禍津日
大木の爆ぜ割れる、悲鳴のような音が森に響き渡った。
耳障りな木々をへし折る破砕音が続く。
「はぁ、はあ……」
乱れる呼吸を整えようともせずに、ガルンはよろよろと森を徘徊していた。
その後方にひっそりと蒼い狼が続く。
《卿は何を考えている?》
言葉を無視して粗い呼吸のまま前進を続ける。
その姿は、まるで雪山を進む遭難者のようだ。
《町の生き残りの半数の幽体を喰らうとは……卿は何をしているか分かっているのか?》
「お前が体を治すのに幽体を食べろと……言ったぞ」
ガルンは後も向かずに、体を引きずるように前進する。
身体中の外的傷は治っていた。
邪妖狼の血の効果である。
血を受けた後、体が分離するような激痛の中、ガルンは生き残っている人間の幽体を貪り喰ったのだ。
《幽体とは人間を構成する要素の一だ。これを失った人間は霊核が抜け落ちて数時間で死ぬ。卿は同族殺しをしているのに他ならない》
その言葉にガルンは足を止めて天を仰いだ。
パラパラと降ってくるものがある。
白い結晶。
雪だ。
「あのまま、ほって置いてもどのみち死んでいたさ」
病的な笑みを浮かべながら降ってくる雪を掴もうとした。
満足に動かない手足では触れることもままならない。
小刻みに震える手を見て、苛々気に拳を握り込む。
ガルンが血の効果で、体を何とか動かせるようになるのに半日が経過していた。
ほとんどの村人の命は手遅れである。
「死ぬなら、せめて俺の糧になってもらう……」
《助かる同胞もいたかも知れんぞ……》
邪妖狼のその言葉を無視して、ガルンは再び歩き始めた。
蒼い狼は数時その場に佇んでいたが、木の破砕音を聴いてその後を追うように歩き出す。
《卿は浄化も出来ぬのに、多大な命を粗末に扱った。その為、貴様の取り込んだ幽体が悪霊化しかかっている。このままでは生きたまま、悪霊と化すぞ》
「悪霊……?」
《卿が通る、周りの木々が悲鳴を上げている。洩れ出ている幽体が怨念に惹かれて暴走しているのだ》
「……」
ガルンは木にもたれ掛かった。
ミチミチと嫌な音を立てながら木が捩切れていく。
(悪霊? 化け物になると言うこと? でも、この力があれば、あいつらを皆殺しに出来るかもしれない)
ガルンの病的な笑みが、更に濃さをましたように感じてデュアルウルフは戦慄した。
救ったはずの生命は、助かった命に価値を見出だしていない。
姉の意志を理解していないのだ。
《今の卿なら精霊界側も見えるはずだ。全ての世界は調和と生命の循環で出来ている》
ガルンの視界がぼやけて行く。
今まで見ていた森と違う、別の世界が見え始めた。
(なんだ……これ?)
まるで世界全てが水の中に埋没したようなイメージ。
そして、光揺らめく像が幾つも見える。
木々の位置に緑色の光の揺らぎを感じた。
生命力溢れたそれらが酷く怯えている。
怯えている理由が自分の体から溢れ出している、黒い煙りのような物だとようやく理解した。
目を凝らすと、どす黒いカエルの卵のような気持ち悪い触手の様に見える。
その触手が背後の緑の存在を搦め捕り、侵食し、食い散らかしているように感じた。
(こいつが……木を……いや、木の精霊を食べてる?)
その行為に呼応して木々の命が、樹木自体が砕けているのだ。
《全ての物は等しく等価値の存在だ。生存の為に他者の命を奪うのも必然。逆に自らが食われるのも必然。全ての物に敬意を払い、奪った命は自らの血と肉となり、その自らの命すら他の者に還元される。それは星霊と言う一つの自然存在の中で行われる生命の循環だ》
「……食物連鎖だろ」
独り言の様に呟く。
邪妖狼はそれを首を縦に振って肯定した。
《その概念を知るなら、卿のしている事は世界を狂わす奇行だと分かるはずだ。過剰な死を撒き散らす存在は自然の摂理を、生態系を、星霊の命すら縮ませる事に繋がる》
「今の俺は世界から外れている……と言いたいのか?」
邪妖狼は首を横に振って否定した。
慈しむような、哀しむような瞳でガルンを見つめる。
《卿だけではない。他にもそのような世界のネクローシスは存在する。その中でも人間と言う種自体が持つ業は異常だ。趣味嗜好の為に世界を、生態系を、自然を破壊していく……》
蒼い炎が一瞬燃え上がったようにガルンには感じた。
自分の憎悪に近い熱さを感じて目を細める。
精霊世界に片足を突っ込んでようやく理解した。
目の前の狼の存在の大きさを。
(でかい……それに、何て凄い光だ)
精霊界側から見る邪妖狼はまるで蒼い太陽のようだ。
目が眩むような神々しさがある。
《人間は自らの種の絶滅は願っていない。だが、その行為は世界の滅びを促している。死にたくは無いのに生きる環境を殺していく。矛盾した生き方が人間種の業だ》
「……人間は世界の敵って事? お前が言ってる事はよく分からないよ」
ガルンはそう言うと眉を寄せた。
しっかりしていると言っても十に満たない年齢だ。
《我は身勝手な人間ばかりではないと知っている。大多数の悪性を除去するために、数少ない良性を犠牲にする考えはない》
「……?」
疑問に眉を寄せる。
始めから理解しがたい内容に、とうとうついて行けなくなってきたのだ。
《しかし……今のお前は悪性そのものに、世界の歪みになりつつある》
「世界の歪み?」
《このままでは卿は悪霊として死ぬ事になるだろう。アポトーシスならばまだ良い。しかし、もし世界の敵となった時は……》
「……」
蒼い炎の濃度が――光輝が増す。
《我が卿を殺す。それだけは覚えておくがいい》
「命を助けたのに、今度は俺を殺す?」
ガルンはよろよろと木から離れる。
邪妖狼は微塵も動かない。
しかし、その身から溢れた鬼気がガルンを下がらせた。
《もし生き延びる事ができたのならば、その事を夢ユメ忘れるな。我が名はクフル。卿の死を見つめるモノだ》
そう言うと、蒼い狼は一声吠えると森の奥に走り去った。
まるで蒼い鬼火が消え去るように。
ガルンはその姿を茫然と見送ってからその場にへたりこんだ。
足に力が入らない。
体が小刻みに震えている。
身体から洩れていた幽体の大半が消え去っていた。
蒼い炎は浄化の光だったのか。
身体に力が入らない。
急激に意識が遠退いていく。
降り出した雪の冷気が、いやがおうにも体力を奪っていく。
(駄目だ……今のこの身体でも出来る事……。せめて姉さんの遺体を見つけ……なきゃ)
ガルンは歯を食いしばると雪空の中を歩き出した。
降り出した雪が、体温と共に体力を根こそぎ奪って行く。
視界が段々と白く閉ざされ始めた。
靄が掛かったような、曖昧な白い世界。
雪の為か、意識が混濁して来た為かは分からない。
ただ、ガルンはその白い世界に埋もれて行った……。
目が覚めた時、自分が洞窟の中に居ることにガルンは気がついた。
鍾乳洞らしき空間は、何故か壁全体が鈍い緑の光りを放っている。
それが、付着した発光種の苔のおかげであるとは露とも思わない。
そのため洞窟内でもはっきりと目が利く。
「気がついた?」
視界の外から声がかかった。
声のトーンからガルンと似たような年の少女の声と分かる。
「誰だ……」
身体を起こそうとして、体が鉛のように重い事に気が付いた。
体の痛みは引いている。
だが、腕すら満足に動かせない。
真上から、金髪の少女の顔がひょこっと現れた。
コロコロした笑顔の上に赤い瞳が良く栄える。
「丸二日寝っぱなしだったからね。体の傷は驚異的に快復したみたいだけど、体力は回復してないでしょ?」
「……?」
目の前に現れた、屈託のない笑顔の少女に戸惑いを覚える。
「ハイハイは~い」
と、言いながら少女はガルンの上体を手で起こした。
「私はカナン、カナン・パルフィスコー。気軽にカナンって呼んでね!」
「……俺はガルン、ガルン・ヴァーミリオン」
太陽のような元気少女を、目をぱちくりさせながら見る。
この地方では見慣れない、巫女装束のような衣裳を身に纏っていた。
「おっ、ようやく目が醒めたか坊主」
今度は男の声がした。
首を声の方向――右に向けると、そこには40前半の肉感的な男が立っていた。
手にはぴくりともしない鹿が握られている。
「雪の中で凍死仕掛けていたのを見つけた時には、かなりびっくりしたぞ。あの状態でくたばらないとは運がいい」
「……」
「なんであんな獣道に倒れていたんだ?」
「……」
「だんまりか? まあ、それでもいいがな」
男は無造作に狩りたてらしい男鹿を、カナンの方に向かって投げ放った。
「親父やるじゃん! 今日は鹿尽くしだね」
カナンは喜々として鹿を奥の方に引っ張って行く。
ガルンはその様を見送ってから、男を訝しむ様に睨みつけた。
「あんた……なんだ?」
ガルンの視線に敵意を感じて、男は砕けた笑みを浮かべた。
「なんだ……って、せめて何者だとか言ってくれよ。俺はグラハト。まあ、剣術士って奴だ」
「……お前はなんだ?」
「だから、俺はグラハト、グラハト・パルフィスコー。しがない剣術士だっつうの」
「お前は【何なんだ】と聞いている」
ガルンの再三の質問にグラハトは苦笑いを浮かべた。
「お前、解るのか?」
「お前は姿形、気配も人間だ……。だけど、存在が変だ。“向こう側”から見ると別の何かに見える」
ガルンには二つの世界が見える。
こちら側と向こう側……蒼き狼の言う所の精霊界とやらである。
「ほー。その歳で達人……な訳はないな。特殊能力持ちか? それとも特殊な眼の持ち主か?」
グラハトは軽く口笛を吹いた。
看破した事を、心底驚いているように見える。
ガルンが精霊界側から見るグラハトの姿は酷くいびつなモノだ。
人の形をした絶えず流動する、黒い炎の渦のような揺らめき。
蒼き狼とは対照的過ぎる。
「俺は“ある剣技”を識った為に存在が変質してしまった。まあ、異端者見たいなものだ」
頬をポリポリ掻きながら少年の様に笑う。
だが、ガルンにはその笑みすら異質に感じる。
警戒心を全く解かないガルンの様子に、グラハトは小さく溜め息をついた。
「まあ~いいけどな」
そう呟くとカナンの歩き去った方向に足を運ぼうとして、直ぐに足を止めた。
ちらっとガルンを見てから、
「お前、なんで俺に助けれられたと思う?」
と問い掛けた。
「……?」
「お前も俺同様、存在が変質してるからだ」
グラハトはニヤリと笑うとそのまま奥に歩き去った。
「俺の……存在が変質している?」
愕然と自らの体を凝視する。
自身に重なるように見える姿は……。
蒼い狼の神々しい蒼い光とは似ても似つかない、青黒い酷く濁った、炎の渦の様に見えた。
《今のお前は悪性そのものに、世界の歪みになりつつある》
クフルの言葉が脳裏を過ぎる。
「世界の敵……」
何故かその言葉を発した蒼い狼の、酷く哀しそうな碧い瞳を思い出した。