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第四章

 醒歴1880年 六月 詠霧趣イギリス 論曇ロンドン 某貧民街スラム


 大詠帝国首都、論曇。

 ここ程に、歴史と発展を兼ね備えた都市は無いだろう。

 土壱ドイツ鐘琳ベルリン風蘭守フランス華璃パリ至梨唖イタリア路磨ローマ阿真利火アメリカ新曜ニューヨーク日本ジャパン搭京トウキョウ等、世界には幾つも著名な都市が存在し、またそれぞれに特色もあるのだが、論曇には適うまい。

 古代路磨時代に築かれたこの都市は、十七醒紀に宗教改革と経済発展により急速に成長を遂げた。その後起こった大火によって一度は壊滅状態になるが、逆にそれは中世都市としての汚辱と混乱を焼き払い、近代都市へと至らせる第一歩でもあった。そして再建された論曇は世界のどの国よりも早く産業革命を迎えた詠霧趣の首都として、更に進歩していった。

 そして現在の論曇は、数多の国からやって来た人々が犇き合う大都市、太陽の沈まぬ国の中心地として燦然と輝いている訳なのだが、その発展は必ずしも良い方向だけに進んだ訳では無い。かつての論曇大火が進歩を齎した様に、産業革命の波は負の要素をも持ち込んだ。

 その一つが蒸気機関より排出されるスモッグによる大気汚染である。史上最も早く産業革命を迎えた国はそれと同じ位早く、この人体に多大な悪影響を与える現象に悩まされる事となった。

 更に時代は進み、土壱帝国が生み出した稀代の天才達『七人教授』(セブンマスターズ)の一人、ハンス・エーヴァルトによって蒸気機関を超えた蒸気機関、恐るべき熱効率を誇りながらもその縮小化に成功した『超蒸機関』が生み出され、今の蒸気文明を支える礎を築いたのだが、彼とその発明を以ってしてもこの悪煙だけはどうしようも無かった。蒸気機関に頼る以上、これは避けられぬ事であったのである。

 そして、この頃から論曇は『霧の都』と呼ばれる様になる。この霧とは即ちスモッグに置いて他ならない。勿論本物の霧も発生するが、それよりもスモッグの方が酷かったのだ。かつては『竜洞』と書かれていたロンドンが、『論曇』と言う字を当てられる様になったのもこれに起因する。

 それ程までにこの都市の大気汚染は酷いものだったのだ。

 だが問題だったのは公害だけでは無い。負の要素はもう一つあった。貧民街スラムである。

 世界中に植民地を持ち、その規模で言えば世界史史上最も広大な大詠帝国は、当然ながら各国からの移民が絶えなかった。多くの者達が貧しさから職と食を求めて、貿易港でもあった論曇へとやって来るが、貧困故にまともな勉学を受けておらず、詠語もろくに話せない者達が大勢居た。そんな彼等が真っ当な職業に付ける筈も無く、低賃金の労働者として搾取される道具として扱われ、それに耐えかねて犯罪に走る者も少なくなかった。

 更にこの人種の坩堝は、保因者キャリアーの大量発生をも招いた。何処から来たのかも定かでは無い者達が運んできた得体の知れぬ『何か』に、不衛生な環境で道徳の欠如した生活を送る貧困者達は冒され、化物同然の存在へと変異して行った。これにより犯罪率の急激な上昇が起こったのは言うまでも無く、法整備を行われた警察機関に優秀な私立探偵達が居なければ貧民街は更なる拡大をし続け、やがて保因者でも無い一般人は生きて往来する事も出来ぬ魔都と化していただろう。

 この様に世界に栄えある大詠帝国の首都は、その実多くの問題を抱えた街でもあった。

 今もまた人工の霧に覆われ、瓦斯灯が無ければ眼前の視界すら覚束ぬ石畳の街路を、少数の紳士淑女を除く多数の者達が、今日の不幸と明日への打算を胸に進んで行く。

 その中に、一種異様な雰囲気を持った男が居た。

 その男は薄汚れた外套を深く着込み、人々が決して進まぬ方向へと確かな足取りで歩いて行く。かつては整えられていたのであろう口髭は乱れに乱れ、金髪の巻き毛も伸び切り歪んでいる。

 一見すればそこいらの酔っ払い同然の姿だが、しかしその眼の奥に宿った炎だけは違っていた。夜の闇よりも暗く淀みながら、視線は確としたものであり、ぎらぎらと妖しく輝いている。

 賢明な読者諸君ならば、彼が何者であるのか察せられた事だろう。そう、ジョージ・サリンジャーだ。

 彼は今、普通の者ならば決して行かぬ場所、論曇東部の貧民街が奥深くへと向かっていた。

 ここより三ヶ月前、彼は故郷のあるサマセット地方から、狂気とも呼べる思考によって誘われ、論曇へとやって来た。そう、即ち己が妻子を奪った竜を自らの手で倒すが為に、倒せるだけの力を得る為に。

 論曇へとやって来たジョージは今日までの三ヶ月、日銭を稼ぐべく労働に精を出しながら、酒場や珈琲ハウスへ行った。人々へ熱心に竜やそれにまつわる話を聞かせるようせがみ、新聞を教科書として読み書きを学んだ。殆ど何も解らなかったが、大詠帝国図書館にも行った。劣悪な環境の中、不慣れな事を夜遅くまでしたが為に、彼の心身は日に日に疲労していったが、熱意だけは消えなかった。

 一体一個人で何が出来るだろう、と思われるかもしれないがしかし、彼は本気であった。無論、社会が何もしてくれないと言う理由もある。竜があの日以来姿を目撃されおらず、村も襲撃されていないとあっては、もっと他の問題に関心が行くのは当然と言えば当然であろう。だが、それだけでは無かった。最初から宛てがあった訳では無いが、論曇に来て調べて行く内に一つの力を、その方法をジョージは知った。

 ワン・ウェンロンと名乗った胡散臭い架橋……漢字カンジで王の文の竜と書くと言うが恐らくは偽名だろう……から聞いた話である為何処まで信じていいか、竜はそれ自体独立した生命では無く、爬虫類乃至は鳥類の保因者では無いかと言う説があると言う。成る程、竜が発見されたのは近代であり、それは大航海時代以降の事である。人間が変異するならば他の生物が変異する可能性だってある。ただこの学説は、そもそも保因者もといその彼等を変異させた因子とは何なのか、が解っていないが為、あくまで可能性の一つに過ぎなかった。

 ジョージは昼間であるにも関わらず薄暗く、塵芥に汚れ、荒み切った路地を進んで行く。

 この辺りは『イースト・エンド』と呼ばれる、論曇屈指の貧民街である。一生修復されないだろう皹に覆われた壁が左右に続き、歩く道の上には瓦礫や木材、その他良く解らない塵が石畳の代わりとなって置かれていた。役割を全くといっていい程果たせていない窓や扉からは底知れぬ深遠が覗け、その闇の中から得体の知れぬ何かが瞳を爛々と輝かせ、見慣れぬ侵入者の動向を伺っている。そして論曇中、いや植民地を含む大詠帝国中の汚物を掻き集めた様な悪臭が容赦なく鼻に飛び込んできた。

 その様な場所であるにも関わらず、ジョージは顔色一つ変えないで進んで行く。生きる為ならば文字通り何でもやるここの住人達も、その表情に宿った気概を感じ取ったのか、ただ見ているだけで手出しをしようとはしなかった。

 やがて彼は今にも崩れ落ちそうな一軒の建物の前に立った。一体何時からそこに建っているのかも解らぬその建物の入口は、急勾配な階段を何段も降りた地下にある。ジョージは躊躇せず降って行った。

 竜も保因者であると言う学説が実際正しいかどうかは解らない。だが、その可能性が考慮されたのは、時期的な関連だけではあるまい。保因者と言う存在が、竜に匹敵する様な力を持っているからだ。勿論、全ての保因者が力を持つ訳では無い。しかし、持つ者も確かに存在するのである。

 保因者。変異した人間。人であって人で無い者。人外の存在。ある日突然、或いは生まれた時から他人と違う者達。太古の怪物、或いは中世の悪魔……詠国内で種として最も有名なのは『吸血鬼』であろう……一言で言えば化物だ。

 そんな存在に、竜も同じであると言うその存在に、もし自分が成れたならば――

 冥府へと行くオルフェウスの様に光指さぬ階段をジョージが降り終えると、その目の前に木組みの扉が立っていた。表面に消えかけて良く解らないが、奇怪な紋様が描かれている。

 保因者に興味を抱いてから、彼は竜では無く保因者について知るべようと夢中で行動した。殊に自分がそうなるにはどうすれば良いかを人々へ執拗に聞いた。それも力を持った保因者に、だ。唯の無力な保因者等、今彼が居る貧民街にはそれこそ腐る程居る。因子は体液を通して他者へと移るのが、保因者と非保因者による性交と言う無数の実例によって証明されていた。だから保因者になる事自体は容易なのである。それが正に保因者が大航海時代から皇州全土へ急速に出現した理由でもあるのだから。

 しかし、ジョージが求めたのは竜に対抗し得る力を持った保因者である。肌の色が変わり、髭や髪の量が増減し、太陽の光を忌み嫌うだけで、それ以外は常人と変わらぬ者になど成りたくは無かった。復讐心に染まりながらも今だ残っている宗教心によって、そもそも保因者になる事自体躊躇われると言うのに。

 そこで彼は力ある保因者を求めて駆けずり回った。そしてつい先日、ある噂を耳にした。

 その噂の場所こそ、ここイースト・エンドの奥深くにある建物である。ここには力を持った本物の『魔女』が住むと言う。彼女はまだこの地に何も無かった頃、古代路磨人によってロンディウムが築かれようとする頃に産まれた。二千年近い間に知識と人脈を蓄え、論曇の奥深くで隠れ家を変えながら、訪れる人々の願いを何らかの代償によって叶えるのだと言う。ただし、とんでも無く気分屋であり、彼女に関わって無事で居た者はいない、とも言われた。

 それが本当かどうかは解らない。嘘であるかもしれない。しかし可能性はあるだろう。

 彼の御方が生まれ出でるより以前から生きていると言うその魔女が、保因者であると言う可能性が。そして願わくば、その力を我が者に出来ると言う可能性が。

 ジョージはふぅと浅い溜息を付くとドアノブを掴んだ。扉に叩き付ければ、直ぐに声が返って来る。

「へぇへぇ、どうぞいらっしゃいませ。鍵は開いておりますから。」

 しわがれた老婆の声だった。どうやらここまでは噂通りであるらしい。その真偽の定かはこの中にある。それを見定めるべく、彼は一言返事をしながら、ぐいっと扉を開けて、中へと踏み込んだ。

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