死者の生還
西方大陸の中でも最も北部に位置する島国アーゼーイール。
かなりの寒冷地帯であり、陸から離れている事から生活環境は快適とは言い難い。
だが、広陵たる風景は雄大であり、古代遺跡もあるため観光スポットとしては有名な場所であった。
ルヌの村。
リヒャラ遺跡から西部に二十キロ、海岸にも近い地点にその村はあった。
雪の降るある日、その村は炎に包まれていく。
阿鼻叫喚の坩堝と化した村の外れに彼等の家はあった。
「姉ちゃん? 何が起こっているの」
窓の外に揺らめいて見える炎に少年は恐怖を感じていた。
もの心ついてから、このような光景を見た事が無い。
炎に照らされて逃げ回る人々の姿が、家々の壁で影絵のように目まぐるしく動いている。
「いいガルン、これを持ってベットの下に隠れなさい」
姉から渡されたのは一振りの短刀だった。
海難事故で亡くなった父の形見である。
ミスリル製で黒い鷹のマークが施された特注の品。
以前、遊びで使って以来一度も触らせて貰えなかった代物だ。
ガルンは酷く不吉なイメージを受けたが、姉の真摯な眼差しを受けて仕方なくベットの下に隠れた。
「何があっても、絶対に出て来ては駄目だからね?」
姉の諭すような顔は酷く悲しそうに見える。
姉が部屋の鍵を閉めてから数分後、ドアを蹴破るけたたましい音が直ぐにやってきた。
男達の野卑な声が聞こえ出す。
「おっ! 上玉発見! こんな村にもいるもんだな?」
「何ですかあなた達は! 村の騒ぎもあなた達ですね!」
ベットの下に隠れたガルンの耳に、上擦った姉の声が聞こえる。
「あ~危ないよ別嬪さん、何それ鉈? 人に向けたら危険だと親に教わらなかったん?」
「そんな事も教えないなんてヒデェー親だなオイ」
男達の下品窮まる笑いが起こった。
声からして人数は三人だと、それは隠れている幼いガルンにも理解ができる。
聞いた事の無い声。
少なくとも村の住人では無い。
「そんな刀剣をちらつかせている人間に、亡くなった両親の悪口を言われる筋合いはありません!」
「あ~ゴメン、親死んでんの? カワイソー。カワイソーだから俺の女にしてやるよ。毎日、両親の事なんか忘れるぐらい可愛がって……っ?」
声が途中で切れる。
「いっでえぇ!」
続いて野太い悲鳴が続いた。
「うわッ、ダッセ、斬られてやんの」
「……深いな。その傷、眼球までいっているぞ。ここらにはクレリック【僧侶】やヒーラー【治癒術士】などいまい。侮ったな」
男の笑い声に続いて、食器か何かが壊れる破砕音が続く。
「ふざけんな、ゴぉラ!」
怒声の後に何か妙な音がした。水が吹き出すような微かな音がする。
そして、何かが倒れる音が続く。
「うわ馬鹿! 喉切ったら死ぬって! あ~あ、スンゲエ血、せっかくの美人が勿体ねえ」
男達の言葉にガルンは愕然とする。
(怖い怖い怖い怖い)
涙を零して体を丸める。
震える体を抑えて声を殺す事しか出来ない。
「何か傷を縛るもの持ってこい!」
男の声と共に、辺りを荒らす音が響く。
「えっ? お前、顔巻かないの?」
布を切る音とびちゃりと床に血が滴る音が続く。
「その女の首に捲くって……。持って帰る気かよ? そいつ死ぬぜ多分」
「うるせえ、後で切り刻みながら犯らなきゃ、気がおさまらねぇ」
「そんな死にかけ犯って愉しいのかよ?」
男の馬鹿笑いが酷く響く。
(俺はこれでいいのか?)
ガルンは握った短刀を見つめた。
四歳の頃に母と父は海で死んだと聞いている。
母の乗る漁業船がシーサーペント【大海蛇】に襲われたのだ。
それを助けに向かった父も、そこで命を落とす。
それから五年。
たった一人の家族、姉のカーシャがガルンを育てて来た。
苛酷な土地で、されどガルンの為に弱音も吐かずに家庭を切り盛りしてきた少女。
何時も申し訳無さそうに微笑む姉の顔が浮かぶ。
(俺は……俺は……)
ガルンは短刀を強く握りしめると、素早くベットから飛び出した。
急いでドアを開けようとしたが、外から鍵がかかっているのかびくともしない。
夜な夜な家を抜け出すガルンに呆れて、カーシャが付けたものだ。
「くそ!」
助走をつけて肩からドアに突進する。
鈍い音。
肩が軋むように痛い。
「あっ? 他にまだ誰かいるみたいだぜ?」
ドアの外から声が聞こえる。
だが、ガルンは構いもせずに再度ドアに突進した。
蝶番が折れる鈍い音と共にドアが弾ける。
ドアと一緒にガルンは部屋から転がり出た。
ぶち当たった右肩に鈍い痛みがする。
骨にヒビが入ったようだが、怒りが痛みを凌駕していた。
「あっ?」
姉の首にカーテンを巻き付けている男が目に入った。
額から左目を通って左頬が切られている。
カーシャのつけた傷であろう。
「ネエチャンから手を離せ!」
猪のように低い姿勢で一気に走り込むと、父の形見を力の限り振り抜いた。
「ああ~?」
ボトリと床に二つ芋虫が落ちた。
鮮血が続く。
傷を負った男は、呆然と左手を上げた。薬指と小指が無い。
止め留めなく血が流れ出す。
床に落ちた芋虫のような物は彼の指であった。
「うがぁっ~?! このクソガキ!」
血みどろの男は常軌を逸した叫び声と共に、ガルンに鋭い蹴りを放つ。
右肩に食い込んだ蹴りに吹き飛ばされ、ガルンは後方の壁に叩きつけられた。
衝撃で調度品が散乱する。
「あっが?」
頭と肩を強く打ちすぎて意識が朦朧とする。
「このガキ!」
男が近づく音がするが、混濁した意識ではよく分からない。
立ち上がろうとして、右腕が動かない事に気が付いた。
肩の骨が外れている。
左手で立ち上がろうとした瞬間、何故か薬指と小指に信じがたい痛みが走った。
「?!」
ガルンが困惑している所に蹴りが来る。
顎を蹴り上げられて、歯が数本折れて口の中に鉄の味が広がった。
「ふざけやがって、この糞餓鬼が!」
男が何かを振りかざす。
ガルンは口から数本の歯と共に血を吐き出しながら、呆然と握られた父の形見を見た。
先程蹴り飛ばされた時に、落としたものを拾われたらしい。
立ち上がろうとした、左手の甲に深々と刺さる。
「~!!?」
余りの激痛で声が出ない。
「くそくそくそ!」
傷を負った男は悪態を着きながら、カーテンを引きちぎって左手に巻き出した。
「へえー、この短剣良くね?」
男の一人、顔に百足の入れ墨を入れた男がゆっくり近づいてくる。
さらりと短刀を引き抜く。
「うがあ!」
引き抜かれる痛みで、ようやく声が出た。
「オイ、ギュレー! 刀を貸せ! この餓鬼、叩き斬ってやる」
傷を負った男が、隣の細身の男から剣を荒々しく奪い取る。
その時だった。
遠くで聞き慣れない遠吠えが聞こえたのは。
男達の体が一瞬強張る。
「何だ? 雪狼か? 血の臭いを嗅ぎ付けやがったか」
百足顔の男が、奪った短刀を器用に回しながら窓を見た。
「マズイ。あれは邪妖狼の遠吠えだ」
「ヤヨウロウ?」
ギュレーと呼ばれた男の言葉を百足顔が繰り返す。
「邪精霊の一種だ、外見は狼だが中身が違う。高度な知識と魔術を使うと聴いた。この島にしかいない希少種だ」
「売ったら金になんじゃねえ?」
ケタケタ笑う百足顔を見て、ギュレーは首を左右に振った。
「俺でも勝てないと思うぞ? 逃げるが吉だ」
「そりゃヤバイ」
百足顔の顔が急に変わる。
ギュレーと呼ばれた男はそれなりの腕があるらしい。
「オイ、ガダラ、女を担げ!」
「マジかよ?!」
傷の男が血走った目で百足顔に命令する。
「とにかく、ずらかるぞ!」
男は一声吠えると家を出ようとして立ち止まった。
くるりと向きを変える。
苛々気にガルンの元に歩み寄ると、無造作に手にした刀を振り下ろした。
右太腿に深々と突き刺す。
「ぎゃっあ?!」
続いて左太腿。
悲鳴が続く。
傷の男はニヤニヤ笑いながら、
「俺は寛大だからな、生きるチャンスをやるぜ?
俺達はこのまま出てってやる。後はお前の運次第だ」
と、囁いて立ち上がった。
心底邪悪な笑みを浮かべて。
「まあ、狼に食い殺されないように気をつけるんだなあ?」
その捨て台詞と共に男は 歩き出す。
ガルンは痛みで気が遠くなるのを我慢しながら、連れ去られる姉の姿を目に焼き付けた。
「おまえ……ら、姉ちゃんを……返……せ……」
そう呟くのが、ガルンの意識の限界だった。
激しい鈍痛が意識に入り込んで来た。
体のあちこちが悲鳴を上げている。
鉛のような瞼を無理矢理こじ開けて、ガルンはまだ死んでいない事を確認しようとした。
見馴れた家の壁が見える。自分がまだ家に転がっているだけかと思い気や、ベットの上にいる事に気がついた。
「なんでベットに?」
強引に体を起こそうとして、ようやく目の前の奇怪な存在の姿に気がつく。
そこには陽炎のように佇む狼の姿があった。
ディープブルーの鮮やかな毛並み。
蒼い炎が体の回りから噴いているように見え、風も無いのに立て髪が揺らめいている。
いや、身体自体が青白い炎のように燃え上がっていた。
蒼炎の狼。
精霊体と物質体が同時に混在する上位霊獣、それが“デュアル・ウルフ”、またの名を“邪妖狼【やようろう】”と呼ばれる存在だった。
(……そうか、俺は喰われるのか)
全身の痛みのために心が折れている。
目の前の捕食者に抗う術は、今のガルンには残されていなかった。
四肢が既に壊れている状態では、満足に立ち上がることすら出来ない。
《我は卿を喰らう気はない》
頭に澄んだ声が聞こえてきた。
思考を読み取られた事より、その清廉な言葉に心が震えた。
目の前にいるのは畜生などではない。
まるで、もっと、もっと上位の何かだと本能が理解する。
「俺を……喰わない?」
仰向けの体を何とか左腕で俯せにしようとして、掌の刀傷の痛みに顔をしかめる。
しかし、傷口から血は流れていなかった。
《我は必要以上の命を刈り取りはしない。自らの嗜好を潤沢にする為だけの搾取など、大地を汚す愚かな行為だ》
「……」
幼いガルンの思量と知識では、蒼き狼の言葉は難解であった。しかし、そこに気高さがある事だけは感じ取ることができる。
「俺は……どうなるん……だ?」
口を開く事もきつくなっている事に、ようやくガルンは気がついた。
顔も蒼白である。
血は止まっているが明らかに血液が足らない。
チアノーゼのような様相が見て取れる。
《このままなら卿は死ぬ。卿の躯体はほぼ死んでいる。だが、卿には生と死の選択を与えよう》
「選択……?」
《それが、我が喰らった卿の姉の願いだからだ》
「……?!」
思考が停止する。
眼前の狼は何と言った?
混濁する意識の中に、まるで氷柱を差し込まれたような冷ややかな寒気が意識を鮮明にする。
「ねえちゃんを……喰った?」
起き上がる気力が完全に潰えていく。
《我は卿の姉を喰らった。正確には姉の幽体だが》
「……」
《この村から逃げるように去る三人組が、我への贄として差し出したのだ》
その言葉をガルンは茫然と受け止めた。
我慢出来ずに鳴咽が洩れ出す。
「嘘だ……嘘だ、嘘だぁ~!!」
悲鳴に似た金切り声を上げると、自分の矮小さに涙が溢れて来た。
《我は生命体の幽体を糧とする。幽体とは生命体の精神体に等しく、全ての想いの写身でもある》
ガルンの姿を、優しげな瞳で見ながら狼は言葉を続けた。
《卿の姉は、自らを差し出しても卿の命を救うことを懇願した。それに我は応えることにした》
その言葉を聞いて、ガルンの嘆きの声は小さくなっていった。
「ねえ……ちゃんが……」
(俺は最後までねえちゃんに……迷惑をかけつづけた)
歯を食いしばる。
一緒に唇を噛み締めて血が溢れ出す。
だが、満身創痍のガルンにはそんな事はどうでも良い事に感じた。
「俺はどうすれば助かる」
ガルンは壊れた右腕と、痛む左掌を無視して、体を引き起こす。
蒼き狼は一瞬沈黙した。
ガルンの瞳の奥に炎を見た。
漆黒に燃える。
憎悪の焔を。
蒼き狼は、このか弱き生命に何故か戦慄を感じた。
これは蛹だ。
禍々しい負の力を詰め込んだ異質な存在。
羽化すれば処構わず死を撒き散らす、厄災に変貌するような不吉な予感。
だが、蒼き狼は慈しみの視線を替えはしなかった。
《我の血を与えよう。我の体は精霊体でもある。我の血が体を廻っている間は精霊体としての側面を持つ事ができる》
「精霊体?」
切れ切れな声が言葉を反芻する。
《精霊は受容体を持たない。肉体の干渉を受けないのだ。その間に大地のジン〈精〉を吸い上げて肉体を回復させるか、我のように幽体を喰らえば かなりの早さで体を修復できよう》
その言葉にガルンの口元が微かに吊り上がった。
助かる喜びと言うよりも、復讐出来る可能性が残されていた事への歓喜に近い。
ガルンは何の躊躇もせずに、
「血をくれ」
と呟いた。