第六章
「あぁ……いや……しかし、驚いた。まさかそんな……本当に、魔女なのか。」
ルフィナ・モルグが改めて自己紹介するのも上の空で、ジョージ・サリンジャーは彼女の全身をしげしげと眺めた。見れば見る程、先程までの姿とは掛け離れている。一体如何なる魔法を使ったと言うのだろうか。
彼女自身それを自覚しているのだろう、たわわに実った胸を寄せる様に腕を組みつつ、笑って言った。
「余り婦人をじろじろ見るものでは無いわよ。ま、驚くのも解るけどね。えぇ、そう。宗教とかそう言うのを抜かせば、貴方が思ってる様な魔女ね、私は。と言っても、使える魔法は二つだけ。死なない事と形を変える事しか出来ないけど。まぁそれだけで充分とも言えるわね、生きて行く上には。因みに名も姿も本物では無いわ。今の流行に合わせて見たんだけどどうかしら。まぁ、本当の姿を忘れちゃったって言うのもあるけどね。何せ二千年も前に生まれたものだからね。嫌になっちゃうわ、外見だけ若作りしたって中身は二千歳のおばあちゃんなんだから。」
そこまで一気に言い終えると、彼女は独りでくすくすと笑い出した。紅く熟れた唇から綺麗に整った白い歯が覗く。ここまで流暢な語り口になったのは、今まで老婆の姿であった反動からだろう。何にせよ、その余りの早口に、ジョージはただただ嗚呼とかほうとか言う相槌を打つ他無かったが。
「さ、て、と。それで、貴方は保因者に成りたいのだったわねジョージ。保因者保因者、嗚呼味気ない名前。私その名で呼ばれるの嫌い。エルゼアール・ジュシーも、風蘭守人ならもうちょっと詞的で素敵な名前を付けたって、ね。そんなに恋人を失くしたのが悔しかったのかしらあの学者貴族は。貴方はどう思う?」
やっと本題に入った、と思えばこれである。どうやら長く生きる事で、人間の会話術は退化するものらしい。ジョージは、ルフィアの一方的な会話を諌める様に咳払いしつつ、ふつふつと湧き上がる苛立ちを抑えながら言った。
「名前等どうでもいい。必要なのは力だ。竜を倒す為の力だ。さぁ教えてくれ。あなたならくれるのか?力を。」
「いいえどうでも良くは無いわジョージ。名前はその存在そのものを指し示し、運命すら左右してしまう。それ位に大事なものなのよ、カッパドキアの悪竜を葬った騎士殿。馬鹿にするものでは、無いわ。」
ルフィナはジョージの言葉を軽く受け流しつつ、すっくと立ち上がった。そのまま周囲に散乱する道具を器用に避けながら、ジョージの元へと近付いて行く。彼は思わず立ち上がり、身構えながら後退った。
「あら、復讐の戦士が今の私みたいな女にうろたえちゃ駄目よ。そこはもっと毅然としていなくちゃ。」
よく言う、と心の内でジョージがそう思った瞬間、その顎が白く伸びた指に掴まれる。突然の行動に彼は離させようと首を振り払った。汚れ一つ無い綺麗なそれはしかし、恐るべき力を持って離さない。
ジョージの顔が恐怖で引き攣る中、ルフィナは妖しげな微笑を浮かべると、もう片方の手で首を抑えた。
そして彼女は一気に腕を引き込むと、ジョージの唇にしゃぶりついた。
「……っ。」
まずは驚愕が、そしてほんの少しの歓喜と共に過大な嫌悪感がジョージの体を直走った。彼はルフィナを離そうと手を掴むが、腕も指もびくともしない。それ所かますます力は増して行く。その光景は、緑の模様を持った白蜘蛛と、その哀れな犠牲者を連想させた。
同時にルフィナの舌が、僅かな隙間に入り込む蛇の様にジョージの唇の間を通り抜け、ねっとりと彼の舌に絡み付く。唇が蛸の吸盤みたいに唇に吸い付き、滴る唾液が奔流となって喉の奥へと送り込まれた。奇妙に甘いその液体を、思わず飲み込んだ瞬間に、ジョージの背筋にぞわりと鳥肌が泡立った。最早我慢も呼吸も限界である。彼は渾身の力を込めて歯を立てると、ルフィナの舌に噛み付き、それを食い千切った。
「ん……つ、ぅ。」
予想外の反撃だったのだろう、ルフィナの拘束が緩んだ。その隙を見逃さず、ジョージは両手を押し出して彼女を突き放す。後退りする中で、椅子にぶつかり、がたりと倒れた。二人の間に距離が出来、そして彼は机に手を置き、もう片方の手で紅く染まった唇を拭う彼女を睨んだ。
「一体……何を考えているんだっ。」
そう叫ぶジョージの顔は真っ赤に染まっていた事であろう。キスは欧火(※おうか=皇路覇と阿真利火を合わせてこう呼ぶ)では親愛を込めた挨拶として一般的な意味合いを持ったが、今のは明らかにそう言う類のものでは無かった。そして彼は、元々妻一筋の敬虔なる人間である。
「ん……キス一つで大袈裟よ、貴方。もっと楽に考えなさい、日本人じゃないんだから。いや、二十年前にここに来たサムライだってもう少しまともな反応をしたわよ……全く、折角変異させてあげたって言うのに。」
ぺっと血の唾を吐きながら、ルフィナは怒る彼を嗜める様にそう言った。手を退かせば既に血は跡形も無く消え失せ、一瞬で元通りとなった真っ赤な舌が踊っているのを垣間見る事が出来た。
だが、ジョージが気になったのは当然ながらそこでは無かった。
「変異させた、だと?それは一体、どう、言うこ、と、」
訝しがり、問い掛けを口に出そうとしたジョージは、全て言い終える前にばたりと倒れ込んだ。
全身が熱かった。自分が大窯となり、煮え滾るスープをその内に抱えている様だった。流れる内から汗は湯気立ち、じっとりと衣服が肌にへばりつく。その肌に冷たい床が心地良い。心臓が熱き血潮を走らせながら高鳴った。
そんな彼の側にルフィナが立つ。へばり付くジョージを蟲の様に見下しながら。
「全て貴方が望んだ事でしょう?竜を倒したいと。その為の力が欲しいと。強き者に、即ち保因者になりたいと。だからこのルフィナが叶えてあげたの。私の唾液を飲ませて、ね。私が飲んだ葡萄酒、私が食べた肉、私が吸った空気、私が舐めた一物、その二千年分が凝縮してた液体よ。さぞ凄い事になってるでしょうね、その体の中は。ねぇジョージ、どうかしら?自分の奥底から己の全てが変わって行く感触は。皮膚が裏返って、内臓が外気にさらけ出される様な気分は。始めて童貞を失った、或いは処女を散らせた夜みたく滾るでしょう?」
破廉恥な、と罵り返したかったが今のジョージには何も言う事等出来なかった。思考が纏まらず、視界すら歪む。これが保因者に、人ならざる者になると言う事なのか。彼の中で後悔の念が浮かび出した。
その耳に、止めとも言える貴婦人の声が届く。
「でも、まだ完全じゃないのよね、それじゃ。」
「ど……言う……事、だ……。」
ジョージは指に力を込め、首を上げながらぐっと喉を震わせ、漸くそれだけ応えた。
「保因者の……嗚呼もう、嫌な名前っ……因子が体液で移るのは知ってるのかしら?まぁどちらでもいいんだけど、体液って色々あるわよね。唾液以外にも汗に涙に、胃液に愛液etcetc……でも一番強く多く因子を含んでいるのは血液らしいの。でも私の血は濃いから、慣れてない人間だと耐え切れないのよ、変異の熱が凄すぎて。だから最初に唾液を送ったの、体を慣らさせる為にね。今の状態なら何とかなるでしょ。嗚呼、因みにこの方法は吸血鬼達が仲間を増やす時に取る方法。血を吸いたい欲求、ってまぁ性欲なんだけど、それに駆られて喉元に噛み付き、唾液を送りながら欲求を満たした後、今度は自分の血を飲ませる事で、相手を完全に同胞にするのよ。それを行わないと、ただ性欲ばかり肥大化して、本物と比べたら大した力も持たない下賎な者になっちゃうの。今論曇に沢山いる吸血鬼の大半はそれね。皆、ただの性欲の捌け口にされた哀れな犠牲者って訳。」
聞き手を無視して、だらだらとそう言いながら、ルフィナは右手の指を一直線に上へと向けた。その皮の下で細胞が変化し、骨が軋み、筋肉が歪む。一瞬の間も無く、整っていた爪は一フィート近く伸びた。ナイフの様に鋭く尖るそれを、左手首に向けてさっと振るうと、どろりと濃厚な紅い液体が傷口より溢れ出る。
そこからルフィナは、ジョージの側にしゃがむと、元に戻った右手で頭を支えながら、脱水状態にある彼の唇に向けて左手首を近づけた。ぽたぽたと、蝋の様な血の滴が頬に当たり、跡を残す。
「さ、お飲みなさい。聖ルフィナの血を、葡萄酒だと思ってぐっと一息に。」
眼前に紅い傷跡が向けられる中、ジョージは言葉こそ発しなかったが、一瞬躊躇いの表情を浮かべた。血を飲むと言う行為に背徳感を受け、虚ろな脳裏の中に残された信仰が口を付けるのを思い止まらせたのだ。
「あら、何を躊躇ってるの?信仰心?くだらないわ。思い出しなさいな、貴方は自分の脚でここまで来て、こうなる事を自身から望んだ、復讐の為にね。その時点で、貴方は信仰を捨て去ってしまっているのだと、何故解らないのかしら?知恵の木の実は齧り掛け、今更ヤハヴェは許しちゃくれないわ。さぁ、それでもまだ拒むつもり?信仰を取るつもり?『何があっても』と言った貴方の台詞を嘘偽りにするつもり?」
その些細な拒絶を、ルフィナは否定する。聖母の如き優しげな笑みを持って、蛇の言葉を囁きながら。
ジョージはぅ、と言葉に、もとい思考に詰まった。どろどろに溶けた鉄の様な脳味噌で、彼女の否定を否定する言葉等思い浮かばない。いや寧ろその通りであると言う肯定の言葉が脳内で浮かび上がった。
つまらない信仰等捨ててしまえ。サロメとカラムを奪った竜の事を思い出せ。
竜を打ち倒す力を得る為に論曇までやって来たのでは無かったのか。
頭の中で紡ぎ出される言葉に、感情が呼応する。虚ろな瞳に憎悪の光が篭り、衰弱していた体に力が戻り始める。二千年の血が齎した進化の炎は、彼の意思に従って、その体をより強固なものへと変化させた。この時点でもうジョージの体は人でありながら人では無い。保因者、人外の存在となったのだ。
後は仕上げを行うのみである。
ジョージは自らルフィナの左手を掴むと、その傷口に己の唇を押し当てた。まだ体力戻りきらぬ身であったが、その握力は常人を超えている。ん、と彼女の唇から呻き声が零れた。それを無視して、彼は舌を押し当てると、貪る様に血を啜って行く。一度血を吸ってしまえば、留めるもの等最早何も無く、力と性への欲求は止まらない。
ルフィナは、口髭を真っ赤に染めながら己の血を飲み干して行くジョージの頭を優しく撫でながら、彼が己の欲求と胃袋を満たし、再び訪れる進化の炎に身を苛まれ眠りにつくまで、その左手を差し出し続けた。