Egal was kommt, ich werde dich nie verlassen
例えなにがあっても、貴女を手放しはしない。
それは静寂が酷く耳につくような静かな夜のことだった。
夜更けから降り始めた雨はいつの間にか雪に変わり生きとし生けるものの区別なく白く世界を染め上げていく。
毛布からはみ出していた肩から少しずつ染み渡る寒さで私は浅い眠りから目を覚ました。
喉の乾きから窓辺に置いていた水差しを取りに起き上がった私はふと目にした窓の向こうの光景に慌てて部屋から抜け出した
(どうしてこんな日にあんな場所にあの子がいるの!?)
息咳切りながら半ば体当たりするように玄関の扉を開け裸足のまま吹きすさぶ雪の中へと飛び出し声を張り上げた。
「グラナート!!」
飛び出した先には漸くその年頃の子供らしい肉付きになったばかりのグラナートが寒さで悴み赤くなる手足を気にすることなく空を睨みつけていた。
名を呼ばなければ今にも消えてしまいそうな幼い子供に、雪を掻き分け近づき腕を必死の思いで掴む。
どれだけ外に居たのか、良く出来た氷細工とすげ替えたような腕に目を見開いた。
「ここから南西に下った場所に寂れた教会があるんだ。」
やんわりと私の手を払い、そこにはない筈の教会へと足を踏み出してグラナートは両手を広げた。
「――――人にも劣る、醜い化け物の棲みかがそこに。」
私はこの世の地獄からやって来たんだよ、ベルンシュタイン
「この世の、地獄?」
「お優しい貴女では想像することさえも出来やしない場所から私は這い出て来たんだ。」
グラナートは背中を震わせて、そして嘲笑ったのだと思う。
「貴方は、」
大人達に耳を塞がれ彼について何も知らぬままでいる私を。
「貴方は何をそこまで憎んでいるの、グラナート。」
幼い子供の口から地獄だと言わしめるものがこの世にはあるのだと知らずにいる全ての見知らぬ誰かを。
「――――···この世の全てを。」
そして何よりもそんな地獄と呼んだ場所から来たと言う自分自身を彼は嘲笑ったのだと思う。
(ああ、なんて仄暗い瞳だろうか。)
微かに向けられた横顔から覗く朱色の瞳に見える強い憎悪の光に目を伏せながら確かに此処に至るまで彼の身に何があったのかを私は知らないと唇を噛み締めた。
彼の事情を知る大人達は皆口をつぐみ、彼が辿ったであろう足跡を塵ひとつ残さずに跡形もなく消して去ってしまい私が知ることが出来たのは此処に至ってから共に過ごした痩せっぽっちの男の子のことだけだった。
けれどもきっとあの日に見せた昏い焔を瞳に宿して此処ではないどこかの、けれども確かに彼が辿ってきた地獄を今まさにその目に写していると言うことだけは彼が何も知らないと断じた幼い私でも分かることだった。
だから意を決して離れてしまった距離を埋めるようにグラナートへと手を伸ばす。
「何があったのかを、グラナートは私に聞いて欲しい?」
「ベルには、」
触れた肩が跳ねるのに気づかない振りをして、私は何かに怯える彼を引き寄せて後ろから首に腕を回した。
――――今度は振りほどかれなかったことに安堵しながら。
「ベルだけは、貴女だけは知らないままでいて欲しい。」
痛いほど冷えきったグラナートの身体はいとも容易く私から熱という熱を奪っていく。
「···良いよ、知らないままでいてあげる。」
私はちっぽけな存在だとみるみる内に凍える自分の身体へと苦笑を溢す。
彼が抱える孤独に比べたら私の存在はあんまりにもちっぽけでこうして彼を抱き止めてこの身の熱を分けることしか出来やしない。
「それでグラナートが笑えるのならば。」
でも言い換えれば私のこんなちっぽけな身体でも一人で孤独を背負う目の前の子供を温めることは出来ると言うことだと笑う
「だからね、グラナート。」
――――もう笑いながら泣いたりなんかしないで。
回した腕に染みる熱い滴に、私は一層抱き締める腕へと力を込めグラナートと彼の名を何度でも呼ぶ。
その名が本当の彼の名を覆い尽くすまで何時までも。
「悲しい時は笑わなくて良い、泣きたい時はただ泣けば良い、それだけで本当は構わないのよ。」
息を飲むようにグラナートの身体は傾ぎ悲しみに喘ぐように声を絞り出す。
「ッアレを貴女が知ればきっと貴女は離れていくだろう!!」
例え貴女が離れていかずとも周りはそれをよしとしない。
「だから、だからッ私は貴女にだけは《僕》と言う人間が何者であるかを知られるわけにはいかないんだ!!」
―――― 見てくれ僕の手はどうしようもなく赤く赤く汚れているッ!!
「ッそれなのに差し伸べられた貴女の手を拒むことが僕には出来ない、貴女を思えば私はその手を振りほどかなければいけないと分かっているのに、けれどまたそうして一人になるのが何よりもひどく恐ろしいんだ!!」
彼の痛ましいまでの悲痛な慟哭が胸を突く。
彼を孤独に突き落としたもの全てが憎くて、一人は恐いと震える彼が酷く悲しくて。
そしてなによりめ自分は汚れているのだと彼に言わせた全てが許せなかった。
けれどこんな時に上手い言葉ひとつ出てこない自分に唇を噛み締める。
だから、せめて今この時を境に彼が一人で泣かずに済むようにと力の限り抱き締める。
差し伸べる手に彼が怯えると言うのなら、私は何度でも自分から彼の手を掴もう。
何時か彼が自ら差し伸べた手を掴めるその時が来るまで、どんなに手を振り払われてもこの手を掴み続けよう。
「一人なんかじゃない、一人になんかさせない、グラナートには私が居るじゃない!!」
お父様もお母様もみんな貴方の側に居る。
グラナートがどんなに嫌がったとしても今更側から離れてなんかあげないから。
「――――だから、私が離れていくだなんて、そんなまだ決まってすらいない未来に怯えたりなんかしないで!!」
小さく、ともすれば聞き逃してしまいそうな声が耳を打つ。
「貴女は私に甘い、今もこうして私が欲しい言葉をくれる。」
だがいま拒絶しなければ私はきっと貴女がどんなに後悔して泣き叫んでも手放してはやれなくなる。
腕の中に居た筈の彼はいつの間にか私に向き直っていた。
彼は隙間なく私の身体を抱き締めると額を合わせると目を覗き込み、その眼差しで、全身で逃がさないと物語る。
「いや···もう手遅れだ、私は貴女を手放せはしない。」
例え何があろうともこの身、この命が尽き、それこそ真の地獄に堕ちたとしても。
――――貴女は私のもの、私だけのものだ。
「誰にも渡しはしない、それが例え貴女自身だとしても。」
覗き込む熱に浮かされた朱色の瞳の奥に、確かな飢餓と執着の色を見て取り微かに身体を身ぎろがせる。
「嫌か、ベル?」
そう問いながらきっと私の答えがどうあっても、彼は私を手放しはしないだろうと悟り腹をくくる。
「良いわどこまでも付き合ってあげる、例え行き着く先が地獄でもグラナートとならきっと私は構わないから。」
「約束をしよう、永久に破られることのない誓いを。」
「ええ、二人だけの約束よ。」
降り頻る雪の中で二人交わした幼い約束は、今でも確かに私のこの胸の中で生きている。
―――···ジリリリと夢と現実のあわいを引き裂くように甲高い音が意識を緩やかに覚醒へと促した。
(随分と懐かしい夢を見た、気がする。)
魔石を主電源とする銀色の時計を掴み音を止めるとサイドテーブルに起き直してひとつ伸びをし、身支度をするべく若干の名残惜しさを感じながらも私はベッドから抜け出した。
さて入学式にいきなり刺され文字通り鮮血デビューを果たした私は少しばかりこの学園では浮いた存在となっている。
貴族の子女が刃物で刺されると言うセンセーショナルな出来事はどうにも人の目を集めやすいらしいと溜め息を吐き出した。
(まあ、原因はあの事件だけじゃないのだけれども。)
黒を基調とした制服に身を包み備え付けの鏡台で身だしなみを確認すれば鏡に写る癖のある黒髪をハーフアップにした琥珀色の目をした少女が憂鬱な顔で此方を見詰めていた。
くよくよしても仕方ないと気を取り直し所属する学科の教科書を片手に部屋を出れば壁に寄り掛かるように腕を組んで一人佇む麗人がそこには待ち受けて居た。
「おはよう、ベル。貴女の琥珀の瞳にはやはり黒が映えるな」
「お世辞でもそういって貰えると嬉しいわ、グラナート。」
艶やかな黒髪に翳りを覗かせる朱色の切れ長の瞳を細めて退廃的な微笑を口元に浮かべ低く良く通る声で私を呼ぶと此方へと彼は手を差し伸べた。
「毎回思うんだけど女子寮って寮番の騎士が居るのにグラナートはどうして普通に女子寮に入ってこれるのかな?」
「ああ、なに至って簡単なことだ。」
真っ正面から通せと、ただそう命令しただけだ。
「例え相手が王族でもややっこしい手続きをしないと入れないと言われている男子禁制のこの女子寮にそれだけで入れる分けないでしょうがッ!?」
グラナートことユーヴェレン・フォン・シュバルツの魔王と揶揄される彼がこの寮に私が越してから教室まで送り迎えしていることがもう一つの学園で私が浮いている理由である。
「ははッ、ベルは私を誰だと思っているんだ?」
寮の入口に立つ騎士にさも当然のように敬礼されながらグラナートは凄みさえ滲ませつつ艶然と微笑んだ。
「はい魔王様でしたね、どうしてこんなになるまで放っておいたんだ私はッ!?」
二年前にこのブルーメ学園へと入学し家を出ていった彼は久しく見ないうちにしっかりと《魔王さま》に進化してしまっていたらしいと項垂れた。
「そんなことより今の時間なら丁度食堂が空いている、授業前に腹ごしらえといこうか。」
「ねえグラナートは頼むから気づいて、全然そんなことの一言で片付けらる要素が見あたらないことに!?」
「ベル知っているか、大概のルールは破られることを前提にして作られていることを。」
あまりにも堂々としたその物言いについ頷きかけたのはご愛嬌
「ベルはまだ此処の食堂を利用してはいなかっただろう。」
丁度良い機会だと至極当たり前のように私の手を引いたグラナートに今朝の夢をうっかり思い出し片手で顔を覆った。
「顔を覆って、どうかしたか?」
「····いや、ちょっと今さらながらに過ぎ去った年月の尊さを実感しただけよ。」
――――それでも繋がれた手は酷く温かかった。
話は変わるが皆さま恋愛シュミュレーションに付き物なものは何かと聞かれたらまずは何を思い浮かべますか?
昔それは各キャラクターごとのイベントスチルだろうと私に拳を握り締め力説した友人が居りました。
発売元が大手であればあるほどゲームには豊富な絵師が導入され各キャラクターは微細に描かれる。
そんな中で絵師がより力を入れるのが所謂イベントと呼ばれる特殊な条件を満たした時に発生する現象でこの時とばかりに絵師はその腕を奮いキャラクターとヒロインの二人を華々しく描くのだと言う。
そのご多分に漏れず『花の誓い、石の囁き』と言うゲームも、数々の前例に則り各イベントごとのスチルはため息が溢れるほどの出来だった。
ただ『花の誓い、石の囁き』が他の恋愛シュミュレーションと異なっていたのがこんなことにまでスチルをわざわざ用意したのかとプレイする者を驚かせるほど特殊スチルが豊富に用意されていたことだろう。
そう例えそれが所謂ラッキースケベでも決して例外なく余すことなく描かれていたのだと目の前に飛び込んで来た光景に私は思わず眉間を押さえた。
視界を塞ぐほど沢山の本を抱えて渡り廊下を走る少女が居る
彼女はマルモァ・ツー・ヴァイス男爵家の令嬢シュトゥルムフート。
ふわふわとした薄紫の髪に濃い青の瞳を輝かせて桃色の唇から忙しなくどこか艶っぽい吐息を溢しシュトゥルムフートは腕の本をみやる。
「ふわぁ、流石にいきなり十冊は借りすぎたかしら。」
ぐらぐらと本の重みで身体を傾がせながら危うげな様子でもって走るシュトゥルムフートの姿に手を貸そうかと彼女を見知っていた男子生徒が声をかけるが私の自己責任だからと彼女は断りを入れる。
しかしやがて周りが抱いた危惧通りにシュトゥルムフートは勢い良く向かいからやって来た青年にぶつかってしまう。
「ご、ごめんなさいッ私本で前が見えなくってッ!!」
慌てて出会い頭にぶつかった青年に謝ろうとして彼女は自分が青年の上に尻餅をついていることに気づき狼狽える。
「サフィーア王子になんたる非礼!!」
「構わないよアゲート、取り立てて咎めることではない。」
側仕えの騎士が少女の腕を掴み立たせるよりも早くサフィーア王子と呼ばれた王族特有の黒髪にアイスブルーの瞳をした青年は慌てる彼女の腕を掴むや優しく目を細め微笑みかける
「お怪我はないかな、フロイライン?」
吐息すら感じられるほど近づき、耳元に囁く王子から目を反らして彼女は気恥ずかしげに俯くと震える手で口を覆った。
「とんだ、茶番だな。」
「聞こえたら面倒よ、グラナート。」
そんな噛み締めたらさぞや甘いであろう二人の空気にグラナートと私の目が仲良く死んだのが分かる。
二人はここが衆目監視のある渡り廊下だと言うことに、果たして気づいているのか、いないのか。
ひそひそと囁きあう生徒達に隠れながらきっとこのことは風よりも早く学園中に広がるだろうと痛む頭を押さえた。
(よもや恋愛イベントを現実にこなすとは恐るべしヒロイン!)
そうこれは『花の誓い、石の囁き』において王太子ルートで起こる序盤のイベントのひとつ。
ヒロインたるシュトゥルムフート嬢と王太子の最初の出会い。
(ゲームの時はなんてこともない良くある出会いのひとつだと思っていたがいざ現実として見たとき見えてくるものがある)
本来王族に対して前方不注意でぶつかったならば恥じらうよりも先に自らの非礼に狼狽して青ざめ謝罪なりなんなりをするものだが。
しかしそれがどうだろうか、熱に浮かれたように瞳を濡らして王子をちらちらと窺うだけの少女に私は眉を潜めた。
(もしや彼女は知っているのか、王子が自分を処罰しないことを――――····?)
そうこれが王太子ルート序盤のイベントだと知っているから、彼女は安心して王子に身を任せているのではないか。
(いや、それは些か私の考え過ぎだろうか。)
だがもしも彼女がゲームの知識を要しており王太子ルートを狙っているとしたら。
(だとしたらやはり彼女は危険だと言わねばならないだろう。)
恋愛シュミュレーション『花の誓い、石の囁き』はかつて神魔大戦と呼ばれた戦いがあった百年後の世界で大戦の幕引きを担った勇者の血筋が治める始まりの国、ゼーゲン・クロイツ王国にある王立ブルーメ学園にヒロインことシュトゥルムフート・マルモァ・ツー・ヴァイス男爵令嬢が入学するところからゲームは始まる。
学園を舞台にヒロインは七人の攻略キャラクターと、時に剣が閃き時に魔法が煌めく世界で何時しか国の命運を賭けた恋愛を繰り広げていく。
その中でゼーゲン・クロイツ王国の王太子サフィーア・ユーヴェレン・フォン・クローネ王子のルートはその出生からサフィーア王子と腹違いの兄弟だったグラナート・ユーヴェレン・フォン・シュバルツが対立することになる。
(対立のその果てに待ち受けているのはグラナートの死。)
そうと知っているからこそ目の前で繰り広げられるやり取りを私は心穏やかに見ることはどうしても出来なかった。
「まさかとは思うが、ベルはあんなのが好みなのか?」
そんな時、不意に頭上から多分に不機嫌さを滲ませた声が降ってきた。
振り仰ぐとそこには底光りする朱色の瞳を細め眉を跳ねらせるグラナートの姿があった。
私が言葉の意図を把握しかねていると先程からアレをやけに見ていると未だに何事かを話し込んで桃色オーラを発散するシュトゥルムフート嬢と、
「貴女もあの王子が好きなのかと私は聞いている。」
視線だけで射殺せそうなほどサフィーア王子を睨みつけているグラナートを見てなんだか意外だと小さく噴き出した。
「ベル、笑い事ではない!!」
「だって、グラナートが変に気を回しているんだもの。」
何か勘違いしているみたいだけど安心してと目尻にたまった涙を拭いながら笑う。
「シュチェーション的には面白いとは思うけどそれだけよ、まず当事者にだけはなりたくないわね。」
分不相応な夢を見るほど向こう見ずじゃないわと苦笑を溢す私にグラナートは微かに口元を引き結ぶ。
「·······分不相応でなければ、相手として相応であれば貴女はアレを、サフィーアを選んだか?」
その言葉にもしもあの日出会ったのがグラナートではなくサフィーア王子だったなら。
私はグラナートに向けるような想いを果たして王子相手に抱いただろうかと思案して、やがて緩く首を振って答えた。
「―――···例え共に地獄に堕ちたしても惜しくはない。」
「ベル?」
「そう私が思えるのは貴方だけよ。」
それが答えじゃダメかしらと見上げれば安堵したように笑みをを浮かべてグラナートは私の手を引いた。
「そんな貴女だからこそ私はきっと、」
言葉を切りグラナートは切り替えるようにいつの間にか止まっていた足を動かし喧騒から抜け出した。
「グラナート?」
「あの日に出会ったのが他でもない貴女だったから、私は私になることが出来たんだ。」
――――グラナート・ユーヴェレン・フォン・シュバルツと言う人間に。
振り返り晴れやかな笑みを浮かべ彼は繋いだ手を引き寄せて私を強く抱き締める。
「ありがとう、私のベルンシュタイン。」
その言葉に思わず私が顔をあげようとすれば後頭部に素早く手が回され胸元へと顔を押し付けてくる。
ぎゅむっと厚い胸板に潰されながらけれども僅かに垣間見えた彼の顔が確かに赤みを帯びていたから私は苦笑を溢した。
「礼を言われることを私は何もしてないわ。」
今のグラナートを構成しているものは全て彼自身が努力して積み上げたてきたものだ。
「だとしても、そのきっかけをくれたのは貴女だ。」
――――それに貴女が貴女のままでいることで、それだけで私は救われたんだ。
(だから、ありがとうか。)
私が彼に出来たこと、出来ることが一体どれくらいあるのか私にはわからない。
けれど彼は私の起こしたどんな些細な小さなことでも胸の中で何倍にもして、こうして大事に抱えていてくれる。
それが嬉しくて胸に込み上げた面映ゆい気持ちを隠すように彼の腰に腕を回した。
「でもねグラナート、心配しなくても王子は私なんか相手にしないと思うわよ。」
だから私が気にするとしたら貴方が私を手放さないかってことだけだ。
「私が貴女を手放すなど、それこそあり得ないことだな。」
まだ私と言う人間を貴女は理解していないようだとグラナートは彼女へと艶美な弧を口元に描いて笑みを浮かべた。
(追々それについてはその身でもって彼女には理解して貰うとして―――···)
先程から此方を窺う二対の視線に彼は喉元で笑いながり鋭く研いだ殺気を飛ばす。
(気づいていたとも、貴様が見ていることぐらいはな。)
人の垣根越しに青い瞳へと向けていっそ優しげな微笑みを口元に湛えて音もなく彼は言葉を紡いだ。
「流石《ユーヴェレン・フォン・シュバルツの魔王》と呼ばれるだけはあるな。」
(まさかあれだけの人混みの中から俺が見ていることに気づくとは、)
やはりグラナート・ユーヴェレン・フォン・シュバルツと言う男は侮れないと口角を吊り上げた。
「なにをにやついているんですか、このドスケベ王子。」
俺見てましたからね腹に乗っかられてるのを良いことにシュトゥルムフート嬢の尻を撫でていたのを。
「バレていたか、だがわざわざ彼方さんの狙い通りに動いてやったんだ、これぐらいの手間賃は許されるだろう?」
人気がないことを良いことに彼本来のざっくばらんな物言いで呆れたように喋るアゲートにサフィーアは咎めることなく肩を竦めて見せる。
「狙い通り、ですか?」
「目的までは知らんが俺と縁を結びたいらしい。」
そう言って懐から図書室の蔵書を借り受ける際に記入する借用証を見せた。
そこにはシュトゥルムフートの名と学年や学科についてが細かく記載されている。
「ぶつかった時に偶然俺の衣服の中にカードが入ってしまったようだ。」
「まあ、あれだけ盛大に本をぶちまけましたからね。」
「本当に偶然だと思うか、アゲート?」
まさかなんの下心もなしにそれはあり得んよと鼻で笑いカードを弾く。
「カードがシュトゥルムフート嬢による故意で忍ばされたものだとして、どうするおつもりですかサフィーア王子。」
「近づいてきた目的が分かるまでは泳ぐに任せよう。」
そもそもマルモァ・ツー・ヴァイス男爵に娘がいたなど今日初めて知ったことだ。
「なにかしらこの接触には意味があるとみて間違いない。」
それに、見た目だけは好みの内だしな。
「見た目って···貴方からしたら世の中の大概の女性が好みになるでしょうが。」
言外に女好きとアゲートに言われたサフィーアはけれども笑みを崩すことはない。
「俺にも好みの女と好みではない女ぐらいはいるさ。」
「貴方にしては意外ですね、参考にするので是非とも教えてください。」
参考にしてどうするつもりかと笑いながらお前も良く知っている人間だと彼は手を振る。
「ゼーゲン・クロイツ王国の王妃、つまりは俺の母親だ。」
「美妃と名高いお方ではありませんか。」
「幾ら外面が美しかろうと内面がそこにともわなければ意味がない。」
――――アレは腹の底まで真っ黒な手合いだからな。
「はっはあ、貴方の口からそんな真人間みたいな言葉が出てくるとは思いもしませんでした。」
愉快げに笑うアゲートに俺をなんだと思っていたんだとサフィーアは苦笑を溢す。
「では好みの女性はどのような方で?」
「選べるのならば、そうだな育てがいのある女が良い。」
そう言って脳裏に浮かんだのはグラナート・ユーヴェレン・フォン・シュバルツの隣に居た少女から女性へと変わる前の幼さと艶やかさの合間に立った一人の琥珀の瞳をした娘だった。
「兄嫁と言うのもなかなか良いかもしれんな。」
そう考えを口にするや、四方から喉元へと鋭利な刃物を突き付けられたかのような濃密な殺気が彼等を襲う。
「ッ貴方のせいで、俺までとばっちりを受けたじゃないですか!!」
一呼吸の内に消える殺気にアゲートは額に伝う汗を拭い非難の目を主に向ける。
「すまん、よもやこれほどまでとは思わなかったんだ。」
(どうやら彼女はユーヴェレン・フォン・シュバルツの魔王にとって王族に弓引いても惜しくない存在らしい。)
あの人混みから垣間見た昏い焔を宿す朱色の瞳と音もなく紡がれた言葉を思い出し、震える拳を握ることで誤魔化しながら彼は笑う。
《―――···貴様にだけはベルを渡しはしない、憎々しくも血を分けし我が愚弟よ。》
(一体此方側についてどこまで見抜かれているのか、いやはや計り知れないな。)
まるで耳元で囁かれたような錯覚に陥りながらサフィーアはそう小さく嘆息するのだった。