婚約破棄された公爵令嬢は、王国の未来ごと王太子を見限りました
「アリシア・フォン・ヴァレンシュタイン! お前との婚約を、今この場で破棄する!」
王宮の大広間に、王太子エドワードの声が響き渡った。
その日、王宮では王国の建国記念を祝う夜会が開かれていた。国内の貴族が一堂に会する華やかな舞台で、次期王妃となるはずだった公爵令嬢アリシアは、突然、婚約破棄を宣告されたのである。
金色の髪に、澄んだ青い瞳。
年齢は十八歳。王国で最も格式高いヴァレンシュタイン公爵家の長女であり、幼い頃から王妃教育を受けてきた才女だった。
政治、経済、外交、法律、歴史。
そのどれを取っても、彼女の知識と判断力は同年代の貴族令嬢を大きく上回っていた。
そして何より、彼女は王太子エドワードの婚約者として、十年以上にわたって王国のために尽くしてきた。
にもかかわらず…
「理由をお聞かせいただけますか、殿下」
アリシアは少しも取り乱さず、静かに尋ねた。
エドワードは、その態度が気に入らないとでもいうように鼻を鳴らした。
「白々しい! お前が自分の立場を利用し、男爵令嬢のリリアーナをいじめていたことは、すでに調べがついている!」
彼の隣には、桃色の髪をした少女が立っていた。
リリアーナ・ベル。
平民出身ながら、魔法の才能を認められて男爵家の養女となった少女である。
大きな瞳には涙が浮かび、エドワードの腕をぎゅっと握りしめていた。
「アリシア様……もう、やめてください。私は殿下のおそばにいたかっただけなのです。なのに、私が殿下とお話しするたびに、アリシア様は怖いお顔をなさって……」
リリアーナは震える声で訴えた。
「私のような者が、殿下と親しくしてはいけなかったのでしょうか……?」
その言葉に、周囲の貴族たちがざわめいた。
エドワードは彼女をかばうように抱き寄せ、アリシアを睨みつけた。
「聞いたか! 身分の低い者を見下し、嫉妬から嫌がらせを繰り返す! そんな女が王妃になれると思うか!」
アリシアは二人を見つめた。
そして、小さく息を吐いた。
「なるほど。つまり殿下は、私がリリアーナ様をいじめたという証拠をお持ちなのですね?」
「当然だ!」
「では、具体的にお示しください」
エドワードは一瞬だけ口ごもった。
しかし、すぐに懐から数枚の紙を取り出した。
「これを見ろ! リリアーナに届いた脅迫状だ! そして、王宮の茶会で彼女に恥をかかせたという証言もある!」
「脅迫状、ですか」
アリシアは差し出された紙を受け取った。
そこには、確かに彼女の名前が記されていた。
――身の程を知りなさい。殿下に近づくなら、相応の報いを受けることになります。
文面だけを見れば、いかにも嫉妬深い令嬢が書きそうな内容だった。
しかし、アリシアはすぐに気づいた。
「この封蝋は、私のものではありませんね」
「何?」
「ヴァレンシュタイン家の封蝋には、中央に双頭の鷲が刻まれています。こちらは一羽の鷲。しかも、封蝋に使われている赤い蝋は王宮の備品でしょう」
アリシアは淡々と指摘した。
「筆跡も違います。私の筆跡をご存じの方なら、一目でおわかりになるでしょう」
「そ、そんな細かいことはどうでもいい!」
エドワードは声を荒らげた。
「お前が書かせたのかもしれないだろう!」
「それでは、私が書かせたという証拠をお示しください」
「証拠、証拠と……! お前は本当に可愛げがないな!」
その言葉を聞いた瞬間、アリシアの表情からわずかな感情が消えた。
幼い頃から、彼女はエドワードのために努力してきた。
彼が苦手な外交文書を代わりに整理し、財政報告の読み方を教え、隣国との交渉に必要な資料をまとめた。
彼が遊び歩いている間にも、彼女は王妃教育を受けながら、王国の抱える問題を学び続けていた。
エドワードが成果を上げれば、それは王太子の功績となった。
失敗すれば、アリシアが陰で支え、問題が表面化しないように処理した。
それでも彼女は構わなかった。
未来の国王を支えることこそ、自分の役目だと思っていたからだ。
だが、今の彼はどうだろう。
何の証拠も示さず、群衆の前で婚約者を罪人扱いしている。
しかも、その理由は、彼自身が夢中になっている少女の訴えだった。
「……殿下」
アリシアは静かに口を開いた。
「最後に一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ。命乞いでもするつもりか?」
「いいえ」
彼女はまっすぐにエドワードを見た。
「私がこれまで殿下のために行ってきた仕事について、殿下はどれほどご存じですか?」
「は?」
「王国北部の穀物備蓄制度の改定。南部の水路整備計画。隣国との関税交渉。王都の孤児院への支援制度。王室直轄領の収支改善。これらについて、殿下ご自身がどれほど把握していらっしゃいますか?」
「そんなもの、今は関係ないだろう!」
「そうですか」
アリシアは目を伏せた。
そして、再び顔を上げたとき。
そこには、先ほどまでの婚約者を気遣うような表情はなかった。
「承知いたしました。エドワード殿下。私も、あなたとの婚約を喜んで維持する理由がなくなりました」
「なっ……!」
「婚約破棄をお受けいたします」
大広間が静まり返った。
エドワードは、アリシアが泣いて許しを請うものだと思っていたのだろう。
彼女があっさりと受け入れたことで、かえって狼狽した。
「そ、そうか! ようやく自分の罪を認めたか!」
「いいえ。殿下のご判断を尊重しただけです」
アリシアは礼儀正しく一礼した。
「それでは、私はこれにて失礼いたします」
彼女が踵を返そうとした、そのときだった。
「待て!」
エドワードが叫んだ。
「勝手に帰るな! まだ話は終わっていない!」
アリシアは足を止めた。
「殿下が婚約を破棄するとおっしゃったのです。私には、もうここに残る理由がございません」
「お前は公爵令嬢だぞ! 王太子の婚約者を辞めたからといって、好き勝手にできると思うな!」
「そのとおりです。私は公爵家の娘です」
アリシアは微笑んだ。
「ですから、これからは公爵令嬢として、自分の家と領民のために生きることにいたします」
その言葉の意味を、エドワードは理解していなかった。
理解する必要などないと思っていたのだ。
彼はまだ知らなかった。
自分がたった今、何を手放したのかを。
翌朝。
王宮の執務室では、エドワードが不機嫌そうに椅子へ腰掛けていた。
「まったく、最後まで可愛げのない女だったな」
彼は侍従が差し出した紅茶を受け取り、乱暴に口をつけた。
「殿下、アリシア様の件ですが……」
「何だ?」
「ヴァレンシュタイン公爵家より、正式な書状が届いております」
侍従が差し出した封書には、公爵家の紋章が刻まれていた。
エドワードは面倒くさそうに封を切り、中の書状を読み始めた。
そこには、婚約破棄に関する事務的な確認事項とともに、いくつかの重要な通達が記されていた。
「……何だ、これは?」
書状を読み進めるうちに、彼の眉間にしわが寄っていく。
ヴァレンシュタイン公爵家は、王室との間で締結されていた複数の協力契約について、契約内容の再確認を求めていた。
王室への穀物供給に関する特別契約。
王都の治水事業に対する公爵家の資金援助。
王室直轄領の財務管理を支援するための人員派遣。
そして、王太子の教育と政務補佐に関する非公式な協力体制。
そのすべてについて、婚約関係の終了に伴い、従来の便宜供与を継続する理由がなくなったとして、契約に従った見直しが求められていた。
「ふざけるな!」
エドワードは書状を机に叩きつけた。
「公爵家が王家に協力するのは当然だろう! それを婚約破棄と結びつけるなど、何を考えている!」
侍従は困ったように頭を下げた。
「恐れながら、これらの契約は、ヴァレンシュタイン公爵家が独自に締結していたものです。王室側に一方的な継続を要求する権利はございません」
「ならば、父上に命じて継続させればいい!」
「陛下へのご報告は、すでに行われております」
その言葉に、エドワードは顔をしかめた。
「……父上は何と?」
「陛下は、契約内容を確認したうえで、法務卿と財務卿に対応を検討するよう命じられました」
つまり、王太子の一存ではどうにもならないということだった。
エドワードは苛立ちを隠そうともせず、書状を放り投げた。
「構わん! 公爵家が協力しなくなったところで、王国は揺るがん!」
侍従は何も答えなかった。
ただ、その顔には、明らかな不安が浮かんでいた。
昼過ぎ。
王宮の財務卿が、エドワードの執務室を訪れた。
「殿下。至急、ご確認いただきたい案件がございます」
「今度は何だ!」
「ヴァレンシュタイン公爵家が担当していた王室直轄領の収支改善事業についてです」
「だから、それがどうした!」
「現在の事業計画は、アリシア様が中心となって作成されたものです。後任者への引き継ぎ資料はございますが、実務上の判断を担っていた担当者の多くは、公爵家の人員です」
「ならば、別の者に任せればいいだろう!」
「もちろん、そのように進める予定です。しかし、現状の資料だけでは、すぐに代替できない部分がございます」
財務卿は慎重に言葉を選んだ。
「アリシア様は、各領地の収穫量、輸送費、市場価格、備蓄状況を総合的に分析し、毎月の配分計画を調整しておられました。従来の担当者が把握していなかった情報まで整理されていたため、現在、その全体像を理解している者がほとんどおりません」
「……そんなもの、財務卿がやればいい!」
「私は財務全体を統括しております。各事業の細かな調整まで、一人で代行することは困難です」
エドワードは鼻で笑った。
「たかが令嬢の仕事だろう? 大げさな」
財務卿の表情が硬くなった。
「殿下。率直に申し上げます。アリシア様の仕事は、決して単なる令嬢の仕事ではございませんでした」
「何だと?」
「王室が本来、相応の人員と予算を用いて行うべき業務の一部を、彼女は自らの責任で支えておられました。しかも、その成果をほとんどご自身の功績として公表なさらず、王太子殿下の実績として報告しておられたのです」
エドワードは黙り込んだ。
だが、それは反省したからではなかった。
自分が知らなかったことを指摘されたのが、気に入らなかっただけだった。
「……わかった。代わりを探せ」
「承知いたしました。ただし、引き継ぎには時間がかかります」
「時間がかかるなら、急がせればいい!」
財務卿は深々と頭を下げた。
そして執務室を出る際、小さくつぶやいた。
「……陛下に、すべてご報告せねば」
その日の夕刻。
エドワードは、リリアーナを王宮の庭園に招いていた。
「殿下、どうなさったのですか? 何だかお疲れのようですわ」
リリアーナは心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
その仕草に、エドワードはようやく機嫌を直した。
「いや、少し面倒なことがあってな。しかし、もう心配はいらない」
「まあ、頼もしいですわ」
リリアーナは微笑んだ。
「やはり、殿下には私のような女性がふさわしいのですね。アリシア様は、いつも難しいお話ばかりなさっていましたもの」
「ああ。あれにはうんざりしていた」
「私なら、殿下のお話を何でも聞いて差し上げますわ」
彼女はそっとエドワードの腕に手を添えた。
「それに、私たちが結婚すれば、ヴァレンシュタイン公爵家だって、きっと考えを改めるはずです」
「……そうだな」
エドワードは、その言葉にすがるようにうなずいた。
そうだ。
ヴァレンシュタイン公爵家がどれほど力を持っていようと、王家には王家の権威がある。
自分が王になれば、すべて思いどおりにできるはずだ。
アリシアがいなくても、何も問題はない。
彼は、そう信じようとした。
ところが、リリアーナは次の瞬間、思いもよらないことを口にした。
「ところで殿下。アリシア様が王妃にならなくなったのですから、私が王妃になるのですよね?」
「……何?」
「だって、殿下の婚約者は私になるのでしょう? でしたら、王妃としての衣装や宝石、それから専用の宮殿も必要ですわね」
エドワードは目を瞬かせた。
「いや、王妃の話はまだ……」
「まあ! 私では不満なのですか?」
リリアーナの瞳に、たちまち涙が浮かんだ。
「殿下は私のためにアリシア様との婚約を破棄してくださったのではありませんか? それなのに、私を王妃にしてくださらないなんて……」
「そ、そういう意味ではない!」
エドワードは慌てて彼女をなだめた。
「もちろん、お前を大切にするつもりだ!」
「では、王妃にしてくださいますのね?」
「……ああ」
口にしてから、エドワードは後悔した。
王太子の婚約者を変更するには、王の承認が必要だ。
そして王妃になるには、貴族社会からの承認も必要となる。
何より、リリアーナには王妃として必要な教育がまったく足りていなかった。
しかし、今さらそれを口にすれば、彼女は泣き出すだろう。
「よかった……! 殿下、大好きですわ!」
リリアーナは無邪気に笑った。
エドワードは、ぎこちなく微笑み返すしかなかった。
彼はまだ気づいていなかった。
アリシアがいなくなったことで、自分の周囲に残ったのは、耳の痛い忠告をする者ではなく、耳に心地よい言葉だけを与える者たちだということに。
そして、それこそが、彼にとって最も危険な状況だったということに。
一方、ヴァレンシュタイン公爵邸では、アリシアが父と向かい合っていた。
「お父様。昨日はご迷惑をおかけしました」
「迷惑だと?」
ヴァレンシュタイン公爵、アルベルトは眉をひそめた。
「お前は何も悪くない。むしろ、よくあの場で冷静に対応したものだ」
「ですが、王家との関係が悪化する可能性がございます」
「それを承知のうえで、お前は婚約破棄を受け入れたのだろう?」
アリシアはうなずいた。
「はい。もう、殿下を支えることに意味を見いだせませんでした」
アルベルトは娘を見つめた。
幼い頃から、アリシアは王太子の婚約者として育てられてきた。
好きな本を読む時間さえ削り、礼儀作法を学び、政治を学び、国を支えるための知識を身につけてきた。
その努力を、父は誰よりも近くで見ていた。
「アリシア。お前は、これからどうしたい?」
「私は……」
アリシアは少しだけ考えた。
「ヴァレンシュタイン領へ戻りたいと思います」
「領地へ?」
「はい。以前から気になっていた農地改革や、領内の学校の整備を進めたいのです。王宮では、どうしても王室の都合を優先しなければなりませんでしたから」
彼女の瞳には、久しぶりに明るい光が宿っていた。
「私は、もっと自分の意思で仕事をしたいのです」
アルベルトは満足そうに笑った。
「よかろう。お前の望むようにしなさい」
「ありがとうございます、お父様」
「ただし、一つだけ約束してほしい」
「何でしょうか?」
「これからは、自分のためにも生きることだ。お前は王家のために十分すぎるほど尽くした。これ以上、あの王太子のために人生を費やす必要はない」
アリシアは目を伏せた。
「……はい」
その返事を聞いたアルベルトは、机の引き出しから一通の書状を取り出した。
「実は、以前から準備していたものがある」
「これは?」
「王都で進めていた支援事業の契約書だ。お前が王太子妃になることを前提に、王室の依頼を受けていた部分がある。今回の件で、継続する必要があるのか、すべて洗い直すことにした」
「お父様も、すでに動いていらしたのですね」
「当然だ。公爵家の財産は、王家に無条件で差し出すためのものではない」
アルベルトは厳しい表情で続けた。
「王家との友好関係は大切だ。しかし、友好と隷属は違う。あの王太子は、その区別もついていないようだ」
アリシアは静かにうなずいた。
「契約は、契約どおりに扱いましょう。王家に不当な負担を押しつける必要はありませんが、こちらが一方的に損をする理由もございません」
「そのとおりだ」
「それから、王太子殿下を支援するために割り当てていた人員についても、元の部署に戻すべきです。彼らにも、自分の仕事がありますから」
「わかった。すぐに手配しよう」
こうして、アリシアは王宮から距離を置くことになった。
彼女は恨みから王国を困らせようとしたわけではない。
ただ、自分が責任を負うべき範囲を、正しい場所へ戻しただけだった。
しかし、その結果は、王宮の人々が想像していた以上に大きなものとなる。
三日後。
王宮では、王太子の執務を補佐していた公爵家の人員が引き揚げられた。
彼らは王室に雇用された者ではなく、公爵家から派遣されていた専門職員である。
契約に従って配置が変更されただけであり、誰も王宮に対して反抗したわけではない。
それでも、影響はすぐに現れた。
「殿下、北部の穀物価格が上昇しております!」
「何だと?」
「備蓄倉庫からの輸送計画が滞っております。これまでアリシア様が調整していた輸送経路について、担当者が把握できていない部分があるようです」
「ならば、別の経路を使え!」
「すでに検討しておりますが、輸送費が大幅に増加します」
「金ならあるだろう!」
「予算の再配分が必要です。財務卿の承認を得るまでには、数日かかります」
「数日だと? その程度のことも即座に処理できないのか!」
報告に来た役人は、苦々しい顔をしながら頭を下げた。
以前なら、アリシアが数時間で判断していた案件だった。
彼女は輸送経路の代替案だけでなく、必要な予算、各領主との調整方法、万一の際の備蓄量まで把握していた。
しかし、その情報は彼女の頭の中にあるものも多かった。
王太子のために働いていた彼女は、すべての業務を逐一、周囲に説明する時間を持てなかったのである。
もちろん、資料は残されていた。
ただ、それを読み解き、判断し、実行に移す能力を持つ者が不足していた。
「……アリシアを呼べ!」
エドワードは叫んだ。
「今すぐ呼び戻せ! 王太子の命令だと言えば、来るに決まっている!」
しかし、その命令は実行されなかった。
王太子の使者が公爵邸を訪れたところ、アルベルト公爵は冷静に答えた。
「娘は現在、王宮の職務から離れております。契約に基づく業務については、王室の担当部署へお問い合わせください」
「しかし、殿下がお呼びなのです!」
「王太子殿下には、婚約を破棄する権限がおありでした。私どもは、そのご判断を尊重しております」
公爵は穏やかに微笑んだ。
「同様に、娘がどこで働き、誰のために能力を使うかは、本人が決めることです」
使者は何も言い返せなかった。
その返答は、法的にも礼儀の面でも、何ら問題がなかったからだ。
さらに一週間が過ぎた。
王宮の問題は、穀物の輸送だけではなかった。
南部の水路整備事業では、工事の進捗管理に遅れが生じた。
王室直轄領の財務報告では、過去の支出との照合が必要になり、決算作業が予定よりも大幅に遅れた。
隣国との関税交渉でも、これまでアリシアが作成していた分析資料が使えなくなり、王国側の交渉方針を決めるのに時間がかかった。
一つひとつは、王国を滅ぼすほどの問題ではない。
しかし、それらが同時に起きたことで、王宮の業務は目に見えて停滞した。
そして、最も困ったことに、エドワードには問題の全体像が見えていなかった。
彼は、報告を受けるたびに怒鳴った。
「なぜできない!」
「誰の責任だ!」
「すぐに解決しろ!」
だが、怒鳴ったところで、必要な知識や人員が突然生まれるわけではない。
王国を動かすのは、王族の肩書だけではなかったのだ。
一方、ヴァレンシュタイン領では、アリシアが新しい仕事に取り組んでいた。
領内の農地を視察し、農民たちから直接話を聞き、学校の運営費を見直す。
王宮にいた頃には、何度も提案しながら後回しにされていた改革だった。
「お嬢様、こちらの村では、雨が降ると道がぬかるんでしまうそうです」
侍女のマリアが報告した。
「それでは、収穫物を市場へ運ぶのにも苦労するでしょうね。道の整備計画に加えましょう」
「ですが、予算が……」
「王宮への支援に割り当てていた人員と費用を、必要な範囲でこちらに回せます。もちろん、無理な支出はしません」
アリシアは地図に印をつけた。
「まずは、農産物の輸送量が多い道から整備しましょう。学校の予算も、実際の利用者数を調べてから配分を決めます」
「お嬢様は、本当に楽しそうですね」
マリアが微笑んだ。
アリシアは、少し照れたように笑った。
「そうね。誰かの機嫌を損ねないために働くのではなく、必要なことを必要な順番で進められるのですもの」
その言葉には、これまで彼女が抱えてきた疲れがにじんでいた。
彼女は王太子を支えるために、自分の能力を使い続けてきた。
だが、支える相手が自分の努力を理解せず、敬意すら払わないのであれば、その関係を続ける必要はない。
彼女はようやく、自分の人生を取り戻し始めていた。
一か月後。
王宮では、リリアーナの王太子妃教育が始まっていた。
もっとも、本人は教育を受けることに、あまり乗り気ではなかった。
「ええっ? 朝から歴史の勉強ですか?」
教師の説明を聞いたリリアーナは、不満そうに頬を膨らませた。
「王太子妃となられる方には、王国の歴史や法制度、諸外国との関係について理解していただく必要がございます」
「そんなこと、覚えなくてもいいでしょう? 私は殿下に愛されているのですから!」
教師は困ったように眉を下げた。
「愛情だけでは、王妃としての責務を果たすことはできません」
「もう! 先生は意地悪です!」
リリアーナは椅子から立ち上がった。
「アリシア様は、こういう勉強が好きだったのでしょう? でも、私は違います! 殿下だって、私には無理をしなくていいとおっしゃっていました!」
その言葉に、教師はため息をついた。
エドワードは確かに、リリアーナに対してそう言っていた。
しかし、それは単に、彼女が嫌がることをさせたくなかったからにすぎない。
王妃教育を免除してもよいという意味ではなかった。
数日後、リリアーナは教師に対する不満をエドワードに訴えた。
「殿下、あの先生を辞めさせてくださいませ!」
「何だと? どうしてだ?」
「私に難しいことばかり教えるのです! しかも、少し間違えただけで注意するのですよ!」
エドワードは頭を抱えた。
「しかし、王妃になるなら勉強は必要だろう」
「でしたら、もっと優しい先生にしてください! アリシア様だって、きっと厳しい先生ばかりだったのでしょう? あの方は頭がよかったから、平気だったのですわ!」
「……」
エドワードは言葉に詰まった。
アリシアは、決して最初から何でもできたわけではない。
彼女は何年もかけて知識を身につけ、何度も失敗しながら実務を覚えた。
その努力を、エドワードは当たり前のものとして扱ってきた。
「殿下?」
「わかった。少し考えてみる」
「ありがとうございます!」
リリアーナは満面の笑みを浮かべた。
しかし、エドワードは知っていた。
今の教師を辞めさせたところで、問題は解決しない。
次の教師も、同じことを教えるだろう。
そして彼は、ようやく気づき始めていた。
アリシアが王妃になるために積み重ねてきた努力は、決して簡単に代替できるものではなかったのだと。
だが、気づくのが遅すぎた。
その翌週、エドワードは国王に呼び出された。
国王の執務室には、財務卿と法務卿が同席していた。
「エドワード。お前は、自分が何をしたのか理解しているか?」
「父上、婚約破棄の件でしたら、すでに決着しております」
「そうではない!」
国王の怒声が響いた。
「お前は、公爵令嬢を大勢の前で罪人扱いし、証拠も十分に確認せずに婚約を破棄した。しかも、彼女が王室のために担っていた業務について、何一つ理解していなかった!」
エドワードは反論しようとした。
「ですが、アリシアは……」
「黙れ!」
国王は机の上に書類を広げた。
そこには、王室の業務停滞に関する報告書が並んでいた。
「ヴァレンシュタイン公爵家は、契約どおりに行動している。公爵家が不当なことをしたわけではない。問題は、必要な業務を特定の者の献身に頼り切っていた王宮にある」
「それは……」
「財務卿の報告によれば、アリシア嬢が作成していた改革案の多くは、すでにお前の功績として記録されていたそうだな」
エドワードの顔が強張った。
「……はい」
「なぜだ?」
「王太子として、成果を報告するのは当然かと……」
「成果を報告することと、成果を独占することは違う!」
国王は深く息を吐いた。
「お前は、彼女の働きを理解しようともしなかった。彼女がどれほどの責任を負い、どれほどの時間を費やしてきたのか、考えたことすらなかったのだろう」
エドワードはうつむいた。
「……申し訳ございません」
「謝罪する相手を間違えるな。私に謝っても、何の解決にもならん」
国王は冷たく告げた。
「それから、リリアーナ嬢を王太子妃にするという話だが、現時点で認めることはできない」
「なっ! なぜですか!」
「王妃として必要な能力が備わっていないからだ。これは身分だけの問題ではない。王妃は王国の政治と外交に関わる立場だ。教育を受けることすら拒む者に、その責務を任せるわけにはいかん」
「しかし、私は彼女を愛しているのです!」
「愛することと、王妃にすることは別問題だ!」
国王の声が執務室に響いた。
「お前が一人の女性を愛することまで、私は否定しない。だが、その愛情を理由に王国の責任を放棄することは許されん!」
エドワードは何も言えなかった。
国王は最後に、重い口調で告げた。
「今後、お前の政務については、財務卿と法務卿が監督する。王太子としての権限も、一部を停止する。自分の判断がどれほどの影響を及ぼすのか、よく考えろ」
「父上……!」
「下がれ」
エドワードは、うなだれたまま執務室を出ていった。
彼は初めて、自分が王太子であるというだけでは、何も解決できないことを思い知らされたのである。
さらに一か月後。
エドワードは、ヴァレンシュタイン公爵邸を訪れていた。
以前なら、訪問の知らせを受けたアリシアが、丁寧に出迎えたことだろう。
しかし、今は違った。
応接室に通されたエドワードの前に現れたのは、公爵家の執事だった。
「アリシア嬢は、領地の視察に出ておられます」
「いつ戻る?」
「予定では、三日後になります」
「では、戻るまで待たせてもらう」
「恐れ入りますが、殿下。アリシア様には、ご自身の予定がございます。ご面会をご希望でしたら、正式にお申し込みいただき、先方の都合をご確認ください」
「私は王太子だぞ!」
「承知しております」
執事は少しも動じなかった。
「ですが、アリシア様は現在、殿下の婚約者ではございません」
エドワードは言葉を失った。
それは、かつて自分が突きつけた現実だった。
彼は結局、三日後に再び公爵邸を訪れた。
今度は、アリシアが面会に応じた。
「お久しぶりです、エドワード殿下」
彼女は落ち着いた表情で一礼した。
その姿を見た瞬間、エドワードは胸が締めつけられるような感覚を覚えた。
以前のアリシアなら、彼の顔色を見て、疲れていれば気遣い、悩みがあれば解決策を考えてくれた。
だが、今の彼女の態度には、礼儀こそあれ、特別な親しみはなかった。
「アリシア……」
「本日は、どのようなご用件でしょうか?」
エドワードは、用意していた言葉を口にした。
「……謝罪に来た」
アリシアは黙って続きを待った。
「お前との婚約を破棄したことだ。あの場で、お前を一方的に責めたことも……すまなかった」
「謝罪はお受けいたします」
「それで……」
エドワードはためらった。
「もう一度、やり直せないだろうか」
アリシアの表情が、わずかに変わった。
「やり直す、とは?」
「婚約のことだ。父上も、今では私の判断が早すぎたと理解している。お前が戻ってくれれば、王宮の問題も解決する。私は今度こそ、お前の働きを正しく評価するつもりだ」
その瞬間、アリシアは静かに目を閉じた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「殿下。あなたは、何を謝罪なさったのですか?」
「何?」
「私を傷つけたことですか。それとも、私がいなくなったことで、ご自身が困るようになったことですか?」
エドワードは口を開きかけ、閉じた。
「……両方だ」
「そうですか」
アリシアは悲しげに微笑んだ。
「では、申し上げます。私は、あなたが私を必要としているからといって、戻るつもりはございません」
「なぜだ! 私は謝ったのだぞ!」
「はい。ですが、謝罪を受け入れることと、以前と同じ関係に戻ることは違います」
彼女の声は穏やかだった。
「私は、あなたに認められるために働いていたのではありません。王国のためになると信じていたから、力を尽くしてきたのです」
「ならば、もう一度、王国のために……」
「私は今も、王国のために働いております」
アリシアは窓の外へ目を向けた。
「ヴァレンシュタイン領では、農地の生産性が向上し、学校に通える子供も増えています。街道の整備も進んでおります。私が今、取り組んでいる仕事です」
彼女はエドワードを見つめた。
「王宮で働かなければ、王国のために尽くせないわけではありません」
「……」
「殿下は、私がいなくなって初めて、私の仕事の価値に気づかれたのでしょう。ですが、私はもう、自分の努力を理解していただくために、あなたのそばにいる必要はないのです」
エドワードはうつむいた。
何も言い返せなかった。
自分が求めているのは、アリシア本人なのか。
それとも、アリシアが自分に与えてくれていた便利さなのか。
彼には、もう区別がつかなかった。
「……わかった」
ようやく、それだけを口にした。
「もう、無理は言わない」
「ありがとうございます」
アリシアは最後まで礼儀正しかった。
「どうか、王国を正しく導いてくださいませ」
その言葉を聞いたエドワードは、初めて、自分が本当に失ったものを理解した。
彼女は、自分を憎んでいるわけではない。
復讐しようとしているわけでもない。
ただ、自分を必要としない場所へ進んでいったのだ。
そして、その道に自分の居場所はなかった。
それから一年が経った。
ヴァレンシュタイン領は、王国でも有数の豊かな土地へと変わりつつあった。
農業改革によって収穫量が増え、街道の整備によって商人の往来も活発になった。
学校では、身分にかかわらず子供たちが読み書きや計算を学べるようになり、領内の識字率も上昇していた。
アリシアは領主代行として、日々の政務に取り組んでいた。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。
改革に反対する者もいたし、予算の調整に苦労することもあった。
それでも、彼女には支えてくれる父がいて、意見を交わせる優秀な家臣がいて、何より、自分の仕事が人々の暮らしを変えていく実感があった。
ある日、アルベルト公爵が娘に告げた。
「アリシア。隣国の王弟殿下から、お前に縁談の申し込みが届いている」
「縁談、ですか?」
「ああ。先方は、お前の領地経営の手腕に興味を持っているそうだ。もちろん、すぐに返事をする必要はない」
アリシアは少し考えた。
「そうですね。まずは、お相手がどのようなお考えをお持ちなのか、知りたいと思います」
アルベルトは満足そうにうなずいた。
「それでいい。お前自身が選びなさい」
かつてのアリシアなら、王太子との婚約を守ることを最優先に考えていた。
自分が何を望んでいるのかさえ、後回しにしていたかもしれない。
しかし、今は違う。
彼女は、自分の人生を自分で選ぶことを覚えたのだ。
一方、王宮では、エドワードが政務に追われていた。
彼は以前よりも多くの時間を執務室で過ごし、財務卿や法務卿の指導を受けながら、少しずつ仕事を覚えていた。
自分が何も知らなかったことを、ようやく認め始めていたのである。
だが、失った信用は簡単には戻らなかった。
貴族たちは王太子の判断力に疑問を抱き、国王も彼に重要な決定を任せることを控えていた。
リリアーナとの関係も、以前のようにはいかなかった。
彼女は王妃教育の厳しさに耐えられず、次第に王宮での生活に不満を募らせていった。
「どうして私は、こんなに勉強しなければならないのですか!」
「王妃になるためだ」
「でも、殿下がいればいいではありませんか!」
その言葉を聞くたび、エドワードはアリシアの姿を思い出した。
彼女は、自分が何も知らなくても、黙ってすべてを処理してくれていた。
しかし、それは彼が優秀だったからではない。
彼女が、彼の代わりに努力していたからだ。
そして、彼はその事実に気づかず、彼女の努力を当然のものとして扱っていた。
リリアーナを王太子妃にする計画は、結局、正式に認められなかった。
王太子の婚約者としての立場も不安定なままで、彼女は次第に王宮から距離を置くようになった。
エドワードは、時折、アリシアの噂を耳にした。
領地を豊かにしていること。
領民から慕われていること。
他国の貴族たちからも、その能力を高く評価されていること。
そのたびに、彼は思った。
もし、あの夜に彼女の話を聞いていたら。
もし、証拠を確かめてから判断していたら。
もし、自分の未熟さを認め、彼女と共に成長する道を選んでいたら。
何かが変わっていたのだろうか。
答えは、誰にもわからない。
ただ一つ確かなことがある。
彼は、自分の意思で彼女を手放したのだ。
だからこそ、その結果を受け入れるしかなかった。
春。
ヴァレンシュタイン領の街道には、荷馬車が行き交い、学校の庭では子供たちが元気に走り回っていた。
アリシアは領主館の窓辺に立ち、その光景を眺めていた。
「お嬢様、次の会議のお時間です」
侍女のマリアが声をかけた。
「ありがとう。すぐに参ります」
アリシアは書類を手に取り、部屋を出た。
そこに、かつての婚約者への未練はなかった。
彼女はもう、誰かに選ばれることだけを望む令嬢ではない。
自分の力で道を切り開き、自分の意思で未来を選ぶ、一人の女性だった。
そして、彼女が進む道の先には、まだ多くの仕事と、可能性と、出会いが待っている。
婚約を破棄された夜、アリシアはすべてを失ったわけではなかった。
むしろ、あの夜こそが始まりだったのだ。
自分の人生を、他人に預けることをやめた、その瞬間から。
彼女はようやく、本当の意味で自由になったのである。




