月の船
人と妖、その【あわい】に棲まう祓い師・カイリ。
ある夕暮れに、彼が出逢ったのは人魚の少女・ミナギだった。恋がしたいと海にいる仲間の元を離れて、一人人間界で暮らしているミナギ、彼女が恋人に選んだのは……!?
【お月さま、お願いします。‐――‐‐もう少しだけ、あたしに時間をください。あと少しでいいの、あたしを陸にいさせて……】
「……ん? いま、なにか聞こえたようだが」
夕陽を背に、カイリが橋を渡らんとした瞬間、微かな声が彼の鼓膜を揺らした。
橋から下を覗き込むカイリ。
夕陽の逆光で曖昧だが、確かにそこには人影が見受けられた。
どうやら少女のようだ。
「幽かだが……水のモノの匂い? あの娘からか」
カイリはヒラリ、と橋の欄干を飛び越えて、下の河口に下りていった。
少女からは、濃い潮の香りがした。
「こんな場所に珍しいな。お前さん、人魚だろ」
【だれ!?】
少女は、小柄な身を更に小さく縮めて、カイリを睨みつける。
(思いっきり怪しまれてんな……)
「いや、怪しいモンじゃねぇよ。あんたと同じ水の妖だ」
【ウソよ! だってあなた……人間の気配がするわっ】
「聞いたことねぇか? あわいに棲む祓い師の話」
【ええ……?】
「別に、知らねぇならいいけどさ」
少女はやや暫く訝るようにしてから、唐突に笑顔になった。
【あなた…あなたがカイリ!? 想像してたのと、全然違うわっ、もちろん知ってるわよ、有名だもの】
(騒がしいガキンチョだな……)
カイリは、内心溜息をつく。
「そうか。で、さっきはなにしてたんだい?」
【……それは……】
少女の着ている制服が、どこか寂しげに小さくはためく。
【あたしの名前はミナギ……あなたの言うとおりの人魚よ。小さい頃から、人間たちと一緒に暮らすのが夢だったの。けど、夢はやっぱり夢のまま終わってしまうのよね】
夕暮れの風が、彼女の色素のない髪を搦めとっていった。
「そんなこたねぇよ、夢は叶えるモンだろうが」
真剣に応えたカイリに、水凪はくつくつと楽しげに笑う。
【あなた面白い人ね、夢は叶えるモノだなんて。今までで初めて言われたわ……あたしの周りは、反対するヒトばっかり】
孤独‐‐――――‐‐。
彼女から感じる『影』は、だからなのだろうか。
「いまは、幸せか?」
【うん…幸せだったり、不幸なときもあるわ。人間は、毎日がせせこましいから、時が過ぎるのも忘れちゃう】
ふんわりと笑うミナギに、カイリも薄く微笑み返してやった。
「そうだな、俺たちに比べて、人間はせわしない生き物だ。その生、咲いては散りゆく花のごとし」
【でも、花はまた咲くわ?】
なぜかムキになるミナギに、カイリは再度の溜息。
なんというか……馬が合わない。
譬えるなら、水と油のようなものだ。
「お前たち、人魚によく似てるな。さっき、聞こえてきた……『もっと生きたい』って」
【どうしてなのかな? あたし、もっと他の女の子みたいに遊びたいし、恋だってしてみたい。こんなの、あんまりじゃない】
(当たり前だ……)
人魚は、短命な生き物だ。
その寿命は‐‐―――‐‐長くて、半年から一年ほどと聞く。
自らの短命さを嘆かぬ生き物が、どこにいようか。
「ミナギ、月がどうして欠けるか…知ってるか?」
【知ってる。月の満ち欠けと、輪廻は同じだって……知ってるから、だから哀しいの】
もっと、もっと生きたいのに……。
月に願って、人魚の涙は雫と大気に散りらむ。
「なぁ、人魚のお前が海から離れて、かなり無理しているようだが…体をこわしてまで、そんなに大切なことなのか?」
【…ねえ、恋ってしたことがある?】
しばしの沈黙の後、ミナギは恥ずかしそうに俯いてから切り出した。
「……は?」
(あ‐‐―――〜…恋、ねぇ)
「恋ねぇ。大分昔のことなんでな……長く生きるうちに、そう言うモンはなくなっちまったよ」
【あらぁ不粋ね! あたしは、燃えるような恋がしたいのよ!】
ぐっ、と拳を握りしめる彼女を横目に、カイリは遂に肩を落とした。
「燃えるって……いつの時代だよ! まあ、いいけどさ…。体壊さねぇよう上手くやるんだな」
カイリは橋の欄干を身軽に飛び越えると、再びねぐらを探しの散策に歩き出した。
(ったく、つき合ってらんねぇ)
カイリは、ヒトと共に過ごすことが元より好きではない。
独立独歩、が彼の信条だ。
簡単に言えば、旅から旅への暮らしなので、関わりが面倒くさくなったのもあった。
その時だ。
のろのろとアスファルトの上を行くカイリの背中に、甲高い怒鳴りが体当たりする。
ついでに、ミナギもだ。
【待って! 待ってったら! 話はまだ終わってないんだけどっ】
「……おい、危ねえな」
コートの裾を引かれて転びそうになったカイリは、憎々しげにふんぞり返っているミナギを振り返って、歩みを止めた。
「終わってないって、何がだよ? こっちは急ぐんだがな。話なら手短にしてくれ」
【あなたなら見た目もいいし…同じ妖だから、いいわよね!】
ぽけ、と間抜け面になったカイリに、ミナギはさも楽しそうにまとわりつく。
「あ゜‐‐―――‐‐だから、なんの話だ?」
半分固まったまま、カイリは頬を染めてまくし立てるミナギに、おそるおそる問うた。
【恋人に、なって欲しいのよ……人間じゃ、どうも合わなくて】
(コイツ、人間にも当たったのかよ……)
「俺にか」
【あなた以外、誰がいるの?】
「…………」
月が‐‐――――‐欠けないうちに、早く恋をしなければ。
【ね、いいでしょ? どうせ…長い間ではないんだから】
夜風に嬲られる風色の髪を押さえながら、ミナギはカイリの腕に、弱々しくしがみついた。
「分かった……その代わり、その訳、詳しく聞かせて貰うぞ」
【ええ】
ミナギは、いまいる地域にある学校で、生徒として暮らしていると話してくれた。
容姿も人間と大差ないので、紛れてしまうんだと楽しげに笑う。
「それで、他になにがしたい?」
一瞬の逡巡の後、彼女はとんでもなくありきたりなことを言い始めた。
【そうねぇ、一緒に出かけて遊びたいわ。遊園地に行ったり、景色のいいところにも行ってみたい】
カイリの眉が、ぴくりと跳ね上がる。
遊園地は、カイリが尤も苦手な場所なのだ。
「ゆ、遊園地か…ふーん」
【カイリ、連れてってくれるのっ?】
もう、行く気満々。
瞳を潤ませる彼女に、カイリは無意識にじりじりと後じさっている。
「仕方ねぇな、じゃ……今度だ。今日はもう無理…」
「ありがとっ!」
「んぶっ!?」
皆まで言い終わらないうちに思いきりキスをされ、カイリは面食らって口許を拭う。
(ななっ……なんだこのガキは!? やっぱ苦手っ(怒))
「あ、ねぐら探しそこねちまった……」
当初の目的を思い出して、ぽつりと呟いたカイリに、ミナギはまた微笑む。
【なら、あたしの棲み家に来ればいいじゃない。丁度この辺なのよ】
「いいのかよ……」
【カイリなら全然オッケー! さっ、こっちこっち】
「お、おいっ!?」
【気にしな〜い、気にしないっ!】
ズルズルと強引に引きずられていくカイリは、ふと『なぜ女というのは、どいつもこんなに元気なのか』と内心で毒づくと同時に、深く後悔していた。
ミナギの棲み家は、旧家の井戸に通じているという隠れ池だった。
落ちついた、ウォーターブルーの水が美しい。
【なにもなくてごめんなさい、お腹、すいてるんじゃない?】
池の底は、人間たちが部屋とよぶ物によく似ている。
カバンや雑誌、教科書などが普通に据えられていた。
そして、奥には藻と水泡でできた牀台。
「いや、まだ平気だ」
【……そ。ねえカイリ……甘えてもいい?】
フワリ、と水泡がカイリの頬を掠めた。
「好きにしろよ」
言葉こそ冷たいが、カイリはもう拒まなかった。
というより、そうすることができなかったのだ。
透けたウォーターブルーの水の中、彼女の白い手がカイリを引き寄せる。
ふわり、ふわり。
暖かな水が、カイリの心を撫でては包み込む。
何度も泣きそうな瞳にぶつかり、カイリは強く腕に力を込めた。
【龍は優しいのね。本当に、あなたを愛してしまいそう】
「儚いものこそ美しい……人魚のことを言うそうだ」
【カイリ、あたしね……ここから、いつも月を見てたわ。月ってキレイ、でも残酷よね】
白銀の鱗を閃かせて、水面近くを回遊する彼女は、本性の人魚になっていた。
【そして、月の船になって…あたしを迎えに来るの。死ぬのは、いや】
水面から顔を出した彼女の頬を、清しいものが伝いおちる。
【かりそめだっていい……カイリ、あたしを愛して?】
元より、人魚の命は短い。
彼女は陸に上がったせいで、ただでさえ短い命を縮めることになったのだろう。
泣き疲れて眠ったミナギの髪を撫でながら、カイリはぽつりと呟く。
「月と、お前たちは似ているな……欠けては再生を繰り返す」
月の船は、三日月。
この半月が欠けるまで、この哀しい愛を終わらせなければ。
【カイ…リ】
「よく泣くな、お前は」
ミナギの傍で、カイリもゆっくりと瞼をおろした。
池の底で、カイリは眠っていた。
寝返りを打った刹那、ぐらりと体が落下する。
「なっ!?」
ぐしゃ、と底に潰れた彼は、牀台を恨めしげに睨みつけた。
(まだ眠いのに……クソ)
「ミナギ……?」
気配の残滓が薄い。
彼女は、大分前にここを出たようだ。
(学校、学校…っと。確かこの地域にゃ、一つしかなかったよな)
殆ど雑木林に埋もれた池を出て、カイリは歩き出した。
人群れる雑踏を、カイリは行く。
その後ろ姿は、風を背負っていた。
――‐時代の風を。
人の姿を保ちつつも、彼の姿が他に見えることはない。(意識して、姿を現すことも可能)
だが見えなくとも、確かに底に存在しているものだ。
ミナギの気配を追って、カイリは道なりに進んでいく。
日は既に傾き、時間帯で言えば、いまは放課後あたりだろう。
まばらだが、家路につく学徒の姿が見受けられる。
やがて進むうち、甲高い声援響く校舎が見えてきた。
(気配はここから……)
さくさくと進んでいくカイリ。
校内で何人もの生徒とすれ違ったが、やっぱり誰にもカイリの姿は見えていない。
「つーか、水泳部ってのはどっちだ?」
いま彼がいるのは、屋上。
まったくの真逆だ。
ミナギの、人間としての名は土井水凪という。
「土井先輩、やっぱりすごいなぁ……フォルムが凄くキレイ。さすが大会に選抜されるだけあるよね〜」
「ねー、スタイルもいいし、なんだか魚みたいだよね」
プールの室内に、水を叩く威勢のいい音が響く。
泳いでいる水凪を、後輩たちの黄色い声が後押しした。
ミナギは、縦横に水の中を躍る。
「それに、凄くターンが早い……うっとりしちゃうわ」
「そうよねぇー」
そんなような会話を、カイリは監視台の上から聞いていた。
(コイツ……大会に出るなんて、一言も云ってなかったが)
そのうち、活動時間が終わり、後輩たちはバラバラと帰ってゆく。
それでも、ミナギは泳ぎ続けていた。
月光が、天窓から射して水を銀に染める中、ミナギは大きくジャンプした。
その姿は、まるでイルカのよう。
そうしてゆっくりと水を漕いで、プールサイドに手をつく。
「みな、帰っちまったぜ?」
【いいの、カイリに見せたかったから、好都合】
パシャン、と水を打ったのは、もう足ではなく魚類の尾。
上半身を乗り出す彼女は、人魚の姿だ。
仄白い乳房が目に痛い。
カイリはやっとの事で、そこから目をそらした。
【月……欠けてきたねー】
再び水に潜った彼女が、カイリに手を伸ばした。
「ああ」
たぷん…と飛沫をあげて、二人は水底に沈んでいく。
ひとしきりの口づけを終えたミナギは、カイリの腕の中で小さく、本当に小さな声で呟いた。
【こうして……月を見ながら、いつも思うの。迎えなんて、来なければって】
「俺たちだって、いつかは死ぬときが来る。長いか、短いかだけだ」
【不公平よ、そんなの……。いや、そんなのいやよ。もっと…あなたといたい】
カイリは一瞬だけ、金縛りのように固まってしまう。
「お前……」
作り物のの恋が、本心に変わってゆく。
【もっと、あたしが長生きで…もっと早く、あなたに出逢っていればよかったのに】
その瞳は語っている。
もう、自分に残された時間は、幾らもないことを。
月は欠けて欠けて‐‐――‐‐もう三日月まで日数はない。
【明日、ここで大会があるわ。カイリ……見てて欲しいの、あなたに】
「お前っ…もう始めから分かってたのか!? 明日が三日月だとっ」
【知ってたわ……きっと、一人で終わると思ってた。でも違ったわね、会ってまだ十日しか経ってないのに……短い恋だって分かってるのに。あなたを、愛してるの】
だから、死ぬときはあなたの傍にいたい。
「ばかやろうっ……!」
【帰ろう? 池に】
カイリの頬を、温かなものが伝う。
水の中で、唯一それだけが、確かな熱を持っていた。
そして、最期の朝がきた。
プールサイドに、水の騒めきと、選手たちの鼓動が谺している。
コースの三列目には、真剣な目をした水凪がいた。
(これが‐‐――‐あたしの泳ぎおさめ。必ず勝とう!)
水凪は一瞬、観客席にカイリの姿を捜すが、試合開始の審判の声に現実へ引き戻されてしまう。
「各自、位置について―――‐‐」
‐‐――‐パァン…!
大気を裂く、破裂音。
いま、幕が切って落とされた。
試合の緊迫感に、観客は一様に息をのむ。
(カイリ、カイリ……見ている?)
「ああ、ちゃんと見てるさ」
直接頭に響く彼女の思念に、カイリは薄く微笑んだ。
滑るように、水凪は水を舞う。
端瀬を流るる水の如くに他を圧倒した水凪は、最期の勝利を得た。
「優勝、三コース・土井水凪‐――‐‐っ!!」
歓声が上がるが、そこに、水凪の姿はない。
もはや、彼女には浮いていられる気力すらなかったのだ。
ただ、静かに身を任せ、水底に沈むだけだった。
救護班が彼女をタンカへ担いだとき、ミナギは、真っ直ぐにカイリを見ていた。
「ミナギ!?」
(カイリ、連れて行って? ……あたしを、池に戻して)
「きみ、大丈夫かね!? これから病院に搬送するよ」
年かさの救命士が、起きあがった彼女の肩を掴む。
「いいえ、少し眩暈がして……疲れただけですから。このまま家で休みます」
「そうかい? 誰か身内の方が来ていたら、付き添ってもらった方がいいよ」
「はい」
ミナギの傍に、カイリの姿を認めて安心したのか、彼は【気をつけて帰りなさい】と皺深い顔を綻ばせて見送った。
【カイリ……あたし、いまとても幸せなの】
池の端で、カイリは瀕死のミナギを支えていた。
もう死ぬのにね、と泣き笑いするミナギ。
カイリはなにも言わずに、彼女を抱き続ける。
日が、暮れてゆく。
黄昏が闇に呑まれ、凡てを塗りつぶす闇がくる。
【どうしてって、聞かない…の?】
口を開くたびに、水泡が散ってゆく。
ぱちんぱちんと弾ける泡は、まるで真珠のようだ。
【覚えてる? あの約束】
「ああ……覚えてるとも」
彼女は言ったのだ。
自分にとって一番の幸せは、愛しい男の腕で命尽きることだ、と。
【また……会える?】
「会えるさ、きっとな」
カイリは泣かない。
涙は、彼女を輪廻から外してしまうから。
【嬉し……い】
届いた一條の月光に、彼女の頬が綻んだ。
それは一瞬だけだが、今までで一番、美しい笑みだった。
「だから……恋は好かねぇ」
消滅してしまったミナギの温もりが残る手を握りしめて、カイリは吐き捨てる。
その声は、震えていた。
夜風が、彼の射干玉の髪を乱していく。
「やはり……伝承は守られるのか」
乾いた風が、草原に晩歌を奏でる。
ひとしきり風が撫でた後、もう、そこにカイリの姿はなかった。
どうも、維月です。
『あわい』3部のお届けにあがりました。
アンデルセン童話の『人魚姫』よろしく消えてしまったミナギですが、ちょっと惜しかったかな……(汗)