雨のむこうに見る夢は
今から60年前、俺はこの竹林でアヤメという少女と出会った……。
冷たい雨に終わる恋物語‐――。
切ない恋物語は、結ばれなかったからこそ……
いつまでも、輝き続けるのかも知れない。
冷たい雨に終わる恋物語‐‐―――‐。
切ない恋の物語は、結ばれなかったからこそ……
いつまでも、輝き続けるのかも知れない。
初夏の、まだ冷たい雨が竹林を叩いていく。
その、竹林の奥に佇む家が一軒。
静閑な空間には、物音というものがない。
いや、あるとすれば‐‐――‐‐それは細かな雨が、下生えを踏む音だろうか。
無人に思われた家の奥の和室には、老婆が一人横たわっていた。
雨音に混ざって、草を踏む音が軽やかな気配を奏でる。
「きたのかい?」
縁側に首を向けた彼女には、聞こえていた。
「お前さん、今年も来てくれたのかい? 嬉しいねぇ」
見つめる雨の中、人の形をした影が縁側に腰掛ける。
古びた木が、ぎしりと軋んだ。
「ちょっと、気になっただけだ」
荷を降ろして、カイリは布団から起きた老婆の背を振り向いた。
「ちょっと…待っておいでね、茶を淹れるから」
よたよたと覚束ない足取りで廊下を行く彼女を見送りながら、カイリは遠い目をして、雨ばかり落とす曇天を見あげる。
「人は……変わっちまうんだよな」
若いまま時が止まった自分と違い、人間はこの世に生を受けて、あっという間に老いさらばえる。
もし、自分が人間だったならと考えかけて、カイリは苦笑に口を綻ばせた。
「珍しくセンチだな……この雨のせいだ」
思い出も、なにもかもを時は流してしまう。
そう、´その思いさえも。
今から60年前‐‐――‐‐俺は、まだ娘だったこの老婆・アヤメとこの竹林で出会った。
竹林の奥にある池の辺に、押し殺した小さな嗚咽が響いている。
「父上も母上も、体面ばかり気にしてっ……私っ、家なんか継ぎたくないものっ」
少女・アヤメは、本意ではない縁談話に絶望し、見合いの席から逃げてきたのだ。
「でも、どうしましょ……これじゃぁ家に帰れないわ。入水するつもりで来たのに、私ったら、なに考えてるのよっ」
『入水してやる』と息巻いていたアヤメだが、ひたひたと揺らぐ水に、すっかり怖じ気づいてしまっていた。それでも震える足先を伸ばして、自らを叱咤する。
(バカねっ、死ぬのなんか怖くないのよ! すぐなんだからっ)
だが、怖い。
やっぱり怖い。
ざわり、と意味ありげに竹林を揺らす風。
それ一つでさえも、彼女の決心を殺いでいく。
アヤメは遂に、ぺたんと座り込んでしまった。
‐‐―ああ、やっぱり自分には無理だ……縁談より何より、死を恐れてる。何て愚かなんだろう私は!
将来の不安よりも、死を恐れてるなんて。
とんだ笑い話ではないか。
進むわけにも、逃げるわけにもいかず。
ならば、どうすればいいのだろう。
ざわわ、ざわわと風までもが自分を責める。
「私、帰れない」
ぱたぱたと二つ、涙が乾いた土にシミを作った。
泣いたところで、状況が変わる訳でないのは分かっているのに。
それを認められない、自分が憎らしい。
ここにいれば、じきに見合い相手が探しに来るか、両親が来る。
(もうイヤ、イヤよ……)
「どうした、気分でも悪いのか?」
「きゃあっ!?」
俯いていたアヤメは背後からの声に、イヤと言うほどに跳び上がってしまった。
「心外だな、そんなに驚いたかい」
アヤメは、目の前に現れた風変わりな青年をまじまじと見つめてから、安堵の息をつく。
向かってくる人の気配に、ずっと警戒していたのだから、それも当然といえば当然の反応だ。
「ごめんなさい…私、ちょっと人生に迷ってたのよ」
「道……? ああ、人生の方な。してなんだ、入水しようとここに?」
カイリは、彼女の裸足を見てから小さく息をついた。
所々、柔肌が擦りむけて赤く血が滲んでいるのが痛々しい。
「だって……皆勝手なのよ。私まだ自由でいたいのに、早く結婚しろだなんて」
「お前さん、いくつだ?」
目の前の少女がそれ程の年に見えず、カイリは思わず聞いてしまった。
「今年、18になったばかりよ。同じような子はたくさんいるのに、どうしてあたしだけなのかしら」
アヤメは頬を膨らして、理不尽とばかりに腕組みする。
「ほう…」
(18か、そうは見えねぇなあ…)
カイリは延々と続く身の上話に、溜息を交えながら応対していた。
「お針に華道…それにお琴まで! 花嫁修業とか言って、楽しんでるのは自分たちだけなのよっ」
「非道いな、そりゃ」
「でしょう!? ぼやぼや欠伸もできやしないっ」
「元気、出たか?」
ニッ、と笑うカイリに、アヤメは『あっ』と口許を隠す。
「えっ? そ、そうね…そういえば」
「死のうなんて、もう考えんなよ? 親御さんだって、説得すれば分かってくれるさ」
「でもっ!」
「もう帰んな、そろそろ一雨来そうだからなぁ…俺はもう行くぜ」
瞬間、アヤメは彼に常人にはない不可思議な雰囲気を察して、カイリの袖を引いた。
「ねっ、あなた……名前、聞いてもいいかしら?」
「名前……? ああ、俺はカイリっていう」
「私はアヤメよ、あの…またここに来るの?」
「さぁな、気が向いたらまた来るかもしれん」
もじもじと手を揉みしぼっている彼女に、カイリはどこか面倒くさそうに応える。
「カイリは、旅をしているの? なにか宛があって?」
「あ゛‐――‐‐もう、帰れっつってんのに。ああホラ、降ってきた」
「本当に雨!? さっきの本当だったのねっ」
「いいから早く行け、濡れるぞ!」
二人揃って慌てて大樹の木陰に逃げ込むが、大した意味もなく濡れ鼠になってしまう。
「黄昏に雨か、ますます陰気だぜ。ホラ、お前にも見えるか、あれが」
「え?」
アヤメはその異様さに、思わず息をのむ。
ねっとりとした生温い風が、頬を撫でた。
薄闇の降りた往来には、人通りはなく。その代わりに往来を行くのは、形のない影や、異形の者ばかりだった。
行列をなして進むのは、妖狐・鬼・天狗・河童・般若・髑髏など。
「声出すなよ? 通りすぎるまで息潜めてろ」
小刻みに何度も頷くアヤメに『よし』と言って、カイリは懐から宝珠を取り出す。
とろりとした青い色の宝珠は、見るからに、触れると心地よさそうな気分を抱かせた。
「カイリ?」
「いいから黙ってろ、奴らに知れたらタダじゃ済まねぇからな。水縛呪、水呪!」
彼の投げた宝珠は、アヤメを内へ封じ込めて体積を増す。
つまり、アヤメの背丈分だけ宝珠が巨大化したのだ。
堅固な水結界は、完全に彼女の存在を覆い隠していた。
「なにこれっ……水の中なのに、私ちゃんと息ができてる」
それに、人間と変わらぬ様子で、町を歩いている異形の者はなんなのだろう。
それらと親しげに話す彼は、一体何者なんだろう。
今時分、旅人なんているのだろうか?
よく考えてみれば、それもおかしな話。
彼女の脳裏に、ある言葉が浮かんだ。
あやかし‐‐―――‐‐陰と陽のあわいから生じし者たち。
人心を惑わし、魂を喰らう。
「カイリ、あなたまさか……」
こぽ…と水泡が彼女の口から浮かび上がる。
と、ふわりと風が頬を撫でたのを感じ、アヤメは封が解けたのを悟った。
「もういいぞ、どうした? 青い顔して」
「カイリ、あなた……もしかして、人間じゃないのかしら?」
カタカタと震える彼女に、カイリは小さく溜息する。
「なんか怖がらせたみたいだな。だが人の姿をしているから『人間』とは限らんものだ。俺は人と妖、その間に棲む者」
「だから、雨にも濡れないの?」
雨脚は弱まったものの、雨はまだ完全に止んではいない。
木陰から離れて佇む彼は、雨の中で浮き上がって見えた。
「そうだ。悪いことは言わねぇ、早く帰るといい」
背を向けようとしたカイリに、アヤメは鋭い問いを投げつける。
「女一人で、夜道を行かせるつもりなの?」
肩越しに振り向いた彼女の目は、確かな怒りをその色に顕していた。
「仕方ねぇ……送るが、俺は人の家にゃ入れねぇから、入口までだ」
「ありがとう、優しいのね」
「……お前、裏表ありすぎ」
「女って、こういうモンなのよっ」
「おや、ここにいたかい。お茶が入ったよ」
アヤメは、庭の大桜の枝に座っていたカイリを見つけて、手招きした。
「雨に中る、中入ってろよ」
「これくらい、どーったことないよ。あんたが来るまで動かん」
「仕方ねぇ頑固だ。分かったから中入れ」
傘を掲げて呼ぶ彼女に、ふわりと、少女の面影が重なる。
「あんたは、昔のまんまだ。変わんないねぇ」
茶を啜りつつ、しみじみというアヤメだが、その声には寂しさが滲んでいる。
「こういうモンだしな」
「そろそろ、あんたが欠けた魔法が切れる頃だ。憶えてるかい? あの約束」
「ああ」
「ねえカイリ、ほんとにあたしにしか見えてないの?」
「らしいな、このとおり…他の奴らは見向きしねぇし」
アヤメの部屋の縁側に腰掛けて、カイリは団子を頬張っている。
「なんだか嬉しい、秘密の友達みたいで」
「友達?」
嬉しそうに笑うアヤメに、カイリはどこか、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あら、違うの? 毎日訪ねてくれるのは」
「友達か……そうなのかもな」
目元を和ませるカイリに、アヤメは花咲くように笑う。
「そうよ」
「お前、それ強引」
「いいのーっ」
「いいのかよ……。あ、誰か来るぞ?」
不機嫌そうに、自分を呼ぶ声を聞いて、アヤメは慌ててカイリから離れる。
「父上だわっ、か、隠れてカイリ!」
そそくさと、アヤメは奥の部屋にカイリを隠すと『静かにね』と言いつけて出て行ってしまった。
だが常人には見えないカイリ、こっそりと彼女の後をつけていって、驚いた。
ばちんっ…と鋭い音が大気を引き裂く。
「なっ、なにするのよ!?」
「いい加減にしろ!? どこまで儂の面目を潰せば気が済むのだっ」
アヤメは打たれた頬を押さえ、ふんぞり返っている父親を思いきり睨みつけた。
打たれた頬が、痛々しい。
「なにが面目よ! そんなのあたしには関係ないじゃない!! 好きでもない男となんて、結婚できる訳ないでしょうっ」
「もういい! この恩知らずっ!? ……今日という今日はもう許さん、どこでも好きな場所に行くがいいっ、今日限りでお前とは絶縁だ!」
「望むところよっ!」
「お前など、もうしらん!」
「ああそうっ! こちらこそお世話様!!」
歩調荒く部屋を出て行った彼を見送って、カイリは蹲ったままのアヤメの腕を引く。
「非道い親がいるもんだ、……立てるか?」
「ごめんなさいね…? みっともない所見せちゃった。私って、やっぱりダメな子」
「気にすんな。それより、本当にここを出るのか?」
「あんな啖呵きってしまったんだもの、そうするしかないわね。いつかこうしようとは思っていたから、案外平気よ」
カバンに衣服や小物を詰めながら、アヤメは思い詰めたような笑みを浮かべた。
「それが平気って顔かよ、バカめ」
「バカで結構よ……でも、もうこの部屋ともお別れなのは寂しい」
カイリは、この少女を気に入っていた。
変な意味にではなくて、本当に一人の人間として気に入っていた。
「ついてこい……一人では、どうにもならんんだろ?」
「心配してくれるんだ」
「……ちょっと、気になっただけだ」
含みありげな問いに、カイリは背中を向けたまま、憮然と言いかえす。
「うん……」
カイリはアヤメを連れて、各地を転々と廻って歩いた。
桜降る小道や、炎天下の海岸など。
共に風雨に耐えながら、あっという間に時が‐‐―――‐季節が廻った。
「また、ここに戻って来ちゃった。ねぇ、どうして?」
アヤメは、カイリの袖を引いて訴える。
ここには、戻りたくない、と。
涼やかな風が竹林と、もう腰まで伸びた彼女の黒髪を、サラサラと揺らしていく。
「ここで、暮らせばいいんじゃないかって…思ってな」
竹林の奥にある閑地を指さして、カイリは彼女の肩に触れた。
「どういうこと…ここに、家を建てるつもり? ダメよ、材木が要るわ……それはどうするのよ」
「ここはお前の故郷だしな、ここで暮らすのが一番だと思った。旅暮らしは、なんだかひどく辛そうだったから」
「そんなの、勝手な思い込み! カイリ、あたしが重荷なの?」
アヤメの表情に影が差す。
涙を一杯に溜めた瞳は、今にもこぼれ落ちてしまいそう。
いやいやをして、胸板に縋りつく彼女の温もりがただ、カイリは哀しかった。
「バカな奴、誰が今すぐ置いていくと言った?」
「言ったじゃないの! ここで暮らせばいい、お前はって」
ついに泣き出した彼女がじれったくて、カイリはアヤメの唇を塞いだ。
指で。
「ん、むっ……むうっ!」
「しばらくは一緒にいてやるよ、けど…俺にも用事があって、じきに傍にいてやれなくなる」
「よ、用事ってなに?」
さっと、アヤメの顔が青ざめる。
「まあ色々だ、色々」
「女の人…ね?」
カイリの口調に浮いた物を感じたのか、アヤメは面白そうに口角をあげる。
「母だがな」
「なぁんだ、がっかり」
「お前、なに期待してたんだよ」
のへー…と呆れ顔をするカイリに、アヤメはただ、楽しげに笑うだけだった。
竹林の奥には、桜の大木がある。
その傍で、カイリは地面に家の間取りを区画していた。
「なにやってんのよ、なにこれ……間取りなんか描いたりして」
「まぁ見てろ、すぐ済む」
「きゃっ…!」
大地が、ひとしきり大きく脈打った感じに驚いて、アヤメはその場に立ち竦む。
「建・除・満・平・定‐‐――――‐‐」
耳慣れぬ言葉を紡ぐ彼は、青白く明滅を繰り返している。
アヤメはあまりの驚きに、息をするのも忘れていた。
みるみるうちに、その場に和風家屋が現れ、明かりが点る。
「今日からの住処だ。お前の家だよ」
「スゴ…イ、本当にスゴイ! ありがと、カイリっ」
じゃれつく彼女を避けながら、カイリはふと遠い目をした。
「やだ雨!? カイリ、濡れちゃうわよーって、ああ平気なんだっけ」
カイリは、雨の中どこか虚ろに真白い空を見あげ、小さく溜息する。
彼女の想いが自らにあることを、カイリは理解していた。
だが、どうすることもできない。
その想いに、応えてやることができないのだ‐‐――――‐。
「カイリ、早く中入ろうよー」
呼ぶ声さえも、浅く自身を斬りつけていく。
「ああ、今行く」
これは夢だ。
雨の向こうに見る夢は、泡沫のしらべ。
雨が止めば消えてしまう、夢でしかないのだ。
「これ、持っとけよ」
「なあに? きれいな石…」
彼が懐から取り出したのは、空色の勾玉だった。
アヤメはそれを光に透かしたりしながら、色味を楽しんでいる。
「俺の鱗だ。寂しいときは、それを握ればいい。片割れだし、俺とも繋がってる」
「カイリ?! イヤだよ……イヤ」
アヤメは、精一杯の力を込めてカイリの背に掻きつく。
「あたしだけ置き去りなんて……ヒドイよ」
「いいや、置いてく訳じゃない……お前はここで生きるんだ」
「いつも一緒だったっ……一緒にいてくれたのに、どうして!?」
切なく訴える彼女を、カイリはついに抱きすくめた。
「……カイリ……」
「人の子よ……これ以上に踏み込んではならぬよ。闇に魂を喰われてしまう、だからお前には…ここで生きて欲しい」
「…そんな」
雨が、止んだのだ。
「分かってくれ、アヤメ」
アヤメの頬を、いくつもいくつも涙が伝い散る。
「ねぇ、カイリ……最後に、魔法をちょうだい?」
涙伝う頬を拭って見あげる彼女に、カイリは静かに頷いた。
「お願いよ……」
ゆっくりと、唇同士が触れ合う。
「愛してる……愛してるから、もう、泣くなよ」
「うん、うん…」
雨音が、耳をつく。
静閑な空間を、ただそれだけが彩っていた。
「そろそろ、切れる頃だろうねぇ……あたしも、やっと休める」
「アヤメ……悪かったな、一人にして」
「いいや、いいんだよ……あんたが謝る事じゃないさ」
布団に横たわるアヤメは、皺くちゃな頬を綻ばせて、深く息を吐いた。
「約束、ちゃんと憶えてるぜ」
「ああ……そうだねぇ、やっと叶うんだ。この老いた体を棄てて、自由になれ…る」
「アヤメ、アヤメ? ……眠ったのか?」
応えは、ない。
その代わりに、老いた彼女から『あの日』のアヤメが抜け出した。
「カイリ、言って?」
「アヤメ……お前は」
果たして……。
お前は、俺といて幸せだったのか?
「あなたと過ごした時間、忘れないわ。幸せだったのよ?」
「本当に?」
「嘘なんかつくもんですか……もう、あまりここにはいられないから。お願い、言って?」
ふわり、と宙を舞ったアヤメに、カイリは目頭が熱くなるのを感じた。
「俺も愛してる……絶対にお前を忘れないから」
「あらぁ、嬉しい」
くすぐったそうに、アヤメは『またね』と笑う。
「……ああ……」
そして、消えていった。
カイリの頬を、止めどなく涙が伝いおちていく。
冷たい雨に終わる恋物語‐‐――――‐。
切ない恋の物語は、結ばれなかったからこそ……
いつまでも、輝き続けるのかも知れない。