一日目
ブーツのつま先が、じくじくと痛んだ。
雪の積もる山を歩くのがこんなに骨の折れることだとは、アイサは知らなかった。これまでいくつも過酷な訓練を積んではきたが、わざわざこんな時期に山を登るなんてことはさすがにしない。そもそもアイサの管轄は城、もしくは城下町なので、こんな辺鄙なところまで来ること自体が稀だった。
決して大きくはない山だ。雪さえなければ、半日もかからず越えられる程度の。
わずかな荷物を背負い直す。中身は少量の保存食と飲み物だが、おそらくすでに凍っているだろう。
積もった雪に足がとられ、思うように進まない。特別に供給された分厚いコートに守られている部分は良いが、フードのすき間から入り込む吹雪に頬が焼けるようだ。この状態が長く続けばさすがに危険だろう。冬の山をなめていた。我ながら鍛え方が足りない。
しかし、しばらく遠くに見えるわずかな灯りだけを頼りに歩いてきたが、目標の民家はもう目前だった。
アイサはなんとか力を振り絞り、ブーツを雪から引っこ抜くようにして歩いた。はたから見れば無様な歩き方だろう。この任務が終わった暁には訓練を増やさなければ。いや、むしろまさにこれが訓練だ。そう念じながら無心で足を運び、ようやく民家へたどり着く。
家の周囲は、不思議なことに一切雪が積もっていなかった。すこし見ていると雪が自ら建物を避けるようにひらりひらりと流れていく。
何かしらの魔法石の力だろうか。
アイサはわずかに息を吐き、コートの雪をはらってフードを脱いだ。短く切りそろえられた黒髪のまとう雪の粒がはらりと落ちる。コートの内ポケットから似顔絵をとりだし、扉を叩いた。
「はーい」
若い女の声がした。アイサは息を整え、できる限りやわらかな表情をつくろうと努めた。
扉が開く。ちらりとのぞいたのは、くすんだ金色の髪だった。
「どちらさま?」
顔を出した女に、アイサは思わず見とれて静止した。
明るくつややかで、いきいきとした肌。まるく大きな瞳は紫色で、ぱちりぱちりと瞬きをするたびに長いまつ毛が揺れる。反してキリリと意志の強そうな眉と、つんと上がったチャーミングな鼻先。上品だが可愛らしい、うすめで大きな唇。胸の下あたりまである長く豊かな金髪は淡い色彩で、細かくゆるやかに波打っている。
真っ白のたっぷりとしたワンピースが良く似合う、美しい女だ。
「軍人さん? 何か御用ですか?」
女はアイサのコートの紋章を見て首を傾げた。アイサはハッと我に返り、慌てて似顔絵を掲げる。
「夜分にすまない。とある事件の調査を行っている。こちらの男を見かけなかっただろうか」
女は似顔絵をじっと見つめ、「うーん」と唇をとがらせた。
「ごめんなさい、わからないわ。すこし前に道に迷っている男性に会ったけれど、あのひと、こんな顔だったかしら」
「ふた月ほど前に、この山へ入っていったという情報があったのだ」
「だったらやっぱりそうかしら、ここへ来るひとなんて滅多にいないから。奥さんのための薬草を探しに来たって言っていたから、薬をわけてあげたの」
「その男はどこに?」
「カスガヤの村へ下りて行ったわ」
「カスガヤか」
「行方不明なの?」
「いや、そういうわけではない。ただ申し訳ないが、詳しいことは話せない」
「そう。無事ならいいのだけど」
「ご協力感謝する」
アイサは似顔絵をしまいこみ、女へ敬礼をした。くるりと振り返り、ゆっくりと周囲を見渡す。
うんざりするほどの雪だ。先ほどよりも更に吹雪いているように思う。
ためらいながら足を踏み出すと、女が「待って」と声を上げた。
「お姉さん、こんなときに山を歩くのは危険よ。やめたほうがいいわ」
アイサはひと呼吸おいてから振り返った。女はにこりと微笑む。
「雪が落ち着くまで、うちに泊まっていって」
「……よそ者をそう易々と家へ入れないほうがいいぞ」
「平気よ。男の人は滅多なことじゃなきゃ泊めないけど、女の子は大歓迎」
女の子、などと言われるような歳でもないが、と思いつつ、アイサは首を横に振った。
「仕事がある」
「人捜しなんて他のひとに任せればいいのよ。命の方が大事。連絡用の魔法石は持っているでしょう? 報告さえすれば平気よ」
女がそっと近づき、アイサの頬に触れた。
「ずいぶん冷えてる」
ね? と、女が小首を傾げる。アイサは浅く息をついた。
「……すまない。世話になる」
「いいえ。お客さんができてうれしいわ。どうぞ、入って」
女に手を引かれ、家のなかへと踏み込んだ。
暖かい。居間の奥にはあかあかとした暖炉の火が見える。
外から見る印象よりも広々とした家だ。壁にとりつけられた大きな本棚には分厚い本が所狭しと詰め込まれ、収まりきらないものはそこらに積み上げられている。別の棚には何に使うのかわからない道具や大量のビン、多種多様な乾燥させた植物のようなものがずらりと並び、そばには大きな作業台があった。居間の中央には質素なテーブルと椅子が二つ。端のほうには古風なミシンと、くつろぎやすそうな揺り椅子が一つあった。
雑多としているが、雰囲気が良い。それに、ハーブか何かだろうか、とても良い匂いがする。
「コートを脱いで。乾かすわ」
「あぁ……」
「荷物の袋も一緒に乾かしましょうか。大事なものは入っていない?」
アイサは頷き、脱いだコートと荷物を手渡す。女はそれらを暖炉のそばの壁へかけ、またアイサのもとへやってきた。
「やだ、ブーツもびしょ濡れじゃない!」
「すまない。床が濡れてしまった」
「そうじゃなくて、あなたの心配をしてるのよ! とりあえずブーツは脱いで、お風呂に入ってきたほうがいいわ。服も着替えましょう」
女が軍服に手を伸ばしてくるのを、アイサは反射的に避けた。
「いや、平気だ」
「平気じゃないわ。どちらにせよ、しばらくここにとどまることになるんだから、ずっとその服ではいられないし、お風呂に入らないわけにもいかないでしょう」
思いがけず、よくしゃべる口だ。アイサはぐぐっと言葉をのみ込んで、おとなしくブーツを脱いだ。
さぁ早く、とアイサの背中を押して、女は風呂場へと案内した。
「うちのお風呂、すぐ沸くんだから」
木製の、暖かみのある風呂場だ。女が浴室の装置のようなものをいじくると、浴槽の下部の穴から勢いよく湯が流れ出してきた。風呂場が熱気と水蒸気に満たされ、浴槽はあっというまに湯でいっぱいになる。
アイサは呆然とそれを眺めていた。
凄い。こんな魔法装置は初めて見た。
「着替えはこれを使ってね。じゃあどうぞ、ごゆっくり」
女は棚から白い服やタオルなどを取り出すと、それらをカゴへ入れて床へ置き、ひらひらと手を振って去っていった。
アイサは耳を澄ませ、女の気配が居間にあることを確認してから、ようやっと腰からさげたサーベルを外した。浴室の扉のそばへ置き、急いで服を脱ぐ。長いジャケットもズボンも、ひやりとしている。胸からかけた連絡用の赤い魔法石は濡れても平気なので、そのままにして浴室へ入った。
湯を桶ですくって頭からかぶる。つま先が熱でとかされるような感覚がした。どくどくと勢いよく血がめぐる。どうやら自分で思っていた以上に冷えていたようだ。
女がこちらへ向かってくる気配に、アイサは振り返り身構えた。浴室の半透明の扉越しに、女が脱衣場へ入ってきたのがわかる。
「服、お洗濯するわね」
アイサは「あぁ」と答えた。女がアイサの服を拾い上げ去っていく。アイサは詰めていた息をほどき、また湯をかぶった。
急いで風呂をすませ、身体と髪をぬぐう。カゴのなかには親切なことに下着と革の履物まで用意されていたので、それらを身に着けた。
女の用意してくれた服を広げてみて、アイサは固まった。
生成り色のワンピースだ。胸もとに繊細なリボンがついた、普段のアイサなら絶対に着ることのない代物だった。いや、ひょっとしたら、子どものころの寝間着はこんな感じだったかもしれないが。
ワンピースを頭からかぶり、赤い魔法石は服のなかへしまいこむ。サーベルを手に居間へ向かえば、女が奥の台所らしい場所から顔をのぞかせた。
「あら、もう上がったの? ちゃんと温まった?」
「あぁ……」
先ほどから、自分は『あぁ』しか言っていないことに気づいた。しかし女は特に気にしていないのか、にこりと穏やかに微笑みかける。
「ワンピース、あなたにはすこし短いかしら。でも良く似合ってるわ」
馬鹿を言え、とアイサは内心で呟いた。似合っているわけがなかった。ひざの下あたりまでの長さはあるが、スースーして落ち着かない。
「夕食まだでしょう? いま用意しているから、座って待っていて」
女はそう言って、台所の奥へ消えた。アイサはすこし考えてからテーブルの足もとへサーベルを置き、椅子へ腰かけた。繊細なつくりのこのワンピースに無骨なサーベルのベルトをかけるのは、もしも傷めてしまったらと思うとできなかった。
「それにしても、よくここまで登って来られたわね。大変だったでしょう」
台所の奥から女が言う。水の音や金属の触れ合う音が聞こえる。アイサはまた「あぁ」と言い、慌てて言葉を続けた。「山に入ったころは、雪も降っていなかったんだ」
「ふもとのほうは降っていなくても、すこし登ると急に吹雪きだすの。いまはまだマシなほう。これからどんどん雪が酷くなるわ。まったく、こんな時期にこんなところへ、たった一人で調査に向かわせるなんて信じられないわ」
「そのために、特別なコートを用意されている」
「あの馬鹿みたいに重たいコートのこと? 軍人さんって、いまだに原始的な暮らしをしているのね」
「魔法石をふんだんに使えるのは、地位や財のあるものだけだ。……ここは、見たところいろいろと揃っているらしいが」
アイサは改めて、居間をぐるりと見まわした。
一見しただけでは質素な暮らしぶりだが、そこかしこに立派な魔法装置や魔法石が組み込まれているのがわかる。暖炉のなかの火も、よく見れば薪がどこにもない。おそらくこれも魔法によるものなのだろう。
女が二つのマグカップを手にやってきた。
「そういえば、まだ言ってなかったわね。私、こう見えても魔女なのよ」
置かれたカップの中身は、湯気のたつミルクだった。ふわりと甘い香りが漂う。
「って言っても、たいした力はないのだけど。できることと言えば、すこしの先見と魔法石を使っての簡単な魔法くらい。この家の高度な魔法装置や魔法道具は、すべて私のお師匠様が残してくれたものなの」
女はまた台所へ向かい、二つの皿とフォークを手に戻ってきた。それらをテーブルへ置き、アイサの前の席へ座る。
「私はクナウティア。あなたのお名前は? 軍人さん」
紫色の瞳がゆるやかに細められる。それは、じっくり見つめると赤色にも見えるような不思議な輝きを持っていた。
「アイサだ」
「アイサ。あなたと会えて嬉しいわ。さあ、食べましょう」
「……あぁ」
クナウティア。アイサは彼女の名を内心で反芻し、テーブルへ視線を落とした。
「……なんだ、これは」
「芋よ」
彼女は当然のようにそう言った。確かに芋だ、とアイサは思った。
目の前の皿には、皮のついたまま茹でられた芋が、ごろりと二つ転がっている。
ひょっとしてこれは、いますぐ帰れという遠回しの表現だろうか。おそるおそるクナウティアのほうを窺えば、彼女の皿にもしっかりと二つの芋が転がっていた。
クナウティアは麗しい指先とフォークをつかって、「あちち」などと言いながら芋の皮をむいている。
「食べないの? 冷めちゃうわよ」
「あ、あぁ……」
「あ、皮と芽はとってね。これ、あんまり身体に良くないんですって。昔お師匠様が言ってたわ」
クナウティアは皮をむいた芋をフォークで切り分け、ぱくりと食べた。
アイサは戸惑いつつも、彼女と同じように芋の皮をむいた。湯気がぶわりとたちのぼる。フォークで中ほどまで切ってみれば、きれいにぱかりと二つに割れた。火はきちんと通っているようだ。
小さく切り分け、口へ運ぶ。
「美味しい?」
「……そ、素材の味だ」
「そう、良かった」
芋だ。塩味すらない。しかし、おかげで芋本来の甘みやほのかな香りはよくわかる。質素にも程はあるが、これはこれで美味しい。
クナウティアはにこりと美しく微笑み、反してなかなかの勢いで次々に芋を口へ放り込んでいく。
アイサは芋をのみこみ、ちらりと窓を見やった。
外は相変わらず、闇が白く濁って見えるほどの吹雪だ。
「……雪は、いつごろ止むのだろうか」
「うーん、だいたいひと月くらい先じゃないかしら」
ひと月か、とアイサは思う。そんなに長くこんなところに居たら、ますます身体がなまりそうだ。室内でできるトレーニングを考えなければならない。
「……なぜ、こんなところで一人で暮らしている」
アイサの質問に、クナウティアは芋を食べる勢いはそのままに口を開く。
「もともとはお師匠様と二人暮らしだったの。ずいぶん前に老衰で亡くなられてから一人になっただけ」
「不便ではないのか」
「お師匠様がいろんなものを残してくれたおかげで、とっても暮らしやすいわ。薬を売ったり、必要なものを買ったりするのも、街まで行かなくてもできるのよ」
「それは……すごいな」
「まぁ、寂しくはあるけどね」
紫の瞳が、アイサをちらりと見上げる。
「だから、あなたが来てくれて嬉しいの」
アイサは何か言おうと息を吸ったが、うまい言葉を思いつかずにのみこんだ。クナウティアは言うだけ言って満足したのか二つ目の芋の皮をむき始めたので、アイサも食事に集中することにした。
夕食を終えて片付けを手伝おうとしたアイサを、クナウティアは「お客さんは座ってて」と強引に揺り椅子へ座らせた。
アイサは揺り椅子に座っていながら一切揺れることなく、ぴたりと止まったままクナウティアが洗い物をする音を聞いていた。しばらくして台所から出てきた彼女は、「お風呂に入ってくるから、好きに過ごしていて」と手を振り風呂場へ向かった。
風呂場から水音が聞こえてくる段になって、アイサは胸もとから赤い魔法石をとりだした。一見すると首飾りのような形状だが、アイサのように魔力を持たない人間でも使うことができるように加工された、れっきとした通信用の魔法道具だ。
頂点にある突起を強く押し込めば中心部が光を放ち、しばらくすると赤から青へと変わる。対の石が応対した証拠だ。
アイサは石を口もとへ寄せ、ちいさな声で「天駆ける獅子」と囁いた。
『海わたる船』
応答があった。
「第四師団、アイサ・ベルシュナです」
『手筈はどうだ』
上官は名乗ることもなく報告を急かした。アイサは「申し訳ありません」と前置きをし、言葉を続けた。
「現在、雪の影響により身動きがとれません。しばらく山奥の民家に滞在することとなりました。おそらくひと月ほど」
『ひと月か。止むを得ないな』
風呂場の水音に耳を傾けながら、「例の男はカスガヤへ下りたそうです」と付け加える。上官は『あぁ』と言った。
『君の働きには期待しているぞ。亡きお義父上も誇らしかろう。色よい報告を待っている』
アイサは吐息のような声で「はい」と返し、石の突起を引き上げて通信を切った。
赤色に戻った魔法石を見つめ、深いため息をつく。
疲れた。やはりこんな任務は自分には向いていない。女は筋力が足りぬと馬鹿にされようと、剣を振っているほうがよほどましである。
ふと、サーベルを食卓の足もとへ置きっぱなしにしていることに気が付いて慌てて取りに戻った。改めて揺り椅子に腰かけ、サーベルを膝にのせる。
どうにも調子が出ない。それもこれも、あのクナウティアのせいだ。息をのむほどに美しいのに、妙に生き生きとしていて、少女のように自由で。
もう一度盛大なため息をついたところで、風呂からあがった彼女が居間へ戻ってきた。寝間着だろうか、質素なワンピースに着替えている。
「いま、お仕事の連絡してた? お休みもらえそう?」
「あぁ」
「よかった。じゃあ、安心してゆっくりできるわね」
彼女の長く豊かな髪は、風呂上がりだというのにすっかり乾いている。先ほどは気づかなかったが、ひょっとしたら髪を乾かすための魔法道具などもあるのかもしれない。
クナウティアは暖炉の装置をいじり、火を消した。室内は途端に薄暗くなる。
「今日は疲れたでしょう。眠りましょう。寝室は二階なの」
ランプを手にしたクナウティアが指さす先には階段があった。アイサはすこし考えてから頷き、サーベルを手に立ち上がる。
彼女の細い背中を追いかけて階段を上っていく。彼女が進むたびにやわらかそうな髪がふわりと揺れるのを、気づけばじっと見つめてしまっていた。
二階の寝室には、薄暗くてはっきりとは見えないが、大きな寝台と箪笥、棚、それから質素な机と椅子があるのがわかった。
「お師匠様の寝室も一階の奥にあるんだけど、あそこはもうずっと閉じたまま使ってないの。同じ部屋で我慢してね」
クナウティアはランプを置き、寝台のクッションを整える。アイサは扉の前の床へ腰を下ろした。
「何してるの」
クナウティアが振り返り訊いた。
「私はここで眠る」
「冗談でしょ?」
「本気だ」
「どうして?」
「よく知りもしない人間を寝台に上げるべきではない」
「もう名前も知ってるわ」
「名前だけだ。私はここでいい。……一応、見張りにもなる」
クナウティアはむすりと唇を尖らせ、アイサへ駆け寄った。
「見張る必要なんてないわ。ここは安全だもの」
アイサの手を両手でつかみ、ぐいっと引っ張る。アイサは「やめろ」と抗議したが、クナウティアは細い腕で尚も引っ張り続ける。
あまり強く抵抗すると彼女に怪我をさせてしまいそうでおそろしかった。アイサは諦めて身を任せ、そっと寝台へ腰を下ろす。クナウティアはにこりと笑った。
「一緒に眠りましょう。何度も言うけど、ひと月ここで暮らすのよ。ずっと床で眠られちゃ落ち着かないわ」
「……わかった」
仕方ない。彼女が眠ったあとで、こっそり寝台を抜け出そう。アイサはひとまず彼女の思うようにさせることにした。
クナウティアは革靴を脱ぎ、寝台へ寝転ぶ。
「ほら、早く」
急かされて、アイサはサーベルを寝台の足もとへ置き、彼女に背を向けて寝転がった。
浅く息を吐くと、背に彼女の手が触れたのがわかった。
「おやすみなさい、アイサ」
やわらかな声だった。それはそっと空気に溶けるように消え、そのまま静かな寝息へと変わった。
背に添う指先が離れる。
アイサはゆっくりと後ろを振り返り、ぽかんと口を開いた。
クナウティアは眠っていた。こちらを向いて、わずかに身体を丸めたまま、ゆるやかに深い呼吸を繰り返す。
寝つきが良すぎはしないか。もしかして眠ったふりをしているのかとも思ったが、身体の動きも表情も息遣いも、嘘には見えなかった。
その寝息をじっと聴いていると、アイサの身体までもが急激に重たくなってくる。
身体も、瞼も、ずしりと重い。
あぁ、本当に気が抜けてしまっている。眠気に逆らうことができない。
こんな調子で、ひと月やっていけるのだろうか。
アイサはすこしの不安を抱えながら、泥に沈むような感覚で眠りについた。