第二章
醒暦1880年 三月 詠霧趣西南部 サマセット地方
「それじゃ行って来るよ。」
「いってらっしゃい、あなた。」
そう言ってサロメは彼女の夫、ジョージ・サリンジャーの頬に唇を押し付けた。
ジョージはくすぐった様に身震いしながらも、嬉しそうに口髭をたくわえた唇を吊り上げる。
夫婦が微笑み合っていると、妻の傍らからひょこりと子供が顔を出した。
まだあどけないジョージとサロメの息子、カラムだ。
彼は人形を片手に何か言いたげな様子で、自分の何倍も大きな父親をじっと見つめている。
それを察して、ジョージは右手を伸ばし、カラムの巻き毛をくしゃくしゃと撫で回した。
途端に、少年の顔が笑みで満たされる。金色の髪がまるで麦畑の如く揺れた。
「それじゃ父さんは仕事に行って来るから、」
しゃがみ、カラムの目線に合わせながらジョージは言う。
「母さんの面倒を良く見て、しっかりと留守を守っているんだぞ?いいな。」
父親の言葉に息子は二度程大きく頷いた。夫婦の視線が重なり、二人は再び微笑み合う。
そしてジョージは、妻子が手を振る姿を背中に受けながら、己の仕事に出かけた。
彼は農夫である。その父も、そのまた父も、更にまた父も農夫だった。先祖代々脈々と続く農夫の家系だ。詠霧趣はその資本を根底として、何処よりも早く近代化の波が巻き起こった国である。そんな中で、少なくない者達が自分の土地を捨て、或いは捨てさせられ、労働者として大都市圏へと移って行った。
しかしジョージとその一族は農夫であり続けたし、これからもそうあり続けるだろう。
人間は鳥では無い。その背中に翼は生えていない。この地上で生きる以上、大地に足を付けていなければならないのだ。ならば貨幣等と言うユダヤ人が造り出し、後から価値を生み出したものにでは無く、神がもたらした作物にこそ生きる術として頼るべきでは無いだろうか。
それが真っ当な教育を受けた事の無いジョージが生活の中で見出した哲学であった。
彼は都会人から見れば粗末な家に住み、数も揃っていない服を着古しながら、毎日汗水流して働いているが、生活は決して楽にはならない。その手は硬く強張り、絶えず土に汚れていた。
それでも彼には皆の生きる糧を作っていると言う誇りがある。そして同時に、見分不相応な財を持つ事に対する言い知れぬ畏れも持っていた。彼は敬虔な清教徒だった。
ジョージは村人達に挨拶をしながら、農園へと向かう。
その思考はやがて息子カラムへと移った。
まだ幼い我が息子。自分とサロメの愛らしい天使。
出来るならば、彼にもこの生業を継いで欲しいものだった。だが、彼の人生は彼のものである。もし農民で終わる事を嫌がり、都会へと行きたいと望むならば、ジョージはそれを支援してやるつもりだった。
とは言え、カラムはそんな事を悩む年頃では無かった。今の彼の悩みと言えば、夜中に行くトイレだろう。
我が息子は大きくなった時どの様に考えるだろうか。
そう思うと、ジョージの唇が自然と綻んだ。何にせよ、幸せになってもらいたいものだ。
そんな風に村から離れ、平坦な畦道を歩けば、やがて彼は畑へと辿り付く。
さぁ、今日も仕事だ。明日の、来週の、来月の、来年の収穫の為に精を出さねば。
彼はそう何時も通りに張り切って踏み込んだ。
だがジョージは、直ぐにこの日は何かが違っている事に気が付いた。
普段なら何処からとも無く聞こえて来る鳥の囀りが聞こえない。辺りを飛び交う蟲一匹見られない。風が早く、雲の流れが実に忙しない。まるで何かに怯えているか、或いは何かから逃げている。そんな風に感じられた。
彼は周囲を見渡した。だが何か変わったものは無かったし、特に違いも見受けられない。
だがやはり何かがおかしい。
頭では解らずとも、体は既にその異変を察しているのだろう。ジョージは我知らず身震いしていた。
手が震え、足が揺れ、歯がかちかちと音を立てている。とてもではないが仕事にならない。
ジョージは溜息を一つ上げながら畑から出て、畦道にある石の上に腰を下ろした。震えを抑えようと両手を組み、その上に顎を乗せる。それでもまだ収まらない。彼はぎゅっと力を込めた。そして何とは無しに、畑の向こうにぽつねんと、老人の頑固に残った歯の様な小さな森へと視線を向けた。
その森が、紅い閃光と共に爆散した。
突然の事にジョージは勢い良く立ち上がると、震えも忘れて硬直した。
森は粉塵を上げて吹き飛び、中空に舞い上がった木々は砕け、その枝葉を振り落とす。
それから少し遅れて、巨大な何かが天高く飛び上がり、太陽を覆い隠した。
その時現れたそれは、ジョージの瞳に強く深く焼き込まれた。
竜である。太陽の中に見える大きさは六ヤード近くもあり、巨体を覆い尽くす鱗が光を受けて真紅に輝いていた。その背には全長の三倍はある一対の蝙蝠の如き翼が羽ばたいていて、その後ろで巨木の様に太い尾が揺れている。長い首から伸びた顔は何と言ったらいいだろうか、蜥蜴と狗と馬を掛け合わせた様な面立ちだった。そこには表情めいたものが見受けられ、遠目にでもジョージは嫌悪感を覚えた。
だが、最も印象深かったのはその瞳である。くすんだ黄金の眼は明け方まで居座り続ける不吉の星の様で、そこには不気味な光が宿っていた。猛禽類の様な鋭い瞳、獲物を探す捕食者の瞳である。
その眼が……ジョージの気の所為等では無く……彼のものとかち合った。
天と地、二つの境界線を越えて、人と竜の視線が合わさる。
次の瞬間、竜はその体勢を翼と尾で維持したまま、ぐわりと首を上に向けた。更に仰け反り、喉が一気に膨らむ。
ぞくりとジョージの背筋に悪寒が直走った。
逃げなくては。逃げなくては不味い。
そう直感が告げると同時に、彼はばっと振り返った。
焦燥のままに脚を踏み出そうとした刹那、ジョージの背中に熱と衝撃が飛んで来た。
肺から空気を吐き出しながら、彼は中空へと投げ出され、そのまま地面へと叩き付けられた。反動で二、三跳ね上がり、大地に頭を擦られながら突き進んで後、彼の体はようやく静止した。
頭と背中、他にも肩や脚に鈍い痛みが走る。砂埃で汚れた額から熱い血が垂れてきた。疲労と苦痛でうつ伏せのまま起き上がる事が出来ない。意識も朦朧としていて、視線も掠れていた。
一体自分の身に何があったのだろうか、とジョージがおぼろげに考えていると、その頭上で咆哮が上がった。
首を軋ませてどうにか首を上げれば、あの紅い竜が飛んで行くのが見えた。
自分の事等興味も無いと無視する様に、村の方向へと一直線に飛んで行く。
ジョージは最後の力を引き絞り、震える腕を伸ばした。指の隙間から、飛び去って行く竜が見えた。
「……待……。」
止める様に、掴む様に、ぐっと拳を握る。だが竜は止まらない。既にその姿は小さく、遠い。
「って……。」
ふっと力が抜けた。拳が下がり、瞼が落ちる。
咆哮と爆音、そして悲鳴が上がるのをかすかに聞きながら、ジョージの意識は途絶えた。