プロローグ
あの頃はすべてが億劫で、何も見たくないし、誰にも自分を見られたくなかった。
「あなた、名前は?」
ぼさぼさの髪で覆われた耳に、その少女の声はやけにはっきりと美しく響いた。
思わず顔を上げかけたものの、名乗れる名前は自分には無かった。俯いたまま首を横に振る。
「秘密なの?」
なんと説明すればいいかわからず、また首を振った。秘密ではない。でも、あの名前は捨てたのだ。いまの自分には名前がない。
「花は好き?」
突然の言葉に戸惑ったものの、その質問には答えることができた。ちいさく、けれどはっきりと頷けば、少女が嬉しそうに笑ったのが顔を見なくてもわかった。
「近くに、とってもきれいな花がたくさん咲くところがあるの。見に行かない?」
返事をしたかどうかは覚えていないが、気づけば少女に手を引かれて、目的の場所へ向かって歩いていた。道中、視界にはずっと彼女の着ているワンピースの裾が揺れていた。使い込まれた革靴はきれいに手入れされていて、彼女の足はすらりとしていた。
やわらかな風が吹く。土と草のにおいがした。繋いだ手は、とてもあたたかい。
「じゃーん」
誇らしげに言う彼女の声に顔を上げた。
小さな丘を覆うように、一面に咲き乱れる赤い花。ゆらりゆらりと風に揺れる姿はとても美しい。
少女に手を引かれて、花のなかへ入っていく。赤い花は頭よりも高い位置にあった。歩きながら見上げれば、青空と相まって更に美しく見える。
「きれいでしょ」
少女はそう言うと、次々に花を摘んで、それを手際よく編み始めた。彼女の後ろをついて回り、じっとその様子を見つめる。細く長い指が器用に動き、みるみる花が連ねられていくのを見ているのはとても楽しかった。
出来上がった花の冠を、彼女がそっと頭に載せてくれた。
「可愛い」
言われて初めて、少女の顔を見た。
――あなたのほうが、ずっと可愛い。
絵本のお姫様や天使よりも、故郷の街に暮らしていた誰よりも。いままで見たもののなかで彼女が一等うつくしいと、幼心にそう思ったことを覚えている。