忌み子の姫 終詞
漆黒の闇を抜けた先は、今度は真っ赤な闇が待ち受けていた。
僅かに覚えた浮遊感。
自分の身体が何処かに落ちて、沈んだ事は理解出来た。
視界全てを覆うヌルッとした赤い闇。
身体に纏わり付く不愉快さに、少女は直ぐに浮上する選択を取った。
たいした高さから落ちた分けではなかったらしく、泳ぎと言う事を習った事が無い少女でも水面に出るのは容易だった。
「……」
少女は自分が妙な形の硝子の瓶の中にいる事に気がついた。
外から見れば、巨大なクラインの壷と呼ばれる、変わったモノの中に放り込まれたと分かるだろう。
その中には並々と赤い液体が満ちている。
少女はそれを瓶内に満ちる匂いで看破した。
「人の血か……悪趣味な事じゃな」
顔を歪めて周りを見回す。
瓶の上部に出口はあるが、それは円を描いて“瓶内部を抜けて下に繋がっている”。
少女はクラインの壷の、湾曲して下に繋がっている、内部面の出っ張りで何とか身体を支えた。
「これは……驚いたな。これだけの汚れの中で、汚れていない」
《身体に纏わり付く呪いと一緒だ。アレの神気は規格外だ……》
硝子の外から声が聞こえる。
硝子越しの為にハッキリは見えないが、そこには黒いローブに身を包んだ、魔術師然とした老人が 立っていた。
干からびた顔をは痩せ細り骸骨に近い。
その横には黒い塊が立っていた。
影よりなお濃い、燃えている黒い大男の人影。
背中から蠍の尾のようなものが八本生えているように見える。
牡牛のような頭の部分には爛々と輝く、朱い瞳が四つだけ異質に瞬いていた。
少女は“それ”が自分を連れ去った存在だと、直感で理解した。
「貴様達が黒幕とやらかや? そちらの黒いの……それも千眼の魔神の一部を憑衣させた存在のようじゃな」
「流石、パリキス・フラガ・メルテシオン猊下。たいした眼力だ。出来損ないの王家の中で、ただ一人失われていない神聖な存在なだけはある」
少女の言葉に、魔術師は
笑みを浮かべた。
パリキスは不愉快そうな表情を崩さずに魔術師を睨み据える。
「お前の目的は……言わずとも察しはつく。身代金目的や多国の密偵ではあるまい? わらわを使って千眼の魔神バロール・フェロスを呼び寄せるのが本命であろう?」
「何故そう思われる?」
「簡単な事。人質にするなら王位継承がもっと高い人間を掠えばいい。諸外国ならば我が王家の序列と能力が比例していると勘違いしているはず。よって、お前はわらわの能力を視野に入れて拉致した人間と仮定できる。大方どこかの邪神崇拝の教団の一味と言ったところかや?」
フムと呟き魔術師は顎を摩る。その手も干からびてミイラの様だ。
「良い推理ですな。猊下の予想はかなり真実に近い。しかし、根本的な動機が抜けている。だから推量が浅い」
「動機と申すか……?」
「諸外国にも漏れていない猊下の情報を、何故、私が知るとお思いか?」
そこで単純な見落としにパリキスは気が付いた。
(内部の手の者か……)
パリキスの事情も、行動予定も、警備体制も、全て知悉していなければ、今回の計画が成功するとは考えにくい。
当然と言えば当然である。
護衛をしている王宮近衛騎士団は一騎当千揃いだ。
錬金魔術師の裏切りだけでは説明がつかない。
「私は幽冥神ハルデロスの元大神官ヒュプナイ・クレゼント。権力争いに敗れて辺境に飛ばされた者です。猊下のお顔も何度か拝謁した事がありまする……」
「……」
「私は何時か、自分を陥れた奴らに復讐する為に、辺境で封印指定になっていた魔道書“サウザント・アイズ・グリモア”を手に入れ、魔道の力を身につけました。そして、今回、戦律神の権力を失墜させるための企てに乗ったのです。しかし、“奴ら”の思い通りにもなりませぬ。あんな腐った神の使徒どもに、これ以上王国を好き勝手に蹂躙されるのは遺憾の至り」
クレゼントと名乗った魔術師の形相が変わっていく。
骸骨のような顔は憤怒に歪んでいた。
「メルテシオンの十二神教は王家あってのこそ。それを分からぬ愚か者どもには、もう任せておけぬのです」
その様子をパリキスは寂しそうな瞳で眺めた。
ああ、また権力に取り付かれた憐れな男が居たと――見飽きた愚鈍な人物の一人を見続ける。
「して、それと魔神降臨の儀式と何の関係がある? 魔神の力でメルテシオンを滅ぼす気かや?」
パリキスの言葉にクレゼントは首を振った。
「とんでもない、私は新たな神の出現を持って、“13番目の教祖”になるだけです。そして、今宵の元神権限を得て、メルテシオンの中枢を牛耳る。私の手でこの歪んだ国を正すのです!!」
高笑いを始めた男を見て、パリキスは悲しげに微笑んだ。
邪神の力で国を平定すると言う異常な妄想が、既に常軌を逸している事に気付いていない。
この男は既に心が壊れているのだ。
急に真横に居た魔人が後を振り返った。
瞳の輝きが増す。
「ほおー? まだ奪還者が来るか。やれやれ」
クレゼントは首を三度振ると、後方に聳える出口に向かって歩き出した。
横の魔人は影に沈む。
「お待ちください猊下。もうじき準備も整いまする。今は五月蝿い小蝿を駆除して参りましょう」
クレゼントはそう囁くといびつな笑みを浮かべて扉を開け放った。
地下60階は下った辺りで、ガルンの動きの鈍さに拍車がかかっていた。
階下に潜んでいた密教系の魔道士のレベルはたいした脅威ではなく、ガルン達は全てを屠って、驚異的な早さで最下層に到達しそうであった。
しかし……、地下に潜れば潜る程濃くなる瘴気にガルンは当てられていた。
体力の枯渇がそれに追い打ちをかける。
「情けない事だな? この程度で根を上げるのか」
ゼロの言葉は最後尾を走るガルンへだ。
大きく息を吐く顔には、油汗が張り付いている。
「ペースを落とすか?」
アカイの言葉にガルンは首を振る。
「姫はこの先だ。もうじきだ。だが……」
ガルンはそこで言葉を切った。
(おかしい……姫の神気なら、ここら辺りは全て浄化されているはずだ)
アカイは不思議そうに顔を窺うが、ゼロの表情は渋い。
ゼロは何かに気付いたようだ。
「この血臭は……」
そうゼロが呟いた瞬間だった。
まどろんだ頭のガルンですら、ハッキリと分かる鬼気。
真下に感じる凶悪な存在の揺らぎ。
「下だ!」
ガルンの叫びに二人は反応した。
飛びすさる三人の足元、影から蠍の尾のようなものが飛び出した。
それがハ本。
ガルンとアカイには二本。ゼロには四本の蠍の尾が向かう。
跳躍した三人の内、ゼロの動きだけが空中でいきなり硬直した。
「!?」
ゼロが影から覗く、雄牛の頭に輝く四つの瞳に気づいたのは、蠍の尾に身体を貫かれた後であった。
蠍の尾を空中であしらっていた二人は、ギョッとして床に着地する。
「こっのお!」
ダークブレイズが火を吹く。
それがゼロを貫いた触手を狙っていると、影の主は直ぐに気付いて、素早く引っ込めようとした。
だが二つの予期しない出来事がそれを阻んだ。
突如視界が真っ赤に染まった事と、戻そうとした触手が万力のような力で止められたのである。
魔炎はゼロを貫いた蠍の尾を、四本とも一瞬で焼き切った。
苦鳴を上げて敵は影に潜り込む。
その影を覆い隠すように血潮が床に流れていく。
ゼロは両手で握りしめていた四本の触手を引き抜くと、片膝をついた。
白い王宮近衛騎士のマントが血を吸って赤く染まっていく。
「オイ! 大丈夫か!」
ガルンとアカイが、膝を着いたゼロを守るように陣取った。
ゼロの顔色が青ざめていくのが、手にとるように分かる。
「アレは……やっかいだぞ。また魔眼の魔人だ。影渡りの能力に、“制止眼”の力を持っている」
「制止眼?」
「視覚に捉えた事象を空間に止める力だ。アレを正面から打ち破るなら、ヤツと同等か、それ以上の魔力を必要とするはずだ……」
ゼロはそう呟くと立ち上がった。微妙にふらついている。
「流石の吸血鬼も、今のはキツイようだな?」
ガルンの言葉にゼロは苦笑した。
両肺と内臓を貫かれたのである。人間なら即死だ。
「お前らこそ気をつけろ。あの触手の尖端の針は、神経毒を持っている。人間なら一撃で致死量だ」
肺と内臓が爛れてきているのか、ゼロの口元から血が滴り始めた。
立っている事自体、常識はずれに近い。
相手は影を移動し、制止眼で動きを止め、一撃必殺の毒針を撃ち込む。
シンプルだが、効果的な戦法である。
ゼロが厄介な相手と言ったのも頷けるところだ。
「まあ……相性を考えれば、俺が相手をすべきだな。レッド・インパルスはどうやら効くようだしな」
アカイが周りを見渡す。
長い直線の回廊はかなり広い。
横幅は十メートル。高さはそれより上だろう。
天井には等間隔に、微妙に回転する光を放つ青い球体があり、それによって回廊はある程度明るい。
問題は左右に立ち並ぶ、柱の羅列である。
それのおかげで、通路には影が満ちている。
制止眼の影魔神にとっては、格好の狩場であろう。
ゼロは流れ出る血を眺めてから、ガルンに視線を移した。
「こいつは我が片付ける……と言いたい所だが、
能力制限されている今の我では無理だ。“制止眼”だけは対応出来ない。アレは我の邪眼より強力な魔眼だ。アレを封殺するにはアカイが必要になる」
「三人で倒すか?」
「いや……姫の状態が気掛かりだ。お前は先に行け」
ゼロは顎で先を示す。
遥か前方には大扉が見えた。
「姫への恩義。命で返せ」
「了解だ」
ガルンは脚力にチャクラを回す。回転率の低さが気に食わないが、今はそんな事にこだわっている時では無い。
ガルンは一陣の風となって走り出した。
それを見ながらゼロの瞳が赤光を放つ。
「アカイ! ガルンの後方、五時の方向だ」
ゼロは叫びながら腕を振るう。袖口から銀色の布が飛び出し、影から飛び出した蠍の尾をに包まった。
「おうよ! 心意象合拳・空鎖功」
黒い人型の時に使った、見えざる気功波が大気を走り、蠍の尾にヒットする。
アカイの気功は内部破壊。身体を伝播する攻撃だ。
触手は身悶えながら、影に引っ込もうとしたが、布が釣糸の様に引き上げる。
「さて……命懸けのモグラ叩きと洒落込みますか!」
そう言うとアカイは拳同士を叩くと、軽く中段突きの構えをとる。
「こんな雑魚に構ってる場合では無いからな」
鼻を鳴らしてゼロは、渾身の力で布を手繰り寄せる。
滴り落ちる血が、真綿に血を垂らしたように床に広がっていった。
ゼロとアカイの足止めのお陰で、ガルンは扉前まで近づけた。
この先に姫の存在の光を感じる。
ただ、酷く汚れた気配が纏わり付く。
(姫の浄化が効いていない? どう言う事だ)
扉に近付こうとして、ようやく扉付近にいる、酷く邪悪な存在の光に気がついた。
精霊の眼も、疲労からか万全では無い。
だが、この異質さは尋常では無いと直ぐ気付く。黒い汚泥と死の腐臭が纏わり付く異様な輝き。
今まであった中で1番気色が悪い。
(なんだコイツ?! 魂が無い? アンデット……?)
扉を守るようにローブを身に纏った男が姿を現す。
この男の登場で、地下から立ち上る幽気の濃さが更に増す。
ガルンは頭痛と、喉元まで上がって来た吐き気を何とか我慢した。
(駄目だ、後手では気が狂う!!)
手にしたダークブレイズを振りかぶる。
「オン・シャピラダ・カッタ・サッカ!」
ローブの老人――クレゼントは両手で印を結ぶと小さく囁いた。
肩辺りのローブにいきなり人面相が現れると、耳をつんざく悲鳴が上がる。
脳が焼き切れるような絶叫。精神の根幹に響く、不可解な圧迫感。
魔剣の炎が揺らぐ。
ガルンは歯を食いしばって、一刀を叩き付けた。
肩口から胸まで、人面相ごと切り裂き、赤い炎がローブを飲み込む。
「くっくっ、この程度の炎など効かんぞ」
燃え盛る炎の中でを腕を上げる。
火だるまに成りながらも、クレゼントは薄く笑った。
「ナウマク・サウマンダ・ボダナン・オン・ゾロン・クウカシャラ・ビギジナン・ヒドゥン」
クレゼントの元に、階下から無数の幽気が上がって来るのが分かる。
死霊、悪霊、怨霊の塊。
ガルンは背筋に走る寒気で鳥肌が立った。
この下にあるものにようやく気がついたのである。
儀式の為に集められた、大量の人々。
この死霊の数で考えれば、下にあるのは大量の死体の山だろう。
単位は数百。
間違えれば千に届く。
「このクソ外道が!」
ガルンはダークブレイズを振りかぶろうとして、腕が動かない事に気付いた。
愕然と身体に纏わり付く、死霊の山に驚く。
(エクトプラズム!? 違う! コイツは……!)
死霊などの霊体、幽体には物理防御は意味をなさない。
ガルンは直ぐさま、全てのチャクラを全力回転する。対抗するには霊妙法しか無い。
万全の状態ならば、魔剣ダークブレイズの青い炎以上で駆逐も可能ではある。だが、今のガルンでは出力不足だ。
「我が邪術は死霊を操る怨念の法術。霊体防御が無い、ただの人間には防ぐことすら叶わんよ」
ガルンを縛る悪霊の数は増え続ける。
階下は死体の海だ。
操る死霊は無尽蔵に近い。
「怨霊呪咆」
クレゼントの呟きと共に、浮遊するゴーストの群れがガルンの身体を貫いていく。
「!!!」
魂が引き裂かれる痛みと、精神を打ち砕く痛みが続く。
(せ……精神汚染に霊的攻撃……)
崩れ落ちる身体を気力で支える。
ギリギリで使った霊妙法での霊体防御が間に合ったようだ。
ただの人間ならば即死であろう。
ガルンはグラハトに聞いた、闇主側の能力の一つを思い出した。
「てめぇ……。 呪禁道士【じゅごんどうし】かっ」
ガルンの呟きにクレゼントは眉を動かした。
炎に包まれた状態なので、ガルンには分からない。
「まだ息がある? それに貴様、何故それを……?」
「そうそう……、やられる……か…よ!」
微かに発生させた霊威力で、縛る死霊を滅却する。
だが、視界が揺らぎ、身体も思うように動かない。
「聴きたい事は数々あるが……、まあ……いい。貴様も我が神の肥やしとなれ」
クレゼントは朗々とタントラを唱え出した。
「く……そ」
ガルンは三度魔剣を振りかぶるが、持つ腕が震え始めた。
魔剣と妖刀の精神喰いすら、キツくなって来ている。
「終わりだ」
クレゼントが腕を振るうと炎は一瞬で消し飛んだ。
焼け切れたローブの下から、ミイラのような身体が現になる。
焼け爛れた皮膚が、急速に再生していくのが見て取れて、ガルンは目を見張った。
「沈め。“罪縛蓮獄”」
クレゼントの声が響く。
ガルンの足元に闇が拡がった。
「?!」
身体に纏わり付く死霊が、そこにガルンを引き寄せる。
身体を縛り付ける死霊の数はぞくぞくと増え続けていく。
闇に足が沈む。
「ふざけやがっ……て」
チャクラを強制的に練り上げる。対抗する為には霊的クラスの攻防能力が必要だ。
ガルンの身体が微妙に動き出す。
死霊が次々に砕け散っていくのを見て、クレゼントは、
「ほう」
と、呟いた。
「対霊能力持ちとは。ならば……」
クレゼントは印とタントラを素早く唱えると、両手をガルンに向けた。掌に人面相が現れる。
その口が大きく開かれると、黒い楔が迫り出す。
「ここまでだな」
撃ち出された楔は、満足に動けないガルンの右胸と腹部に突き刺さった。
激痛が精神集中を崩す。
チャクラの回転率が急速に低下するのが分かる。
刺さった楔から霊気が抜け落ちていく。
(この楔……。ただの武器じゃ……な……い)
ガルンの身体は一気に闇に飲み込まれ出した。
ダークブレイズの炎も消え去る。
「その呪具は対霊儀器だ。貴様には過ぎた葬送品と言える、有り難く貰うがいい」
「干物野郎……が……」
ガルンはそう呟くと闇に飲み込まれた。
クレゼントは床の闇が消えるのを確認してから、遥か前方にいるゼロとアカイに視線を向ける。
「あの出血ではあの女は死ぬだろう……。一人になれば後は時間の問題。こちらはゆるりと儀式を執り行うとしよう」
そう呟くと、クレゼントは姫のいる部屋へと足を運ぶ。
遥か後方でも、アカイは気の探知でガルンの消失に気がついていた。
「おいおい、あの坊主やられちまったぞ」
周りを注意しながら苦笑いを浮かべる。
それはゼロも感じていたのか無言だ。
もともと色白だが、今では顔面蒼白で明らかに血を失い過ぎている。十メートル四方を満たす血は完全に致死量にしか思えない。
「まさか、お前もくたばるとかは言ってくれるなよ? 流石に俺一人では骨が折れる」
アカイの言葉にゼロは笑みを零した。
唇が釣り上がる。
何故か唇の赤い色だけが、浮いている様に見える。
「これはわざとだ。これは蜘蛛の糸ー―」
「蜘蛛の糸?」
アカイが疑問の声を発した時だった。
ザワリと血が微かに振動する。
数コンマゼロ秒。
それをゼロだけは感知していた。
「かかった」
影から飛び出した触手に、“真下から”血が飛び上がり纏わり付く。
それは液体金属の用に硬化して固まった。
先に釣り上げようとして解かれた布とは、分けが違う。
「釣り上げるぞ! アカイ!」
ゼロは大声で叫ぶと床に、いや、血の上に掌をつける。
血が、まるで穴に流れ込むように、蠍の尾が出ている影に吸い込まれていく。
数瞬で、影からこの世のモノとは思えない絶叫が零れ出した。
聞いた者の心臓を、鷲掴みにするような狂気の怪異音が。
そして、影から間欠泉のように血が吹き出す。
赤と黒が混じり合った異質な血液。
そこから、身体中を血の槍に貫かれた魔神が
吐き出された。
「貰った!」
アカイが滑るように前に出る。
落下する魔神に合わせて、渾身の拳を心臓に叩き付けた。
同時に魔人の瞳が輝く。
だが、その光は赤く濁っていた。
アカイのレッド・インパルスは領域能力だ。
“見る”では遅い。
「心意象合拳・崩脈裂華!」
腹に座るような、鈍い音が炸裂した。
魔人の背中が弾け飛ぶ。
気を撃ち込み、心臓に血流を集めて爆ぜ割る奥義は、魔人にも例外無く効果があったようだ。
吹き飛ぶ魔人の亡きがらを眺めてから、アカイは息吹を吐いた。
額の汗を拭ってから、アカイはゼロに向き直る。
「何とかぶっ倒したが……最後には坊主を倒した、あの化け物がいるぞ。何だあれは? お前のお仲間か? 坊主に斬られて丸焼きにしても死なないなんて冗談じゃないぞ」
アカイの質問には答えず、ゼロは何故か視線を下に向けたままだ。
釣られてアカイも床を見る。
「まだ、他に影野郎がいるんじゃ無いだろうな?」
「いや……影にはもう誰もいない。いるのは更に下だ」
「?」
ゼロは床ではなく、さらにその下を見つめているようだった。
そのまま、ゆっくりと立ち上がる。
「化けるか……死ぬかは貴様次第だ」
ボソリと囁くと、先の門を見つめる。
「奴はアンデット化した怨霊使いだ。気を抜くと死ぬぞ」
ゼロはそう呟き歩き出した。
混濁した意識を始めに刺激したのは臭いだった。
吐き気を催す程の血臭。
頭が重い。
体に力が入らない。
体中に鉛を仕込まれたような経験は一度ある。
雪山で死にかけていた時と同じだ。
力の無い拳が、それでもダークブレイズを固く握りしめている事に気がついた。
微妙に感じる手応えが、まだ死んではいないと確信させる。
チャクラを活性化させて 体力を回復――は出来ない。
胸と腹に刺さった儀式楔が力を吐き出してしまう。
ゆっくりと重たい瞼をこじ開けた。
真っ暗だ。
一瞬失明したのかと嫌な予感が走る。
(何処だ此処は? とにかく楔を外さないと死ぬ)
楔を抜く事で出血が激しくなる可能性は高い。
後はエーテル治療が間に合うのが早いか、出血死するのが早いかの勝負でしかない。
(何もしないで死ぬ選択は有り得ないな……)
何故かグラハトの死に際を思い出した。状態は近いのかも知れない。
鎮静化していた心の焔が燻り出した。
ガルンの根源には、怒りを燃料にする機関が存在しているとしか思えない部分がある。
怒りを力に変える。
最後の力を振り絞って、二本の楔を抜き放つ。
ジワリと血が溢れ出すのを感じた。
(焦るな。ゆっくりでいい)
チャクラが活性化して行くのを感じる。
全てをリンクさせて回転率を上げていく。
胸部と腹部のエーテル治療に入る。傷口だけはなんとしても塞がねばならない。
ただ寝そべっていると、何か耳に音が聞こえた。
耳に意識を集中する。
それが、か細いうめき声だと理解するのには一分はかかった。
目の前に青白い光りが見え出した。一つ、二つとどんどんその数は増える。
暗闇に溢れ返る光の量は、まるで夜空の星のように瞬き出した。
(……? 違うここは暗闇だ。見えているのは精霊の眼の方だ)
意識を集中させる。
存在の光が、全て人の形に見え出した。
幼い子供から老人。
種族を選ばず、老若男女異種族がまるで祭でも開催されるかのように立ち並ぶ。
だが……。
全員が全員啜り泣いている。
そのうちの何人かは、急に泣き声が恩讐の呻きに変わった。
存在の光が黒く濁っていく。それは姿形も餓鬼のように変貌しだした。
それは、ガルンを闇に引きずり込んだ悪霊そのものに見える。
(まさか……ここは)
ガルンは意識を元に戻した。
通常の瞳に見える風景は闇だけだ。
深呼吸して、何とか気合いを入れる。
精神力をゆっくりとダークブレイズに注ぎ込む。
すると魔剣に小さな炎が燈った。
弱々しい光は直ぐにも消え去りそうだが、松明代わりにするには十分だ。
ガルンは顔を傾ける。
光に照らし出された光景に絶句した。
始めは荊の山かと思った。
赤い刺が大量に飛び出し、視界一面をそれが覆っていると。
だが違う。
それは、よくよく見ると“人のパーツ”をしていた。
手や足、頭も全てバラバラ。
手足や、胴体のあちこちから突出した骨の部位が、荊の刺の様に感じたのだ。
まるで搾り果てた果物の皮のように。
無造作に食い散らかした、コヨーテの食べ滓のように。
ただ、それが一面を覆っている。
死体の山。
いや、死体の海と言える。
ガルンは沸き上がってきた吐き気を、我慢することは出来なかった。
既に何度もの嘔吐で内容物は無い。
ただの胃液飲みだ。
口に広がる酸っぱい胃液の味は、それでも自分は生きていると実感させる。
「なるほど……そう言う事か」
心の底にどす黒い焔が燈る。
「ここは死体処理置場……そして、儀式用の供物置場……」
血を砕き取られ、命を搾取され、死んだ後の魂すらむしり取られる地獄の聖地。
ガルンがこの塔に入ってからの吐き気の終着地点。
死肢累々と並ぶ亡きがらの一つとして、自分も此処に放り込まれたと言う事実。
(こんな所で死ぬ? 有り得ねぇ! あの干物野郎は絶対に屠る!)
ガルンの目付きが変わる。
身体の奥底で新たな光が輝く。七ツ目のチャクラの煌めきが。
地獄の海底で波打つ、恩讐の声が聞こえてくる。
老若男女の悲痛な呻き。
死んだ人々の怨念の訴え。
「良いぜ……。この人々の怨念。俺が貰い受ける」
ガルンは死者の海の中で、ゆっくりとその身体を立ち上がらさせた。
ガラスが細かく振動した。
自身を封じ込めたクラインの壷全体に、いや部屋全てが微かに震えている。
パリキスはゆっくりと前方の床を眺めた。
真下から感じる異質な気配には――見に覚えがある。
パリキスは何故か悲しそうな表情を浮かべた。
部屋内部で、儀式用の魔法陣を起動させていたクレゼントは、目敏くその様子に気がついた。
「何が悲しいのですか猊下? 」
心底心配している様は、やはり異常だ。
崇めながら汚し、魔神の依り代にしようとしている行為の矛盾。
パリキスは同じ視線をクレゼントに向けた。
「お前も、自らの姿を省みてはどうかや? その姿では……メルテシオンの民はついてはこぬ
慈悲ど慈愛に満ちた視線にクレゼントは、殆ど分泌しない生唾を飲み込んだ。
失った罪悪感が沸々と蘇ってくる気がする。
「何をおっしゃる。私は国を見続ける為に、人間も辞めました。不死族でも最高位存在“ヘルハデス”にクラスチェンジしています。粉骨砕身、猊下の為に働きまする」
にんまり笑う顔は好々爺のつもりらしいが、干からびた骸骨の様な顔では、赤子を貪る餓鬼の顔にしか見えない。
「ハイ・アンデットが統べる神の国。それはそれで面白いかも知れぬ……。しかし、それも残念ながら叶わぬ。わらわの騎士が来るのでな。お主を滅ぼすために地獄の底から……顕れる」
パリキスの言葉に答えるように扉が開け放たれた。
ゼロとアカイが颯爽と姿を表す。
「姫! お助けに参りました!」
「うは、何だこの部屋は?」
二人の登場にクレゼントは歯軋りをし始めた。
悪鬼羅刹のような表情は、干からひだ顔には似合っている。
「どいつもこいつも! 糞虫どもが沸いてきおって!」
クレゼントが印を結ぶ。
「アカイ!」
「了解!」
ゼロは叫ぶと猛然と走り出す。
アカイはその場で腰を落として、左腕を斜め下に構えて右拳を引く。
「オン・カシャバタラ・キルヒドウ・ソワ……?」
クレゼントの動きが一瞬固まる。
レッド・インパルスの初撃を、平然と対応できる人間はそうはいない。
「心意象合拳・空鎖功!」
不可視の気功波がクレゼントを襲う。
枯木の様な身体はいとも簡単に吹き飛んだ。
それに平走するようにゼロが追い駆ける。
両手を振るうと、袖口から白銀の布が飛び出した。
絡め取られたクレゼントはそのまま、梃子の原理で地面に激突した。
「砕け散れ」
ゼロが両手を引く。
まるで枯木を折るような、軽い破砕音と共にクレゼントの身体は圧し潰れた。
四肢と胴体を砕かれた姿は、干からびた芋虫のようである。
「幾ら能力が強力でも、所詮魔道士。 呪文さえ唱えられなければどうと言う事はない」
ゼロは不敵に笑う。
しかし――クレゼントは身体を潰されても、平然とした顔でゼロを見つめた。
いや、正確にはそちらを向いただけだ。レッド・インパルスは今だ健在だ。
クレゼントは口を大きく開くと、黒い霧を吐き出した。
「?!」
何か危険を察知したのか、ゼロは布を解いて後方に跳躍する。
五メートル程後に着地した足がよろめいた。
口を抑えて方膝をつく。
「これは……毒のブレス……」
ゼロの顔色が青ざめていく。
制止眼の魔人の毒も抜けていない状態では、二度目の毒は致命的だ。
「ふん……ナウマク・サウマンダ・ボダナン・オン・ボロン」
クレゼントの身体がまるでバネ仕掛けの様に立ち上がる。
異様な軋み音を立てながら、四肢が元に戻っていく。
「“ヘルハデス”の不死性は、数ある種族の中でもトップクラスだ。身体を粉砕しようと私は滅びぬ。そして……」
クレゼントの足元から無数の死霊が溢れ出る。
それを見てゼロとアカイの表情が強張った。
「私の視界を塞いでも無駄だ。こやつらは貴様ら生者への渇望、恨み、嫉妬、羨望で動く。逃げられはせんよ」
ひょいと上がった腕に従うように、死霊が二人に向かう。
ゼロは舌打ちして身体を立て直す。
アカイは既に後方に下がっている。霊対防御の無いアカイでは霊体攻撃は持ってニ撃だろう。
「ちっ……ライザックを連れてくるべきだったか……神聖魔法があれば……」
そこでゼロは、奥に見えるクラインの壷に目を向けた。
そこには、こちらを見つめるパリキスの姿が見える。
「……。まだ策はある」
ゼロは意を決すると前進した。
目の見えないクレゼントは、走り来る足音に気付いて眉を寄せた。
自ら死にに急ぐ理由が分からない。
干からびた腕を振るうと、死霊達がゼロに猛進する。
走り寄るゼロの身体を、死霊達は一瞬で貫いた。
いや、正確には摺り抜けたが正しいだろう。
「おっ?!」
と、声を上げたのはアカイだ。
何故ならばゼロの身体が霧と化したからである。
クレゼントはアカイの声を不振に思いながらも、目が見えないので状況が理解出来ない。
漂う霧がクレゼントを越えて、クラインの壷の前に集まるとゼロに姿を変えた。
「姫! お下がりを!」
ゼロの言葉にパリキスは直ぐに従い、血の海に飛び込むと1番奥に移動した。
「はあ!!」
ゼロが渾身の力で硝子に拳を打ち込む。
吸血鬼の腕力はオーガ等の鬼族に匹敵する。
鈍い音が響く。
硝子に血飛沫が着いた。ゼロの拳は砕けていた。
ゼロの目が微妙に細まる。
クレゼントはそれに気付いて、ようやく振り向いた。
「……後に移動しただと?」
そこで、何かに気付いたように猛禽のような笑みを浮かべた。
「そうか……貴様が音に聞こえたた、王国の守護者――王立近衛騎士団のデイ・ウォーカーか」
ゼロはそれを無視して、拳を振るう。
両拳が潰れる嫌な音が響いた。
「無駄だ。その硝子は妖精琥珀で出来ている。妖精を魂ごとすり潰して精製した特注品だ。例えジャイアントクラスの一撃を受けても砕けはせんよ」
「くだらん」
ゼロは砕けた両拳でひたすら硝子を殴る。
鈍い衝撃が走る。
吸血鬼は驚異的な再生能力を持つ。拳は瞬時に再生しているようだが……、これでは殴る度に拳が砕けていくだけだ。
「巨人の一撃に耐え得ると言うならば、巨人の一撃を越えるまでだ」
その言葉にクレゼントは笑い出した。
「まさか吸血鬼から根性論を聞くことになるとは……。無駄だ。貴様が数百発、拳を振ろうが砕ける事は無い」
その言葉に、今度はゼロが笑い出した。
「くだらんと言ったぞ! 数百発で駄目ならば数千発。それで無理ならば数万発、拳を撃ち込むまでだ」
鈍い音が響き渡る。
拳が潰れ続ける不愉快な振動音に混じって、雨音の様なものが微かに響き出した。
「?!」
音しか聞こえないクレゼントはようやく理解した。
クラインの壷にヒビが入り始めた事に。
唖然とひび割れる音を聞いていたクレゼントは、直ぐに我に返った。
印とタントラを唱える。
その身体が綺麗に吹き飛んだ。
ゼロに気をとられ過ぎていて、アカイの存在を失念していたのだ。
「情けないが牽制はするぞ!」
アカイは死霊をのらりくらりと躱しながら叫ぶ。
ゼロは微笑すると、拳を硝子に叩き付けた。
氷山が割れる様な甲高い音と共に亀裂が入る。
「はあぁ!!」
ゼロは裂帛の気合いを乗せて、拳を振り上げ――た所で静止した。
不思議そうに、ゆっくりと左胸に生えている物を眺める。
楔が生えていた。
ガルンを刺し貫いた楔と同じ、対霊効果の儀式楔が。
ゼロは吐血して膝を着く。
「それ以上はやらせん」
吹き飛んだ先で、クレゼントが奇怪な蜘蛛の様に立ち上がった。
両手には楔を撃ち出した
人面相が浮き出ている。
アカイの気の衝撃の為か、首と四肢がおかしな方向に曲がっていたが、ゆっくりと元に戻り始めた。
ゼロは後方に目を向けた。
倒れ臥しているアカイの姿が見える。
背中から飛び出している楔は同種のものだ。
クレゼントも満足そうに倒れたアカイを眺める。
「此処は魔神を呼ぶための冥道の祭壇だ。魂、精を集める“吸魂神殿”の結界が構築されている。死と汚れにより霊瘴と魔瘴が満ちた黄泉の領域。ただの人間にしては、死者の領域でよく動けたと言うべきだろう。本来ならとうに発狂している筈だ」
結界の効果で動きの鈍ったアカイには、死霊を躱しながらクレゼントの楔を避ける事は出来なかったのだ。
「この楔は、霊体の霊脈穴に引かれて進む特性がある。磁石の様なものだ。そして、刺されば霊気を分解、放出し続ける。さて?吸血鬼と言えど、霊体が砕けても生き返るのかな?」
ゼロは震える手で、何とか楔を握ると一気に引き抜いた。
大量の血が硝子に降り懸かる。
「ほう? 吸血鬼種は心臓を貫かれれば死ぬと聴いていたが…… そうか左胸に寄り過ぎたようだな。実際、心臓は中心よりだったか」
クレゼントはどめとばかりに掌を向けた。
「今は“目が見える”。今度は外さん。塵と化すがいい」
アカイの状態に左右されるのか、能力は解除されてしまったようだ。
クレゼントの瞳に力が宿る。
その時だった。
かたかたとクラインの壷
が揺れ始めたのは。
そのまま、フロアー全体が揺れ始める。
「何?!」
クレゼントの声は、回廊から轟く爆音で掻き消された。
響く振動と共に、大量の爆煙がドアから吹き込まれる。
全員の視線が出入口に注がれた。
煙りの中から無数の蝶が現れる。まるで煙りが変じて姿を変えたようだ。
その中で何かが光る。
煙りを抜けて何かが二つ飛び出した。
一つはクレゼントの腹部に突き刺さり、一つはゼロが刻んだクラインの壷のヒビに突き刺さる。
「ごぅあ?!」
クレゼントの絶叫と、硝子がひび割れていく音が重なった。
クラインの壷のヒビから血が溢れ出す。後は血の水圧に負けて、ガラスは簡単に内側から砕け散った。
外に流れ出る血の洪水の勢いに乗って、パリキスが中から飛び出す。
それをゼロはよろめきながらも受け止めた。
「お待たせしました。姫」
「よく来てくれました、アズマリア」
二人は揃って小さく笑みを浮かべる。
そして、同時に扉に目をやった。
「わらわの騎士が参ったようだな」
「化けたか……」
爆煙を抜けて悠然と現れた少年を見て、二人は笑みを凍りつかせた。
頼もしい筈の援軍から出ている鬼気は、体感温度を数度下げるには十分な殺意を纏っている。
「馬鹿な?! 貴様は死に体だったはず」
クレゼントは現れたガルンを見て顔を歪ませた。
全身血まみれの姿は、リビングデッド顔負けである。
手にした刀から溢れる水の球だけが鮮明な輝きを放ち、それが蝶に変貌していく様は非常にシュールな光景だ。
禍々しい気配にパリキスは悲痛な表情を浮かべた。
「ガルン。お前は……その選択をとったのか……」
呟くパリキスの手に、ゼロは優しく触れると、
「姫。ここは彼に任せて脱出します」
と、言って姫を軽やかに抱き起こした。
姫の表情が強張る。
「待て、ガルン一人では無理であろう? アズマリアと協力すればあの者を止められるかも知れん」
それを聞いてゼロは首を振った。
「今の私では、あの不死者は滅ぼしきれない。ここは退きます」
有無も言わさず宣言すると、ゼロは姫を抱えて出口に走り出す。
「待て」
と、呟いたのはガルンだ。ゼロに向かって、無造作に荷物のようにアカイを投げ飛ばす。
片手だ。
ゼロは姫を片腕だけで支えると、空いた腕でアカイを受け止める。
どちらも有り得ない腕力だ。
「邪魔だ。連れていけ」
ガルンの言葉にゼロは鼻で笑って答えると、二人を抱えて走り出した。
クレゼントは刺さった楔を、緩慢な動きで抜こうとしている最中だ。纏わり付く蝶を苛々しく振り払っている。
その隙に彼女達が抜け出すのは、至極簡単な事であった。
回廊に飛び込むと、濛々と溢れる黒煙に混ざって、人肉を焼く悪臭が鼻につく。
煙りは通路に空いた、大穴から上がっていた。
「地獄の釜か……」
ゼロの言葉は、地下室に拡がる鎮魂の炎を見つめながら口に出た。
「きっさまぁああ!!」
クレゼントは何とか楔を抜き放つと、ガルンを睨み付ける。
ガルンは蔑むように、よろめく不死者を見つめた。
「お前の武器、本当に強力だな? お前自身にも大層効く」
ガルンが投げ付けたのは、クレゼントに撃ち込まれた楔だったのだ。
「忌ま忌ましい。あの場でトドメを指しておくべきだったようだな」
クレゼントは素早く印を組んでタントラを唱える。
ガルンは手にした蝶白夢を構える所か、背の鞘に閉まってしまった。
無手である。
クレゼントは怪しみながらも、死霊を呼び起こす。
何をされようが、死霊には物理防御は意味を成さない。
「今度こそ死ね! 怨霊呪咆」
死霊が次々にガルンに襲い掛かる。
ガルンは避けるそぶりも見せずに、ゆっくりとダークブレイズを抜き放った。
ゆっくりと。
当然、何の対処も出来ずに全ての死霊を食らう。
ガルンは受けた衝撃のためか、倒れそうな程のけ反った。
「たわいもない」
クレゼントはにんまりと満面の笑みを浮かべた。
その瞬間、爆音が轟いた。
一瞬でダークブレイズから蒼い炎が、猛々しく溢れ出したのだ。
輝く蒼い光は、全てを飲み込むような静謐な輝きを放っている。
周りに浮かぶ青い蝶と合間って、軽いスペクタクルを生んでいるようだ。
その中心で、ガルンはのけ反った状態をゆっくりと元に戻す。
病的に顔色が悪い。
口の両端を吊り上げて笑う姿は吸血鬼も顔負けだ。
「無駄だ。死霊は……もう効かない」
「何だと?!」
「俺が“喰い漁る”から、だ」
言葉の意味が分からず、クレゼントは押し黙った。
ガルンはゼロの言葉を思い出して苦笑する。
『お前からは、何故か我らと同じ匂いがする。表現しにくいが ……命を取り込み糧とする何か別の異質な気配が』
その吸血鬼の言葉がヒントであった。
自らの可能性と呼ぶものだったのか、はたまた、自らの業と呼ぶべきものだったのかは分からない。
(吸血鬼の直感と言うものか……。それとも、熟練の考察力か……)
ガルンは不敵に笑う。
「今の俺は死が満ちる程強い。貴様に勝利は無い」
「ふざけるな小僧!」
クレゼントの死霊がガルンに向かう。
ガルンは大きく魔剣を振りかぶった。
防御行動は捨てた動きだ。
死霊の群れが、ガルンの身体を貫くように突き刺さる。
ガルンの身体が震えた。
「おっおおお!」
雄叫びと共にダークブレイズが光り輝く。
蒼い炎が黒く変色した時には、魔剣の炎は酷く禍々しいもの変貌していた。
唖然とクレゼントはその黒炎を見つめる。
揺らめく焔は、闇が詰まったような邪悪な波動を醸し出していた。
「なっ?! 何だそれは……。貴様、一体何をした」
ガルンは何故か歪んだ笑みを浮かべた。
目元が引き攣っている様にも見える。
「なぁ~に。地獄の底で、死者の“幽体喰い”をしてみただけさ。クフルは生者以外は不浄だとか言っていた気がするが……。俺は汚れようが関係ないからな」
ガルンの現在の“病んだ回復力”は死者の幽体を喰い漁った結果だったのだ。
そう、ガルンは攻撃してきた死霊の霊体すら喰らっていたのである。
死霊を“幽体喰い”の能力で捕獲し、咀嚼し、分解。チャクラ穴に無理矢理取り込み練り潰す。
後はチャクラでプラーナ
に変換してしまえば、全て自分の力として還元可能なのだ。
惜しむべきは、不浄の霊ゆえか、そのままでは霊威力生成には使えない事ぐらいであろう。
しかし、ガルンは気付いていない。この行為により、自らの存在が酷く歪んでいく事を。
「この純度の炎は、練り上げるのに本来かなり力が必要なんだが……。お前のお陰で一瞬だ」
そう呟くとガルンは魔剣を振り下ろす。
黒い焔は火山灰のような、妙な散り方をしながら降り注いだ。
クレゼントは咄嗟に身を引いた。
不死身にとって、炎などは体表を焼く程度のものでしか無い。
しかし、不死者になって失った危機感が、深層心理に残る恐怖が身体を付き動かした。
だが、避けた筈の右手に焔が掠める。
その瞬間、右手が一瞬で蒸発した。
「ぎゃあ?!!」
カエルのようなぶざまな声を上げて尻餅をつく。
「何だこの焔は?! 痛い、イタイ?! 馬鹿な、痛覚は既に切り離している! 何だと言うんだ!」
傷口に残った焔が、ゆっくりと腕を燃え上がらせて――いや、浸食していく。
「なんだこの焔?!」
痛みと共に黒い焔が腕を蝕んでいく。
肘まで燃え尽きて、ようやくクレゼントは恐怖につき動かされた。
左手を右肩付近に当てて楔を撃ち放つ。
射出した威力で右腕は吹き飛んだ。
だが、吹き飛んだ先から超スピードで腕が再生していく。
それを見て、クレゼントの表情はホッとしてから、ニヤつきに変わり、驚愕に変わった。
腕に焼き付く痛みが残る。
腕は肘までしか再生していなかった。
「……?! なっ! なんだこれは! どういう事だ!」
茫然と失われた腕先を見つめる。
ガルンはゆったりとダークブレイズを構え直すと、
「ダークブレイズは闇側の最強武装の一つだ。真の焔ならば、光や闇すら侵し燃やす。“存在の構成要素”すら根こそぎ焼き尽くす」
クレゼントの干からびた顔から血の気が引いた。
これでは、ただのミイラにしか見えない。
「馬鹿な?! 存在浸蝕して……滅却する力だと! そんなものレジェンドクラスの秘宝何処ろか、神造秘宝クラスでは無いか!」
わなわな震えるクレゼントを見て、ガルンは薄く笑う。
「言っておくが、俺の剣も剣術も、端から“対神兵装”だ。 地を這うアンデットなんぞ全て灰燼にし尽くしてやる……」
炎極の世界樹に使った黒い炎とは純度が違う。これが“本来の魔剣”の力なのである。
魔剣の炎が青く燃えたぎる。
「お前に殺された人々の怨念が、ダークブレイズをたぎらせる。この一撃一撃が彼らの怒りだ !」
ダークブレイズが唸る。
クレゼントは避ける為に不様に転がった。
それでも、顔半分と左肩が燃える。
「ぐおおお!」
不死の肉体に胡座をかいていた為であろう。
防御法術などが展開されていない。
焚火の枝が折れるような音を起てて、クレゼントの身体が燃える。
「おのれ…!!」
蒼い炎では燃え尽くせないらしく、焼けただれた箇所がゆっくり再生していく。
しかし、炎の純度のせいか、再生スピードは極端に遅い。
これでは火だるまは時間の問題だ。
ガルンは構えたダークブレイズに焦点を合わせた。
蒼い炎が揺れている。
(純黒の焔一発で取り込んだ霊気の大半を消費したのか……? やはりチャクラをフルに使わなければ、純黒の焔までは届かない……)
開眼したチャクラ以外の回転率は今だ低い。
取り込んだ霊気を、チャクラを使用してプラーナやエーテル強化に廻してはいるが、復調には今だ遠い。
また、死霊で攻撃してくれれば幽体喰いで力を得られるが、同じ事を繰り返す程愚かな敵とは思えない。
不死性の高いノスフェラトゥを倒すには、それなりの力が必要となる。
(俺がこいつを完全に滅ぼすには……)
ガルンはクレゼントを倒しきる可能性がある攻撃手段を想い走らせる。
即座に浮かぶのは滅陽神流剣法か純黒のダークブレイズ。
後は通常のダークブレイズの炎で滅びるまで攻撃し続けるかの三つだ。
ただ、滅陽神流剣法を使うには疲弊したチャクラでは心もとない上、霊妙法行使時間がネックとなる。
ガルンが思案していると、クレゼントがいきなり自らの腕で胸を貫いた。
疑問符を浮かべるガルンを見ながら、クレゼントは引き攣った笑みで告げる。
「くくくっ……。いいだろう。もう王国を統べる事は諦めた。変わりにこの世に蔓延る、生きながら腐った亡者どもを根絶やしにしてくれるわ!」
ブチブチと嫌な音を立てながら何かを引き抜く。
そこからは、体の大きさにそぐわない青い本が現れた。
本のカバー全てに目が書かれている。
その瞳たちがギョロリと動いてクレゼントとガルンを見つめた。
絵では無く本物だ。
「我が身体を千眼の魔神に捧げ立て奉る! その力で世界に断罪の裁きを与えたまえ!」
クレゼントは叫ぶと自らの両目をえぐり取った。
鮮血が魔導書に降り注ぐ。
すると本が勝手に開き、ページがめくれ出す。
ある程度すると、ページはピタリと止まった。
ブランクページだ。
そこにえぐった両目を叩き付ける。両目はスルリと紙の中に沈み込んだ。
一瞬でページに瞳が書き込まれて、神代文字のようなものが立ち並ぶ。
ガルンはこの男が、魔人達を造り上げた張本人だと直感で理解した。
文字の羅列が本から飛び出すと、クレゼントの身体を包み込む。そして、一瞬でその姿は魔導書に飲み込まれた。
「……!」
ガルンが停滞していたのは一瞬だ。
直ぐさま魔剣を振り下ろす。
青い炎が魔導書を飲み込む。いや、飲み込んだのは“魔導書の方”だった。
炎は瞳の一つに飲み込まれる。
吸奪眼だ。
ガルンは目を見開いた。
魔導書の中から人影が吐き出された。
原型はクレゼントだが――魔人化している。
右腕の肘から先が無いのはその名残か。
身体の至る所に瞼がある。
ガルンの直感が危険信号を送る。
ガルンが背から蝶白夢を抜くのと、瞳が一斉に開かれるのはどちらが早かったか。
ガルンの眼前の空間が歪む。
瞬間的にチャクラを脚力に回したのか、ガルンは無意識に後方に跳躍していた。
空気を吸い込む妙な高音と共に、歪みに辺りの物が飲み込まれていく。
空に舞っていた蝶が飲み込まれて、一瞬で水しぶきに変わる。
ガルンを追うように、空間に真空の穴が発生する。
避けるガルンの動きが、いきなり止まった。
まるで見えない何かに、空中で絡めとられたような、不自然な停止。
次の瞬間、空間が爆発した。
直撃を受けて吹き飛ぶガルンに、新たな瞳が向く。
瞳が収縮する。
黄色く輝く閃光が瞬いた。
収束する光の束がガルンの右肩にあたると、一瞬で右肩は溶解した。
その一撃はガルンを貫き、後方の壁に熱点をつける。
壁は熱膨張の様に膨れ上がると大爆発を起こした。
ダークブレイズごと吹き飛ぶ右腕を無視して、ガルンは妖刀を振るう。
しかし、その腕を真下から突如現れた、黒い槍が貫いた。
いや、腕だけでは無い。
左太腿と右脇腹をも貫く。
黒い槍は足元、影から飛び出していた。
「……!!」
落下も出来ずに、ガルンは空中で影の槍に貫かれて宙づりになってしまった。
「クッハハハハッ!」
クレゼントの妙にエコーの効いた笑い声が木霊する。
「ドウダ。コレガ魔眼ノ力ダ! 今ノ我ニハ、バロール・フェロスノ五十ノ魔眼ガアル! 人間ゴトキガ抗ウ存在デハ無イ」
嘲笑が上がる。
五十の魔眼。
千眼の魔神バロール・フェロスの二十分の一の力を持つ魔人。
今、使用した魔眼も、空穿眼、制止眼、爆散眼、染熱眼、操影眼と五つでしかない。
これの十倍の魔眼を操る魔人。
まともに戦って勝てる存在が、この地上にどれだけ存在する事か。
しかし、クレゼントの嘲笑に重なってもう一つの嘲笑が上がった。
クレゼントの笑みがピタリと止まる。
“後方についている魔眼”が辺りを見回すが、何も見えない。
「何モノダ?!」
身体全体で声を捜す。
「完全に新生した魔人ならやられていたかもな……」
フと聞こえた冷めた声色。
ようやく見つけたのは、迫り来る黒い焔だった。
気付いて吸奪眼を発動する。
妙な火花のような音が真横から聞こえた。
「!?」
違和感に気付いた時は既に遅かった。
上半身に黒い焔が降り懸かった。
一秒。
クレゼントが疑問に思考を回せた時間は僅かそれだけだった。
クレゼントの上半身は一秒で黒い焔に蒸発させられてしまった。
残った身体もゆっくりと黒焔が貪り喰っていく。
辺りを暗く照らす、有り得ない炎を見つめながらガルンは蝶白夢とダークブレイズを背中にしまった。
腕を吹き飛ばされ、串刺しにされたガルンは陽炎のように消えている。
クレゼントはガルンの始めの不意打ちである楔を受け、それを抜く時に“水蝶”を手で打ち払ったのが、致命的な間違いだったと最後まで気付かなかったのである。
精神汚染による視覚不全。
魔眼とはターゲットを視覚に捉えて発動するのが、完全なる発動条件である。
視界に入らない物には効果が無いのだ。
魔導書に呑まれて出て来たクレゼントが、完全に別人格、別存在に変貌していれば、精神汚染も無く失った右腕も新生した、真の五十眼の魔人であったであろう。
しかし、クレゼントの強すぎる自我が魔神の精神に打ち勝ってしまった。
その為、精神汚染を抱えた状態の魔人が生まれたのだ。
自律して襲う死霊だけはガルンを捉えていたが、一撃目の避けた筈の純黒の炎が、何故か右腕に触れていたのは精神汚染の作用の為だ。
始めから見当違いのズレた戦闘を強いられている事に、最後まで気付かなかったのがクレゼントの敗因である。
ガルンはアカイのレッドインパルスの経験から、魔眼使いの眼を塞ぐのが1番優位性が高い事だと理解していた。
その為、室内に魔人がいる可能性を考慮して蝶白夢を使っていたのだが、それが功を奏したと言えよう。
的外れの攻撃を行っているクレゼントを横目に、ガルンは純黒の炎を練り上げて倒したのだった。
「さてと。姫さんのエスコートに回らないとな」
ガルンは歩き出そうとしてバランスを崩した。
視界が揺れる。
疲弊したチャクラの何個かが、止まってしまっているのを感じた。
純黒の炎を練り上げるのに力を使い過ぎたのだ。
「これは……考えないと……マズイな。純黒の炎は精神力を使い過ぎる。何発か使ったら力が枯渇してしまう」
片膝をついて毒づく。
膝が震えて立ち上がる力すら出ない。
「おっ! いたいた」
入口から軽い声がかかる。
振り向くとネーブルとグレイ、白き銀嶺が室内に入って来る所だった。何故かハオロンもいる。
「なんだ、あのヤバイ大穴? 特大の火葬場か?」
グレイは敵がいないのを確認してから双剣をしまう。
「首謀者はどーしたんだよ?」
ネーブルの質問は最もだ。首謀者は影も形も無い。クレゼントは灰すら残らず消え去った分けだが、死体も無いと流石に不自然極まりない。
後には生々しい戦闘痕だけが室内に残っている。
「跡形無く燃やし尽くした。灰も無い。それより姫さんは?」
「王宮近衛のねーちゃんが連れてった。団長と隊長、アビスの奴が護衛だ。ライザックはアカイの治療中。俺達は首謀者の捕縛か抹殺で来させられたって感じだ」
グレイはガルンの真横に歩み寄ると、肩を貸して立ち上がらせた。
「それより、あそこの亜人ぽいねえーちゃんは何者だ?」
小声でボソリと囁くと、チラリと白き銀嶺を見る。
「ドラゴンニュート……だったか?」
「竜人族?! ……いや、違う何者かって事だ」
ガルンは少し押し黙った。
客観的に見ると、白き銀嶺は姫を拉致した一味の一人に当たる。
しかし……。
「ここの一味に拉致されていた一人だ。助けたら協力してくれたって所だ」
ガルンはそう呟くと白き銀嶺を見つめた。
それが聞こえたのか、白き銀嶺は空いているガルンの片側に回ると肩を貸す。
「拾われた命だ。我の命は貴公に預ける。罪を裁かれる時は甘んじて受けよう」
「……多分それは無い」
ガルンは遠くを見つめながら呟く。
「あの姫さんは、そう言う事には……しないと思う」
その表情を見て白き銀嶺は小さく微笑した。
「そうだな。我もそう思う」
白き銀嶺の頷きを見て、ガルンも顔を綻ばせる。
「……なんだお前ら! 内輪ネタで笑ってんな!」
何故かネーブルが不機嫌そうに話しに割って入ってきた。
「だいたいガルンはな~スタンドプレーが多過ぎなんだよ! 俺達が来なかったらここで野垂れ死にだぞ!」
「それは同感。お前早死にするタイプだとは思ってたが、今回はマジに死んでると思ったぞ?」
グレイが相槌を打つ。
しみじみと頷いているのは、二年間の付き合いならではだろう。
「フン、俺は貴様が死んでも別に構わんがな。しかし、せめて約束通り酒は奢ってから死ね」
ハオロンの言葉を、ガルンは不思議そうに聞いた。
「……? お前なんでいるんだ?」
その言葉にハオロンは青筋を立てる。
「団長の命令だ! 俺もお前らと一括りにされてんだよ! 誰が好き好んで救援に来るか!」
吠えるハオロンを見てガルンは苦笑いを浮かべた。
ネーブルとグレイが笑い出す。
「お前空気扱いされすぎ!」
「言い過ぎだネーブル! 影が薄いのは、本人も気にしているかも知れないぜ?」
「貴様ら……」
ハオロンはワナワナと多節鞭を震わす。本気で怒っているのか、顔が引き攣っているのはご愛嬌だ。
「まあ、とりあえず、ガルンはグループから独断で抜けた。お前が奢るのは確定な」
ネーブルはニヤリと笑う。
「そうだな、それだけは決定事項だ。今夜はお前の奢りな?ライザックのおっさんも呼ぼう」
グレイもにたり顔だ。
ガルンは目を伏せて、微笑して両手を上げた。
「了解だ」
それからガルン達が塔を脱出したのは二時間後であった。




