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第七章

 醒歴1880年 九月 詠霧趣イギリス 論曇ロンドン郊外


 世界都市としての喧騒からは無縁と言ってもいい論曇郊外。そこに廃墟の教会がある。

 まだ作られてから百年も建っていないだろうに、一体そこで何があったのだろう、周囲の者は誰一人近付かずこうとせず、噂話の中でも語られる事は無く、一向に壊されようともしない。人の出入りが無くなった今はただ、歳月が蔦と成って壁を覆い、年月が風を伴って石造りの壁を削って行くのみだ。そうやって廃れてから既に随分な時間が経っているのだろう、日中でも異様な雰囲気を醸し出している。今宵の様な雲一つ無い満月の夜ともなれば一塩だ。青白い月の光に照らされて聳え立つその姿は畏怖すら感じさせる。

 尤も、神の家として機能しなくなっては畏怖等あっても意味は無いが。

 その誰もいない筈の教会の中で、激しい呼気と剣戟の音が響いた。

 硝子等とうに失せて等しい窓から覗けば、月明かりの元で二人の影が躍っている。

 どちらも月光しか照らすものの無い闇の中にあって、その足取りに一切の淀み無く、二人の影は石畳の上を、蜘蛛の巣が巡る長椅子の脇を駆け抜けて行く。速い。影となって見えるのは光源の所為ではあるまい。ここが廃墟の教会の中では無く、詠国では珍しい晴天の空の下だったとしても、彼等はやはり影としか捉えられなかっただろう。並の人間の眼では追いつけられよう筈も無い。最早鮮明なのは音のみ、音速の舞踏である。

 そして舞踏とは武闘に他ならない。

 時に並び、時には離れる二人の影の間で、白銀の刃が煌いた。大気を切り裂き、同時に相手をも切り裂こうとする双刃は、それぞれ相手の刃によってその目論見を妨げられ、甲高い音を上げながら、赤い火花を散らす。

 まだ空気中に小さく花びらが舞う間に二人の影は離れて行く。距離にして十ヤード程間を取って静止した。

 闇の中でその姿を見極める事は困難だが、二人とも男性の様だ。片方は壮年の男性、もう片方は青年である。距離だけで無く年齢も離れたこの二人であるが、武器は共通だった。即ち刺突剣、レイピアである。

 青年はそのレイピアをひゅんと払うと、男性に向けて構えた。鏡合わせの様に、男性も構える。

 一拍の間を置いて、影が跳んだ、先に動いたのは青年の方、姿勢を低く保ったまま氷の上を滑る様に突き進む。男性が身構えた。十ヤードの距離をほぼ一瞬で埋めた青年がダンと踏み込み、レイピアを突く。それを身を翻しながら、己のレイピアで受け払う男性。そのまま回転しつつ回り込むと、彼は青年の無防備な背中に向けて、遠心力を保ったまま刃を振るった。だが受け流されても青年は止まる事無く突き進み、白刃は空しく宙を掻いた。

 更に踏み込み、背後から男性が突くのを、踵を返し振り返りながら、青年の刃が打ち落とす。重なり合った刃は双方の上を滑り上がり、ガキリと鍔に当たって静止した。くっと刃先を上に上げながら鍔迫り合いの形に持ち込む二人は力と力をぶつけ合い、相手の剣を絡めとらんと鍔を動かしながら、視線を交わらせる。

 くすんだ黄金の瞳と、隻眼の赤眼がそれぞれに相手の瞳を移し込む。

 青年の瞳がかっと見開かれた。赤い光が強みを増し、強い呼気と共に彼は男性を押し出す。よろめき、後ろへと下がる中で生まれた隙を見過ごす筈も無く、青年はレイピアを突いた。男性側から見れば細い点にしか見えぬ刃先が喉元へと迫る。ちくりと蜂に刺される様な痛みを感じた瞬間、男性は跳んだ。同時に仰け反りながら、その場でぐるんと回転する。鼻先で刃を感じながら彼は、回転のままにそれを刃で払い、そして顎の下から蹴りをお見舞いした。全く想定外の動きに青年は対応すら出来ない。攻撃時の隙を逆に狙われ、彼は男性とは逆周りに後ろへと跳んだ。すたりと男性が見事な着地を決める中、青年はどんと無様に倒れる。

 レイピアを振るいながら男性は、倒れ伏した青年の喉元に向けて先程とは逆に刃を向ける。優劣は決まった。だが青年は明らかにそれを認めていなかった。その褐色の顔に苛立ちの赤が増すと共に、彼は右目の眼帯を外す。

「お止めっ、ルイスっ!!!!」

 正にその瞬間、暗闇に溶けていたかの様に唐突に、碧髪碧眼の美女が現れた。ルフィナ・モルグだ。

 彼女はつかつかとルイスと呼んだ青年の元へ行くと、罰の悪そうに右目を抑える彼を見下ろしながら言った。

「貴方、今『邪眼』を使おうとしたでしょ。駄目じゃない、自分の三分の一も生きてない小童にそんなもの使っちゃ。全く、論曇の汚泥が産んだバロールって自覚あるのかしらこの黒兎。洒落にならないでしょ。」

 まるで母親の一方的な説教だ。ルイスは眼帯を戻しながら、ぼそっと反論した。無駄だと知りつつ。

「僕を買い被り過ぎだ。右眼を使わないと勝てないよ、こんなの。」

 そしてその予測は正しかった。

「勝ち負けじゃないって何度も言ってるでしょ。試合でも決闘でも無いわよ、これは特訓。貴方が勝とうが負けようが、死のうが死ぬまいが、そんな事はどうでもいいの。重要なのはジョージが力を付ける事だって言うのに、」

 実に酷い言い草である。ルイスは途中で耳を塞ぎ、そっぽを向いた。自分が今まで戦っていた相手の方へと。

 ルイスの相手、即ちジョージ・サリンジャーは終始無関心だった。今もまだ喋り続けているルフィナを無視し、仏頂面を浮かべるルイスに一瞥もくれず、落ち窪んだ瞳を向けながらレイピアに付いた汚れを黙々と拭いている。

 ジョージがルフィナによって、保因者キャリアーに変異されてから、三ヶ月が経った。

 二千年の時を生きる魔女の血液は、唾液と言う緩和剤を用いても彼の体を苛み、数日間の睡眠を必要とした。夢も見ない熟睡の後、ルフィナの隠れ家で目覚めたジョージは、自分が完全に人では無くなっている事に気が付いた。筋肉の一筋一筋、細胞の一個一個から力が漲り、溢れてくるのが解る。彼の視界から闇は消え、全てが明るく輝いて見えた。物陰を駆けずり回る小さな鼠の心音すら聞き取れた。それでいて外見的に異常も無ければ、欠陥も存在しない。特異な能力は発言しなかったが、純粋な力ある存在に変わったのだ。

 ジョージは薄汚いベッドの中で拳を握りながら高笑いを上げた。

 これならば勝てる。あの竜に復讐を果す事が出来る、と。

 そうして彼はすぐさま出ようとしたが、それはルフィナに止められた。

「貴方と同じ様に血を与えた者は沢山いたけど、完全に変異するまでに時間が掛かったわね。大丈夫だと思っていても不調があったり、思わぬ所が変わってたりね。特に精神的に変貌しちゃった子は多かったわ。心と体は不可分よ。丁度良い相手を用意してあげるから、体動かせて馴染ませなさい。」

 そう言って彼女が連れて来たのが、先のルイスと言う青年である。先天的な保因者で、親元に捨てられた所を百年近く前にルフィナが拾ったと言う。どうやら保因者同士にも身分があり、ルイスは彼女ともどもその上流社会に名の知れた者であるらしく、姓は本人自身知らないらしいが幾つもの渾名を持っていると言う。尤も、ジョージにとってはただの特訓相手に過ぎなかったし、その素性等興味の欠片も無かったが。

 かくしてジョージは望まぬながらも特訓に励み、その力を蓄えて行った。そして、遂にその力を発揮する時が来たのであろう。何故ならば、ルフィナがこの特訓場を訪れたのは始めての事であったからだ。彼女は彼以外にも訪れる客の為に、何時もずっと隠れ家で……一度、場所を変える事もあったが……過ごしている。

「――でもルイスに勝てる様になったと言うのなら、もう調整もばっちりね。いらっしゃい、ジョージ。外に、貴方が望んでいたものを色々と持って来といてあげたから。」

 予想通りにルフィナはそう言うと、教会の外へと出て行く。

 ジョージもその後に続いた。ルイスは不機嫌そうに床を蹴っているだけで、着いて来る事は無かった。

 外に出た途端、ジョージは眩しさに眼を細めた。今の彼の視力だと、深夜の満月は真昼の太陽と大差無い。新月の星明かりでも充分と言う身でこれはきつい。彼は手で庇を作りながら、ルフィナの元へと向かった。

 彼女は教会脇の木の下で、袖の太い東洋風の黒い服に山高帽を被った華僑と話している。丸縁の眼鏡が実に怪しいこの人物を、ジョージは知っていた。魔女の噂を教えてくれた人物、ワン・ウェンロンである。どうやら顔馴染みであるらしい二人は、詠語では無い何か……恐らくあれが中国語なのだろう……で話していた。つまる所、あれは噂でも何でも無い、正しく真実であった訳か。ジョージは何か騙された気分になったが、別に兎角言うつもりも無かった。

 それよりも、二人の側に置かれた荷馬車の中にある白い布に包まれた何かの方に、彼の関心は向けられる。

「来たわねジョージ。さぁ見るといいわ勝利と自由の息子よ。あの『極小要素の変身者』グレゴール・ゲルヴィーヌスに作らせた機械仕掛けのバルムンクよ。槍だからグングニルかしら。嗚呼、私ったら自分で名前が重要だって言いながら忘れてたわ、それを言うならエクスカリバーか、ゲイボルグよね……まぁ何でもいいわ、気に入ると思うから。」

 そう言ってルフィナは白い布を優しく摩った。ワンが袖に手を入れつつ一礼するのを横目で眺めながら、ジョージは馬車の元まで来た。そして布を捲ると、その中身を確認した。思わず、感嘆の溜息が漏れた。

「これは……凄いな。」

「凄いでしょ?大枚叩いて作らせただけあるわ。流石『七人教授』(セブンマイスターズ)の一人よ。」

 七人教授が何者か知る由も無いジョージだが、包みの中身が素晴らしいものであるのは解った。正に機巧時代が生み出した神話の武具である。これならば、確かにあの竜を打ち倒す事が、復讐を果たす事が出来よう。

 ジョージは微笑みながらルフィナに向き直ると、自分よりも二周り程小柄なその体を抱擁した。

「感謝するルフィナ。何から何まで君が居なければ果たせなかった。」

「構わないわよジョージ。貴方はお金や時間じゃどうにもならないものを私にくれているから。」

 一切の贅肉が無い胸の中で彼女はそう囁く様に言うと、すっと顔を上げ、唇を突き出す。ジョージは頷くと、赤く潤んだ唇にしゃぶりついた。ワンが厭らしい笑みを浮かべるが、構うまい。こんな事は、この三ヶ月で慣れてしまった。最初は義務的な応酬であったが、今では確かな快楽を望むべくして感じている。最早立派な情夫だ。

 麗しき妖精をしかと味わう彼の淀んだ眼光には、血の海に浮かぶ朽ち果てた竜の屍が映っている。果たされるだろう復讐と勝利の幻想に酔い痴れながら瞳を閉じ、視覚以外の感覚を持ってルフィナを愉しむ事とした。

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