第10節 美々面を部屋に連れてきたとき先生は「当面の間」……
美々面を部屋に連れてきたとき先生は「当面の間」預かってくれと言っっていたが、数週間が経ち一ヶ月が経っても彼女を引き取りには来なかった。
圭太は学校で顔を会わせる度に文句を言い続けたが、先生は毎度もう少しだけなどと言い訳して一向に美々面を迎えに来なかった。
ある日、部屋にいた圭太のもとに久しぶりに父親から電話が掛かってきた。
「どうだ元気にやってるか」
「うん、まあね」
ありきたりな親子の挨拶をしていると、先生相手とは違うくだけた話し方をしているのが珍しかったのか美々面が近寄って来て圭太の様子をじっと注視し始めた。
嫌な予感がすると思っていると案の定、彼女は突然意味も無く頭突きをしてきた。
「イタっ! 痛いって」
「ん? なんだ誰か一緒にいるのか」
「い、いや、違うよ。ちょっとぶつけただけ」
苦しい言い訳だが父は信じたようで、
「なんだ、女の子でも連れ込んでるのかと思ったぞ」
そう言うとかかと笑った。
圭太は、そんな訳ないだろと美々面を部屋の外に追いやりながら取り繕った。
さすがに小さな女の子を部屋に住まわせているなど父に打ち明ける気にはならなかった。
しかもその女の子を押し付けてきたのは父の友人の「先生」なのだ。
その後も父とは取りとめの無い話が続いたが、何の拍子か話題が「先生」のことに移った。
「父さんは先生と同じ大学だっけ」
「ああ、同じ学科で同じ専修だったんだ」
「学生の頃の先生はどんなだった?」
「どんな? いや、今と変わらないと思うぞ」
何十年も経って変わらない人間などいないだろうにと思ったが、父と先生は今でもよく会うくらいの仲なのでかえって変化に気付きにくいのかもしれなかった。
「大学の頃、アイツは結構モテたんだよ」
「へえ」
父の言葉にはあまり意外の感は無かった。
先生は身長が高くスタイルもよくて中年太りなどとは無縁だ。
顔にはさすがに歳相応に皺なども刻まれているが、そこには若き日の美男の面影が色濃く残っていた。
「アイツは昔からシュッとしてたからな。
ちょくちょく女の子から紹介してくれと言われたよ。
でも俺が誰それと会ってくれと頼んでもアイツはいつも断るんだ」
「ふーん、なんでだろうね」
「うーん……、要は奥手だったんだろうな」
父もその辺の理由ははっきりとは分かっていないようだった。
その後、どこに向かっているかも分からない四方山話が続いたが圭太も父もだんだんとうんざりしてきて、やがてどちらからとも無く話を打ち切った。
電話を机の上に放り投げてベットに寝転がると、部屋の中がやけに静かなのに気付いた。
その理由はすぐに分かった。
いつの間にか美々面がいなくなっていたのだ。
玄関を見に行ってみると案の定、彼女の靴が無くなっていた。
「またか」
最近になって美々面はひとりで出歩くことが増えた。
いつも気付けばアパートからいなくなっていて、しばらくするといつの間にか戻っているのだ。
後から知ったことだがどうやら頻繁に学校にうさぎを見に行っているらしかった。
なぜそんなことが分かるのかというと、すっかり美々面と気易くなった学校の主事さんが彼女がよく一人で学校に遊び来ているということを教えてくれたのだ。
一緒にこの話を聞いていた委員長などは小さい女の子を一人で出歩かせるのは物騒だと圭太を叱った。
圭太もその通りだと思ったが自分が学校に行っている間は美々面は一人になるし何度注意しても美々面は気ままに外出してしまうのだった。
注意や対策が足りない、と言われればその通りなのかもしれない。
内心、圭太は美々面の外出をどこか期待するようなところがあった。
美々面が出かければ圭太はアパートで一人きりになれる。
以前は当たり前のことだったが、今の彼にとってそれは本当の意味でリラックスできる貴重な時間だったのだ。
だから委員長から注意されても、圭太は美々面の外出を半ば黙認していたのだ。
しかし彼は間もなくそんな自分の態度を後悔することになる。
放課後の人気の無い校庭の隅、ひっそりと建つうさぎ小屋の前に美々面はしゃがみこんでいた。
台風でも来れば吹き飛んでしまいそうなトタン屋根の下には二羽のうさぎ――全身が焦げ茶のものと白に茶色の斑が入ったもの――がそれぞれそっぽを向いたままうずくまっている。
美々面はエサをやるでもなく、緑色の亀甲金網越しにそれらただじっと見つめていた。
辺りはしんとして静まり返っている。
放課後とはいっても学校にはまだ大勢の生徒や職員たちが残って動き回っている。
だが小屋の周りだけは彼らのいかなる動線上にも位置していなかったので、誰にも妨げられることのない静寂がたゆたっていた。
強い西日は校庭や白亜の校舎、そしてうさぎ小屋のある一帯を茜色に染め上げている。
日差しがあるのでまだ肌寒くは感じないが、建物や木立の陰からひんやりとした空気が少しづつ辺りを浸食し始めていた。
冷気はほどなく美々面を包み込むだろう。
だが彼女は一向にその場を動こうとしない。
時間でも止まったかのように、ただ一心にうさぎたちを見つめ続けている。
そのまま何事も起こらなければ、あるいは彼女は辺りが真っ暗になるまでその場でじっとしていたかもしれない。
しかしそれを許さぬとでもいうように、ゆっくりと美々面に近づいてくる人影があった。
彼女がそれに気付いたのは迂闊にもその者が真後ろに立ち自身の体が影にすっぽりと覆われてからだった。
ゆっくりと振り向いた美々面は強い日差しに輪郭を切り取られ影絵のようになったその姿を見た。
そして影絵の頭と思しきところについた両目が、冷たい眼差しで自分を見下ろしているのに気付いたのだった。




