龍ヶ淵―りゅうがぶち―
幼い頃、人としての生に絶望した青年・カイリ。
カイリは、妖を従え、それらを祓う『祓い師』を生業に旅を続けている。
現代を生き抜く妖たちの元を廻りゆき、カイリの旅は今日もまた続く。
灰色に澱んだ空から、無数の針が降る。
水の、針。
身動きするもの凡てを射殺すような豪雨の中を、一人の男が黙々と歩を進めていた。
頭から雨よけのコートを被って歩く男の表情は、そこからは読みとることができない。
「だめだ、このままじゃあ埒があかねぇ」
容赦なく打ち付ける雨に、男は曇天を睨みつけて呟く。
その先に見えた大樹の下で、彼は足を止めた。
「うは、ひでえな」
被っていた上着を脱ぐと、濡れたような射干玉の髪が露わになる。
‐‐―――‐パキッ……
(ん……?)
「木霊の巣か……悪いが、少し借りるぞ」
気配に、彼の青い瞳が樹梢に座っている娘・木霊を見あげた。
そこには、緑い髪をした娘が座っている。
【随分と風変わりな童じゃの、お主が噂の祓い師か】
鈴を転がす声が、柔らかく彼の耳朶を打つ。
「俺を知ってんのかい」
【『こちら側』で知らぬ者はいないさ。間に棲まう祓い師どの】
「間ね、そんな風に伝わってんのか。まあ、否定はせんがな」
あ わ い‐‐―――‐‐。
彼の青い瞳が、スッと一瞬細められる。
人の容姿を保ちながらも、人に在らざりき者。
または妖であり、人間でもある者。
死んでいて、生きている者をいう。
彼‐‐――‐‐カイリの瞳が揃いでないのは、そのためである。
瞳はあるが、片割れは色も違い、見うる物も異なっていた。
「尋ねるが‐―――‐‐龍ヶ淵ってのはどっちかね?」
【この雨に呼ばれるモノは多い、ここより真北に行けばいいよ。ごらん…水馬が行く】
カイリは言われて、白く澱んだ宙を見あげる。
水銀色の‐‐――‐一見青く見える鬣を振り乱して、水馬が曇天を駆けていく。
「一頭くらい…持ってた方が便利そうだな」
【面白い奴よ、あれを狩るというのかぇ?】
ころころと笑う木霊に、カイリは苦笑い。
しなやかな四肢に、優美な青い鬣を持つ馬の姿を持つ妖・水馬。
誇り高く、気性が荒い。
その身に巨岩をも砕く剛力を潜めているので、何人も忌避するものの一つだ。
「真北だな、ありがとう」
荷を背負い直して、カイリは木霊の樹を離れた。
カイリは、懐から一枚の書簡を取り出す。
通常ならば、水が触れるとふやけてしまう紙だが、彼が手にしている書簡には、なんの変化も見受けられなかった。
書簡の差出人は、恐ろしく達筆な字で『龍ヶ淵』と記されている。
そう、カイリは書簡の差出人である『龍ヶ淵』の主に呼ばれてやってきたのだ。
(昔と、大分地形が変わった……この辺りも、開発の手が入ってきてんだな)
悠久を生くるカイリたちにとっては、時間など些細なことではないが、問題なのは領域なのである。
カイリがまだ幼かった500年前に比べて、この辺りの森は急速に姿を消した。
森だけのことではない。棲息する獣・同類の数も減少の途にある。
‐‐――‐カイリよ、至急に龍ヶ淵に来い‐‐――
「まさか、だよな」
しとしとと弱まり始めた小糠雨の中、カイリは急ぎ足で、ぬかるんだ山道を登っていった。
カイリは、契約後に人間の時を棄て、この淵の主に育てられたのだ。
「なんともイヤな里帰りだな……ひどく気がが濁ってやがる」
近づくにつれて、濃い死臭を感じる。
腐った肉と、血の匂い。
まるでこの周囲一帯が、死に包囲されているようだった。
‐‐―――‐ぱたっ……ペタ、ペタッ
頬に触れた、ぬるりとした冷たい感触。
それに目は、自然に頭上にかさばっている枝に向く。
「なっ……!?」
カイリの頬に触れたのは、間違いなく血だった。
そこには、先に見た水馬の首が引っかかっていた。
優美だった青い鬣は、いまや血にどす黒く変色し、哀しげに吹く風に揺れている。
計画性もなく、食いちぎられた首の断面。
おそらく、五体は四方のどこかに散ってしまったのだろう。
「おまえ……」
水馬さえ敵わぬ妖が、この先にいるというのだろうか?
(ま…さか、まさか!?)
カイリに、ひとしきり嫌な確信が生じた。
母からの書簡。
濃い死臭と、血の匂い。
真北へ向かった水馬。 そして、水馬は死んだ。
真北には、何がある?
「龍ヶ淵……!」
なにかがあったのだ!
カイリは走った。
「くっ……」
パシャン…と、彼が踏んだのは水溜まりではなかった。
あかく赤く咲く、夥しい血の海だった。
鋭く身を斬りつける冷気の中、カイリはそこに変わり果てた母を見つけた。
【カイリ、よく来たの……妾の、愛しい息子】
「や、やはりっ……斗生っ!」
血に濡れて微笑む彼女の肌は、所々に黒く斑に染まり、毒々しい腐臭を放っていた。
「斗生っ!? どうして、こんなになるまで放っておいた! どうして、もっと早く俺を呼ばなかったんだっ」
立ちこめる腐臭も厭わずに、カイリは淵の岸に横たわる龍の頭を抱き締めた。
【カイリ……】
青い隻眼を細めて、カイリの養母・斗生はゆるゆると人型に姿を歪ませる。
【カイリ……もう分かっておるのだ。妾は、もう助からぬ…。これが寿命という物なのだと、やっと分かったよ。その前に、少しお前の顔が見たくなった】
弱々しく、悄然と微笑む斗生。
「情けないこと言うんじゃねえよ! いつもみたいに、勝ち気な斗生はどこ行った!? なにか方法くらい見つかるだろうっ」
カイリは、斗生の血で汚れた頬を拭って怒鳴る。
【お前……優しい子……昔から、そういうのは変わらぬな】
カイリの脳裏に、一瞬映像がよぎる。
夥しい、血。
涙。
これは既視感だろうか。
(血‐‐――‐? なんだ、ひっかかる。なんなんだ?!)
『‐‐―‐必ず助けてやる、だから、だから…頑張るんだぞっ』
目に、大粒の涙を溜めた斗生。
そういえば…蝕まれた俺を助けたのは、斗生だ。
『龍の病は、同族にしか癒すことはできぬ…助かって、よかった‐‐――‐』
(そうか、そうだったのか!)
カイリは、唐突に理解した。
キーワードは血!
‐‐――‐なぜなら、その血には浄化作用があるからだ。
「そうか、血だ! 俺の血を使えばいいのかっ」
それならば、この夥しい血の海にも納得がいく。
斗生は、それに気づいていたのかも知れない。
【……カイリ……?】
カイリは、がりりと掌に牙をたてた。
彼の掌には、たちどころに赤い液体が溜まってゆく。
儚い微笑を浮かべる少女に、カイリは掌を差し出した。
「斗生…飲んでくれ。これでいいはずだ」
それに、こくりと頷く斗生。
彼の掌に口づけた彼女の身体が、次第にぼんやりとした光を放ち始める。
それにつれて、彼女の五体を蝕んでいた斑も、跡形もなく消えていった。
【カイリ……思い出したぞ。妾も、昔お前に同じ事をした】
「俺もだよ。助かってよかったな」
カイリは、壊れそうなほどに斗生を強く抱き締める。
斗生は、やんわりとカイリの背中をを抱きかえしながら、哀しげに呟いた。
【迷惑をかけたな…この者たちの供養、手伝うてくれるか?】
「……ああ」
斗生を蝕んでいたのは、開発排水による、穢濁及び穢膵である。
淵の穢濁も消え、カイリは再び、母の許を去らんとしていた。
風に舞う桜の花弁が、斗生の黒髪を撫でていく。
沼の端に咲く桜の大樹の傍、二人は寄り添っている。
【まだ、旅を続けるのか?】
「まあな、まだ知ることが多いんでね。もうねえとは思うけど、なんかあったらすぐ呼んでくれよ?」
【分かってる】
ひとひら、ひとひらと舞い散る桜が、斗生の美しさを際立たせている。
「ホントかよ」
美貌の二人が寄り添うと、それは恰も、一枚の絵画のようだ。
補足だが、この二人…血の繋がった(?)母子である。
【ホント】
にこりと嫣然と微笑み、斗生はカイリの額に甘く口づけた。
「そっか……じゃ、また何かあったら絶対呼ぶんだぞ、いいな」
【ああ】
「……よし」
カイリ‐‐――‐‐人でも、妖でもある間に棲まう『祓い師』
不思議なるものを従えて、彼の旅は…今日も続く。