第八章
醒暦1880年 九月 詠霧趣西南部 サマセット地方
サマセットに位置する小さな街、グラストンベリー。
その近郊にある突き出た丘は、中世以来『アヴァロン』では無いか、と言われて来た場所だ。
アヴァロンとは、かつてブリテン島に実在したとされる伝説の王アーサーが不義の息子モードレットとの戦で傷付いた体を癒し、眠っていると言う伝説の島である。その名は『林檎の島』を意味し、妖精の女王『モルガン・ル・フェ』を長女とする九人の妖精達が支配する一種の異界であり、また楽園である。彼の地で眠る王は、詠国が危機に陥った時再び現れ、人々を救うとされていた。
丘であるのに何故島なのか、と言うとかつてのサマセット地方が湿地帯に覆われていたからである。何処までも延々と続く泥の海の中に突き出た丘は、古代の者達からすれば島に見えた事だろう。また十二醒紀頃、実際にグラストンベリーの修道院長らがこの丘を掘った所、『HIC JACET SEPULTUS INCLITUS REX ARTHURUS IN INSULA AVALONIA』(此処アヴァロンの島にアーサー王眠れり)と言う文字が蓋に刻まれ、中に二人分の骸骨が入った棺らしきものが出て来たと言う。尤も、アーサー王の墓碑銘は『HIC IACET ARTHURUS, REX QUONDAM REXQUE FURTURUS』(此処にアーサー王眠れり。かつての王、現在の王、そして未来に再び王とならん)とされており、見つかったものとは文章が違う為、眉唾では無いかと言われている。また棺が再び埋葬された修道院が、十六醒紀の宗教改革によって破壊され、廃墟になってしまった為に、今ではその真偽を計る事も不可能となっていた。
だが親から子へ、友から友へと語り継がれて行く伝説に、嘘か真かを問うのも野暮であろう。何せ大昔だ。現代を生きる人間にとっては最早唯の物語であり、生きるには関係無い事である。そう、関係無い。国の危機を排除すべく伝説の王が復活すると言われても民の不幸を救いに現れないと言うなら、自分には一切関係無いのだ。
遠くに見える丘を淀んだ黄金の瞳で見据えながら、ジョージ・サリンジャーはそう自虐的に思った。
手綱を手に取り、今は乾燥した平坦な野原を馬に乗って進んで行く。
国の為では無く己の為に、王の代わりに自身によってその苦悩を終わらせる為に。
その姿は正に中世の騎士さながらの物であった。全身を包む様に纏った外套の下には、金属プレートと鎖帷子によって何重にも補強された分厚い皮衣を着ている。並大抵の刃物はおろか、弾丸すら通さないであろう代物である。腰には気休め程度だろうが剣と銃、そして奇妙な形状をした金属の缶が二つ程通してあった。その背中には、自分の身長よりも大きい白い包みを背負っている。黒いベルトで止められたそれは先端に行く程に先細り、そして頭の近くで梃子の様なものが付いた柄が見え隠れしていた。
これらは全て二千年の時を生きる魔女ルフィナ・モルグの手によってジョージに与えられた物である。正確には彼女の手配に華僑の商人ワン・ウェンロンが応え、国内外の職人達によって造らされた物だった。彼女の心の内は計りかねたが、ジョージにとって復讐の為の力を与えてくれたパトロンである事に変わりは無い。アーサー王伝説に例えるならばマーリン、いや湖の貴婦人か。その名の由来を知れば、決して彼の王の伝説に例えたく無くなるだろうが。
その彼女から仕入れてきた竜再来の噂を頼りに、ジョージは故郷たるこの地までやって来た。離れてから半年も経っていないと言うのに、奇妙な懐かしさがその胸に宿っている。まるで何十年何百年も帰っていなかった様な錯覚。それがきっと、保因者に成ったと言う事なのだろうと彼は改めて実感している。自分が変わったのだと言う事を。か弱き唯の人間では無くなったのだと。そう思うと、自然と心が滾った。
だがそんな気持ちとは裏腹に、不安もまたあった。果たして今の自分で勝てるだろうか、と言う心の揺らぎ。あの隻眼にして赤眼の青年ルイスと廃墟の教会で鍛錬に励んでいた時、そんな気は微塵も起こらなかった。ルフィナの寝室で朝を過ごした時には勝利の確信すらあったと言うのに。彼女と論曇から離れて早数日間。敗北の予感は日増し募って行く。まるで夢から覚め現実に引き戻された様な嫌な感じだ。殊、故郷に足を踏み込んでからは特に酷い。
ジョージにはしかし、その不安の原因が何と無く解っていた。
それは、この故郷に満ちる『匂い』に置いて他ならない。ルフィナの血に宿った因子により彼の身体能力は強化され、その嗅覚は犬と同等か、それ以上のものとなっていた。だからサマセット地方に来て直ぐにその匂いに気が付いた。匂いは今までに嗅いだ事が無く、故に何かに例える事は出来ない。しかし、脳裏にはある種のイメージが湧き出していた。忘れられない、かつて彼の村であったあの場所の光景である。
そしてその匂いはここに来て、より一層強く濃くなっていた。彼が乗る馬もそれに気付いたのだろう、何処か様子がおかしい。まるで論曇のスモッグだ。余りの濃さに空気が汚染されている様だ。数日後には元に戻るとは言え、鼻をもぎとってしまいたくなる。だが、それは匂いの主に近付いていると言う事でもあろう。ここに戻った理由は無視する事の出来ぬ確かな筋からとは言え、噂によるものだった。だがもうその真偽を疑う気は無い。
居るのだ、と言う確かな手応えが感じられた。
やがてその足取りは、何処までも凹凸の無い平原が続く中にあって、ぽつんと佇む森へと向けられた。森、と言ったが、それ程大きくものでは無い。かと言って、林とする程小さくも無い。
その緑を構成する枝葉ががさりと揺れた。風等微塵も無い、初秋の晴天の日だと言うにも関わらずである。同時に、匂いの濃さが増した。いや、唯濃いと言う訳では無い。明確な意思を持つかの如く、自分に向けてその密度を増させたのがジョージには解った。彼が相手の存在に気付いた様に、相手も彼の存在に気付いたのである。
どくりとジョージの心臓が高鳴った。待ち望んでいた時が迫って来るのを体が自覚する。彼はその保因者としての尋常ならざる力を持って手綱を取ると、森へ向けて馬を奔らせた。走るでは無い、奔るである。主人の意に応え、馬は黒い鬣を靡かせながら、風を追い越して行く。
そして彼我の距離が二十ヤードを切ったその時、正にその時、森の一部が爆散した。