六日目
――美しい髪だ。アイサは、長い髪を一つに束ねるクナウティアの後ろ姿を眺めながら思った。
「アイサ、寒くない?」
淡い金色の髪がゆらゆらと揺れている。アイサは「平気だ」と答えた。髪を束ね終えたクナウティアは「そう?」と首をひねって振り返る。「今日はけっこう温度を低くしているから、寒くなったら言ってね。調節するわ」
私のことは気にせず、薬の都合やお前の感覚を優先してくれ。アイサは内心そう思ったが、「あぁ」とだけ返した。クナウティアはむすりと頬を膨らませ、「ほんとに、言ってね、ちゃんと」と念を押した。アイサはまたも「あぁ」とだけ言うと、揺り椅子を移動させて床に広い場所をつくり、そこへ腰を下ろした。自分の軍服を身に着けているので、汚れることを気にせずに遠慮なくトレーニングができる。
筋肉を丹念にほぐしながら、アイサはちらりとクナウティアの様子を窺った。彼女は大きな棚の前で、薬の材料を選び出している。
クナウティアとの共同生活が始まって、六日。アイサが驚いたのは、彼女がずいぶん勤勉であることだった。
クナウティアは毎日、早くに目覚めて朝食を済ませると、家じゅうの掃除と洗濯をしてから仕事を始める。薬草や虫などを加工してさまざまな薬を調合し、街の薬屋へ売るのだ。どうやらそれを年中、毎日欠かさずに行っている。
薬を調合しているときの彼女はひときわ美しいとアイサは思う。とくに薬研ですりつぶした材料を計量して混ぜ合わせるときなどは、普段からは想像もできないほどに真剣なまなざしだ。
彼女が仕事をしている間は、アイサはこうして空いた場所で、体幹や筋肉を鍛えるトレーニングを行う。もちろん彼女の邪魔にならないよう、埃のたたない、静かにできるものだけだ。軍で行うトレーニングと違って過激さは無いが、みっちりと着実に身体を鍛えられているような感覚がして、悪くはない。
クナウティアの集中力は相当なもので、一度作業を始めたら昼になるまでは一切休憩もとらない。アイサも自身のトレーニングに集中するので、この時間に二人の会話はほとんどない。しかし、クナウティアが薬を調合する音は心地よく、アイサはトレーニングをしながらつい耳を傾けてしまうことがある。
ひとしきりトレーニングを終えると、アイサは壁時計で時刻を確認した。ちょうどいい時間だ。いったん寝室へ向かい、軍服からクナウティアの用意してくれた服に着替える。今日は簡素なシャツとズボンの組み合わせだ。今朝ワンピースを嫌がったアイサに、クナウティアが「仕方ないなぁ」などと言いながら出してきた代物だった。まるでちいさな子どもに対するような言い草にすこしムッとしたものの、服自体には何の文句もないので非常にありがたい。一応サーベルを腰にさげて居間へ戻る。
まだ作業に没頭しているクナウティアを横目に、アイサは台所へ入り、昼食の準備にとりかかった。
彼女が仕事をしている間に昼食をつくるのは、居候の自分にとって仕事のようなものだとアイサは思っている。
朝食と夕食は二人でつくるのだが、クナウティアの料理は材料や器具が揃ったいまでも、大胆にして大雑把だ。しかし不思議なことに、昨日あたりからあのまるごと茹でた芋が無性に恋しくなってきた。今度、すこし食事に添えてみるのも良いかもしれない。
アイサはミルクで煮込んだスープをほんのすこし匙ですくって味見した。クナウティアは薄味が好みのようなので、このくらいでちょうど良いだろう。居間のほうからは彼女が仕事道具を片付ける気配がする。スープをよそい、『ゼペッシュ食料品店』で購入したパンを二つずつ添えた。紅茶を注いだところでクナウティアが台所へやってくる。
「美味しそうなにおい。ミルクのスープ?」
「あぁ」
「うれしい。食べましょう」
二人で協力して料理を居間へ運び、食事を始めた。
「おいしい! スープに入った芋って、ざらざらしてて好きだわ」
クナウティアは満足げにそう言って、ばくばくとスープを食べ、大きくちぎったパンを口にほうりこんだ。アイサは「それは良かった」と返した。
「夕飯の材料はまだある?」
「あぁ。だが、明日の分を考えると注文してもいいかもしれない」
「じゃあ、あとで一緒にカタログを見ましょう」
「何か欲しいものがあるのか」
「いいえ。でも、アイサと一緒にお買い物するのが楽しいの」
クナウティアは屈託なく笑う。アイサは「そうか」と答え、スープを飲んだ。
昼食の後、二人でカタログを見ながら購入するものを選び、『ゼペッシュ食料品店』と、クナウティアが懇意にしている手芸店『クルミ』での買い物を済ませた。
「大変よアイサ! この毛糸、手触りがすごく良いわ。持ってみて!」
購入した毛糸を手に、クナウティアが駆け寄ってきた。
いったい何が大変だというのだ、それはとても良いことなのではないか、と思いながらも、アイサは促されるままに手のひらを出した。
傷痕やマメだらけのアイサの手に、深い青色をした毛糸玉がのせられる。
軽い。
ぼんやりと手のひらの上の物体の重みを確認していると、アイサの手をクナウティアの白い両手がそっと包み込んだ。
彼女の指は、思いがけず冷たい。アイサはやわらかく込められた力に従って、手のひらに毛糸玉を握りこんだ。
弾力のある毛糸玉は、手のひらのなかでわずかに滑りながら収縮した。もっとふわふわとしているのかと思いきや、どこかぬるりとした触り心地だ。
「ね? あったかそうでしょ」
「あ、あぁ……」
「嘘。いま、ぬるぬるしてるなって思ったでしょ」
アイサは戸惑いながらも頷いた。クナウティアはくすりと笑った。
「こういう糸が、編むと肌触りがなめらかで、私は一番好きなの」
「そうなのか」
アイサは毛糸玉をじっと見つめる。糸の質については良くわからないが、とても美しい色だと思った。
「これで何をつくるんだ」
「手袋よ」
クナウティアはにこりと笑って毛糸玉を受けとると、編み針を手に揺り椅子へ腰かけた。さっそく購入した糸で編み物を始めるらしい。
午後のこの時間は、勤勉な彼女が自由なことをする唯一の時間と言っても過言ではない。たいていは趣味だという裁縫や編み物を行っている。冬場でなければ森へ散歩に出るついでに薬草や虫を採集しに行くらしいが、それはもはや仕事の一環なのではないかとアイサは思う。
アイサはというと、趣味に勤しむ彼女のそばで読書をするのが習慣となっていた。
この家にはたくさんの蔵書がある。大半を占めているのはアイサには難解な薬学や魔法の分厚い専門書だが、本棚の奥には多種多様な小説や子供向けの物語、図鑑などもあった。
普段は小説など全くと言っていいほど読まないアイサだが、手にとってみれば、これがなかなか面白かった。
アイサは本棚をざっと見渡し、『ナスターシアの冒険』というタイトルの本を抜き出し、椅子に腰かけて読書を始めた。
物語に没入しながら、ちらりとクナウティアの様子を窺い、すこしだけ目をみはる。
彼女は猛烈な速さで編み針を動かしていた。
料理でみせる大雑把さからは信じられないくらい、クナウティアの手芸は繊細で丁寧、かつ迅速だ。先日などは縫い糸ほどの細さの糸で繊細なレースを編んでいて、アイサは自分の目を疑った。出来上がったレースは思わず見とれてしまうほどの美しさだった。テーブルや棚の上を飾るものだということだったが、現在この家には必要ないから売るつもりだと彼女は言った。その値段を聞いて、また驚いた。安過ぎたのだ。もっと高値をつけるべきだと、アイサは常にない強さで主張してクナウティアを驚かせた。それほどに素晴らしい出来栄えだった。
クナウティアは手芸においても素晴らしい集中力を発揮する。ほとんど休憩することなく手を動かし続け、夕方近く、いつも決まった時間になってからようやく背伸びをして息をつく。
「お茶にしましょう」
彼女の声を合図に、アイサは台所へ向かった。温めたミルクと、昨日アイサがこしらえた焼き菓子を用意し、二人でゆっくりとお茶の時間を過ごす。
そのあと夕飯までの間、クナウティアは日課の『読書』をする。しかし、彼女の言う『読書』はもはや『勉強』だとアイサは思う。山ほどある専門書を当たり前のように読みこなし、それをもとに新たな薬を開発するのだ。
今日も今日とて、彼女は分厚い薬学の本を棚から取り出し、テーブルに広げて目を通し始めた。
「……勤勉なのは良いことだが、働きすぎるのも良くないぞ」
思わず口を出してしまったアイサに、クナウティアは不思議そうに首を傾げた。
「勤勉? 私が?」
「毎日仕事をしているのに、そうやって勉強までしているだろう。お前ほど勤勉なものを私は他に知らない」
「そんなんじゃないわ。お金を稼ぐために、できることとか、やりたいことをやっているだけ」
彼女の華奢な指先が、分厚い本の頁をめくる。
「私は魔力が少ないから、薬をつくるしか能が無いのよ」
クナウティアの声は、どこか悲しげに響いた。
ひょっとしたら彼女は、魔力が少ないことを悩んでいるのだろうか。
何か気の利いたことを言ってやりたいが、アイサには薬のことも、魔法のこともわからない。
ただわかるのは、人々にとって、薬は命を救う唯一の手段だということだ。軍では治癒魔法などというものを研究する魔導士たちもいるが、成果は芳しくない。もちろん、治癒魔法が使えるようになれば便利であることは間違いないのだけれど。
薬がどんな病にも効くわけではないことを、アイサは嫌というほど知っていた。しかし、それが病に侵されたものにとっての希望であることもよく知っている。
「お前の薬に、たくさんの人が救われているはずだ」
我ながら子どものような言葉を選んでしまった。アイサは少しの気恥ずかしさをおぼえたが、クナウティアは嬉しそうに微笑み、「ありがとう」と囁いた。
クナウティアが読書をする間、アイサはたいていトレーニングをするか菓子を焼くのだが、今日は彼女のそばで『ナスターシアの冒険』の続きを読んだ。物語は中盤にさしかかり盛り上がりをみせている。主人公のナスターシアが、ついにドラゴンの棲む森を見つけたのだ。幼い少女だというのになんと勇敢なことだろう。
読書を終え、二人で用意した夕食を食べた後は、順番に風呂に入る。先に風呂をすませたアイサは、クナウティアが風呂を使っている間、居間で『ナスターシアの冒険』の続きを読んだ。ナスターシアは非常に見どころのある少女だ。共に旅をしてきたルノーという少年も、終盤に向かうにつれ活躍をみせ始め、いよいよ面白くなってきた。
さて、と頁をめくろうとしたところで、クナウティアが風呂場から出る気配がした。ずいぶん早いと思ったが、壁時計が示しているのはいつも通りの時間だ。どうやら読書に集中していたせいで早く感じただけらしい。
居間へやってきたクナウティアは、アイサを見るなり「冒険小説が好き?」と訊いた。
アイサは思案し、数秒静止した後「わからない」と答えた。「なぜそんなことを訊く?」
「だって、いつも冒険小説を読んでるわ」
「……そうだったろうか」
「そうよ。一冊目は『ガルドナの海』、次が『ケルシュタイン冒険記』、そして『ナスターシアの冒険』。ぜんぶ主人公が冒険をするお話よ」
言われてみれば、確かにそうだった。しかし何よりも、読んでいた本をクナウティアに把握されていたことにアイサは驚いた。
「無意識だ。いや、タイトルだけで選んでいるから、偶然内容が似通っていただけだろう」
「そう? ちなみに『ナスターシアの冒険』は全部で二十巻あるわ。ちいさいころお師匠様に何度も読んでもらったし、いまでもたまに読み返してる。とっても長いし面白いから、読み始めると終われなくて困っちゃうの。『この後どうなるんだろう、あとすこしだけ読もう』とか、『もうすこしで最後だから読み切ってしまおう』とかね」
アイサはどきりと心臓が跳ねるのを感じた。いま、まさにその状態だったのだ。あとすこしで一巻が終わる。いつもならばすぐに寝室に向かうのだが、今日はクナウティアに先に眠ってもらって、自分は続きを読み切ってから眠ろうかと考えていたところだった。
しかし、なんだか急にそんな自分が子どもっぽく思えて、アイサは名残惜しくも本を閉じた。
「閉じちゃうの?」
クナウティアは小首を傾げ、アイサの目の前の席に腰を下ろした。
深い紫の瞳がやわらかく細められる。
「続き、気になるでしょう? 最後まで読んでから眠りましょう」
アイサは、背筋から指先までが細かく震えるような感覚を味わった。
彼女の声は、ぞっとするほどに美しく、耳から溶けてしまうように思えるほど甘やかだ。
「……あぁ」
アイサは硬い声で言って本を開いた。クナウティアは編み針と毛糸を持ってきて、昼間の続きの編み物を始める。アイサはほっと息をつき、文字の羅列に視線を落とした。
アイサが『ナスターシアの冒険』を最後の頁まで読み切ってから、二人は揃って寝室へ向かった。
同じ寝台で眠ることには、アイサも数日で慣れてしまった。自分が緊張していることが馬鹿馬鹿しく思えるほどに、クナウティアはあっという間に熟睡してしまうからだ。
寝台へ並んで寝転び、毛布をかぶる。
いまならば訊けるだろうかと、アイサは言葉を探して紡いだ。
「……お前、恋人はいないのか」
不躾になってしまっただろうかと不安に思ったが、アイサの突然の問いにひるむことなく、クナウティアは「いたらこんなとこで一人で暮らしてないわ」と答えた。
暗闇のなかランプに照らされたクナウティアの横顔は、息をのむほどに美しい。
「街へ出れば、お前なら引く手あまただろうに」
「でも、面倒くさいじゃない、人って。好かれたい人にばかり好かれるわけじゃないし」
なるほど。美しいものには美しいものにしかわからない悩みもあるのだろう。
「そういうあなたは?」
クナウティアがこちらへ寝返りをうつ。至近距離で見つめてくる紫色の瞳に、アイサは耐えきれずに天井を向いた。
「いるように見えるか」
「見える」
そんなわけがない、とアイサは思ったが、「いない」とだけ答えた。
「街では、女は結婚しろとうるさいんじゃない?」
「他人の言葉はどうでも良い。義父は私の結婚を気にかけてはいたものの、何を強要することもなかった。お前の好きなように生きろと言ってくださった」
「やさしいお義父様ね。うらやましいわ」
彼女が天井を向くのを見計らって、アイサはクナウティアの顔を見つめた。
「……お前は、両親は」
クナウティアは背を向けた。
「いないわ。お師匠様が私のすべてよ」
おやすみなさい、と彼女は言った。数秒後には穏やかな寝息が聞こえてくる。
失敗してしまっただろうか。アイサはため息をつき、瞳を閉じた。