次男編へいく前に
次男の話を書こうとして考えていたら、いろんなことが思い出されてきました。
本当はね、はしょっちゃっても良いのかもしれません。でも、これも家族の記録です。なので書こうと思いました。
出産とは真逆の病気と死に関する、閲覧注意な話になります。苦手な方は次男編へ飛んで下さいますよう、お願い申し上げます。
m(_ _)m
結婚して直ぐは、アパートを借りて住んでいました。が、長男が一歳を迎える頃、旦那のお父さんとの同居話が持ち上がりました。
義父は、旦那の弟と一軒家で二人暮らしをしていたのですが、その弟が結婚して家を出ることになったのです。(旦那のお母さんは、旦那の二十代前半に亡くなっており、それは私と旦那が出会う前です)
私は末っ子で、兄と姉は結婚して家を出ていました。私には母が二人おり、私を産んだ母は、私が小四のときに事故で他界しました。中三の頃に親になってくれた母は、闘病により入院中でしたので、父はこの頃一人暮らしでした。
と言っても兄は実家の直ぐ近所に住んでいたのですが。姉も同じ市内に住んでいて、姉と義理の姉で一緒に実家で夕飯を作って、皆で食事をしてくれていました。
旦那は男三人兄弟で、結婚前に「ウチは誰が家を継いでも良いんだ」なんて言っていたので、ひょっとしたら私の実家に入るのは私達かも? と思っていましたが、旦那の実家に入るということは、それが無くなるということでした。
こうして、お舅さんとの同居生活が始まりました。
義理の弟の結婚式が終わった頃、そろそろ二人目を考えなきゃね、という話になりました。
三学年差はいろんなことが重なって大変だ、という話をよく聞いていたので、二学年差が良いね、と話し合って決めました。なかなか妊娠しないと思っていましたが、なんとか妊娠出来ました。
それから何ヵ月かして秋になり、姉が三人目の子を産みました。その週に長男を連れて二人で電車に乗って実家へ行きました。
兄の奥さんである義理の姉が、子供たちを連れてやってきました。兄のところは男の子二人です。長男は喜んで、従兄弟のお兄ちゃんたちに付いて回っていました。
その日は父と兄一家と私と長男の、合計七人で一緒に晩御飯を食べました。
姉はもう退院をしていたのですが、旦那さんのお母さんが何週間か前から田舎から出てきてくれて、姉と赤ちゃんや子供たちの世話をしてくれていました。姉と仲が良いのです。
父は、日曜に姉の所へ連れてってくれると言ってくれました。
少し話は戻りますが、義姉と私で晩御飯を作りました。
父は偏食で、マグロの赤身のお刺身が大好きでした。(これは私に受け継がれていて、私もトロより赤身が好きです)野菜も肉も、魚もあまり食べず、お酒と刺身と味噌汁と少しの漬物、それから白飯さえあれば良い人でした。
でもその日は義理姉が奮発してくれて、炊き込みご飯と蟹のお味噌汁と揚げ物とサラダや、父の好きなお刺身を用意してくれました。珍しく父はいろんな物に箸をつけていました。
皆でわいわいと話し、楽しい食事でした。
その夜のことです。父と母の部屋は一階で、私と長男は二階に寝ていました。トイレは一階にしかありませんでした。
真夜中にふと目が覚めました。トイレに行こうと思ったのですが、そのときに丁度、父の足音が聞こえてきました。父もトイレかな? そう思って暫く布団で待つことにしました。このとき父の歩き方が変でした。足を引きずるような音だったのです。
父がトイレのドアを開ける音が聞こえたのですが、ガタンという音がし、そのまま何の音も聞こえなくなりました。少し様子を伺ってから階段を下りました。
トイレの前の狭い廊下に、窮屈そうに体をねじって寝そべっている父がいました。
「お父さん! どうしたの!?」
「……トイレに、行きたいんだ……」
「大丈夫? 立てる?」
「大丈夫、……だから、……おまえは布団に……行ってて、いいから」
このとき妊娠四ヶ月。それに長男を二階に置いたままでしたので、私達を案じてくれたようでした。
「でもそれじゃあ、体が窮屈でしょ?」
「あ、あ。……頭が、痛い」
父は高血圧で頭痛持ちでした。
その後もトイレに行きたいと言うのですが、あまり背が高くなく締まった体つきの父でしたが、完全に力が抜けてしまっている成人男性の体はとても重く、私もお腹に圧力を与えるわけにもいかないので、全く動かせず途方に暮れてしまいました。
この少し前にテレビで見た、脳梗塞の人は動かさない方が良いという情報も頭をよぎりました。
とにかく、このままじゃ駄目だと思いました。
「お父さん、私じゃしょうがないから、救急車を呼ぶね」
「ああ。……寒いなあ」
寒いと言う父の為に座布団を持ってきて、父の体の下にねじ込み、膝など窮屈な向きになっていた体の部位を伸ばし毛布をかけました。
それから救急に電話をしました。
ところが、私が結婚してから実家が引っ越しをしたので、住所は言えるのですけど立地場所と言うのかな、それを説明出来ないのです。例えば、国道の○○町の××コンビニを曲がって、三区画めを右に……とか、そういうことが言えないのでした。じれったくて仕方がありませんでした。
それでも何とか救急隊員の方に居場所が伝わって、来て頂けることになりました。
父を励まし長男を起こし、万が一の為にお財布を握りしめました。
病院に着くと直ぐ、検査等がありました。父がCTスキャンの検査を受けている間に、公衆電話から姉に電話しました。赤ちゃんの世話でひょっとしたら起きているかも、と思ったのです。姉は直ぐに電話に出てくれました。(当時はまだ、専業主婦には携帯電話は普及していませんでした)
私は姉に状況を説明しました。姉は兄に電話をして、兄がとりあえず長男を兄の家に連れていってくれることになりました。
救急車に乗っていると分かり辛いのですが(多少パニックだったのもあるのでしょうけど)、ここは兄の家からとても近かったのでした。それで兄は長男を連れていってから、病院にとんぼ返りをしてくれました。
それから二人で、先生の話を聞きました。
くも膜下出血でした。
えっと、ちょー簡単に説明しますね。きちんとしたことが知りたい方は、検索して下さい。
頭蓋骨の中に脳がありますよね。脳と頭蓋骨の間にあるのが、くも膜です。……合ってるかな?
うちの父の場合、眉間の奥の方に動脈瘤というコブが出来て、そこから脳内出血を起こしたそうです。
場所が場所なので、手術が困難になるとのことでした。それ以上破裂しないようにクリップという手術をすることになりました。
起きていると脳に負担がかかるということで、薬で眠らせてあるとのことでした。
「お父さんは痛みに強い方ですね。二回破裂してますよ。普通は一度めの破裂で猛烈な頭痛を感じ、病院へ来るんですけどね……」
病院嫌いな父らしい、と思いました。盲腸になったときも我慢しすぎて、腹膜炎を起こしそうになったくらいですから。(普通、盲腸は小指の先くらいらしいのですが、父のは腫れ上がりかなりの大きさだったようです)
「くも膜下出血になった方は三パターンに分かれます。一つは、そのまま亡くなり、もう一つは、そのまま植物状態になり、最後の一つは、回復しますが後遺症が残ります」
頭がぼうっとしながら、先生の話を聞きました。
手術は九時間くらいかかったのかな。手術自体は成功しましたが、父はそのまま植物状態になりました。
父の父も脳梗塞で亡くなっており、ずっと「お父ちゃんは(父は自分のことをこう言ってました)、ポックリ逝きたいな」と言っていたので、半分夢が叶ったのかもしれません。
父が倒れた約11ヶ月後、母が逝きました。脳血栓でした。二人目の母でしたが大切な母でした。
二人目の母と父は二人とも再婚でした。二人目の母は最初の結婚のときの妊娠で、つわりが酷く、妊娠中毒症だったようです。それで結局子供に恵まれず、離縁したらしいのです。
姑さんと大姑さんのいる家庭だったようです。出産に関する考え方は二種類あるようで、「一人の体では無いのだから大切にしなさい」という考えと、「病気じゃないのだから動きなさい」という考えがあるようです。母の嫁ぎ先は後者のようでした。商売をやってる家に嫁いだこともあるのでしょうけど。
詳しくは教えてくれなかったのですが、妊娠中毒症をきっかけに糖尿病になり、ずっと闘病をしていたみたいでした。
糖尿病から腎臓を悪くし、胃潰瘍を患っての入院中に、結核になってることが見つかりました。
それで結核病棟のある病院へ転院したのですが、結核の薬と糖尿病の薬の副作用から目が見えなくなってしまいました。
だから結核が直っても、また別の病院へ入院していたのです。これには二日に一度の人工透析をしていたことも理由の一つでした。
ずっと闘病の人生だった人です。亡くなったとき、母はもう辛い思いをしなくて良いんだなと思いました。
そしてその約一年後、意識の回復しないまま父は旅立っていきました。倒れたときにお腹の中にいた次男は、一歳五ヶ月になっていました。このときも、やっと父は自由になれたんだな、と思いました。
そして同時に、この先の人生で何が起きようとも、もう帰る場所は無くなったのだと思ったのでした。寂しくも、妙な覚悟が出来た瞬間でした。
では今度こそ、次男編へどーぞ!!