰いでいた。
美しい。雪も星も、月の光さえも、二人のうえに降り注ぐようだ。
けれど、この家を守る魔法石のせいで、それらは決して二人のもとへは届かない。ひらりひらりと避けていく雪たちを見ていると、まるで自分たちがこの家に閉じ込められているような感覚に陥った。
「……山を下りて、街へ出ようとは思わないのか」
アイサには、クナウティアが望んでここで暮らしているとは思えなかった。彼女はこんな狭いところに閉じこもっているようなひとではない。もっと広々とした世界を自由に飛び回るのが似合う、鳥のようなひとだ。
「私は街では暮らせないの」
「……なぜ」
「魔性だから、ですって」
アイサは言葉を失った。クナウティアはアイサのほうを見ることもなく、二つ目の菓子を口に放り込んだ。
「幼いころ、面倒ごとがいろいろ起こって。お前は魔性だ、そんな見た目をしているからだ、お前のせいだって、いろんなひとから言われたわ。不気味がった両親は私を捨ててお師匠様に託したし、お師匠様は私に『人里からは離れて暮らしなさい』と言った。だから、街では暮らせないの」
アイサは唾をのみこみ、慎重に言葉を探した。
――そんなものは、人々の思い込みだ。
軍で過ごしているときのアイサならば、迷わずそう言った。人心を操ったり惹きつけたりなどということは、魔法でも不可能なのだ。それは、その道に明るくないアイサですら知っている常識だった。しかし、彼女の美しさが人を惑わすというのは、嫌というほど納得ができてしまう。
彼女は美しい。ただ美しいだけではなく、なにか惹きつけられる不思議な魅力を持っている。
「……お前は何も悪くない」
アイサはようやっとそれだけを言った。クナウティアは「ありがとう」と微笑み、菓子を一つつまみあげてアイサへ差し出した。
反射的に広げた手のひらへ、小さな菓子がちょこんと載せられる。
「実は昔、ここでの暮らしが嫌でたまらなくなって、何度かこっそり抜け出して街へ出たことがあったの。でも、そのたびに面倒ごとが起こっちゃって。だからもう街はこりごり。ここでなら平和に暮らせるし」
面倒ごと、というのが具体的にどんなものなのか、アイサは訊くことはできなかったが、おおよそのところは想像に難くない。からりと笑うクナウティアの表情は、強がるようなものにも見えた。
彼女の平穏は、寂しさと共にあるのだ。
ふいに振り向いた紫の瞳が、きらりと光る。
「でもいまは、毎日退屈しないわ。アイサが居てくれるから」
アイサは思わず、手のひらの菓子を握りしめた。くしゃりと潰れる感触に慌てて力を緩め、浅く息を吐く。
「……一人ではなく、二人なら大丈夫じゃないか」
しん、と静まった空気に耐え切れず、アイサはさらに言葉を続けた。
「冬があけたら、一緒に街へ行かないか」
クナウティアはぱちぱちと瞬きをした。
「でも、アイサはお仕事に戻ってしまうんでしょう」
「すこし滞在を伸ばすことは可能だ。……私がここを去るまでに、一緒に街へ遊びに行こう。……気晴らしにはなるだろう」
自分の口から『遊びに行こう』などという言葉が出るのは、何年ぶりだろう。へたしたら生まれて初めてのことかもしれなかった。
アイサはクナウティアを正面から見つめた。月明かりに照らされた彼女の髪は、きらきらと輝いている。
「二人なら平気だ。……私がお前を守ろう」
クナウティアはとろけるように笑った。
「ありがとう、アイサ」
小さな頭が、こつりと肩に寄せられる。ふわりと甘い香りが漂い、やわらかな彼女の髪がアイサの首もとをくすぐった。
アイサはカップを手に取り、ミルクにそっと口をつけた。それはずいぶんと冷めていて、なまぬるくアイサの舌へまとわりついた。