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柊蓮は閃かない

作者: アク
掲載日:2026/10/30

挿絵(By みてみん)

朝の冷たい空気がまだ残る教室で、いつもの他愛ない言い合いが交わされていた。


「だから言ったじゃない。あの発達した雨雲のレーダーを見て、どうして傘を持たずに家を出られるのよ」


隣の席で呆れたようにため息をつくのは、橘葵(たちばな・あおい)だ。


家が2軒隣というだけの理由で、幼稚園の頃から柊蓮(ひいらぎ・れん)との腐れ縁が続いている幼なじみである。


カバンから几帳面な手つきで筆記用具を取り出している彼女は、昔から無駄に知識が豊富で、何事も論理と計画性で武装している。


「通り雨だと思ったんだよ。俺の直感では、駅に着く頃には止むはずだったんだ」


「あんたのその根拠のない直感のせいで、私の折りたたみ傘に男が無理やり相合傘で入り込むという不快なイベントが発生したんだけど?」


蓮は、彼女の鋭いジト目をヘラヘラと笑って受け流した。


成績は中の上だが、テストはいつも一夜漬けの要領とひらめきだけで乗り切っている蓮と、日々コツコツと知識を蓄積する葵。


正反対の性格だからこそ、こうして気兼ねなく言い合える関係だった。


ガラッ、と重い引き戸が開く音がして、教室の空気が少しだけ引き締まる。


ホームルームを知らせるチャイムとほぼ同時に、担任の桜井先生が教壇に立った。


優しくて真面目な数学教師である彼は、いつもならもう少しシャキッとしているはずなのだが、今朝は明らかに様子がおかしい。


「えー、おはよう。今日は火曜だから……帰りの清掃は二班だったな。それと……」


覇気のない声。


黒板に日付を書く手は心なしか震えているようにも見えるし、何より分厚いレンズの奥にある目の下のクマが、悲惨なことになっていた。


先生が黒板に向かって連絡事項を書いている隙に、蓮は隣の席へ体を傾けた。


「なあ。なんか桜井先生、最近めちゃくちゃ疲れてないか?」


蓮が小声で囁くと、葵も時間割プリントで口元を隠しながら顔を寄せてくる。


「……やっぱりそう思う? 真面目で断れない性格だから、他の先生の厄介な仕事を色々と押し付けられてるんじゃないかしら。最近、夜遅くまで職員室にポツンと残ってるらしいわよ」


「うわ、想像しただけで胃が痛くなりそう」


同情と呆れが入り混じったヒソヒソ話を交わしているうちに、短いホームルームは終わりを迎えた。


「じゃあ、今日も一日頑張るように」という桜井先生の力ない号令とともに、生徒たちが一斉に一時間目の準備を始める。


「さてと」


葵が机の上の時間割プリントに目を落とし、ポンと手を打った。


「ねえ蓮、一時間目と二時間目ってどっちも特別教室でしょ。いちいちこの教室に戻ってくるの面倒だから、二教科分のテキストをまとめて持っていきましょうよ」


いかに無駄な移動を省くか。


いかにも合理主義な彼女らしい提案だ。


「ん? ああ、そうだな」


言われてみれば、一時間目は4階東側の数学教室、二時間目はその反対側にある音楽室だ。


確かにまとめて持って行ったほうが効率がいい。


そう思いながら、蓮も自分の机に貼られた今週の変則的な時間割表に目をやった。


一時間目、数学(数学室)

二時間目、情報(情報室)

三時間目、音楽(音楽室)

四時間目、理科(理科室)


……五時間目、体育(体育館)

六時間目、社会(社会科室)


「…………いや」


蓮は時間割表を指差したまま、思わず間抜けな声を出した。


「一、二時間目どころの話じゃないぞ」


「え?」


「三時間目も四時間目も……いや、葵。今日、六時間全部が移動教室だぞ」


蓮の言葉に、葵が怪訝な顔で時間割を覗き込んだ。


そして、プリント上の文字をなぞっていた視線をピタリと止め、小さく眉をひそめる。


「……おかしいわね。いくら変則的な週だからって、こんな時間割は本来あり得ないわ」


「あり得ないって、現にこうして配られてるだろ」


「今の学校の時間割って、専用の編成ソフトで作られているのよ。そこには先生や生徒の負担を減らすためのアルゴリズムが組み込まれているのよ。六時間連続で移動なんてありえないわ」


「じゃあ、なんでこんなことになってるんだ?」


「……誰かが手動で、わざとシステムを無視してまでこのコマ割りを押し通したってことよ」


わざと? 一体誰が、何のためにそんな嫌がらせを。


思考を巡らせようとした蓮の耳に、無情にも一時間目の予鈴が響き渡る。


今はとにかく、4階の数学教室へ向かわなければならない。


「……まあいい。放課後、いつものファミレスで愚痴でも聞いてくれ。今日は一日、最悪の長旅になりそうだからな」


重いカバンを持ち上げた蓮に、葵は少しだけ面白そうな視線を向けた。


平穏なはずの火曜日は、校舎中を歩き回らされる地獄のフルコースとして幕を開けたのだった。


放課後。


駅前のファミリーレストランは、部活帰りや寄り道をする学生たちの喧騒に包まれていた。


「……死ぬかと思った」


テーブルに突っ伏した柊蓮は、グラスに残ったメロンソーダの氷をストローで虚しくカラカラと鳴らした。


対面で優雅にダージリンティーを飲んでいる橘葵は、文庫本から目を離すことなく冷ややかに言い放つ。


「だらしないわね。たかだか校舎内を歩き回ったくらいで」


「たかだか、って言うな。一階から四階まで、端から端への大移動だぞ。しかも六時間フルで。俺のふくらはぎは今、悲鳴を上げてる」


蓮は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。


「そもそも、やっぱりおかしいんだよ。いくらなんでも移動距離がバグりすぎてる」


蓮は画面を数回タップし、今朝、教室の後ろの掲示板を撮った写真を表示させた。


それは『校内配置図』と書かれたプリントだった。


挿絵(By みてみん)


「葵、ちょっと見てみろ。今日一日の俺たちの移動ルートを赤線でなぞると…」


「……なにそれ」


呆れながらも、葵は文庫本を閉じて身を乗り出した。

蓮はスマホの画面を指差す。


「いいか? まず一時間目は、四階東側の数学教室に上がった。そこから二時間目の情報室、三時間目の音楽室と、四階の西側へ大移動だ。これで『西へ向かう横線』ができる」


「四時間目は理科。四階から三階西側の理科室に降りる。これで『下に向かう縦線』」


「……で?」


「そして午後の五時間目。一階東側の体育館だ。これで右下に向かう縦線。最後に六時間目、一階西側の社会科室で『西へ向かう横線』だ。これらを全部繋ぎ合わせると……ほら!」


蓮はスマホの画面を葵に見せつけた。


「アルファベットの『S』になる!」


自信満々な蓮に対し、葵は感情の読めないジト目を向けた。


そして、氷のように冷たい声で言った。


「……あんた、バカなの?」


「は?」


「四時間目と五時間目の間、私たちどこでご飯食べたと思ってるの?」


蓮の動きがピタリと止まる。


「え? 自分の教室だけど……」


「だったら、四時間目の理科室から、五時間目の体育館へ直接線が繋がるわけないじゃない。一度、三階東側の2年5組に戻ってるんだから」


論破され、ぐうの音も出ない蓮。


確かに葵の言う通りだ。


昼休みに教室に戻るというのは盲点だった。


しかし。


蓮はもう一度、スマホの画面に目を落とした。


三階西側の理科室から、三階東側の2年5組へと戻る

『東へ向かう横線』。


「……いや、違う」


「負け惜しみ? 見苦しいわよ」


「違うんだ、葵。よく見てみろ」


蓮は少し震える指で、画面の図形を拡大した。


「四時間目の理科室から、昼飯のために2年5組に戻ってから、体育館に行っても、Sの字ができるんじゃないか……!」


その言葉に、葵の目がわずかに見開かれた。


一時間目から三時間目への移動で、一番上の【←】。


四時間目の理科室への移動で、左上の【↓】。


そして、昼休みに2年5組へ戻る移動で、真ん中の【→】。


午後の体育館への移動で、右下の【↓】。


最後の社会科室への移動で、一番下の【←】。


昼休みの移動を組み込むことで、いびつに折れ曲がるどころか、完璧で巨大な『S』の文字が校内配置図の写真の上に完成していた。


「……嘘でしょ」


葵が絶句したように呟く。


「じゃあ、午前中に西側へ移動させられたのも……昼休みに三階のフロアを東へ横断させるためだけに……?」


「ああ。この時間割を組んだやつは『昼休みの移動』すらも計算に入れて、俺たちを歩かせてたんだ」


放課後の喧騒の中で、二人のテーブルだけが奇妙な静寂に包まれた。完璧で巨大な『S』の文字。


スマホの横長なスクリーンに浮かび上がった赤い軌跡を見つめたまま、二人はしばらく押し黙っていた。


「……信じられない。昼休みの移動まで計算して、意図的にこのルートを組んだっていうの?」


「ああ。バグや偶然で、こんな一筆書きの『S』ができるわけがない」


蓮はスマホの画面をオフにし、テーブルの上に置いた。


たしかに、システム上あり得ないはずの連続移動の謎は解けた。


だが、根本的な疑問が全く解決していない。


「なあ、葵。そもそも時間割って誰が作ってんだ? 」


「全校生徒の時間割をいじるのは、基本は教務部っていう裏方担当の仕事のはずよ」


「教務部ねえ……。じゃあ、その誰かがわざとシステムを無視して、俺たちのクラスに『S』の字を描かせたってことか」


「そういうことにならないと、じつに困るわね」


「よし、じゃあ明日、学校でそれとなく探ってみるか。誰がこのふざけた時間割を組んだのか」


蓮が言うと、葵は自分の手元にあったプリントを綺麗に四つ折りにし、カバンに仕舞い込んだ。


「……そうね。私は家に帰ってから、念のため水曜日と木曜日のコマ割りも一応見ておくわ。火曜日にこれだけ手の込んだ真似をした犯人が、残りの曜日を適当に済ませてるとも思えないし」


「おいおい、まだやるのか? 俺はもう、しばらく校舎の図面は見たくないぞ」


「橘葵は、気になったら最後まで追求したいのよ」


不敵に笑う幼なじみにため息をつきながら、蓮はグラスに残っていたメロンソーダを一気に飲み干した。


翌日の水曜日。


蓮は朝のホームルーム前、なんとなく職員室の入り口あたりをウロウロしていた。


1階の中央寄り、校長室の隣にある職員室。


その引き戸の横にあるホワイトボードに貼ってある係の表を眺めてみたものの、どの先生が時間割の担当なのかなんて、生徒の立場からはさっぱり分からない。


誰か事情を知っていそうな先生はいないかとキョロキョロしていると、背後から急に声をかけられた。


「柊? こんな朝早くから職員室の前に突っ立って、どうした?」


振り返ると、数学の小テストの束を抱えた担任の桜井先生が立っていた。


相変わらず分厚いレンズの奥には酷いクマが張り付いており、今にもその場に倒れ込みそうなほど顔色が悪い。


「あ、桜井先生。……いや、ちょっと教務部の先生に用事があって」


「教務部? 誰宛てだ?」


「ええと……今年度の、時間割を作ってる先生って誰でしたっけ?」


蓮が何気なく尋ねた瞬間。


気のせいか、桜井の肩がビクッと不自然に跳ねた。


「……時間割、か?」


桜井はわずかに視線を泳がせ、抱えていた数学の小テストの束をぎゅっと持ち直した。


普段の温和で生徒思いなトーンとは違い、どこか探るような、あるいは怯えるような澱んだ目が蓮の顔を捉える。


「どうしてそんなことを聞くんだ、柊。うちのクラスは、今週は何か不都合でもあったか?」


「いや、別に不都合ってわけじゃないんですけど……なんか移動教室多くね?って噂になってて。誰がこんな組み方したのかなって気になっただけです。」


蓮がヘラヘラとごまかすように笑うと、桜井はさらに表情をこわばらせた。


「……学校の時間割というのはな、色々な教科の教員の要望や、特別教室の空き状況、施設のメンテナンス予定などを総合的に考慮して、教務部が厳正に編成しているものだ。個人的な趣味や、ましてや誰かの意図でどうこうできるものではないよ。第一、特別教室や各教科教室は授業ごとに適切な管理が必要だから、単純に近ければいいというわけでも……」


やけに早口で、必死に言い訳を並べ立てる。


(なんか、やけに必死だな……)


蓮が内心で首を傾げかけたその時、開け放たれた職員室の奥から別の教師の大きな声が飛んできた。


「おい桜井! 来週の数学科の会議資料、まだコピー終わってないのか? 職員会議に間に合わなくなるぞ!」


「あ、ああ、今行く!」


焦ったように振り返った桜井は、これ以上追撃されないよう逃げるように廊下の反対側へと小走り去っていった。


その背中を、蓮はしばらくじっと見送る。


「……絶対、何か知ってるよな、あれ」


水曜日の放課後。


駅前のファミリーレストランのいつものボックス席に、蓮と葵は座っていた。


「でさ、今朝職員室の前で桜井先生に時間割担当のこと聞いたんだよ。そしたらさ……」


蓮は今朝の出来事をかいつまんで語った。


時間割という言葉に過剰に反応し、必死に正当化して逃げるように去っていった担任の様子を思い出しながら、ストローでメロンソーダをかき混ぜる。


「……絶対に何か知ってるだろ」


「やっぱりね。図星を突かれて慌てふためくなんて、いかにも怪しいわ」


葵はダージリンティーのカップをソーサーに置き、腕を組んだ。


「でも、怪しいのは先生の態度だけじゃないわよ。昨日までの分だけじゃなく、今日の水曜日の時間割も徹底的に洗ってみたんだから」


そう言って、葵はカバンからプリントを取り出し、机の上にパタンと広げた。


そこには、教科名と使用教室がセットで記載された今週の時間割表と、昨日の放課後にも見た『校内配置図』が並んでいる。


挿絵(By みてみん)


「ちょっとこの校舎配置図を見てよ」


葵はペン先で、4階建ての校舎図を指し示す。


西側には音楽室や美術室などの特別教室、中央には3つの階段を挟んで各クラスの教室、そして東側には数学や英語などの教科教室が並ぶ構造だ。


「水曜日の午前中。私たちの2年5組は3階の東寄りにあるわよね。1時間目は『国語(国語教室)』だから東側の階段を下りて2階の東端へ。2時間目は『家庭科(家庭科室)』だから、そのまま2階の廊下を西端まで横断。」


「んで、3時間目は『情報(情報室)』だから、西側の階段を上がって4階の西端へ。そして4時間目は『数学(数学室)』だから、そのまま4階の廊下を東端まで横断か」


蓮が覗き込むと、水曜日の午前中の移動ルートは、2階と4階のフロアを大きく使った長方形の軌跡を描き出していた。


「なんだこれ。校舎の端から端まで歩かされて、午前中で綺麗に四角く一周してるのか?」


「ええ。しかも不自然なのは午後よ。5時間目の社会と6時間目の理科。どちらも特別教室で授業することもあるのに、今日は教室だったでしょ」


「あ……そうか。特別教室を使わずに、午後はずっと自分のクラスから動かないってことか」


「その通り。午後の移動がないから、午前中に描かれた巨大な四角いループの軌跡はこれ以上崩れない。一つの閉じた図形……アルファベットの『O(オー)』として完成するのよ」


火曜日の『S』とはまた違う、意図的に完結させられた『O』の文字。


さらに葵は、時間割表の次の列をペンで叩いた。


そこには、明日、木曜日のコマ割りと使用教室が記載されている。


「そして木曜日。こっちのルートをなぞると……」


赤いペンで図面上に引かれた線を見た瞬間、蓮は思わず息を呑んだ。


校舎の断面図の上を縫うように引かれた線は、火曜日によく似た、滑らかな曲線を描いていた。


「……これ、また『S』じゃねえか」


蓮が呟くと、葵は三日分の軌跡を並べて見せた。


火曜日の『S』。


水曜日の、午前中で閉じるループと午後の教室待機で作られた『O』。


そして木曜日の、もう一つの『S』。


「――『S・O・S』。三日間にわたる異常な移動教室の全貌は、学校の図面全体を使った巨大な救難信号だったのよ」


葵の鋭い呟きに、蓮はハッと目を見開いた。


バラバラに見えていた三つの図形が脳内で繋ぎ合わさり、背筋にぞくりと冷たいものが走る。


木曜日の朝。


黒板の前で二次関数のグラフを書くチョークの音が、静かな教室に響いていた。


「……なので、ここの頂点の座標はこうなる。各自、ノートに写しておくように」


1時間目の数学。


数学室の黒板の前に立つ桜井先生の声は、相変わらず覇気がなく、どこか虚ろだった。


いつもなら黒板の端から端まで使って熱心に解説するはずが、今日はチョークを握る手も重たげで、時折小さくため息をついている。


一番後ろの席でノートを開きながら、蓮は隣の席の葵に視線を送った。


葵もノートをとるふりをしながら、鋭い観察眼で担任の様子をじっと見つめている。


昨日、ファミレスで『S・O・S』の全貌にたどり着いた二人は、ひとつの仮説を立てていた。


――この異常な時間割を組んだのは、他でもない桜井先生自身ではないか、と。


チャイムが鳴り、力なく教室を出ていく担任の背中を見送ると、蓮は葵の席へと身を乗り出した。


「なあ。やっぱりあのクマの酷さ、ただの寝不足じゃないよな」


「ええ。昨日のあなたの報告と、今朝の様子。パズルのピースは完全に揃ったわ」


葵はカバンから、あの赤い線が引かれた時間割表を取り出した。


「よく考えてみて。いくら教務部の人間でも、特定のクラスの生徒だけを三日間もあちこち連れ回すなんて、リスクが高すぎるわ。すぐに他の先生や生徒からクレームが来るもの」


「でも、現に俺たちは連れ回されてるぞ」


「ええ。だから『言い訳』ができる人間じゃないとダメなのよ。たとえば、『他のクラスの兼ね合いで、どうしても担任である自分のクラスにしわ寄せがいってしまった』とかね」


蓮はハッとして、教卓の方を見た。


「自分のクラス……つまり、2年5組の担任である桜井先生なら、俺たちの時間割をいじってもギリギリ言い逃れできるってことか?」


「そういうこと。それに昨日、あなたが『時間割の担当は誰か』と聞いたとき、先生は激しく動揺した。さらに他の先生からは、仕事を頼まれてたわよね」


葵はペンをクルリと回し、静かに告げた。


「桜井先生は今、深刻な過労の渦中にいる。断れない性格で、色々な雑務を抱え込んでしまっているのよ」


「じゃあ、この時間割は……」


「ええ。システムを無視してまで、図面の上に巨大な文字を描いた理由。それは、声を上げられない彼の、文字通りの『S・O・S』だったのよ」


沈黙が落ちた。


最初はただの嫌がらせか、不気味なイタズラだと思っていた。


しかしその正体は、今にも潰れそうな一人の教師が、無意識か意図的か、教え子たちに向けて発した悲痛な叫びだったのだ。


「……バカだな、あの人」


蓮は頭をガシガシと掻きむしった。


「こんな回りくどい暗号みたいなことしてないで、素直に『助けて』って言えばいいのに」


「真面目すぎるのよ。自分が壊れかけていることすら、うまく言語化できないくらいに追い詰められているのかもしれないわ」


2時間目の情報の授業へ向かうため、クラスの生徒たちが席を立ち始める。


木曜日のルート。


今日は4階の東から西へ大横断し、午後にはまた階段を上り下りして、二つ目の『S』を描き出す日だ。


「葵。俺たち、放課後に桜井先生んとこ行くぞ」


立ち上がった蓮の言葉に、葵は少しだけ目を丸くし、やがてふっと口角を上げた。


「そう言うと思った。まったく、直感と勢いだけで動くんだから」


「お前だって、ここまで調べ上げといて見捨てるつもりなんてないだろ?」


「当然よ。この巨大な救難信号、私たちがちゃんと受信したってこと、教えてあげなきゃね」


二人は顔を見合わせ、木曜日の『S』の軌跡を完成させるべく、教室を後にした。


放課後。


職員室へと続く廊下の角で、蓮と葵は待ち構えていた。


予想通り、ほどなくして桜井先生がやってきた。


両腕には、自分の背丈ほどもある大量の会議用資料がうず高く積まれている。


今にもバランスを崩して倒れそうなその足取りは、フラフラだった。


「桜井先生」


蓮が正面から声をかけると、桜井はビクッと肩を震わせ、抱えていた資料の山から顔を覗かせた。


「ひ、柊? それに橘も。どうしたんだ、こんなところで」


「先生に、どうしても確認したいことがあって」


葵が一歩前に出て、手に持っていたプリントを突きつけた。


それは、赤と青のペンで不自然な移動ルートが書き込まれた『校内配置図』と『2年5組 今週の時間割表』だ。


「火曜日の『S』、水曜日の『O』、そして今日の『S』。システムを無視してまで描かれた巨大な救難信号の意図について、お話を聞かせていただけませんか」


その図面を見た瞬間。


桜井の目が見開き、腕の中の資料がパラパラと床に崩れ落ちた。


「……嘘、だろ」


図面を見つめる桜井の顔にあったのは、隠し事がバレた焦りではなく、純粋な『驚愕』だった。


「先生、自分で組んだんじゃないんですか?」


「いや……私が、組んだ。組んだんだが……」


桜井は崩れ落ちた資料の横にへたり込み、両手で顔を覆った。


「連日の徹夜で、頭がまともに働いていなかった……。他の先生からの要望と、特別教室の割り当てと、クレームと……全部をパズルのようにはめ込んでいるうちに、無意識のうちにこんな異常なルートを……」


確信犯ですらなかった。


限界を超えた心と体が、無意識のうちに時間割編成ソフトというキャンバスを使って、悲鳴を上げていたのだ。


「……バカだな、先生は」


蓮はため息をつくと、床に散らばった資料をガサッと半分抱え上げた。


「こんなSOS、俺たちが気づかなかったらどうするつもりだったんだよ」


「柊……?」


「ほら、葵も突っ立ってないで手伝えよ。これ、進路指導室に運べばいいんですよね?」


「ついでにコピーも私たちがやっておきます。先生は他の作業に集中してください」


葵も残りの資料をテキパキと拾い集め、呆然とする桜井にふっと微笑みかけた。


「時間割の組み方は分かりませんけど、力仕事や簡単な事務作業くらいなら、少しは役に立ちますよ」


「お前ら……」


「さ、行きますよ! 働きすぎのダメ担任を救出するミッションの開始だ」


蓮がニカッと笑って歩き出す。


桜井は少しだけ潤んだ目をこすり、「……ありがとう」と小さな声で呟いて、二人の背中を追いかけた。


それから数週間後。


蓮と葵の『放課後のお手伝い』の甲斐もあってか、桜井先生の目の下のクマは随分と薄くなり、声にも以前のような張りが戻ってきていた。


他の教師からの理不尽な押し付けも、蓮が「あー! 今から俺たちの進路相談なんで桜井先生貸し切りです!」と強引に割り込むことで、物理的に防波堤となっていた。


そして、金曜日の1時間目。


返却された数学の小テストを見つめながら、蓮は思わず吹き出しそうになった。


「なあ、葵。これ見ろよ」


蓮が指差したのは、プリントの最後に記載された図形問題だった。


普段なら『点A、点B、点C』や『点P、点Q、点R』が使われるはずの座標上に、見慣れないアルファベットが振られている。


『問4:放物線上の 点T、点H、点X を結んでできる三角形の面積を求めよ』


「……T、H、X((サンクス))」


葵は呆れたように小さくため息をつきながらも、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。


「まったく。相変わらず回りくどい人ね」


「言葉にすれば一秒で済むのにな」


蓮はヘラヘラと笑いながら、直感と要領だけで正解を導き出した自分の答案用紙をカバンに押し込んだ。


不器用で真面目な数学教師からの、誰にも気づかれないような小さな暗号。


今度は間違いなく、二人への明確なメッセージだった。

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