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第九章

 中空に木々が舞い上がり、落ちてくる中を駆け抜けたジョージ・サリンジャーの眼に、赤い影が飛び込む。

 衝撃が走った。

 森から現れた影は竜であった。

 六ヤード近い巨体。鍛え上げられた鎖鎧チェインメイルの様な、全身を覆う赤い鱗。鋭い五本の爪を生やした強靭な四肢。巨木と見誤ってしそうな程太く長い尻尾。蝙蝠に似た、全長の三倍はあるだろう一対の翼。そしてあの顔、蜥蜴と狗と馬を掛け合わせた様な顔立ちに宿った明確な意思。

 誰が忘れられようか。誰が間違えられようか。

 それは突如ジョージから全てを奪った理不尽の権化、あの真紅の竜に他ならなかった。

 彼の淀んだ黄金の瞳の中に、憎悪の炎が燃え上がる。

 だが、衝撃が走ったのは何も憎むべき相手の姿を見たからだけでは無い。

 森から飛び出した竜が、彼と彼が乗る馬目掛けて疾駆して来たからだ。巨大な岩程もある体を震わせ、嵐の中に揺れる旗の様に尾を振り乱し、自分は猟犬或いは軍馬であると叫ばんばかり脚を動かしながら、真っ直ぐに掛けて来る。竜とはその雄大な翼を持って悠然と空を飛ぶもの、或いは突き出た腹を地面に擦らせながら傲慢さも露に這い行くもの。伝説伝承、そんな虚構から作り上げられたイメージは一瞬で形骸化した。

 だが何時までも驚いた、で済ます訳には行かない。何を想い、感じたかは知らないし、興味も無いが、竜は怒り心頭と言った様子で咆哮を上げた。呼気とは名ばかりの暴風がジョージの顔にぶち当たる。両者ともに全力なのだ、その間等瞬く暇も無く埋まってしまう。

 そしてこれは特訓では無い。試合でも決闘でも無い。生きるか死ぬか、純粋に生存を賭けた闘争である。復讐と言う理由はあるが、一度それが始まれば関係も無く、また元より開始の合図等存在しなかった。

 開幕の鐘も無く、騎士と竜の闘いが始まった。

 竜はもう一度長く尾を引いた咆哮を上げると、ぐわりと顎を開いたまま馬に喰らいかかった。哀しげな嘶きが響き渡り、気付いた時にはもう遅い。閉じられた口の、牙と牙の間からぶしゅりと血が迸った僅かにはみ出ていた頭部がぼとりと地面に堕ち、慣性の法則に従ってごろごろと転がって行く。つい先程まで平原を駆け抜けて来た者は、一瞬で汚らしい食べ残しと化した。苦痛か生理現象か、漸く動きを止めて横たわった馬の首に、一筋の涙が滴った。黒い瞳は空に燦然と輝く太陽を見据えながら、急速に光を失い闇を満たして行く。

 最後の光が消え行こうとするその瞬間、その瞳に太陽と空以外の影が映り込んだ。竜の視界から太陽が遮られ、彼は狩ったばかりの獲物の味を堪能する暇も無く、億劫そうに頭上へと首を向ける。

 遥か天空、元来鳥とそして竜たる己の場所であるそこに、ジョージが居た。竜の牙が眼前に迫った時、彼は常人では計り知れぬ跳躍力を持って天高く跳び上がったのでる。しかし彼の背中に翼は無いのだ。一度跳べば、着地するまで身動きは取れない。その彼に向け、竜が血の糸を引きながら口を開く。全てを燃やし尽くす、息吹ブレスを吐き出さんが為に。ジョージはだが、その事を解っていたのだろう。彼が堕ちようとするその位置は、竜から見て丁度太陽の背後に位置していた。眩い後光によって逆に眼を焼かれ、息吹を吐く事の出来ぬ竜の背中に、重力に引かれるがままにジョージが跳び乗った。いや踏み乗った、或いは蹴り乗ったと言うべきだろうか。高所から低所に至る時に生まれた力は、170ポンドと言う彼の全体重を支える踵に込められ、そして竜へと叩き付けられる。

 苦しげな叫びが上がる中で、ジョージは背負った獲物を抜いた。布をがしりと掴むと、ベルトを引き千切りながらそれを拭い去る。ばさりと赤い野原に白い花が咲き、隠されていた棘が姿を現す。

 白日の元に晒されたその武具のシルエットだけを見て名を付けるならば、馬上槍ランスと呼ぶべきだろう。だが、通常の馬上槍と比べてその全長は聊か短過ぎる。二分の一程の長さしか無く、またより太い。だがそんな違いは、槍全体を構築する機構と比べれば小さな差異であると言わざるを得まい。

 金属製の柄には梃子が付けられていると先に書いたが、その梃子は鍔の部分に内蔵された動力部と繋がっていた。その機関には接続口があり、そこには缶詰よりもずっと大きい金属缶が取り付けられている。この中に込められているのは、圧縮された蒸気だ。外部からの熱源を無くし、代わりとして最初から使い捨てる目的で溜め込まれた蒸気の缶、『圧蒸缶』を使うこの機関は『圧蒸機関』と呼ばれている。『超蒸機関への革新家』ハンス・エーヴァルトの手で造られ、『超蒸機関』とはまた別の発明品として、主に手で持てるサイズの機械の動力に使われている代物だ。梃子を引く事で缶の中に込められた蒸気を解放し、機関を動かす。そこから更に動かすのは、九層の螺旋構造をした鋼鉄製の穂先であろう。先へ先へ、次の層へ次の層へと伸びたそれが如何なる動きをするのか。それは直ぐに判明した。

 まだ体勢を立て直せぬ竜の上で器用に立ちながら、ジョージは両手で柄を握るとその背骨に向けて穂先を突きつける。力と体重によって槍が押し込まれ、ぶしゅりと刺さって再度苦悶の声が上がった。しかし、分厚い筋肉と荒い鱗が鎧となり、それ以上奥まで行かない。それでも突きながら、彼はぎちりと梃子を握った。

 がきりと鉄と鉄が噛み合う音がし、封印されていた蒸気が機関の中へと解き放たれる。猛烈な噴出が動力となり、複雑に配置された歯車達が呻き声を上げて廻り出す。その力はやがて穂先へと至り、機構を発動させた。

 九つの層が回転を始める。右廻り、次は左廻り、そしてまた右廻りと互い違いになって回転する。竜の息吹さながらに鍔から蒸気を吐き出して、猛然と回転する穂先はまるで竜巻だ。

 竜が耳を劈く様な雄叫びを上げた。鱗が剥ぎ取られ、肉が抉り取られ、無数の鱗と夥しい鮮血が白煙と共に噴出。ジョージの顔に小さな傷と汚れを付けて行くが、彼はその拳を離さなかった。そのまま更に体重を掛け、機巧時代の神器を突き込む。激痛に竜の体が仰け反り、足場が不安定になる。持ち上げた前脚を大地に叩き付けた衝撃に、ジョージは槍と共に空中へと投げ出された。梃子を離しながら地面の上を転がり、その力のまま起き上がって身構える。

 そのジョージに向けて、竜が激しい呼気を吐き出し、威嚇した。真紅の胴体かぼたぼたと濃厚な血が垂れ流れているが、先程受けた傷自体は既に塞がれつつある。

 筋肉の繊維が音を立てて紡がれるのを捉えながら、ジョージは自分が敵対している者の存在を改めて思い知った。ちょっとやそっとの傷では倒せない。多くの不死身に近い保因者達ですらそこを破壊されれば死滅してしまう生物の要、脳か心臓を抉り取らねば駄目か。そう感じながら、槍を向けた。

 圧蒸式螺旋型機械槍『ゲオルギウス』。

 それがその槍の名前だ。竜殺しの聖者にして、『ジョージ』の語源となった者、その名を冠した機械仕掛けの槍。『極小要素の変身者』グレゴール・ゲルヴィーヌスの手によって作られた、対化物戦専用個人兵装。担い手ジョージですら持て余す力を誇り、十九醒紀現在において最高の破壊力を持った、最強の近接武器である。

 恐らくその威力を尤も理解しているのは、ジョージの眼前に立つ人ならぬ竜であった。

 竜は顎を開き、威嚇する様に後ろ足を立て、前足を伏せながら尾を振り立てているが、決して近付こうとはしない。その瞳には明らかな怒りと確かな憎しみが込められているが、その間に隠れて恐れも宿っていた。自身の体躯よりも遥かに小さな、少なくとも外見は人間如きの彼に、その彼が持つ螺旋の槍に恐怖しているのである。

 騎士と竜。十ヤードの距離を保ち睨み合う両者は、ここに来て対等の存在として対峙した。

 勝てると言う感慨がジョージの中に湧き上がった。ルフィナと共に居た時に感じた勝利への確信が再び巻き沸き起こる。腹の底から笑ってしまいそうになったが、ぐっと力を込めて押さえ込んだ。

 そして彼は自らは巨人であるかとでも言う様な足取りで一歩踏み込む。淀んだ黄金の瞳はギチギチと竜を見据えて離さず、ゆっくりと前へ。竜が喉の裂けんばかりに吠え立てるのにも関わらず、一歩一歩と近付いて行く。

 両者の間に緊張の糸が紡がれ、ジョージが進む毎に張り詰めてゆく。何時切れてもおかしくない状態だ。

 その糸を先に切ったのは竜の方だった。長く伸びた首を一直線に上へと向けると、川辺で水を呑むかの様に空気を吸い込み始めた、喉元がごごっと膨らみ、腹が肥大化する。ジョージはそれがどう言った行為であるのか、直ぐに察した。だが無様に逃げたりなどしない。槍を握る手に力を込める。

 ぐらっと長首が揺らめき落ち、大口を上げた醜悪な顔が前面に出た。眼を見開くと、竜は息吹を吐き出した。

 口内にて分泌される特殊な体液が大気中で化学反応を起こし発火、爆発する。個体によって性能も能力も千差万別の為一概には言えないのだが、基本的に竜が吐き出す『息吹』とはこの様なメカニズムを持って行われる。何とも攻撃的で、一生物が持つ機構としてはやり過ぎもいい所だ。尤も、その機構について解明されるのは、竜の存在がより一般的なものとなった二十醒紀も後半になって漸くであり、今この時代ではただ何か吐き出すのだとしか認識されていない。ただ仮にその事が解っていたとしても、ジョージがやる事に何ら変わりは無かったが。

 真紅の顎から放たれた火弾が真っ直ぐに迫る中、彼は槍を左から後ろへと振り被った。焼け付く様な嫌な臭いが鼻の直ぐ側に感じられた瞬間、ジョージは力任せにゲオルギウスで払う。梃子を握られ、螺旋の回転を始めた穂先は、火弾の大元、燃え盛る液体を絡め取り、そして掻き消した。左後方から右後方へ、振り払われた槍の先から四散した炎が流れ行き、やがて霧雲の如く散って行く。

 その時竜が示した表情を人間の感情に例えるならば唖然と言った所だろう。ありえない、と目の前に起こった事象を必死に否定しているのが、その顔にありありと伺える。ジョージの口元に思わず笑みが篭った。直接この体で受け止めるのは流石に無謀であり無理だろうが、ゲオルギウスを持ってすれば止められる。そう自惚れた。竜の最も恐るべき武器を無効化出来たのだ。ならば、後の話はもう簡単だ、と。

 ふふっと鼻を鳴らしながら、ジョージは右後ろに槍を構えながら、先程よりも速い足取りで歩き出した。それに気付いた竜が、呼吸も満足にせず火弾を連発する。しかし当たらない。火弾をより速く、より遠く、より正確に当てるには大量の空気をその肺腑に溜め込み、吐き出さなくてはならないからだ。安売りされた火の玉は、ぼんぼんと見当違いの所で盛大に火柱を上げるか、或いは螺旋の竜巻によって簡単に打ち消される。

 その間にもジョージの歩みはどんどん速くなり、そして遂には走りへと変わった。ゲオルギウスを前面に突き出し、全力疾走する様は中世騎士達の馬上試合、ジュースティングさながらの勢いだ。梃子を握り締める。圧蒸機関が唸りを上げて、噴出される蒸気が爆炎立ち上る平原の中を白い線を残しつつ、真っ直ぐに伸びて行く。

 騎士の渾身の突撃を、か細い息吹では最早止められない事を悟ると、竜は鎌首を下げて待ち構える。

 九つの層を持って一つの螺旋を成す竜殺しの槍と、獲物を引き裂き噛み砕いて来た無数の牙が激突する。

 ゲオルギウスを、竜はその大口で止めていた。牙と牙の間を持って高速回転する刃を寸前で押し止める。ジョージはぎりっと歯を食い縛った。後一歩踏み込めばその口内をずたずたに引き裂き、上顎を貫いて脳髄を掻き乱せる距離にあると言うのに、それが出来ない。梃子が折れんばかりに拳を握り、全身に力を込めて突くが、竜の力も相応のものだ。それ以上に厄介なのがその再生力。回転に巻き込まれ、粉微塵となって行く間にももう新しい牙が出来上がっている。例え腕を失っても数日後には再び生えてくる様な体のジョージだが、これはそれ以上だ。洒落にならない。

 槍と牙を持って行った鍔迫り合いはそして、騎士にとって最悪の結末で幕を閉じた。

 ぷしゅぅと間抜けな音を立てて、圧蒸機関が停止したのである。理由は簡単だ、圧蒸缶の中に入っていた蒸気が抜け切ったのだ。奇人的天才の恐るべき発想と技術により驚く程の蒸気を込める事に成功したとは言え、それが有限である事に変わりは無い。ぞっと全身から脂汗を流しつつ、ジョージは新しい圧蒸缶を腰から取り出し、空缶と取り替えた。この一連の作業は、ここに来る前に幾度か練習した為に手早く終了する事が出来た。しかし、既に遅かった。

 突然ジョージの足場が無くなった。ふわりと浮き上がった彼の金眼に、傷一つ無く槍の穂先を噛んでいる牙、そして不適な笑み……錯覚かもしれないがそう見えたのだ……を浮かべる竜の顔が映る。

 歯を噛み締めながら再び梃子を握るよりも一歩速く、竜はぐるんと首を回しつつ、勢い良く槍ごとジョージを吐き出した。想定外な遠心力と呼気により中空に放り出され、彼は叫び声を上げながら宙を舞う。

 天が下に地が上になり、やがて彼は頭から大地へと墜落した。凄まじい衝撃が体を貫き、それでもまだ止まらずに幾度も転げた後で、漸くジョージは止まった。全身の骨が軋み、額から熱い液が流れて行くのが感じられる。常人であれば間違い無く死んでいただろう。しかしこの体なら損傷を追っただけでまだまだ動ける。手でぶれる頭を抑えながら、自らの人ならざる身に感謝していた彼は、そこで恐るべき事実に気がついた。自分が今頭を抑えているその手は、先程まで無双の強さを誇っていたあの槍を握っていた手では無かったであろうか、と言う事に。

 慌てて辺りを見渡せば、自分が今いる所から遥かに離れた所にゲオルギウスが突き刺さっていた。中はどうなっているか解らないが、少なくとも外側に目立った変化は無い。流石は七人教授セブンマスターズとやらの力作だ、とほっと胸を撫で下ろす彼の視界が、突然暗くなった。

 安堵の吐息を漏らした胸が、どくりと高鳴る。そしてその体は、異常に気付いた瞬間既に前に向けて飛び出していた。これは最初の遭遇の焼き直し。本来居るべき、一度は奪われた場所に、再び主が舞い戻った。

 次の瞬間、ジョージの背中に熱と衝撃が飛んで来る。

 うぉっと間抜けな声を出しながら、前へ前へと転がって行く彼はその中で、天高く翼を奮わせる竜の姿を捉えた。先程まで居た場所には黒煙を上げる抉れた地面が見える。体勢の整っていない今ではとても到達出来ぬ領域から、槍無くば防ぎ切れるものでは無い攻撃が飛んで来たのだ。

 一気に逆転した立場に色めき立つ暇も無く、彼はよろめきながらも立ち上がる。その間にも竜は存分に大気を貪り、次なる息吹を吐き出さんと待ち構えているのだ。ジョージは糞ったれと悪態を付きたかったが、そんな暇等無かった。充分な酸素を受けて吐き出された火弾の威力は至近距離で受ける大砲の直撃すら超えるのである。今は走るのが先決、と左右の脚を必死で動かす彼の元に炎の雨が降り注いだ。ちゃんと動けるとは言え、体の調子は完璧とは言い難い。火弾の直撃を食らえばそこで脚は鈍り、その次の攻撃、その次の次の攻撃を防げなくなる。つまり、実際には一度まともに喰らってしまったらもうそこで終わりと言う訳なのだ。必死にもなろうものである。

 直ぐ側で高々と炎の柱が上がる中でしかし、ジョージは諦めてはいなかった。復讐を果たせない等とは、微塵も思っていなかった。何故なら彼の視線の先には、かつてサタンの化身たるドラゴンを打ち破った大天使ミカエルの燃え盛る剣にも等しき希望の武器、ゲオルギウスがあったからである。

 ジョージは吹き上がった火柱を突き抜けると、憤然と疾走を開始した。保因者キャリアーとしての力を最大にて発揮して大地を踏み締めれば、大量の砂煙が後方へと舞い上がってその痕を残して行く。

 その様子に、竜の方も槍の存在に気がついた様だ。本当の意味で人では無い存在に、畏怖の念を叩き込んだ武具だ。放っておく事等生きる事を本能とする生物が出来よう筈も無い。竜は息吹を吐くのを止めると、一度大きく翼を震わせてから、ゲオルギウス目掛けて滑空して行く。

 天と地に分かれて、二つの影が平原を駆け抜ける。神の塔の如く何処までも平らな草原に聳え立つ槍目指して、その栄光目掛けてまっしぐらに。どちらも全力で脚と翼を奮えば、距離等と言うものは容易く零と化す。その時、大地に痕を残し、大気を掻き分け、影の一つが栄光の槍を掴み取った。

 ジョージである。ゲオルギウスは再び彼の手に収まった。竜も直ぐ側まで迫っていた。後ほんの少し速ければ、螺旋の塔は一切の加減を知らぬ暴力に屈していただろう。だが己の脚を馬と成した騎士の方が一歩速かった。

 彼は柄を握るや否や、即座に梃子を引いた。既に新たな圧蒸缶を収められていたゲオルギウスは、勝利の大喝采を上げながら天へと登り行く。その様に眼もくれずジョージはしゃがみながら、斜め上より背後に向けて槍を振り払った。

 両手で持てるサイズの竜巻は、竜の翼を引き千切る。それは正に字義通りにであった。眼前に顎を広げて迫っていた竜の右翼を、まるで襤褸雑巾か何かの様に粉微塵とし、風の中にばら撒いたのだ。

 鼓膜を破る様な叫びと共に、竜は堕ちた。丁度ジョージが中空へと投げ出され、墜落して行った様に。巨体を支えていた翼の一つを失って、大地の楔に捉えられたのである。

 噴水の様に血を噴出しながら、竜は先程まで空を滑っていた様に、地面の上を滑って行った。緑と茶が入り混じったテーブルの上に無残な痕を刻みながら、その巨大な体は止まる事無く突き進む。最初に竜が飛び出した、森の方へと。

 槍の喝采が静寂へと変わったのと、森の沈黙が轟音に破られたのはほぼ同時であった。吐き出すべき蒸気を止められ、キュラキュラと穂先が停止するのを待つと、ジョージはそれを肩に乗せながら、森へと向かった。

 歩みは遅い。先程の疾走から急に立ち止まった事で、疲労と苦痛がどっと押し寄せてきたのだ。呼吸が荒く、汗も滝の様に吹き出た。しかし、そこには勝利を手にした笑みがある。実際まだ手にしていなくとも、それはもう目の前にある気がした。今その手には確かに仕留めたのだと言う感触が宿っている。実際森に堕ちてから竜はまだ姿を見せていない。こんなゆっくり、こんな無防備に歩いていると言うのに。

 やがて凄惨たる状況を示している森に踏み込むと、ジョージの予感は確信に変わった。

 幾多の木々を突き破り、倒れて来たその木に埋もれて、竜がうずくまっていた。翼は再生を始めているが、先程見せた速度とは比べる必要も無い程遅い。ジョージの姿を認めた瞬間、牙を剥き出して威嚇するが、その間からどろりと血が溢れ出した。巨体であった為に余計落下による損傷が激しかったのだろう。ちょっとした池になる程血を吐き出し続けている様子からすると、内臓はぐちゃぐちゃになっている筈だ。どれだけ強い耐久度を持とうと、生命である以上その要である部位が傷付いてはどうにもならぬと言う事か。少なくとも今、そしてもう暫くの間は。

 そんな竜に向けて、ジョージはゲオルギウスを構えた。汗と砂と血に汚れた顔に、にやりと歯をむき出しにした笑みが浮かび上がる。勝ったのだ、狩ったのだと言う声が脳裏で木霊した。もうこの竜に何かをする力等残っていまい。今火弾等を撃てば自分を燃やす様なその体で。そう思いながら、はぁはぁと笑いながら近付いて行く。

 竜は徐々にやって来る死の騎士を睨んでいた。ごろごろと喉を鳴らし、血に染まった牙を見せながら。だがやがて諦めたのだろう、すっとその瞼が落ちた。捲れ上がっていた唇が戻り、喉も鳴き止んだ。最早ここに来て、何も出来ぬ事を察したのだろう。ジョージはそう考えた。

 そして彼は竜の顔の直ぐ側までやって来ると、ぶぉんと槍を頭上に向けて振り上げた。一切の歪み無く真っ直ぐに天へと伸びるゲオルギウス。その姿は太陽の下に晒され、まだ乾ききらぬ血を赤々と輝かせた。それは正に竜殺しの槍と言う名を送るに相応しい、一種の威厳を備えている。

 その担い手たるジョージは、槍を掲げたまますっと瞳を瞑った。これで長きに渡る悪夢は終わる。不条理に片が付く。理不尽なる存在は一掃され、後には勝利の歓喜だけが残る。ただ後この槍を突き立てるだけで、復讐に……疲労と歓喜の為だろう、誰の何の復讐だったか、霞が掛かった様に思い出せなかったが、兎に角……終止符が打たれるのだ。彼は思わず笑い声を上げた。息を吸いながら笑い、瞳のみ上に向けながら笑い、腹がよじれる程に笑った。崩れ落ちた竜の前で、血の海にその脚を浸しながら、盛大に笑った。笑い続けた。

 だが何時までも笑ってはいられない。彼は腕を振り下ろしながら、梃子を引き絞った。

 咆哮が上がる。それは終幕を告げる鐘の様に響き、やがて静寂が訪れた。


 そして今闘争は終わり、ジョージ・サリンジャーの半年に及ぶ苦悩は幕を閉じたのである。

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